第34話:不器用な涙
サリヴァが部屋を飛び出した後、食卓には重苦しい沈黙が残った。
ファカは静かに目を伏せ、ムーは心配そうにドアを見つめている。
俺は小さく息を吐き、椅子を引いて立ち上がった。
――放っておけるわけがない。
屋敷の中庭は、穏やかな陽光に満ちていた。
だが、その静寂を壊すように、肉を打つ鈍い音が断続的に響いている。
見れば、サリヴァが庭の樫の木に、荒い息を吐きながら剥き出しの拳を何度も打ち付けていた。硬い樹皮が裂け、彼女の拳からは血が滲んでいる。
その横顔に浮かんでいるのは、単純な怒りではなかった。
もっと深い屈辱と、信じていたものに裏切られたかのような、痛々しい悲しみ。
「サリヴァ」
俺が声をかけると、彼女は振り向きもせずに吐き捨てた。
「来るな! 今は一人にしておいてくれ!」
俺は構わず、その震える背中にそっと歩み寄る。
「手、見せろ」
「……平気だと言っているだろう」
「いいから」
拒絶する彼女の腕を、俺は無理やり掴んだ。血と土にまみれた拳は、痛々しいほどに熱を持ち、小さく震えている。
「……ファカのやり方は、確かに行き過ぎだった。お前が怒るのは当然だ」
その言葉に、サリヴァはぴたりと動きを止めた。
俯いたまま、固く握られた拳から、ぽたり、と血が滴り落ちる。やがて、その肩が悔しさをこらえるように、小刻みに震え始めた。
俺はそっと彼女の拳を包み込むように持ち、破れた袖で優しく血を拭う。サリヴァはもう抵抗しなかった。ただ、されるがままに拳を預けていた。
「俺様は……! 俺様はただ、お前を守りたかっただけなのに……! なのに、あの時も、今も、何もできなかった……! 俺なんて……ただの疫病神じゃねぇか……!」
絞り出すような声。
その言葉には、ヒドラ戦で俺を守れなかった後悔と、今日、ファカに一方的にねじ伏せられた無力感への、激しい自己嫌悪が込められていた。
「そんなことはない。お前は俺を何度も救ってくれた」
俺は静かに、だがはっきりと告げた。
「ヒドラとの戦いだって、お前の剣がなければ俺たちは全滅していた。ファカが強くなったのは事実だ。だが、それでもお前の力が必要な時は必ず来る。お前がいなければ勝てない戦いが、この先にはあるんだ」
俺の言葉に、サリヴァの全身から少しずつ強張りが解けていく。
風が一筋、彼女の髪を揺らした。まるで、燃え上がった心の熱を冷ますように。
「それに、ファカがお前を試したのは、憎いからじゃない。俺がいなくても、誰かがお前の暴走を止められる必要があると思ったからだ。それは……お前を仲間として信頼しているからこそだし、お前の力を誰よりも認めているからなんだ」
サリヴァは俯いたまま、かすかな声で呟く。
「でも……俺様は、お前たちを傷つけそうになったんだぞ……」
仲間に牙を剥いた自分への恐怖。
その記憶が、鎖となって彼女を縛り付けている。
「それでも、俺はお前を信じてる。サリヴァは俺の最高の戦士だ。それは、どんな時も変わらない」
俺は迷わず、彼女を背後からそっと抱きしめた。
鍛えられた筋肉の奥に渦巻く、激情の熱が直に伝わってくる。
「やめろ……俺様は、まだ怒ってるんだぞ……!」
弱々しい抵抗。だが、その声に覇気はない。
「わかってる」
「……だから……怒ってるんだって……ば……」
その声は消え入りそうに震えていた。
俺は何も言わず、ただ優しく彼女の頭を撫でる。
やがてサリヴァは顔を上げ、真っ赤な頬と潤んだ瞳で、戸惑いがちに俺を見上げた。
「俺様は……お前のこと……」
彼女が何かを伝えようと、震える唇を開いた、その時だった。
「あらあら、お二人共とっても仲がいいんですねぇ」
背後から、ムーの少し呑気な声が響いた。
サリヴァは雷に打たれたように跳ね上がり、俺から飛び退く。
顔を沸騰させんばかりに真っ赤にすると、明後日の方向を向き、腕を組んで「フンッ」とそっぽを向いてしまった。
……そして、その日を境に。
サリヴァはまるで、飼い主にだけこっそり甘える大型犬のように、俺の後ろをついて回るようになった。
彼女の中から怒りの色はすっかり消え、時折見せる穏やかな笑みは――中庭に差す陽光のように、温かかった。
その耳元には、青いイヤリングが揺れていた。 俺がかつて贈ったもの――
それまで頑なに着けようとしなかったそれを、彼女は今、何も言わずに身につけていた。
まるで、言葉ではなく行動で、答えを返してくれたかのように。




