第20話:アルガンド山脈の洞窟
俺たちの次なる目的地は、伝説の魔獣が棲むという険しいアルガンド山脈だった。
三百年前、国を滅ぼしたとされる《毒沼の魔女》。その濡れ衣を着せられたままでは、街に立ち入ることすらできない。この状況を覆すには、討伐不可能とされる伝説級の魔物を倒すくらいしか、汚名返上の道は残されていなかった。
汚名返上――その言葉の響きとは裏腹に、俺たちの足取りは死地へ向かう罪人のように重い。
「本当に、この先にいるのですか……?」
ムーが不安げに呟く。彼女の背負う荷物には、なけなしの食料と水、そして俺たちの全財産が詰まっている。
「ファカの情報だ。間違いない」
「ええ。わたくしの記憶……いいえ、《毒沼の魔女》の知識がそう告げていますわ」
ファカは不敵に笑うが、その山吹色の瞳の奥には、かつて魔女に支配されていた頃のような冷たい光が微かに揺らめいていた。
やがて俺たちは、目的の洞窟にたどり着く。
巨大な獣の顎のように開いた入り口は不気味な静寂に包まれ、内部からは硫黄と腐臭が混じった吐き気を催す空気が漂っていた。
(……行くぞ)
覚悟を決め、闇の中へと足を踏み入れる。
(俺の《死に戻り》には回数制限がある。
それに、成功するにはタイミングも重要らしい。だが、心配ないか)
心の中で不安を打ち消す。
(伝説の化け物がどれほどのものかは知らないが、ファカの毒魔法さえあれば、どんな生物だろうと戦う前に毒殺できる。余裕だろう)
そんな俺の慢心を嘲笑うかのように――轟音と共に、後方の通路が巨大な岩で塞がれた。
岩肌にじわりと浮かび上がる、青白い魔法陣。
ファカがすぐさま解析を始める。指先で光をなぞりながら、彼女は小さく舌打ちした。
「……これは古代文字で書かれた封印術式ですわ。伝説の魔獣を倒すか、あるいは私たちが全員死ななければ、扉は開かない仕組み……。悪趣味もいいところです」
「なるほどな……。誰も帰ってこれなかった理由はそれか」
進むしかないと悟った俺たちは、洞窟のさらに奥へと進んだ。
そこに広がっていたのは、常識を超えた光景だった。
おびただしい数の白骨が、山のように散乱している。
屈強な鎧を纏った騎士、軽装の冒険者――誰もが魔獣に挑み、骸と化したのだろう。
中には、戦うことを諦め、ここで飢え死にした者もいるようだった。
「ひどいな……。あんたたちの無念、俺たちが晴らす。だから、力を貸してくれ」
俺は祈るように呟き、白骨化した指から魔法の指輪をいくつか抜き取ると、自分の指にはめた。どんな効果があるかはわからない。だが、直接的な戦力にならない俺にとっては、それが藁にもすがる思いだった。
準備を終え、洞窟の最奥へと進む。やがて空間が大きく開け、そこに“それ”はいた。
三つの長大な首を持つ、巨大な竜――ヒドラ。
右の首は氷のように青白い鱗に覆われ、冷気を吐き出す。
左の首は溶岩のように赤黒く、絶えず炎の舌をちらつかせる。
そして中央の首は、沼のように淀んだ緑色で、その口元からは毒の涎が滴り落ちていた。
「ムー、前に! ファカは援護を!」
俺の指示と共に、戦いの火蓋が切られた。
心臓が激しく脈打つ。
この二人だけは、絶対に失うわけにはいかない。
「突っ込め! ムーに疾風の加護を!」
黄金のオーラを纏ったムーが、大盾を構えて砲弾のように突進する。ヒドラの三つの首が一斉に牙を剥き、氷のブレス、灼熱の炎、そして溶解液のような毒の息吹を浴びせかけた。
「耐えろ! 均衡の結界!」
火と氷の奔流がムーの大盾に激突し、凄まじい蒸気を上げる。
彼女の巨体が軋む音に、俺の焦りが募る。
「ファカ!」
「ええ! 棘手・薔薇縛り!」
俺の支援で強化されたファカが、残像を引いてヒドラの側面に回り込む。彼女の腕から放たれた無数の紫黒のツルが、氷と火の首に蛇のように絡みつき、動きを封じた。
その一瞬の隙を、ムーは見逃さない。
「おおおおおおっ!」
戦斧が唸りを上げて閃き、渾身の一撃が氷の首の付け根を叩き割った。
さらにファカは、絡みつかせたツタから腐食性の毒を流し込み、炎の首を内側から破壊しようと試みる。だが、ヒドラの異常な生命力がそれを許さない。毒が鱗を焼くものの、決定打には至らず、首は皮一枚でぶら下がるグロテスクな状態となった。
「ムー、跳べ! 飛翔の魔法!」
爆発的な脚力を得たムーが天高く跳躍し、ぶら下がったままの炎の首を戦斧で断ち切った。
だが――絶望はそこから始まった。
切断された首の断面から肉が泡のように盛り上がり、瞬く間に新たな首が再生する。
(嘘だろ……!?)
