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青の屈折率

作者: ティーヴォ

夏の午後の光は、飽和している。

窓から差し込むそれは、もはや単なる光線ではなく、粘度を持った液体みたいに教室の隅々までを満たしていた。空気中の塵が、その液体の中を億劫そうに漂っている。ブラウン運動、と理科の教師が言っていた。不規則な運動。僕の意識もまた、その塵の一つみたいに、とりとめもなく揺蕩たゆたっている。

「だから、この場合の垂直抗力は、物体の質量と重力加速度を乗じたものに、斜面の角度の余弦を……」

黒板を叩くチョークの乾いた音が、やけに遠くで響く。言葉の意味は鼓膜を滑り落ちて、脳の皺に引っかかることなく消えていく。まるでテフロン加工されたみたいに。sin、cos、tan。それらが世界の何を切り取っているのか、僕には永遠に理解できないような気がした。そもそも、世界は切り取られることを望んでいるのだろうか。そんなことを考えているうちに、チャイムが鳴った。解放と、同時に訪れる茫漠とした時間の始まりを告げる、くたびれた音階。

クラスメイトたちは、まるで堰を切ったように騒がしくなる。昨日のテレビ番組の話。週末の予定。好きなアイドルの新しい髪色について。彼らの言葉は、明確な意味と目的を持っている。共感を求め、情報を交換し、関係性を確認する。そのすべてが、僕には眩しすぎた。まるで、ピントの合わない写真を見せられているような、もどかしい疎外感。

僕は誰と話すでもなく、ゆっくりと席を立つ。廊下を歩く。誰もが未来に向かって歩いているように見えた。部活へ向かう足音。委員会に向かう真剣な横顔。家に帰って、やるべきことがある者の、確かな足取り。僕の足音だけが、どこにも向かっていない。宙吊りのまま、ただ前後に動いているだけ。

写真部の部室には、もちろん誰もいない。そもそも、部員は僕を含めて三人しかおらず、そのうち二人は名前だけの存在だ。埃っぽい暗室の匂い。現像液の、ツンとした酸っぱい記憶。壁には、いつかの先輩が撮ったであろう、色褪せた風景写真が貼られている。構図も、ピントも、完璧な写真。正しい写真。でも、なんだか息苦しい。

僕は愛用の古いフィルムカメラを首から下げ、目的もなく校舎を彷徨う。誰もいない場所を探して。完全な沈黙が、そこにはあるはずだった。

たどり着いたのは、特別棟の最上階にある音楽室だった。卒業式の合唱練習くらいでしか使われない、忘れられた場所。重い扉を引くと、午後の光が溜まった、静かな空間が現れた。巨大なグランドピアノが、部屋の中央で黒い獣のように眠っている。弦楽器のケースが壁際に並び、その丸みを帯びたフォルムは、見たことのない生き物のさなぎのようにも見えた。

窓際の、一番光が強く射す場所に立つ。ガラスの向こうには、どこまでも続く青い空と、その青を反射して鈍く光る海が見えた。この町の、ありふれた風景。僕はカメラを構え、ファインダーを覗く。けれど、シャッターは切れなかった。この風景の何を撮ればいいのか、分からなかったからだ。完璧な青。完璧な静寂。そこには僕の入り込む隙間なんて、どこにもない。

その時だった。

背後で、ぽつり、と音がした。

振り返る。いつの間にか、そこに女の子が立っていた。僕と同じ制服を着ている。見たことのない顔。転校生だろうか。彼女は眠っている獣の前に立ち、その白い鍵盤を一本の指で、ただ一度だけ押したのだ。

ラ、の音。

それは、音楽室を満たす光の液体に落とされた、一滴の染料のように、静かに、そして確かに広がっていった。

「それは、何の音?」

気づけば、声が出ていた。自分でも驚くほど、自然に。

彼女はゆっくりとこちらを振り返った。色素の薄い瞳が、逆光の中で不思議な色にきらめいている。僕の問いを吟味するように、少しだけ首を傾げた。

「昨日の雨の、最後のひとしずく」

彼女はそう言った。声は、音と同じくらい澄んでいた。

「……雨?」

「うん。地面に染み込めなかった、いちばん臆病な雨」

文法は正しい。単語も知っている。しかし、意味が繋がらない。僕の脳は、馴染みのないOSで無理やりアプリケーションを起動させようとしているPCみたいに、静かに混乱していた。

僕は、何か気の利いた言葉を返そうとして、やめた。代わりに、思ったままを口にした。

「そう。じゃあ、今は乾いてしまったんだ」

「ううん。乾いたんじゃなくて、透明になっただけ。だからもう見えない」

彼女はそう言うと、再び鍵盤に指を置いた。今度は音を鳴らさずに、ただそっと触れるだけ。

「君は、」と僕は尋ねる。「君は、誰?」

彼女は指を鍵盤から離さずに、僕を見ずに答えた。

「私は、まだここにいない」

「じゃあ、どこにいるの?」

「明日の風の中。あるいは、忘れられた本の見返しに挟まってる、押し花の匂いの中」

会話が、成立していない。なのに、途切れない。それはまるで、キャッチボールのようでいて、投げられたボールが相手に届く前に消えてしまい、受け手は空から降ってきた別のボールを投げ返す、そんな奇妙なゲームのようだった。

