第62話:ショウコの初冒険(其の二)
開かれた扉の向こう側は、時が止まったような静寂に包まれた宝物庫だった。
柔らかな魔法の光が部屋全体を照らし出し、壁際に並ぶ棚にはミスリル銀の輝きを放つ武具が整然と収められ、床には色とりどりの宝石が散りばめられた箱が置かれていた。
空気は清浄で、埃ひとつなく、まるで三百年前の友好の証がそのまま封じ込められたかのようだった。
そして、祭壇の上には――一本の弓が、静かに横たわっていた。
しなやかな曲線を持ち、弦は銀色の光を編み上げたようにきらめいている。それは武器というより、一つの芸術品だった。神々しさの中に、星空を射落すほどの冷たい意志を秘めて。
誰もがその美しさに息を呑んだ、その瞬間。
『――汝ら、人の子よ。禁忌に触れるは、自らの魂を砕く覚悟あってのことか』
どこからともなく響く、聞き覚えのある声、いや、鼓膜を震わせたのではない。全員の頭の中に、直接語りかけてくるような、冷たく無機質な声だった。
祭壇の弓を照らしていた光が、まるで生き物のように集束し、一つの輪郭を形作っていく。
そこに現れたのは――およそ人の形と呼べるものではなかった。
空間に浮かぶのは、互いに交差し、ゆっくりと自転を続ける巨大な光の輪。その輪は磨き上げられた水晶でできており、内部には銀河を封じ込めたかのように無数の星々が渦巻いている。
そして、その水晶の輪の縁には、おびただしい数の瞳が埋め込まれていた。感情を映さぬその瞳の一つ一つが、侵入者である我々の姿を映し込み、魂の芯まで見透かすように、静かで冷徹な光をたたえている。
「オファニムですわ」
ファカの声が、張り詰めた空気に落ちた。
「オファニム?」
「ええ、神の使い、天使ですわ。今の私たちでは勝てません」
(聞き覚えのある声……そうか、あれは神の声だ)
神が、自らの秩序を守るために作り出した神造の守護者オファニム。神の戦車、あるいは法の執行者とも呼ばれるそれは、畏怖と神聖さが入り混じった、絶対的な存在感を放っていた。
「来るぞ!」
俺の叫びと同時に、戦端は開かれた。
オファニムの輪がゆっくりと回転を始めると、部屋の空気が重く沈み込んだ。無数の瞳が一斉に輝きを増し、それぞれ異なる法則を宿した光線が絶え間なく放たれた。
一つは触れた者を石化させる灰色の光、もう一つは物質を分解する赤い閃光、そして精神を汚染する紫の霧状の波動。光線は予測不能に交錯し、部屋全体を死の網で覆い尽くす。
「当たれっ!」
ベニーが投げナイフを放つが、光線に触れた瞬間、軌道が歪み、虚空に消えた。
「主様!」
ムーが大盾を構えて俺の前に立つが、光線が盾に触れるたびに凄まじい衝撃が走り、彼女の巨体ですら後退を余儀なくされる。
「くそっ、近づけねぇ!」
サリヴァが剣を構えて突撃を試みるが、オファニムが回転するたびに足元の空間が歪み、まっすぐ走ることすらままならない。放った斬撃は、敵に届く前に捻じ曲げられ、虚空へと消えていく。
「くっ……これが、神の使いか……!」
俺の支援魔法「グラビティ・バインド」も、オファニムの周囲に届く前に空間ごとねじ曲げられ、無効化された。
ショウコの治癒魔法が仲間たちに届くが、精神汚染の光線が彼女の集中を乱し、効果が薄れる。シルフィの矢さえ、放たれた瞬間に軌道が曲げられ、オファニムに到達しない。
「ご主人様、弱点が見当たりませんわ!」
ファカの毒のツルも、神聖な光の前では力を発揮できずにいた。奴の核となるであろう中央の「大きな目」は、固く閉じられたまま光のバリアに覆われ、いかなる攻撃も通さない。
「いったいどうしたらいいんだ……」
誰もが絶望に膝をつきかけた、その時だった。
ファカの瞳が、一瞬だけ冷徹な黄金色に揺らめいた。彼女の脳内に、もう一人の声が響く。
『今のおぬしたちでは、オファニムには勝てない。命を無駄にするな! 妾に変われ』
「ご主人様、アンブロシアに変わります」
ファカは、覚悟を決めた瞳で俺を見た。
「待て! それは危険すぎる!」
俺が制止するより早く、彼女の身体から凄まじい魔力が迸る。燃えるような赤髪はより色濃く、山吹色の瞳は絶対的な強者の輝きを宿した黄金へと変わった。
「ふん、神め、どうやっても神殺しを奪われたくないとみえる」
ファカの体を借りた毒沼の魔女アンブロシアは、シルフィの脳裏に直接、氷のように澄んだ声を響かせた。
『シルフィーナよ、聞こえるか。あの祭壇の弓を手に入れろ。あれは神を殺すための武器――アポカリプス・トリガー』
シルフィの体が、びくりと震える。
『神の使徒であるオファニムにも効くはずじゃ。核は中央の『真眼』。しかし、それは神聖な法理の結界で守られておる。王家の技『天断の光』だけが、その法理を断ち切り、真眼を射抜ける唯一の矢となるのじゃ』
アンブロシアはオファニムの猛攻をいなしながら、冷静に続ける。
『輪の回転が完全に重なり、全ての瞳の視線が一つになる…その一瞬を狙え。妾が隙を作る』
アンブロシアは強大な魔法を展開し、オファニムの無数の攻撃を引きつけた。彼女の周囲に紫黒の毒霧が広がり、光線を中和し、空間支配を一時的に無効化する。オファニムの輪が激しく回転を速め、反撃を集中させる中、アンブロシアは毒の棘を無数に射出してその注意を釘付けにした。
その隙に、シルフィは祭壇へと走った。まるで彼女を待っていたかのように静かな光を放つ弓「アポカリプス・トリガー」を手に取る。その瞬間、王家の血と弓が共鳴し、失われたはずの膨大な力がシルフィの魂に流れ込んだ。
「わたくしに王家の力を!」
シルフィは弓を引き絞り、精神を集中させる。弦の上に現れたのは、物理的な矢ではない。彼女の魂そのものから生み出された、純白の光の矢――『天断の光』。
「今じゃ、放て!」
アンブロシアの絶叫が響く。オファニムの輪が完全に重なり、固く閉ざされていた中央の真眼がカッと開いた。
シルフィは狙いを定め、光を解き放つ。
放たれた矢は、時空を切り裂くように一直線に飛び、神聖な結界を紙のように貫いて、オファニムの中央の目に吸い込まれていった。
辺りを閃光が包み、甲高い断末魔のような金属音が響き渡った後、絶対的な静寂が訪れた。水晶の輪は砕け散り、光の粒子となって消えていく。
戦いが終わり、アンブロシアの魔力が霧散すると、ファカは糸が切れたように俺の腕に倒れ込んできた。
「ご主人様……勝手な真似を、お許しください」
「ああ、わかっている。今は何も言うな」
俺は彼女を支え、祭壇でアポカリプス・トリガーを掲げるシルフィを見つめた。王家の力「天断の光」を取り戻した彼女の存在は、これから始まる神との対決への、確かな鍵となるだろう。
だが、アンブロシアの影は、ファカの心に深く根を張り続けていた。この勝利は、新たな戦いの始まりに過ぎなかったのである。