それだけではない。地面に落ちたヒドラの牙が、カタカタと音を立て、白骨の兵士――スケルトンとなって次々と立ち上がったのだ。
「ちっ、キリがねぇ!」
次々と湧き出すスケルトンに重力縛をかけるが、今の俺では一体を鈍らせるのが精一杯だ。ムーがスケルトンをなぎ倒し、俺とファカが本体を攻めるが、状況は悪化する一方だった。
「ご主人様、おかしいですわ! わたくしの毒が……!」
「中央に毒の首があるんだ! 本体に毒への耐性があるんだろ……不利だぞ!」
「これでは武技も通りません…わたくしの毒も……!」
ファカの焦りの声が響く。彼女の猛毒ですら、中央の首には全く通用しない。氷と火の首をいくら潰しても、本体が健在である限り、ヒドラは無限に再生するのだ。
その焦りが、致命的な隙を生んだ。再生した火の首が、ファカの背後から灼熱のブレスを吐きかける。俺はとっさに彼女を突き飛ばしたが、その紅い髪の先が炎に焼かれ、チリリと焦げた。
体勢を崩した彼女に、毒の首が鞭のようにしなり襲いかかる。回避する間もなく、ファカの身体は壁に叩きつけられ、鈍い音と共に崩れ落ちた。
(駄目だ……。ファカの毒が効かないのは誤算だった。このままじゃ全員死ぬ。俺たちにはまだ、早すぎたんだ……!)
一瞬の逡巡の後、俺は覚悟を決める。
両手の指にはめた十個の指輪に、ありったけの魔力を注ぎ込んだ。
指輪がまばゆい光を放ち、俺の身体に幾重もの魔法障壁を展開する。
「俺は死んでも戻れる! おまえらだけでも逃げろ!」
神に釘を刺された言葉が脳裏をよぎる。
『タイミングが悪ければ死に戻りできんこともある』
――そうだ、戻れる保証など、どこにもない。
だが、ここで二人を失うことだけは絶対に避けたかった。
俺はファカとヒドラの間に割り込み、最後の囮となった。
「駄目です、御主人様!」
俺の覚悟を嘲笑うかのように、ヒドラの中央の首が牙を剥いて襲いかかる。ガキンッ!と凄まじい音が響き、毒の牙が障壁に阻まれた。だが代償に、右手の親指の指輪が甲高い音を立てて砕け散る。
「いいから早く行け! 俺は《死に戻り》ができるんだ、なんとかなる!」
強がりだ。本当は怖い。
死ぬのは、戻れないかもしれないのは、たまらなく怖い。
だけど――。
瓦礫の中から身を起こしたファカが、絶望に染まった瞳で俺を見つめている。
間髪入れず、左の首から放たれた灼熱のブレスが俺を飲み込んだ。
業火が障壁を舐め、左手の人差し指の指輪が赤熱し、パリンと弾け飛ぶ。
その光景に、ムーは決断した。
無言のまま、抵抗するファカを力強く脇に抱え込む。
「ムー、離しなさい! あなたでも許さないわよ!」
ファカがムーの腕の中でもがく。
障壁が砕けるのは時間の問題だった。
俺は迫りくるヒドラの牙を前に、二人に向かって精一杯の笑みを浮かべた。
「俺は必ず戻る。だから、待っててくれ」
それが、俺の最後の言葉になった。
視界いっぱいに広がったヒドラの顎が閉じられ、残った指輪が最後の光を放って砕け散ると同時に、俺の身体は凄まじい衝撃と共に、あっけなく真っ二つに引き裂かれた。
遠ざかる意識の中、ムーに抱えられて洞窟を脱出していく二人の後ろ姿が、最期に見えたものだった。
……そして俺の意識は、闇に沈んだ。