「押し花か。栞にするには、少し厚いね」

「厚さじゃないの。大切なのは、そこに閉じ込められた光の色だから」

「光に色なんてない。プリズムを通さない限り」

「あなたは、いつもそうなの?」

「そう、とは?」

「世界のすべてを、定規で測ろうとする」

彼女は初めて、少しだけ笑ったように見えた。唇の端が、ほんのわずかに持ち上がる。その微かな動きが、やけにスローモーションで見えた。

「測らないと、不安になるから」と僕は正直に答えた。

「不安は、青い色をしている」

「どうして?」

「遠い空の色だから。届かないって、最初から知っている色」

彼女の言葉は、詩のようでもあり、ただの戯言のようでもあった。意味を考えようとすると、指の間から砂がこぼれるように、その輪郭が失われていく。だから僕は、考えるのをやめた。彼女の言葉を、ただの音として受け入れることにした。音楽室に響いた、あの「ラ」の音と同じように。

「名前は、なんて言うの」

もう一度、僕は尋ねた。今度は、もう少しだけ具体的に。

彼女は僕の方に体を向けた。逆光で、その表情は影になっている。

「名前は、まだ借り物だから」

「誰から借りてるの?」

「さあ。この世界の、誰かから。でも、そろそろ返さないといけない」

そう言って、彼女は僕の横を通り過ぎ、部屋の出口へと向かった。何の匂いもしなかった。シャンプーの香りも、汗の匂いも、生活の匂いも。まるで、彼女という存在が、本当にまだここに実体を持っていないみたいに。

扉に手をかけ、彼女は足を止めた。そして、僕を振り返らずに言った。

「あなたのカメラ、正直だね」

「……何が?」

「何も写したくないって、言ってる」

それだけを言い残し、彼女は扉の向こうに消えた。重い扉がゆっくりと閉まり、再び訪れた静寂の中、僕は一人で立ち尽くしていた。

首から下げたカメラの重みを、急に強く感じる。

何も写したくない。そうかもしれない。

この世界は、僕にとってあまりに完成されすぎていて、僕が介入する余地などないのだから。

ファインダーを覗く。

さっきまでと同じ、青い空と海。

けれど、何かが違って見えた。

空の青は、少しだけ悲しい味がした。彼女が言った「届かない色」を、僕の網膜が初めて理解したような気がした。

僕は、シャッターを切った。

カシャ、という乾いた音が、飽和した光の液体の中に、小さな波紋を描いた。

ピントは、どこにも合っていなかった。


翌朝、僕の意識は昨日の音楽室の光の中にあった。瞼の裏に焼き付いているのは、飽和した午後の日差しと、その中で曖昧に溶けていく少女の輪郭。あの会話は、本当に現実だったのだろうか。

「昨日の雨の、最後のひとしずく」

「私は、まだここにいない」

言葉の断片が、授業中のノートの隅に書いた落書きみたいに、頭の中を意味もなく浮遊している。あれはきっと、寝不足の僕が見た白日夢か、あるいは熱中症の初期症状だったのかもしれない。そう結論づけてしまえば、楽になれる気がした。世界は再び、sin、cos、tanで割り切れる、退屈で安全な場所に戻るはずだ。

昼休み、僕は珍しく隣のクラスに足を運んだ。転校生が来たと噂に聞いていたクラス。教室の入り口から中を窺うと、数人の女子生徒が弁当を広げているのが見えた。その中に、彼女はいなかった。

「あの、すみません」

一番手前にいた、髪の長い女子生徒に声をかける。彼女は訝しげに僕を見た。

「昨日、転校生が来たって聞いたんだけど」

「ああ、月島さんのこと? 今日は休んでるみたいだよ」

「月島さん……」

「そう。月島響子つきしま きょうこさん。なんか、体が弱いんだって」

響子。音の子供。彼女にふさわしい名前のような気もしたし、全く似つかわしくない気もした。少なくとも、彼女には「月島響子」という、この世界に登録されるための記号が一応は与えられているらしい。その事実に、僕は少しだけ安堵し、同時に少しだけ失望した。彼女は、僕が夢の中で作り上げた幻ではなかった。しかし、彼女もまた、出席番号と名前を持つ、この世界のシステムの一部だったのだ。

その日、彼女は学校に来なかった。

次の日も、その次の日も。

彼女の不在は、まるで最初からそこにあった空席のように、誰の注意も引かなかった。クラスメイトたちは、すぐに彼女のことを話題にしなくなった。僕だけが、音楽室のあの「ラ」の音の残響を、耳の奥で何度もリピート再生していた。

