第24話:ヒドラ戦再び…(後半)
目の前で――四本の首が、同時に嘶きを上げる。
炎が渦を巻き、雷が迸り、毒の瘴気が大地を満たし、冷気が空気を凍らせる。
地響きと共に、真のヒドラがその威容を現した。
「――ッ!」
何かを叫ばなきゃ。
指示を出さなきゃ。
分かっているのに、喉が鉛の塊みたいに動かない。
全身から血の気が引き、指先が氷のように冷えていく。
圧倒的な存在を前に、魂そのものが恐怖で凍り付いていた。
そして――俺の沈黙が、仲間たちの秩序を砕いた。
「行くぞッ!」
サリヴァが野獣のように哮けり、雷の首へ斬りかかった。
援護するようにファカのツタが伸び、ムーは俺を庇うように大盾を構えた。
だが、司令塔を欠いた攻撃は稚拙で、あまりにも脆かった。
雷撃がサリヴァの剣を弾き飛ばし、炎の鞭がファカのツタを焼き切る。
毒の霧がじわじわと俺たちの足元を侵食していく。
中でも――パーティの盾役、ムーへの負担は絶大だった。
氷の吐息が大盾を覆い、彼女の巨体ですら一撃ごとに大きく後退させられる。
(俺のせいだ……! 早く指揮を取らないと、仲間たちが……!)
焦燥が空回りし、最適な一手すら見つからない。
仲間たちが傷つき、消耗していく光景が――
引き伸ばされた一瞬のように、脳を灼いた。
(しっかりしろ……! 俺がやらなきゃ、このパーティはここで終わるんだ!)
(支援しろ、指揮しろ、動け! 動け、俺!!)
恐怖に震える足へ、意志の力で命令を叩きつける。
ギギギ……と軋むような感覚と共に、俺の足が一歩前へ踏み出した。
腹の底から、声を絞り出す。
「ムー、耐えろ! ファカ、雷の首を拘束!」
そして、自らも魔法を放った。
「毒の首だ!――《グラビティ・バインド》!」
詠唱と同時に足元から魔法陣が走り、
毒の首が見えない巨人に叩きつけられたかのように地面に激突する。
その一瞬――戦況が変わった。
「ムーは火と氷に集中! ファカのツタから逃れた雷の首を、サリヴァが叩け!」
矢継ぎ早に飛ぶ指示。
無秩序だった攻撃は、瞬く間に洗練された連携へと変わる。
ムーの盾が炎と氷を完璧に受け止め、ファカのツタが雷の首の動きを封じる。
その隙を、サリヴァが逃さない。
双剣が閃き、ヒドラの鱗を次々と切り裂いていった。
戦況は――確かにこちらに傾き始めていた。
だが、相手は伝説の魔獣。
ヒドラの四対の目が、戦況を覆す最大の脅威へと集中する。
――サリヴァ。
最も苛烈に牙を剥く戦士を、この場で排除する。
その明確な殺意と共に、四本の首から奔流のような属性攻撃が、
彼女一人へ殺到した。
「ぐっ……ぁああっ!」
「サリヴァッ!」
咄嗟に俺は、ありったけの魔力を叩き込む。
「お前に鉄壁の守りを――《フォートレス・ウォール》!」
光の障壁がサリヴァを包み込み、四方からの集中砲火を弾き返す。
俺は迷わず彼女の元へ駆け寄った――それが、致命的な悪手だった。
俺を新たな脅威と認識したヒドラの毒の首が、ぎょろりと視線を向ける。
鞭のようにしなる巨体が、大地を抉りながら突進してきた。
回避は――間に合わない。
(くっ……!)
