第45話:神殺し
静まり返った屋敷の一室。
ファカの体を借りた「毒沼の魔女アンブロシア」は、大地を裂く炎の亀裂を宿したかのような山吹色の瞳で、俺たちを睥睨した。その視線は、魂の芯まで見透かすような、絶対的な強者のそれだった。
「久しぶりだな、小僧。あの折は殺してしまい、すまなかったな」
ファカの声でありながら、その響きは氷のように冷たく、底が知れない。
俺とサリヴァが反射的に武器へ手をかけたのを、アンブロシアは鼻で笑った。
「武器をしまえ。攻撃する気など毛頭ない。ふふ…そなたら人の子は、老いを、死を、自然の理と諦観する。なんと愚かで、なんと視野の狭いことか。国を滅ぼすほどの力を持つ妾からすれば、お前たちごとき、赤子の手をひねるより容易いぞ」
その言葉には、抗いがたい説得力があった。
俺はサリヴァとムーに目配せし、ゆっくりと武器から手を離す。アンブロシアは満足げに頷くと、自らの胸にそっと手を当てた。
「妾にとって『時間』とは、肉体を蝕む緩慢な毒にすぎぬ。そして、毒の理を識る者にとって、それは克服できぬ病ではない」
彼女は、まるで深淵の真理を説くように、自らの不老の秘密を語り始めた。
「妾は、この身に常に複数の毒を巡らせている。まずは**『静寂の毒』**。人の子が老いるのは、細胞が絶えず無駄な叫びを上げ、疲弊し、壊れていくからに他ならぬ。この毒は、その末端の神経伝達を、ごく微量に、だが永久に阻害し続けるのだ」
アンブロシアの言葉は、俺たちが知る魔法とは全く異質な、冷徹な科学の響きを持っていた。
「そして『淘汰の毒』。生命である限り淀みは生まれ、脆弱な細胞は生まれ出る。妾は、その『老い』という名の淀みだけを的確に攻撃し、分解する特殊な毒を自らの血に混ぜている。健康な細胞には指一本触れず、古くなった細胞だけを死滅させ、養分として新たな細胞へと作り替える…いわば、体内で永遠に続く粛清と再生よ」
彼女はふっと息を吐く。その息吹さえもが、致死の毒気を含んでいるように感じられた。
「…どうだ? この妾の永らえが、神の奇跡でもなければ、魔法の恩恵でもないことが理解できたか? これは、そなたらが言うところの科学と経験則…そして何よりも、毒への愛の結晶なのだ」
圧倒的な知識と、それを裏付ける永い時間。俺たちはただ、息を呑んで聞き入るしかなかった。
ひとしきり語り終えたアンブロシアは、視線を隣室で眠るエルフの女性へと向けた。
「さて、本題に入ろう。そなたらが救い出した、あのエルフの話だ」
アンブロシアの口調が、一層冷酷なものに変わる。
「あれはの、五百年という時の澱に魂を蝕まれた、哀れなエルフの森の姫…名はシルフィーナ。三百年も昔に、愚かな人間の王と添い遂げ、その美貌とやらで二つの種族を繋ぎ、児戯に等しい平和と繁栄を築いたと…まあ、おとぎ話にしては上出来な滑稽譚よ」
その言葉に、ムーが小さく息を呑んだ。
姫…? あの人形のようだった女性が?