僕が彼女と再会したのは、それから一週間が過ぎた、水曜日の放課後だった。

その日も僕は、校内を彷徨っていた。意味のない散策。被写体のない撮影旅行。たどり着いたのは、旧校舎の二階にある図書室だった。高い天井、ずらりと並んだ古い書架、インクと紙の乾いた匂い。利用者はほとんどおらず、静寂が埃のように降り積もっている。

僕は、哲学書の棚の前にいた。カント、ニーチェ、キルケゴール。背表紙に並ぶ難解な名前を眺めていると、それらがまるで墓石のように見えてくる。誰も読まない言葉たちが、静かに死んでいく場所。

「死んでるんじゃない。眠っているだけ」

不意に、すぐ隣で声がした。心臓が跳ねる、という比喩を、僕は身をもって体験した。

見ると、彼女がいた。月島響子が、僕と同じように書架を眺めていた。いつからそこにいたのか、全く気づかなかった。彼女は、図書館の静寂そのものを編んで作られたワンピースみたいに、その場所に溶け込んでいた。

「驚いた。君、いつからそこに」

「あなたより、少しだけ前から」

彼女は、一冊の古い本を指でなぞりながら言った。「この言葉たちは、あなたに読まれるのを待っていた。永い間、ずっと」

その本には『時間論』と金文字で記されていた。

「僕には、難しすぎるよ」

「難しくなんかない。だって、あなたはもう、時間の中にいるから。答え合わせをするだけ」

また、あの奇妙な会話が始まる。僕は戸惑いながらも、その心地よさに抗えないでいた。

「時間は、まっすぐ進むって、誰が決めたんだろうね」と僕は、ふと思ったことを口にした。

「きっと、寂しがり屋の神様」彼女は即答した。「振り返るのが怖かったんだよ。自分が捨ててきた、たくさんの昨日を見るのが」

「神様も、何かを捨てるのか」

「捨てるよ。不完全な夢とか、叶えられなかった願いとか。そういうものの欠片が、私たちなんじゃないかな」

彼女の言葉は、まるで霧のようだった。掴もうとすると、その形を失い、指の間をすり抜けていく。でも、その霧に包まれていると、不思議と息がしやすかった。

僕は、首から下げていたカメラを、そっと持ち上げた。

ファインダーを覗くと、書架の隙間から差し込む夕日が、彼女の髪を金色に縁取っていた。長い睫毛が落とす影。何かを探すように、本の背を彷徨う白い指。

彼女を撮りたい。

強く、そう思った。

この、捉えどころのない存在を、フィルムという物質の上に定着させてしまいたい。不在の証明ではなく、存在の証明として。

彼女は、僕の視線とレンズの存在に気づいているようだった。だが、何も言わない。顔を向けるでもなく、背けるでもなく、ただそこにいる。まるで、風景の一部であるかのように。

僕は、シャッターを切った。

カシャ。

僕の耳にだけ聞こえる、小さな音。

彼女はゆっくりと僕の方を見た。その色素の薄い瞳が、僕と、僕の持つ黒い機械を、静かに捉えた。

「それは、何を盗むための箱?」

「盗むんじゃない。憶えておくための箱だ」

「憶えることと、盗むことは、よく似ている」彼女は言った。「どちらも、時間を止めて、自分だけのものにしようとする行為だから」

「……そうかもしれない」

「でも、時間は止まらない。あなたがシャッターを切った瞬間、私はもう、そこにはいない」

彼女の言う通りだった。ファインダー越しに見た彼女と、今、僕の目の前にいる彼女は、寸分違わぬ同じ場所にいるのに、全くの別人であるような気がした。

「じゃあ、この写真に写っているのは、誰なんだろう」

「さあ。過去、という名前の、知らない人じゃないかな」

彼女はそう言うと、ふいと僕に背を向けた。

「私、もう行かないと」

「どこへ?」

「借りた本を、返しに」

彼女の手には、本など一冊もなかった。そのことに気づいたが、僕は何も言わなかった。彼女は足音も立てずに書架の間を抜け、図書室の出口へと消えていく。その背中は、やはりどこか現実感がなかった。

一人残された図書室で、僕は自分のカメラを見下ろした。

憶えておくための箱。

僕は今、本当に彼女を憶えているだろうか。彼女の言葉、彼女の瞳の色、彼女が纏う空気。それらは記憶として僕の中に残っている。しかし、それは僕が「そう記憶している」というだけの、極めて主観的なデータに過ぎない。

あのフィルムに、彼女は本当に写っているのだろうか。

現像してみたら、そこにはただの書架と、夕日の光が写っているだけかもしれない。あるいは、僕の知らない、全く別の誰かが。

僕は、巻いていないフィルムを巻き上げるレバーを、意味もなくゆっくりと回した。

ジ、という硬質な音が、眠っている言葉たちの沈黙を、わずかに乱した。


写真部の暗室は、世界から切り離された時間の漂着場所みたいな匂いがした。現像液のツンとした酸っぱい匂いと、停止液の酢酸の匂い。それらが混じり合って、記憶の底にある、ひどく懐かしい場所を無理やりこじ開けようとする。

