第29話:屋敷のメイド
俺は神の言葉を思い出していた。
『ヒドラを片付けた後、ヴァリスの街の北西にある屋敷へ向かえ。
これはご褒美じゃ。ただし、必ず “一人で” 行くのじゃぞ』
──そうして今、俺はその屋敷の前に立っていた。
重厚な扉を押し開けた瞬間、長く止まっていた時間の匂いが鼻をつく。
埃の匂いに、かすかな花の香りが混じり、ひやりとした空気が頬を撫でた。
広大なエントランスに、俺の足音だけが乾いた音を立てて響く。
そのとき――背筋を射抜くような視線を感じた。
見上げると、大階段の踊り場に少女がひとり。
黒と白のメイド服をまとい、薄闇の中からじっと俺を見下ろしていた。
彼女は音もなくそこに立っていた。
まるで古い洋館の記憶そのものが人の形をとったかのように。
濡羽色の髪は光を吸い込み、雪のように白い肌は儚く透き通る。
何より印象的だったのは、その瞳だ。
熟れた柘榴のような、上質なルビーを嵌め込んだかのような赤。
感情を映さぬ静けさが、むしろ彼女の存在の謎を強調していた。
(いや待て、なんで屋敷にメイド? 神様に屋敷に行けって言われたけど「メイドさん付き」って聞いてないぞ!? 追加オプション!? 課金か?)
──次の瞬間。
少女は駆け下り、その勢いのまま俺の胸に飛び込んできた。
「ずっと……ずっとお待ちしておりました、旦那様!」
衝撃でよろめく俺。
華奢な体からは想像できない力で抱きしめられ、背中に爪が食い込む。
(痛い痛い!背中に爪立ってる!)
耳元で、押し殺した嗚咽が震える。
「覚えていらっしゃいますか……? わたくし、ショウコです」
「ショウコ……? ショウテデニィの?」
「はいっ……!」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の瞳から涙があふれ出した。
安堵と喜びに震えながら、さらに強く抱きしめてくる。
思い出した……ショウテデニィ
人懐っこくて……ずっと俺を見てた、あの…ショウコと呼んでいたフグだ。
アフリカ、マレボ湖の固有種
10cm未満の小柄なフグで人怖じしない可愛いやつだった…。
「会いたかったです……!」
ショウコは顔を胸に埋め、もう二度と離すまいと力を込めた。
その温もりには、彼女が一人で耐えてきた永い時間の重さが宿っていた。
「寂しかったです……ずっと、ずっと……」
震える声が、俺の心の奥まで響く。
堰を切ったように涙を流し、子供のように甘え、泣きじゃくる彼女。
服を握る指先が、離れたくないと必死に訴えていた。
(健気だなぁ、ずっと俺の事を待っていてくれただなんて。)
俺はそっと背を撫でる。
その仕草に、ショウコは少しだけ顔を上げ、涙に濡れた瞳で俺を見た。
「そ、そうだ。庭でも散歩してみない?広いんだろ。」
「はい。旦那様」
庭に出ると、そこはまるで別世界だった。
夕暮れの光が花壇をやさしく染め、薔薇やラベンダー、白い小花たちが風に揺れる。金色の光をまとう花びらは、宝石よりも鮮やかにきらめいていた。
石畳の小道には落ち葉ひとつなく、まるで今朝も誰かが丁寧に掃き清めたかのよう。庭の奥の噴水は夕陽を受けて銀色に輝き、水音は静かに祝福の歌を奏でていた。
ショウコは俺の腕にそっと絡みつき、時折、顔を上げて見つめてくる。赤い瞳には、茜空よりも濃い色が宿っていた。
「……私が、ずっと管理しておりました。
旦那様と、こうして歩ける日を夢見ながら」
風に溶けるような声に、俺は思わず足を止める。
この庭は、彼女が独りで守ってきた証。
誰も来ないはずの庭に、こうして二人で立っている――それだけで奇跡みたいだった。
「ところで、この屋敷は……?」
「はい。旦那様が来られるまで、わたくし一人で守っておりました。
誰もおりません。どうぞ……お好きなようにお使いください」
(おいおい、異世界に来て早々、もうお屋敷ゲットって……ゲームなら完全に序盤チュートリアル飛ばしてるだろこれ)
ショウコは俺の腕に自分の腕を絡めたまま、顔を伏せて小さく呟く。
「ずっと一人でしたから……もう、寂しいのは嫌なんです」
その声は、祈りのように震えていた。
けれど次の瞬間、彼女は顔を上げ、涙の跡を隠すように微笑む。
「さぁ、お夕食の準備をいたしますね。
それから……今夜は、どうかお泊まりになってくださいませ」
(え? 泊まるの? 二人きりで!? 本当に!?)
◇
日も暮れ、俺はショウコと屋敷で一夜を過ごすことになった。
彼女は嬉しそうに、驚くほど手際よく夕食を準備する。
だが、豪奢なテーブルに並んだ料理は――明らかに五人分。
「ショウコ、これは……? 俺たちの他に、誰か来るのか?」
「いいえ。これはいつもの習慣ですから。
どうぞお気になさらないでください、旦那様」
そう言って微笑むが、その笑顔には寂しさの影が差していた。
……この広い屋敷で、彼女は毎晩、誰もいない空席だらけの食卓を囲んでいたのか。
その事実に気づき、胸が締め付けられる。
食事中、俺は見てしまった。
誰も座っていない椅子の皿から、ふわりと湯気が立ち、シチューが僅かに減るのを。
そして、パンを取ろうとした俺の手を、冷たい何かがそっと避けるのを。
「……ショウコ。誰か、いるのか?」
俺の問いに、彼女は驚くでもなく、静かに頷いた。
「はい。でも大丈夫です。悪い方たちではありません。
わたくしが一人で寂しくないように、ずっと一緒にいてくれたのです」
彼女にとって、彼らは「家族の霊」ではなく、
ただの「寂しさを紛らわせてくれる、名前のないゴースト」。
記憶がない彼女には、それが唯一の関係性だったのだ。
俺はショウコに提案した。
「ショウコ、もうこの寂しい『習慣』は終わりにしたほうがいい」
ショウコは寂しそうにうつむく。俺は続けた。
「彼らを本当の意味で救ってあげないか? その魂を屋敷に縛り付けておくのは可哀想だ。きっと、彷徨い迷っているんだ。安らかに眠らせてあげることが、本当の救済になる」
そして真っすぐ彼女を見つめる。
「これからは俺がいる。もう寂しい思いはさせないから」
涙を浮かべたショウコは、小さく頷いた。
――こうして、二人だけの秘密の約束が交わされた。




