第50話:遭難
霊峰ヴァイスホルンでのアイスワイバーン討伐の余韻は、自然の猛威によって瞬く間に打ち消された。天候は豹変し、猛烈な吹雪が純白の闇となって視界を奪う。
息もできないほどの風雪に、いつしかファカの姿を見失った。焦る俺の目に、吹雪の向こうに揺れる小さな影が映る。ベニーだ。俺は無我夢中でそちらへと駆けた。
「旦那さん、そこは危ないっす!」
ベニーの悲鳴に似た叫びと、足元の感覚が消えたのは、ほぼ同時だった。
降り積もった新雪が隠した巨大なクレバス――その存在に気づいた時には、俺の体はすでに雪の裂け目に吸い込まれていた。落下する俺の腕を掴もうとベニーが身を乗り出す。だが、その必死の行動も虚しく、俺たちの足場は雪崩のように崩れ落ち、二人とも抗いようもなく奈落へと滑落していった。
俺は咄嗟にベニーの小さな体を強く抱きしめ、左手で「軽量」を彼女に、右手で「鉄壁」を自分にかけ、落下の衝撃を抑える。
意識が途切れる寸前までかけ続けた。
激しい衝撃の後、俺の意識は闇に沈んだ。
どれほどの時間が過ぎただろうか。次に目を開けた時、俺は雪の上に横たわっていた。隣では、無傷のベニーが俺の体を必死に揺さぶっている。
クレバスの底で見つけた小さな岩穴まで、ベニーは俺の腕を肩に担ぎ、半ば引きずるようにして運んだ。
「旦那さん、しっかり! あそこに岩穴が…! 今はあそこまで!」
雪を蹴り、風を裂き、短い息を何度も白く吐き出しながら、ようやくたどり着く。
洞穴は狭く、外の凍てつく冷気が壁の隙間から容赦なく侵入し、体温を確実に奪っていく。俺の唇は紫色に変わり、呼吸も浅く、弱々しい。
「あぁ…旦那さんの体温が、どんどん下がっていく…。」
ベニーの声に、焦りが滲んでいた。
彼女は自分の頬に触れ、その氷のような冷たさに危険をはっきりと悟る。
「旦那さん、今寝ちゃ駄目っす。本当に死んでしまうっすよ!」
彼女の声は悲鳴に近かった。
(――これしかないっす)
ベニーの行動に、一切のためらいはなかった。
ベルトを外し、上着を脱ぎ、革鎧の留め具を震える指で、しかし素早く外していく。
その小さな胸元から吐き出された白い息が、すぐに冷気に呑み込まれた。
自ら裸になると、俺の服の下へ、その細い体をすべり込ませる。
「今、温めますから……。旦那さん、死んじゃ駄目っす」
耳、頬、胸、指先――自分の体のうち、特に熱を奪われやすい部分を、俺の体に順番に押し当てていく。それはまるで戦場で傷口を塞ぐような、的確で無駄のない動きだった。
彼女の小さな体温が、じわじわと俺の体の芯に染み渡ってくる。
吹雪の唸り声が遠ざかり、代わりにベニーの荒い息遣いだけが、やけに大きく耳に残った。
やがて、俺の意識がゆっくりと浮上する。
目を開けると、俺はまだベニーに強く抱きしめられていた。彼女の指先は氷のように冷たい。それでも、俺を温めることをやめる気配は微塵もなかった。
「……やっと起きたっすね」
安堵からか、彼女の唇の端が、わずかに緩む。
「ここは…俺達は落ちたのか…」
「クレバスの真下っす。旦那さんが支援魔法で対処してくれなかったら2人共即死でした」
吐息が白く揺れ、彼女は気恥ずかしそうに視線を逸らした。
外はまだ、世界を終わらせるかのような猛吹雪が荒れ狂っている。だが、この狭い岩穴の中だけは、二人の体温が混じり合い、不思議なほど温かかった。
俺の意識がはっきりと覚醒するのと、腹の虫が盛大に鳴るのがほぼ同時だった。その音に、今まで俺を温めてくれていたベニーの肩が、びくりと小さく震える。
「……旦那さん、お腹すいたっすか?」
ベニーは荷物袋から、黒い団子のようなものを二つ取り出し、一つを俺に差し出した。
「旦那さんこれを」