赤いセーフライトの光だけが満ちる闇の中、僕はピンセットで印画紙をそっと持ち上げた。現像液のトレイに浸す。最初はただの真っ白な紙。それが、液の中でゆっくりと呼吸を始めるように、像を浮かび上がらせていく。

三十秒。一分。

図書室の、高い書架。差し込む夕日の、硬質な光の筋。そして、その光と影の境界線に立つ、曖昧な人影。

期待はしていなかった。それでも、現像液の中で像が定着していくその数十秒間、僕は何度も息を詰めた。もしかしたら、ほんの少しでも、彼女の本当の顔が写っているのではないかと。

結果は、予感していた通りだった。

彼女の顔は、分厚い哲学書が落とす影の中に沈んでいて、目も、鼻も、口も、判別できない。ただ、そこに「誰か」がいる、という気配だけが、銀塩の粒子になって焼き付いていた。それはまるで、人の形をした染みか、あるいは心の残像のようだった。

僕はその印画紙を水洗し、乾燥用のワイヤーにクリップで留めた。暗室の壁には、僕が撮った不完全な写真が、少しずつ増えていく。ピントの合っていない音楽室の窓。白飛びした空。そして、影になった少女。意味のあるものなど、何一つ写っていない。ガラクタのコレクション。

その日から、月島響子は、時々学校へ来るようになった。

彼女は教室の窓際の後ろから二番目の席に、風景の一部みたいに座っていた。授業を聞いているのか、窓の外を流れる雲を眺めているのか、誰にも分からなかった。休み時間になっても、誰かと話すことはない。一人で本を読んでいるか、あるいは、ただじっと、そこにいるだけ。

クラスの誰もが、彼女の存在を認識はしていた。しかし、それは道端に咲いている見たことのない花を認識するのに似ていた。ああ、そこにあるな、と思うだけ。名前を覚えようとも、摘み取ろうともしない。彼女は、僕たちの日常というシステムの中に現れた、処理不能なバグのように、ただそこに存在していた。

僕は、彼女と話したかった。

音楽室や図書室のような、世界から隔離された特別な場所ではなく、もっとありふれた場所で。廊下や、階段の踊り場で、購買のパンの味についてとか、次の体育祭は面倒だとか、そんな、どうでもいい、意味のある会話をしてみたかった。

でも、僕にはそれができなかった。教室にいる彼女は、まるで透明な壁に覆われているようで、僕の言葉なんて届く前に霧散してしまうような気がしたからだ。

だから僕は、放課後を待った。

生徒たちの喧騒が潮のように引いていき、校舎が本来の静けさを取り戻す時間。僕は、彼女を探した。彼女がいるのは、いつも日常と非日常の境界線みたいな場所だった。

その日、僕は屋上へ続く階段を上っていた。屋上の扉は、安全管理のために常に施錠されているはずだった。なのに、その日はなぜか、南京錠が外されていた。まるで、誰かが僕を待っているかのように。