「だが、その繁栄を終わらせたのは、他ならぬ妾だ」
アンブロシアは悪びれる様子もなく言い放つ。
「そもそもの過ちは、シルフィーナが執着した、あの短命なる人の王よ。そなたら人の子の一生など、せいぜい百年にも満たぬ刹那の夢。それに引き換え、エルフの刻は千年を超える。異なる時の理を生きる者が交われば、いずれ一方が先に朽ち果てるのは自明であろう? …その程度のことも、あの姫はわからなんだとみえる」
「妾が歳をとらぬと知った王は、あろうことかこの妾を捕らえ、その私欲のために利用しようとした。自由を奪われた報復として、国ごと毒で滅ぼしたまでよ」
三百年前、国ごと毒で滅ぼしたという伝説は、紛れもない事実だったのだ。そして、その引き金は、人間の王の愚かな欲望だった。
「シルフィーナは愛する王と祖国のすべてを失った。妾が手を下したとはいえ、悲劇の始まりはそこからよ」
アンブロシアの瞳には、一切の同情の色はない。ただ、事実を淡々と述べているだけだ。
「王国の崩壊後、彼女の不老の美貌と長寿が仇となった。三百年もの間、貴族や魔術師、商人の手を渡り歩き、愛玩物、実験材料、儀式の生贄として扱われ、絶え間ない性的虐待と暴力によって心と体は深く傷つけられたであろう。いたましいのう」
その言葉に、俺は先日ショウコが報告してくれた、シルフィーナの体に刻まれたおぞましい傷の数々を思い出し、奥歯を強く噛みしめた。
乳房や性器にまで及ぶという、深刻なダメージ…。全ては、この三百年という永い陵辱の歴史の証だったのだ。
「そしてあの姫は、奴隷市場で『装飾品』として鎖に繋がれるまでに落ちぶれた。魂もとうに壊れたかと思いきや…あの瞳の奥底には、まだ燃え滓のような光が残っておったわ。ふん…それを強さと見るか、ただの醜い執着と見て哀れむか。そなたらには判断できまい?」
冷徹な独白が終わり、重い沈黙が落ちるかと思われた、その時だった。アンブロシアの視線が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「そこでじゃ、妾と、手を組まぬか?」
「どういうことだ!」
俺が思わず叫ぶと、彼女は面白そうに口の端を吊り上げた。
「ふん、何を今更。そなた、神と繋がりがあるであろう」
「なぜ、そのことを…」
その問いに、アンブロシアは心底呆れたようにため息をついた。
「妾のこの体が、あろうことか魚類の魂に乗っ取られていたのだぞ。このような芸当ができるのは、世界の理に干渉する神くらいのものよ」
その言葉は、俺が死ぬたびに繰り返される「転生」というシステムの根幹を指していた。彼女はすべてを理解していたのだ。そして、その唇から、とんでもない言葉が紡がれる。
「どうだ? その忌まわしき神を殺す手伝いを、妾にしてはくれぬか?」
「……」
神を、殺す。あまりに突飛な提案に、俺は言葉を失った。
俺に力を与え、仲間を授けてくれた存在。同時に、そのために誰かの人生を犠牲にしてきた元凶。その神を、殺す?
俺の動揺を見透かしたように、アンブロシアは肩をすくめた。
「まあ、よい。このことは考えておけ。そのうちお前も、神の正体がわかるじゃろう」
そう言うと、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「そして、おそらくじゃが、記憶の上書きは小僧、お前の魂の力だ。神はそれを利用したにすぎぬ」
「どういうことだ!」意味がわからない。
「では、良い返事を期待しておるぞ」
その言葉を最後に、アンブロシアはふっとファカの体から力を抜いた。その瞳から冷徹な光が消え、いつものファカの表情に戻る。彼女はよろめき、俺は慌ててその体を支えた。
「ご主人様……」
「大丈夫か、ファカ」
「はい…アンブロシアは…」
ファカは、まるで長い夢から覚めたかのように、混乱した様子で周囲を見回した。
部屋には、再び重い沈黙が落ちていた。
サリヴァは唇を噛み締め、ムーは静かに涙を流している。
エルフの姫、シルフィーナの三百年に及ぶ地獄。
そして、その元凶である毒の魔女からの、あまりにも衝撃的な「神殺し」の提案。
俺たちは、とんでもない真実と、あまりにも重い選択肢を突きつけられてしまった。そして、これからどうすべきか、全く答えが見えなかった。




