第16話:山小屋の休息
毒沼の魔女との死闘を終えた俺たちは、満身創痍だった。
ムーは《超鬼化》の反動で立つのもやっと。
俺もファカの肩を借りなければ、一歩すら歩けない。
ようやく見つけたのは、朽ち果てかけた古い山小屋だった。
倒れそうなムーを壁にもたせかけた瞬間、
ファカが駆け寄ってきた。
「ご主人様……! わたくしのせいで、こんな……」
潤んだ瞳から涙が零れ落ちる。
彼女は俺の胸に顔を押しつけ、声を震わせた。
「申し訳ございません……本当に、申し訳ございません……」
「お前のせいじゃない。気にするな」
笑ってやりたかったが、拷問の傷が熱を持ち、顔が歪む。
ファカはその痛みに自分が責められるように震えながら、
俺の服を脱がせて傷を確かめた。
「ひどい……こんな……!」
細いツルに削がれた皮膚は見るも無残で、彼女は息を呑んだ。
持っていた薬草を丁寧に塗り込む
涙で視界を滲ませながらも、決して手は止めなかった。
暖炉に火が熾り、薪がパチパチと弾ける。
炎の光が彼女の横顔を照らす。
それは、懸命に俺を守ろうとする一途な光だった。
◇
やっと息が整った頃、俺はムーに視線を向けた。
そうだ――まだ二人をちゃんと引き合わせていなかった。
「ファカ、紹介するよ。こっちがオーガのムーだ。
お前と同じで、俺が昔飼っていたムブっていうフグなんだ」
ファカは涙で濡れた頬を上げ、目を丸くする。
「……本当に御主人様は、フグがお好きですのね」
呆れたように、でもどこか嬉しそうに微笑むと、
ムーに向き直り、優雅に頭を下げた。
「わたくしはファカと申します。よろしくね、ムー」
「は、はいっ! わたくしのほうこそ、
よろしくお願いいたしますです、ファカ様!」
その時、ムーは少しだけ目を伏せ、声を落とした。
「……ファカ様も、主様を守ろうとしていたのですね。
わたくしも、同じ気持ちでした」
一瞬、二人の視線が重なる。
涙で潤んだ山吹色の瞳と、巨体に似合わぬ優しい眼差し。
そこに生まれたのは、言葉を超えた“同志”としての共感だった。
◇
暖炉の火が小さくはぜる。
ふと、ファカはムーの腕に残る深い裂傷に気づいた。
「……あなたも酷い怪我を」
薬草の束をそっと取り出し、ムーの大きな手に握らせる。
「ご主人様のことで手一杯でしたけれど……仲間を気遣うのも、当然の務めですわ」
「ファカ様……ありがとうございますです」
ムーは胸に熱いものが込み上げたのか、深々と頭を下げた。
俺は黙って二人のやり取りを見ていた。
ファカの優しさが俺だけに向けられるのではなく、ムーへも注がれている。
その瞬間、三人を結ぶ絆が、より均衡の取れたものになったのを感じた。
「……本当に、生きていてよかった」
ぽつりと漏れた俺の言葉に、ファカがこくりと頷く。
「ええ……もう二度と、あんな思いはしたくありませんわ。
ご主人様を失うかと思った……あの恐怖は、金輪際ごめんです」
ムーも穏やかに続ける。
「わたくしもです。主様とファカ様が無事で、本当によかったです」
暖炉の炎が三人の顔を照らし、
互いの無事を確かめ合うような時間が流れる。
やがて、手当てを終えたファカが、俺の腕に自分の胸を押しつけ、
甘えるように囁いた。
「もう私たちは、どこにも行く場所がありませんわね」
「ああ……しばらくはここに厄介になるしかないな」
「ええ。わたくしは、ご主人様とこうしていられるだけで、
魔力も体力も全回復ですわ♡」
まったく、戦いが終わった途端に元通りか。
だが、その甘えた声が聞けるのも、今は心地よい。
ムーがそんな俺たちを見て、ふふっと微笑んだ。
極度の緊張から解放された身体は、鉛のように重い。
恐怖と安堵、そして言いようのない疲労から、
俺たちは自然と互いを求め、暖炉の前の光だまりに身を寄せた。
ファカは俺の腕を枕にし、ムーはその大きな背で包み込むようにして。
三人の寝息だけが響く静かな夜。
こうして俺たちは寄り添いながら、深い眠りへと落ちていった。
◇
翌朝。
俺は、ファカの静かな気配で目を覚ました。
隣ではムーが健やかな寝息を立てている。
ファカは口元に指を当て、静かにするよう合図すると、
俺の手を引いて小屋の外へと誘った。
言葉はなかった。
ただ、山吹色の瞳が、まっすぐに俺を見つめている。
彼女が案内したのは、小屋の裏手にひっそりと流れる清流だった。
朝の光が木々の隙間から差し込み、水面をきらきらと照らす。
小さな滝がさらさらと心地よい音を立てていた。
そこでファカは立ち止まり、俺の服の合わせにそっと手をかける。
彼女の真剣な瞳に、言葉も動きも奪われた、その眼差しは真剣で、不純な色は一切ない。
俺は息を呑み、されるがままに身を任せた。
血と泥にまみれた服が剥がされる。
昨日の死闘の記憶が蘇りかけるのを、俺はぐっと堪えた。
山の水は、凍えるほどに冷たい。
足を踏み入れた瞬間、全身を鋭い痛みが駆け抜け、
だが同時に、鈍っていた感覚が研ぎ澄まされていくようだった。
隣に、ファカも衣を脱ぎ、静かに水へと入ってくる。
朝日を浴びた白い肌が、眩しすぎて直視できない。
俺は思わず顔を背けた。
普段なら軽口でも叩くところだが――今日はそんな気になれなかった。
ファカは背後へと回り込み、温かな両手で俺の体を洗い始めた。
首筋に残る汚れを拭い、
背中にこびりついた血を流し、
無数の傷跡を、労わるように撫でていく。
冷たい水。
そしてファカの肌から伝わる温もり。
相反する感覚が同時に、俺の身体を満たしていった。
――ああ、俺は生きている。
この冷たさも、この温かさも、感じられる。
そしてファカが、ここにいる。
気づけば俺は振り向き、その華奢な体を強く抱きしめていた。
水滴が頬を伝う。それが清流の水なのか、涙なのか、もうわからない。
「……おかえり、ファカ」
やっと言えた。
魔女に身体を奪われ、消えてしまうかと思った恐怖。
そして、生きて再び会えた安堵。
溢れ出した感情に、俺は子供のように泣き崩れ、
彼女の肩に顔を埋めた。
ファカは一瞬驚いたが、やがてその細い腕で強く抱きしめ返してくれる。
「――ただいま、ご主人様。」
その声は震えていた。
滝の音だけが響く静かな朝、
俺たちは互いの存在を確かめ合うように、
いつまでも抱きしめ合っていた。