錆びた鉄の扉を押し開ける。

ごう、と強い風が吹いた。夏の終わりの、少しだけ湿り気を失った風。空はどこまでも高く、雲はちぎれ絵のように速く流れていく。

彼女は、そこにいた。

フェンスの向こう側、空と街の境界線を、ただじっと見つめていた。風が彼女の髪を激しく揺らす。制服のスカートが、不安そうにひるがえっている。

「危ないよ」

僕は声をかけた。風のせいで、思ったより大きな声になった。

彼女はゆっくりと振り返った。髪が乱れて、その合間から色素の薄い瞳が覗く。

「境界線の上を歩いてみたかっただけ」

「落ちたら、境界線じゃ済まない」

「死ぬことと、消えることは、同じなのかな」

「違うよ。死んだら、そこにいたっていう事実が残る。消えたら、最初からいなかったことになる」

僕の言葉に、彼女は少しだけ意外そうな顔をした。

「あなたは、私が消えたら、悲しい?」

「……さあ。君が、僕にとっての何なのか、まだ分からないから」

正直な言葉だった。彼女は僕にとって、まだ名前のない感情の塊でしかなかった。

「世界の終わりって、どんな感じなんだろうね」

彼女は再び視線を街に戻して、呟いた。

「きっと、とても静かだよ」僕は答える。「風の音しかしなくなる。自分の心臓の音も、ただの風の音に聞こえるくらいに」

「あなたは、それが怖くないの?」

「怖くない。だって、世界が終わるんじゃなくて、僕が終わるだけだから」

風が、僕たちの会話をどこか遠くへ攫っていく。意味なんて、最初からなかったのかもしれない。

僕は、カメラを構えた。

今度こそ、と思った。この、儚くて、危うくて、美しい存在を、はっきりとフィルムに刻みつけたかった。

「月島さん」

僕は、初めて彼女の苗字を呼んだ。

「こっちを向いて」

それは、僕にとっての宣戦布告のようなものだった。曖昧な関係性に、ピントを合わせようとする、無謀な試み。

彼女は、僕の言葉に応えるように、本当にゆっくりと、こちらを向いた。

風に逆らうように、髪を手で押さえる。

その指の隙間から、僕を見つめる瞳が見えた。

今だ。

シャッターに指をかけ、息を詰めた、その瞬間。

それまで彼女の顔を照らしていた太陽が、タイミングを合わせたかのように、流れの速い大きな雲の裏に隠れた。

世界から、ふっと光が失われる。

彼女の顔は、一瞬にして深い影に覆われた。表情も、瞳の色も、すべてが闇に溶けていく。

カシャ。

僕の指は、意思とは関係なくシャッターを切っていた。

そして、撮れたはずの光景は、もうそこにはなかった。太陽は再び雲間から顔を出し、世界は元の明るさを取り戻す。けれど、僕が撮りたかったはずの、あの影の中の彼女は、もう二度と現れない。

彼女は何も言わず、ただ少しだけ悲しそうに微笑んだように見えた。

屋上の縁から校庭を見下ろすと、部活を終えた野球部員たちがぞろぞろと校門へ向かうのが見えた。そのうちの何人かが、こちらを見上げて、何かを話している。

——なあ、あいつ、また一人で屋上にいるぜ。

——写真部だろ。何撮ってんだか。

彼らの声が、風に乗って聞こえてきたような気がした。僕の隣には、月島響子がいるというのに。彼らの目には、この場所に立つ僕しか見えていないのかもしれない。

僕は、カメラを握りしめた。

増えていくのは、不在の証明ばかりだ。

影になった顔。風に隠された表情。ピントの合わない風景。

けれど、その意味のないガラクタの一枚一枚が、彼女と僕が共有した、このどうしようもなく不確かで、どうしようもなく美しい時間の、唯一の証拠だった。

その事実に気づいた時、僕の胸を締め付けた感情に、まだ名前はなかった。


あれだけ執拗に鳴り響いていた蝉の声が、いつの間にか遠のいていた。空は高く澄み渡り、雲は夏のものとは違う、乾いた輪郭を描いている。夕暮れの光は、飽和するような黄金色から、透明な赤色へと変わった。季節は、誰に断るでもなく、その景色を静かに塗り替えていく。

校内は、文化祭の準備で浮ついた熱気に満ちていた。どの教室からも、ペンキの匂いや、段ボールを切る音、そして目的を持った生徒たちの騒がしい声が聞こえてくる。誰もが、来るべき「ハレの日」に向かって、一つの方向を向いている。その熱狂の中で、月島響子の存在は、水面に落としたインクのように、さらに希薄になっていった。彼女はどのグループにも属さず、教室の隅で、まるで他人事のように窓の外を眺めている。その姿は、祭りの風景画に紛れ込んだ、描かれるはずのなかった一点の染みのようだった。

僕のクラスの出し物は、ありきたりなカフェに決まった。そして、クラスでの人間関係の地図において、どの国にも属していない僕は、便利な役割を与えられた。装飾係。具体的には、教室の壁に飾るための「エモい写真」を撮ってくる、という仕事だった。

「なんかさ、みんなが頑張ってるとことか、楽しそうな笑顔とか、そういうの頼むわ」

クラスの中心にいる男子生徒が、軽い調子で僕の肩を叩いた。彼は僕の名前を覚えていないらしく、終始「なあ」とか「お前」とかで僕を呼んだ。

僕は言われるがままに、カメラを構えた。

ファインダーを覗くと、ペンキのついたジャージで笑い合う女子生徒たちや、不器用な手つきで木材を組み立てる男子生徒たちの姿が見える。彼らは僕のレンズに気づくと、決まってVサインをしたり、わざとらしい笑顔を作ったりした。

カシャ。カシャ。

シャッターを切るたびに、ひどい違和感が僕を襲う。

フレームに収められた笑顔は、どれも完璧だった。完璧に「楽しそう」で、完璧に「青春」だった。でも、その完璧さが、ひどく薄っぺらく見えた。それはまるで、テレビドラマのワンシーンを切り取ったかのような、用意された幸福の形だった。

僕は思う。

屋上で風に吹かれていた、影になった彼女の横顔の方が。

図書室の静寂の中、本の背をなぞっていた彼女の指先の方が。

あの、意味の通じない、どこにも着地しない会話の方が、よっぽど真実味を帯びているのではないか、と。

その日の放課後、僕はクラスの喧騒から逃げ出した。ベニヤ板の匂いと、馴れ合いの笑い声に吐き気を催したからだ。行く当てもなく彷徨った末に、僕は特別棟の理科準備室の前に立っていた。扉には鍵がかかっていなかった。

ひやりとした空気が、肌を撫でる。

ホルマリンの、甘く痺れるような独特の匂い。壁一面のガラスケースには、動物の骨格標本や、黄色く変色した液体に浸る生物の標本が、静かに並んでいる。部屋の中央には、内臓がむき出しになった人体模型が、無表情にこちらを見ていた。ここは、生命がその形を保ったまま、時間を止められた場所だ。