覚悟した瞬間、ヒドラの鼻先が俺の体をすくい上げる。
視界が反転し、宙へと放り出された。
「――死ぬなっ!!!!」
サリヴァの絶叫が耳を打つ。
俺の体は小石のように軽々と宙を舞い、世界がスローモーションになる。
見上げた先――信じられないものを見たかのように、
サリヴァの青い瞳が見開かれていた。
そして。
無慈悲な重力に従い、俺の体は地面に叩きつけられる。
視界が弾け、意識は闇へと沈んだ。
――その瞬間だった。
サリヴァの中で、何かが砕け散った。
「グゥアアアアアアアァァッ!!」
もはや人の声ではない。
地獄の底から響くような、怒りと憎悪の咆哮。
澄んだ青い瞳は真紅に染まり、理性の箍が外れる。
魂そのものが獣に喰われ、本能だけの存在へと堕ちていく。
――バーサーク。
血に濡れた獣と化したサリヴァは、神話の魔獣を前に一歩も退かない。
いや、その気迫はヒドラすら凌駕していた。
雷の牙が肩を噛み砕こうが、炎が肌を焼こうが――彼女は吠え、二振りの剣を振るい続ける。
痛みなど存在しない。息も切らさない。
血飛沫を撒き散らしながら、ただ執拗に斬り刻む。
それは戦いではなく――解体だった。
雷の首の眼球を潰し、炎の首の上顎を砕く。
氷の首の神経束を断ち切り、最後に毒の首の喉笛を胴体まで届く深さで裂いた。
ヒドラは再生する。
それが、この世界の常識だった。
だが、再生の起点となる“核”そのものを破壊された場合は?
癒着しようとする肉は歪に盛り上がり、骨はありえない方向にねじ曲がる。
再生は暴走し、ヒドラ自身の体を内側から破壊していく。
その巨体は醜悪な肉塊へと変貌し、断末魔の咆哮を上げながら苦悶にもがいた。
その好機を――ファカが見逃すはずがなかった。
「今よ、ムー! 手伝って!」
無数のツタがうねり、再生しかけた首を一斉に締め上げる。
ブチブチと肉が軋む音。ヒドラは必死にもがくが、逃れられない。
「今だ……!」
その隙を、ムーが掴む。
「ふんっ!!」
両手で握った戦斧は、彼女の背丈に匹敵する長大な武器。
大地を踏み鳴らし、腰を落とし、全身の筋肉を束ねて――振り上げる。
空気を裂く轟音。
斧が、落ちた。
一つ、血をこぼせ!
ズバァッ!
最初の首が根元から断たれ、黒い血が噴き出す。
ヒドラの悲鳴が、夜空を切り裂いた。
二つ、鱗を砕け!
ズバァッ!
次の首が、ファカのツタごと裂かれ、地に転がる。
ムーの瞳は炎のように燃え、荒い息を吐きながら踏み込む。
三つ、毒よ燃えよ!
ズバァッ!
刃が骨を断ち、肉を裂き、再生の力すら追いつけない速度で首が飛んだ。
――そして最後… 四つ、死に落ちろ!
ズバァァッ!
四本目の首が宙を舞い、地に落ちる。
その瞬間、ヒドラの巨体がぐらりと揺れ――轟音を立てて崩れ落ちた。
大地が震え、辺りに静寂が満ちる。
ムーは戦斧を地に突き立て、肩で息をしながら、沈黙した巨体を見下ろす。
ファカのツタもまた、役目を終えたかのように解け、闇に溶けていった。
――勝利の瞬間だった。
だが、戦いは終わらない。
最大の脅威を排除した獣の瞳が、次なる獲物を捉えた。
ファカと、ムー。
その紅い瞳には、もはや仲間の区別などついていない。
「ムー、来るわよ、構えて!」
「はいっ!」
ムーの体が光に包まれる。命を犠牲にする究極の切り札――《超鬼化》。
鬼神と化した彼女とファカは、狂った獣を止めようと立ち向かう。
しかし、歯が立たない。
サリヴァの猛攻はあまりに激しく、二人は気絶した俺を守るための防戦一方
みるみる傷を増やしていった。
ザシュッ!
ムーの腕から鮮血が噴き出す。
その一滴が、地面に倒れる俺の頬を濡らした。
(温かい。血の匂いだ。)
その感触が、暗闇に沈んでいた俺の意識を無理やり引きずり出した。
瞼を開けた俺の目に映ったのは、地獄だった。
超鬼化したムーが、大量の血を流しながら俺を庇って耐えていた。
「……やめろぉぉ……」
声にならない声で、俺は最後の力を振り絞る。
震える手で術式を組み、叫んだ。
「――《理性の鎖》!」
無数の光の鎖がサリヴァを縛り上げる。
獣の咆哮が苦悶の呻きに変わり、その真紅の瞳から狂気が霧散していく。
やがて、彼女は膝から崩れ落ち、ボロボロになった体で静かに意識を失った。
洞窟に、静寂が戻る。
残されたのは、血と死臭、そして、傷だらけの仲間たちだけだった。




