第61話:ショウコの初冒険(其の一)
ある日の昼下がり、屋敷のテラスには柔らかな陽だまりが流れていた。俺は湯気の立つ茶を一口含んだ――その瞬間、ショウコが意を決したような顔で近づいてきたのだ。
「旦那様、お願いがございます」
その声はいつもより芯があって、可憐だけど真剣だった。普段は一歩ひいた彼女が、真っ直ぐ俺の瞳を見ている。俺は思わずカップを置いた。
「わたくしを、皆様との冒険へお連れしてはいただけないでしょうか」
「冒険に?」
思いがけない言葉に、俺はカップを置いた。
「はい。治癒魔法の腕も、街の教会で学ばせていただき、少しは上達いたしました。いつまでも皆様に守られてばかりいるのではなく、わたくしも、この力で皆様のお役に立ちたいのです。どうか、お願いいたします」
深く下げられた頭と、固く握られた拳に、彼女の覚悟が滲んでいた。その真剣な瞳を前にして、断るという選択肢は俺の中にはなかった。
俺が静かに頷くと、それまで黙って話を聞いていたファカが、ソファに座ったまま優雅に口を開いた。
「でしたら、わたくしに良い考えがございますわ。ショウコさんの初陣にうってつけの場所が」
ファカは艶然と微笑み、続ける。
「ここから馬車で一日半ほどの場所に、古代ドワーフの遺跡があります。運が良ければミスリル製の武具なども手に入るかもしれませんわ」
「危険はないのか? ショウコの初陣だ、無理はさせたくない」
俺の懸念に、ファカは心底おかしそうに肩をすくめた。
「ゴブリンが巣食っている程度ですわ。あなた方がいれば、何の脅威にもなりません」
その言葉を裏付けるように、柱の陰からベニーがひょっこり顔を出す。
「ファカ様の言う通りっす。その辺りの噂はうちも聞いたことあります。ショウコさんの腕試しにはちょうどいいっすね」
ホビットの暗殺者も太鼓判を押すなら間違いないだろう。
こうして、俺、ファカ、ムー、サリヴァ、ショウコ、ベニー、そしてシルフィの七人パーティ――『デッドリィ・バイン』の初任務が決定した。
古代ドワーフの遺跡の入り口は、山肌に開いた巨大な傷口のようだった。中から吹き出す空気は、鉄錆と湿った土、そして正体の知れない獣の体臭が混じり合った、不快な匂いで満ちている。
「うっ……」
ショウコは顔をしかめて鼻を押さえた。無理もない、彼女の育った清浄な世界とは違いすぎる。
「大丈夫か、ショウコ」
「は、はい。大丈夫でございます、旦那様」
気丈に頷く彼女の顔は少し青いが、その瞳には決意の光が宿っていた。
松明を掲げるムーを盾に、俺たちは慎重に坑道を進んだ。壁からは水がぽたぽた、足元はぬかるむ。単体のゴブリンが奇声を上げて襲ってくるたび、ベニーの投げナイフがぴたりと首筋を貫いた。サリヴァの剣も頼もしい。
ショウコは杖を握りしめて後方を堅実に守っている――治癒魔法の出番はまだないが、動きは落ち着いている。初陣としてはかなりの好スタートだ。
どれほど進んだか──道が少し開け、俺たちは巨大な石扉の前に立った。表面には古代エルフの流麗な文字で封印めいた文句がびっしりと彫られている。
「これは……」
シルフィが、吸い寄せられるように扉に近づき、そっとその表面に触れた。
彼女は三百年前、エルデン王国の王妃シルフィーナだった。長い虐待の末に記憶を失い、「シルフィ」として再生した彼女の中に、過去の残滓が疼くのかもしれない。この廃坑は、かつてドワーフとエルフが交流していた時代の名残なのだろう。シルフィーナが人間の王と婚約した際に、友好の証としてドワーフが用意した特別な部屋……そんな可能性が頭をよぎる。
「ファカ、何か分かるか?」
「ええ、少しだけ。これは封印というより、一種の『鍵』ですわね。特定の言葉を唱えることで開く仕組みのようです」
「特定の言葉?」
シルフィは扉の文字を指でなぞり、そこに刻まれた言葉を静かに読み上げた。
「『我が最愛の妻よ、我が真名を呼べ。さすれば同盟の証は汝の前に開かれん』と…書かれています」
つまり、扉の前で妻が夫の真名を呼ぶことが、鍵となるようだ。妻とは、おそらくシルフィーナ王妃のことだろう。
「シルフィ、王の真名は?」
皆の視線がシルフィに集まる。彼女は必死に記憶の糸をたぐろうとするかのように眉を寄せたが、その表情はすぐに悲しげに曇り、かぶりを振った。
「思い出せ……ません。何も……」
そうだろう。彼女にとってシルフィーナの記憶は、アンブロシアによって完全に消去されてしまったのだ。
誰もが諦めかけた、その時だった。
静寂を破ったのは、ファカの涼やかな声だった。
彼女の魂の奥底には、三百年前エルデン王国を滅ぼした毒沼の魔女の記憶が眠っている。
「仕方ありませんわね。王の真名は―――アラン・フォン・エルデン。さあ、その言葉を、妻であったあなたが紡ぎなさい」
ファカから告げられた名前に、シルフィは息を呑んだ。
知らない名前。知らない人。けれど、その音の響きは、魂の奥底に眠る何かを微かに震わせた。戸惑いと、ほんの少しの懐かしさが入り混じった不思議な感覚。
彼女は覚悟を決めると、ゆっくりと一歩前に出た。そして、唇を震わせながら、まるで大切な呪文を唱えるかのように、その名を静かに紡いだ。
「―――アラン・フォン・エルデン」
その瞬間、重厚な扉に刻まれたエルフ文字が一斉に淡い光を放ち、ゴゴゴ……という地響きと共に、ゆっくりと内側へと開いていった。
「ファカ、なぜその名前を?」
「私にもわかりませんわ。ただ、アンブロシアと繋がるたびに、知らなかったはずの記憶が更新されていくようです……。でも、この扉の向こうに、何かが――」
ファカの言葉が途切れたのは、その時だった。開かれた扉の闇から、冷たい風が吹き抜け、かすかな囁きが響いた。人間の言葉ではない。獣のうめきとも、亡霊の息遣いともつかない、魂を凍らせるような音。
俺の中に不安がよぎった。ファカはアンブロシアにどれだけ記憶を操作されているのか。そして、いつかアンブロシアに、この身も心も乗っ取られてしまうのではないかということ…。だが、それ以上に、扉の奥からゆっくりと浮かび上がる影――それは、シルフィの失われた記憶を映す鏡か、それともパーティを飲み込む罠か?
影の輪郭が、松明の光に照らされて徐々に明らかになる。そこにいたのは――