彼女は、そこにいた。

フラスコやビーカーが並んだ実験台の前に立ち、ガラスの向こうにある夕焼けを眺めていた。

「ここは、死の匂いがするね」

僕が言うと、彼女は振り返らずに答えた。

「ううん。ここは、忘れられたくないっていう、生命の祈りの匂いがする場所」

彼女は、一つの標本瓶を指さした。中には、小さな蛇が白い体を丸めて沈んでいる。

「この子は、もう森の匂いも、土の感触も、思い出せないのかな」

「思い出せないよ。記憶は、脳の電気信号に過ぎないから。死んだら消える」

「寂しいね」

「でも、こうして形が残ってる。僕たちが、それを見て、勝手に物語を想像する。それがある意味、記憶なのかもしれない」

「お祭りみたいだ」と彼女が言った。

「お祭り?」

「うん。お祭りって、何のためにあるんだろうって考えてた。あれはきっと、偽物の熱を、本物の記憶にするための儀式なんだよ。みんなで同じ夢を見て、本当は意味なんてない一日に、無理やり意味を持たせるの」

文化祭の準備に明け暮れるクラスメイトたちの顔が、脳裏に浮かんだ。彼らが作っている偽物のカフェも、僕が撮っている偽物の笑顔も、すべては「楽しかった」という本物の記憶を作るための、壮大な儀式の一部なのかもしれない。

「写真に写った笑顔は、本物なのかな」僕は尋ねずにはいられなかった。

「あなたが本物だと思えば、本物だよ」

彼女は僕の方を向き、静かに言った。「真実は、いつもレンズのこちら側にしかないから。何を切り取るか、どう憶えておくか。全部、撮る人が決めること」

その時、彼女は少しだけ悲しそうな目をしているように見えた。

「もうすぐ、このお祭りも終わるね」

彼女がぽつりと呟いた。それは、数日後に迫った文化祭のことを指しているようでもあり、僕たちのこの、目的のない、意味のない時間の終わりを、静かに予言しているようでもあった。

心臓のあたりが、冷たくなるのを感じた。

僕は、決めた。

暗室に戻り、クラスメイトたちの笑顔の写真を次々と現像していく。その中に、一枚だけ、別の写真を紛れ込ませた。

屋上で撮った、あの写真。

強い風に髪を乱し、太陽が雲に隠れた瞬間に、その顔が深い影に沈んだ、彼女の写真。

誰が見ても、ただの失敗作だ。ピンボケで、被写体の顔も見えない。でも、僕にとっては、他のどんな完璧な笑顔の写真よりも、これが「真実」だった。

この、誰にも理解されない僕だけの真実を、偽物の熱狂の中に、そっと置いてみたくなった。それは、世界に対する僕の、初めてのささやかな反逆だった。

現像を終えた写真を並べる。

楽しそうな笑顔、笑顔、笑顔、笑顔。

そして、その列の最後に置かれた、一枚の、深い影。

光と影。

意味のあるものと、意味のないもの。

本物と、偽物。

その境界線は、僕の目の前で、ひどく曖昧に揺らめいていた。


文化祭当日の空気は、普段のそれとは全く違う種類の分子で構成されているようだった。興奮と、睡眠不足と、安っぽい高揚感が混じり合った、甘くて少し埃っぽい匂い。廊下を埋め尽くす生徒たちの波は、一つの巨大な生き物みたいに、うねりながら校舎の隅々まで熱を運んでいく。

僕のクラスのカフェは、驚くほど盛況だった。慣れない手つきで紙コップにコーヒーを注ぐクラスメイト。大きな声で客を呼び込む男女。その誰もが、頬を上気させ、楽しそうに忙しく立ち働いている。彼らは、昨日までの退屈な日常から解放された、祭りの住人だった。

僕は、その熱狂の輪から少しだけ離れた場所で、壁を眺めていた。

壁には、僕が撮った写真が、不揃いな大きさで貼り巡らされている。Vサインをする笑顔。ペンキで汚れたジャージ。段ボールの城の前で撮った集合写真。どれもこれも、まばゆいばかりの「青春」を切り取っていた。

そして、その一角に、一枚だけ。

屋上で撮った、彼女の写真が、ひっそりと飾られていた。

深い影に沈んだ顔。風に乱れる髪。その異質さは、しかし、誰の目にも留まらなかった。それは、無数の笑顔の写真に囲まれて、意味を剥奪されていた。まるで、外国語の新聞に紛れ込んだ、たった一つの日本語の見出しのように。誰もがそれを視界に入れながら、認識はしない。僕のささやかな反逆は、誰に気づかれることもなく、喧騒という名の壁紙の一部になっていた。

