第30話:幽霊と暮らしていた少女
俺とショウコは屋敷を巡り、祈りを捧げていった。
俺の支援魔法で祈りの効果は増幅され、ゴーストたちは安堵の笑みを浮かべながら光の粒となって消えていく。
そして、最後の部屋――屋敷の主が暮らしていたと思しき一室。
厚いカーテンの隙間から差し込む月光が、壁一面の大きな肖像画を照らしていた。
額縁は金色に鈍く輝き、そこには三人の子を抱く夫婦が描かれている。威厳を漂わせる父と、穏やかな微笑みを浮かべる母。その間には、無邪気な笑顔を見せる子供たち。三人目――一番小さな少女の顔に、俺は思わず目を止めた。
「……旦那様、この子、なぜか私に似ていますね……」
ショウコは絵に吸い寄せられるように近づき、指先をそっと少女の頬へと伸ばす。ほんのわずかに触れた瞬間、彼女の肩が震えた。視線は肖像画の少女から離れず、呼吸が浅くなる。
「胸が……痛いです。どうしてでしょう……」
その声はかすれ、今にも涙に溶けそうだった。俺はそっと彼女の隣に立つ。
「きっと、大切な人だったんだろうな」
「……誰なのか、わからないのに……どうして……」
そのとき、部屋の空気が凍りついた。
振り向くと、淡い光に包まれた二つの影が立っていた。
肖像画の夫婦と同じ顔だった。
ショウコは息を呑み、その場に膝をつく。震える手を胸に当て、俺の支えを借りながら、最後の祈りを捧げる。言葉はかすれ、時折嗚咽に途切れた。
二つの影は、悲痛な表情でショウコに手を伸ばす。まるで別れを惜しむように…。そして、無念のまま淡い光の粒となって静かに消えていった。
残されたのは、骨身に染みる静寂と――胸の奥に残る、耐えがたい喪失感。ショウコはしばらく立ち上がれず、ただ額を押さえ、静かに涙していた。
「……やっぱり、わかりません。これで、よかったのでしょうか?」
俺は彼女の肩に手を置いた。
「思い出せなくてもいい。大事なのは、これから一緒に作っていく時間だ」
ショウコは小さく頷き、泣き笑いのような表情を見せた。それは、長い孤独の終わりを告げる、優しい顔だった。
◇
浄化を終え、屋敷に本当の静寂が戻った夜。俺はショウコに客間の一つを割り当て、別々の部屋で眠りについた。疲労もあって、柔らかいベッドに身を沈めるとすぐに意識は途切れた。
どれくらい時間が経っただろうか。
コン、コン……。
暗闇に響いた控えめなノックの音に、眠りの淵から意識が引き上げられる。ゆっくりと身を起こし、問いかけた。
「……誰だ?」
返事はない。だが、扉の向こうに誰かがいる気配は確かにあった。俺はベッドを抜け出し、用心深く扉に近づいて、そっと開く。
そこに立っていたのは、やはりショウコだった。
簡素な寝間着をまとった彼女は、扉の前で立ち尽くし、ただじっと俺を見つめている。月明かりに照らされたその瞳は、助けを求めるように不安げに揺れていた。
「ショウコ…? どうしたんだ、眠れないのか?」
俺が優しく声をかけると、彼女はこくりと小さく頷く。そして、俯きがちに、消え入りそうな声で呟いた。
「……部屋が、静かすぎて……怖いんです。それに…とても、寂しくて……」
ずっとゴーストたちと過ごしてきた彼女にとって、完全な静寂と孤独は、今夜が初めての経験だったのかもしれない。長い間一人で屋敷を守ってきた気丈な少女の、今にも泣き出しそうな横顔に、胸が締め付けられる。
俺はためらわなかった。
「わかった。少し話そうか」
そう言って彼女の手を引いて部屋に招き入れると、ショウコは驚いたように顔を上げたが、抵抗はしなかった。
「もう一人でいなくていい。眠れるまで、ここにいてあげるから」
そう言ってベッドの脇にあったソファを指さす。しかし、ショウコはか細く首を横に振った。そして、俺の服の袖を、震える指でぎゅっと掴む。
「……旦那様」
「ん?」
「……一緒に、寝ては、いけませんか…?」
潤んだ瞳で、上目遣いに見上げてくる。
その訴えは、あまりにも切実で、無垢で、断れるはずもなかった。
俺は一つため息をつくと、苦笑しながら彼女の頭を優しく撫でた。
「…わかったよ。ただし、何もしないからな」
その言葉に、ショウコの顔がぱっと輝く。俺がベッドに戻り、壁際に体を寄せると、彼女はおずおずと、そして少し照れくさそうにベッドへ上がり、俺の背中にそっと身を寄せた。
冷たい額が、俺の寝間着越しの肌に触れる。そして、小さな顔をうずめるようにして、ぎゅっと背中にしがみついてきた。
「……嬉しい、です」
背後から、彼女の小さな体温がじんわりと伝わってくる。布団が擦れる柔らかな音、そして彼女から香る微かな花の匂いが、静かな部屋に満ちた。いつしか、彼女の呼吸のリズムが、俺の鼓動と重なっていくのを感じる。
俺が「おやすみ」と声をかけると、背中越しに小さく頷く気配がした。間もなく、すーっ、すーっと穏やかな寝息が聞こえ始める。
長い孤独の夜は、もう終わったのだ。
俺は彼女の無防備な寝顔をそっと見やり、この温かい日常を必ず守り抜こうと、心に強く誓った。
◇
朝、目が覚めたとき、隣にショウコの姿はなかった。
彼女が寝ていたはずのシーツには、皺一つついていない。まるで、最初から誰もいなかったかのように。
俺は昨夜の出来事が夢だったのかと、しばし呆然とした。
だが、枕元に目をやった。
そこには、彼女のものと思しき、一本の長い黒髪が落ちていた。
俺はそれを指先で拾い上げる。
俺は急いで部屋を出た。あの夜が夢だったのか、それとも現実だったのか――確かめずにはいられなかった。
扉を押し開けた瞬間、そこには、笑みで迎えるショウコがいた。
ふわりと香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「おはようございます、旦那様っ」
(食事は、二人分だけ…)
それが、今の彼女の「答え」だった。
二人は席につき静かな朝食、窓の外では、庭の花が風に揺れている。