受け取ると、ずしりと重く、表面は硬いが少しだけ粘り気がある。空腹には勝てず、俺は早速かじりついた。
「アサシンの非常食です。ハチミツと、砕いた木の実、それから炒った穀物の粉を練り固めたものっす。見た目は悪いけど、これ一つで結構お腹にたまるんすよ」
口の中に、まず濃厚なハチミツの甘さが広がり、次いで木の実の香ばしさと、少しざらついた穀物の食感が追いかけてくる。決してご馳走ではないが、疲弊しきった体にエネルギーが染み渡っていくのが分かった。
「うまい…。生き返るようだ」
「お口に合って良かったっす」
ベニーも自分の分を小さな口でこつこつと齧り始める。俺たちはしばらくの間、無言で非常食を分け合った。外では依然として猛吹吹雪が唸りを上げているが、腹に収まった食事が、ほんの少しだけ体の中から温めてくれるようだった。
「しかし、このままじゃ二人とも凍えちまう」
空腹は満たされたものの、2人で暖めあっても体温はどんどん落ちていくのがわかった。
「旦那さん、ちょっと離れますね」
彼女はそう言うと、俺の服の中からするっと抜け出し立ち上がる
ベニーは自分の荷物袋をごそごそと漁ると、中から手のひらサイズの小さな油壷を取り出した。脱ぎ捨てた肌着をとりビリリと引き裂き、油壷に浸す。
闇の中で手際よく火打石を打つ姿は、炎を待つ彫像のようだった。
カチッ、カチッ——散った火花が彼女の横顔をかすかに照らし、
次の瞬間、ボッと橙色の炎が花開く。
揺れる即席松明の光が、白い肌を淡く染め、頬の産毛までをも金色に縁取った。
その横顔には、ただ生き延びるためだけでなく、俺を生かすという確かな意志が宿っている。
「では、また失礼しますよっと」
そういうとまた小さな身体が、俺の服の中に潜り込んできた。
「こっちのほうが暖かいっすからね」
「ありがとう、ベニー。また助けられたな」
俺の言葉に、ベニーはもぐもぐと口を動かしながら、少し照れたように「へへっ」と笑った。その笑顔は、この極限状況下で、何よりも心強いものに思えた。
◇
夜が明けても、谷底の空はまだ薄暗かった。
吹雪は遠くで唸りを上げているが、岩穴の中は炎の名残と二人分の体温でほんのりと暖かい。
俺は目を覚ました。すぐそばに、小柄な背中がある。
ベニーは俺の胸に額を寄せ、小さく丸まったまま、浅い呼吸を繰り返していた。
その頬には、昨夜の緊張が溶けた柔らかな寝顔が浮かんでいる。
——ガサリ。
入り口の方から、雪を踏みしめる音がした。
次の瞬間、洞穴の影が一つ、こちらに差し込む。
「まぁまぁ……お仲がおよろしいみたいで♡」
にこやかに、しかし目元だけがほんのり吊り上がったファカが立っていた。
その視線は、寝ぼけ眼のベニーと、まだ距離を取らず横たわる俺を往復する。
「雪山での遭難と聞いて駆けつけてみれば……ふふ、まるで新婚カップルのようですわ」
言葉こそ柔らかいが、唇の端に小さな棘が隠れている。
「ち、ちがうっす! これはその……生き残るために!」
慌てて飛び起きるベニーの耳まで赤くなる様子に、ファカはますます楽しそうな笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん存じ上げておりますわ。
でも——その必死さ、少しばかり羨ましくもありますのよ」
その一言だけを残し、彼女はひらりと踵を返す。ファカが歩き去った後には、彼女の伸ばした毒のツルが瞬時に雪を溶かして作った、一本の道が続いていた。
残された俺とベニーは顔を見合わせ、妙な沈黙のあと、同時にため息をつく。
こうして、霊峰ヴァイスホルンでの遭難騒ぎは、
ファカの皮肉混じりの微笑みと共に、ひとまず幕を下ろした。