それでいい、と僕は思った。あれは、誰かに見せるためのものではなかったから。

僕は、カフェの喧騒から逃れるように廊下に出た。そして、あてもなく人混みをかき分けて歩き始めた。月島響子の姿を探していた。この、世界の何もかもが浮足立っている非日常の空間に、彼女はいるのだろうか。

中庭も、体育館も、各クラスの展示も、人でごった返していた。しかし、そのどこにも彼女の姿はなかった。あれほど多くの人間がいるのに、見つからない。いや、違う。きっと彼女は、最初からこの祭りには存在していないのだ。この、意味のある熱狂が渦巻く場所には、彼女のいるスペースなんてない。

僕は、直感していた。

もし、彼女に会えるとしたら。

それは、たった一箇所しかない。

喧騒を背に、僕は特別棟の階段を上った。上へ、上へと向かうにつれて、祭りの音が潮騒のように遠のいていく。三階の廊下は、嘘のように静まり返っていた。まるで、ここだけが祭りの熱から取り残された、真空地帯のようだった。

音楽室の、重い扉。

僕は、一度だけ息を吸って、ゆっくりとそれを開いた。

午後の西日が、床に長い四角形を描いている。空気中の塵が、その光の道筋を可視化していた。部屋は、僕が初めて彼女に会った日と何も変わらない、完璧な静寂に満たされている。

彼女は、そこにいた。

グランドピアノの前に、一人で座っていた。鍵盤には触れず、ただじっと、その黒と白の沈黙を見つめている。

僕の入ってきた音に、彼女はゆっくりと顔を上げた。その色素の薄い瞳が、僕をまっすぐに捉える。まるで、僕がここに来ることを、ずっと前から知っていたかのように。

「お祭りが、終わるね」

僕が言うと、彼女は静かに頷いた。

「うん。偽物の熱は、もうすぐ冷める」

「君は、最初からお祭りに参加していなかったみたいだ」

「ううん」と彼女は、小さく首を振った。「私は、お祭りそのものだったから」

意味が、分からなかった。でも、これ以上尋ねてはいけない、と直感的に思った。

「借りていた名前、もう返したの」

彼女は、ぽつりと言った。

「……月島響子、じゃなくなったのか」

「最初から、そうじゃなかったのかもしれない。あなたがそう呼んだから、ほんの少しの間だけ、そうなっただけ」

彼女の存在の輪郭が、目の前で静かに溶けていくような感覚。僕は、このままでは彼女が本当に消えてしまう、と思った。この、意味のない、しかし僕の世界のすべてだった時間を、永遠に失ってしまう、と。

僕は、無意識にカメラを構えていた。

これが、最後だ。

これが、本当に最後のシャッターチャンスだ。

彼女は、僕の黒いレンズから逃げなかった。初めて、まっすぐに、僕のカメラを見つめていた。

もう、風は吹いていない。

光が、彼女の顔に不自然な影を落とすこともない。

ただ、静かな午後の光の中に、彼女が座っている。

彼女の唇が、わずかに開いた。

何か、言葉を発しようとしている。

さよなら、なのか。

ありがとう、なのか。

あるいは、僕の名前、なのか。

音にはならなかった。

しかし、その「言葉が生まれる直前の形」を、僕は見た。

カシャ。

僕の指が、シャッターを切る。

その瞬間だった。

音楽室の大きな窓から、それまで雲に隠れていた夕日が、暴力的なまでの赤い光を放って、部屋全体に溢れ出した。世界が、白ではなく、赤に塗りつぶされる。僕は思わず目を閉じた。

ほんの数秒。

網膜に焼き付いた残像が消え、僕が再び目を開けた時。

そこには、もう誰もいなかった。

グランドピアノの前に、空っぽの椅子が一つ、ぽつんと置かれているだけ。彼女がそこにいたという痕跡は、何一つ残っていなかった。まるで、最初から、何も。

僕は、一人で立ち尽くしていた。

祭りの終わりを告げる、少し気の抜けたチャイムの音が、遠くで響いていた。

カメラを握る手に、ずしりとした重みを感じる。

この中に、最後のフィルムが残っている。

まだ見ていない、最後の写真。

そこに、彼女は本当に写っているのだろうか。

それとも、写っているのは、ただの空っぽの椅子と、西日だけなのだろうか。

祭りの終わりと、彼女の消失。

その二つが僕の中で静かに重なり合う。胸に空いた穴のような、ひどい喪失感。それと同時に、何かとても大切なものを、確かに受け取ったという、奇妙な充足感が、そこにはあった。


祭りの熱は、まるで幻だったかのように、一夜にして校舎から消え去っていた。廊下には、昨日までの喧騒を消毒するような、冷たいワックスの匂いが漂っている。教室に戻ると、クラスメイトたちは少しだけ気怠そうに、文化祭の思い出を語り合っていた。誰が格好良かったとか、どの出し物が面白かったとか。その、どこまでも健全で、意味のある会話の輪の中に、「月島響子」という名前が上ることは、一度もなかった。

彼女が座っていた窓際の席は、空席に戻っていた。誰も、その不在に気づかない。まるで、文化祭という非日常の熱と共に現れ、熱と共に去っていった、一瞬の蜃気楼のように。僕が壁から剥がした、あの影の写真は、僕の鞄の底で静かに眠っている。僕だけの、小さな祭りの記念品。

その日の放課後、僕はまっすぐに写真部の暗室へ向かった。

鞄から、音楽室で撮った最後のフィルムを取り出す。これまで何度も繰り返してきた作業。しかし、その日の僕の指先は、ひどく慎重で、そして不思議なほど静かだった。リールにフィルムを巻きつけ、現像タンクに収める。時間を計り、決められた手順で液体を注ぎ、攪拌する。

赤いセーフライトの、心もとない光の下。

僕は、最後の印画紙を現像液に浸した。

祈るような気持ちは、なかった。期待も、不安もなかった。ただ、そこに写っているはずの「結果」を、静かに待っていた。

白い紙の上に、ゆっくりと像が浮かび上がってくる。

音楽室の、窓の形。グランドピアノの、黒いシルエット。

そして、その手前に置かれた、一脚の、空っぽの椅子。

やはり、彼女は写っていなかった。

僕は、そうか、と思った。何の感情も動かなかった。僕の網膜にだけ焼き付いた、あの最後の表情。音にならなかった言葉。それらは、フィルムという物質に定着することを拒んだのだ。

印画紙をピンセットで持ち上げようとした、その時だった。

僕は、ある奇妙な点に気づいた。

写真の中の、光。

窓から差し込む強い西日が、空っぽの椅子の上を通り過ぎる、その一点だけ。

まるで、目に見えないレンズがそこにあるかのように、光が、ほんのわずかに、歪んでいる。屈折している。ありえない軌跡を描いて、床の木目に届いている。

それは、彼女の姿ではなかった。

しかし、それは、彼女がそこにいたという、何よりも雄弁な痕跡だった。

彼女という存在が、物質としてではなく、光そのものの記憶として、この一枚の印画紙の上に定着している。

それは、不在の証明などではなかった。

これ以上ないほどの、確かな存在の証明だった。

僕は、その写真を乾燥用のワイヤーに吊るした。

そして、壁に貼られた、ピントの合わない風景や、影になった彼女の写真を、一枚一枚、丁寧に取り外した。もう、これらは必要ない。

暗室を出て、僕は自分のカメラをロッカーの奥にしまった。

もう、写真を撮ることはないだろう、と漠然と思った。

彼女と出会う前の僕は、世界を切り取るためにレンズを覗いていた。意味のあるものを、美しいものを、フレームの中に閉じ込めたかった。

でも、今は違う。

世界は、切り取るまでもなく、そのままで、言葉にならない詩に満ちている。

ピントの合わない風景の中にこそ、風に揺れる木々の葉の、その一枚一枚の輪郭の曖昧さにこそ、真実が隠れていることを、僕は知ってしまったから。

数年の時が流れた。

僕は、あの海辺の町を離れ、都会の大学に通っている。コンクリートの建物がひしめき合う、光の乏しい街。時々、僕は自分が呼吸の仕方を忘れてしまったような錯覚に陥る。

そんなある日の午後、講義をさぼって、屋上に出た。

見上げた空は、故郷のそれとは比べ物にならないくらい、白っぽく濁っていた。それでも、その青の向こう側には、僕が知っている、あの青が続いているような気がした。

あの夏の日々を思い出す。

意味のない会話。噛み合わない言葉。

「昨日の雨の、最後のひとしずく」

「時間は、寂しがり屋の神様が作った」

「私は、お祭りそのものだったから」

あの言葉たちに、論理的な意味はなかった。彼女という存在に、確かな証拠は何一つ残っていない。僕の人生において、あの夏は、物語としてどこにも着地しない、宙吊りのエピソードだ。

しかし、僕は知っている。

あの意味のなさこそが、僕の青春の輪郭そのものだったのだ。

文法的には正しいけれど意味のない会話が。

ピントの合わなかった写真たちが。

光の屈折だけを写した最後の一枚が。

それらが、僕という人間を、静かに、そして確かに形作っていた。

僕はもう、写真を撮らない。

でも、僕の見る世界は、いつもあの古いカメラのファインダーを覗いているかのようだ。街路樹を透ける光の粒子。ショーウィンドウに映る、自分の曖Mいな輪郭。雑踏の音の中にふと訪れる、一瞬の静寂。

そのすべてに、彼女との対話の、遠い響きを聞く。

僕は、白っぽい空に向かって、小さく呟いた。

誰に聞かせるでもない、音にならない言葉。

「君の名前は、」

もちろん、答えはない。

風が、僕の言葉をどこかへ攫っていくだけだ。

それでよかった。

彼女の名前は、もう必要ない。

その答えは、世界を満たす光の中に、風の音の中に、そして、僕がこれから生きていく時間の中の、すべての静寂の中に、もうとっくに響いているのだから。

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