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第16話 彼はまだ気づいていない――その“余白”すら、才能だということを


 


 神界――


 そこは、時間の流れすら緩やかに感じる、静謐なる空間。

 柔らかな光と雲に包まれた「観察の間」で、一人の神が湯飲みを手に、深く息を吐いた。


「……うん、まあ、がんばってるよね、ほんとに」


 目の前のモニターに映っているのは、例の転生者――元・救命士、現・赤ちゃん貴族、リヒト。


 真顔でおむつに魔力を注ぎ、汚れと湿気を一点除去しているその姿は、どう見ても“異常”だった。


 泡をぷしゅーと吹きながら、腹部の温度を一定に保ち、肌への刺激を抑える制御まで入っている。


 対象、オムツ。


「赤ちゃんが……本気の精密魔力操作を……オムツに向けてるの、何回見てもじわるなぁ……」


 神は湯をすする。やや渋めの雲茶。

 ささやかな神々の嗜みである。


 


「けどまあ……この子、ここまでよくやったと思うよ」


 あれからもうすぐ三年。

 転生して、すぐに魔力に気づき、ひとりで訓練を始めて――誰にも悟られないよう、毎日努力を積み重ねてきた。


 毎晩の気絶訓練。

 毎朝の魔力放出。

 気配遮断、魔力皮膜、防音結界。

 すべて“生き延びるため”に、たったひとりで磨いてきたスキルだ。


 そのすべてを――“泡を吹く演技”で隠しながら。


「正直、ここまで隠し通した子、初めて見たよ……?」


 神は苦笑した。


 いや、実際は気づかれてる部分も多かったのだが、本人が“気づかれていないと信じている”からこそ、それはまだ物語になっていなかった。


 


「――もうすぐ、三歳か」


 神はふと、つぶやいた。


 人間界において、三歳という年齢はとくに節目ではない。

 だが、リヒトの生まれた家では違った。


「この家の方針、すごいよね……。三歳になったら、森へ出すんだもん」


 新興貴族。

 伝統はない。だが、誇りと戦力がある。


 だからこそ、家族の方針は極端だ。


 “魔力感知ができなくても、魔物と向き合え”

 “強くなるのに、早すぎるなんてことはない”

 “実戦で生き残る力こそ、家族としての証明だ”


「感知も回避もできない状態で、森に放り込まれる三歳児って……」


 神はつい、肩をすくめる。


「でも、そういう家にこの子が転生したのって、ある意味……運命だったのかもね」


 


 画面の中、リヒトが小さな手で空中をなぞる。

 空間の揺らぎを読み取りながら、微細な魔力の繊維を張っている。


 泡を吹いているのは演技だ。

 正確には、“集中の表れ”としての癖。もはやルーティン。


「……こんなレベルの精密操作、普通は七歳でも無理だよ?」


 神は目を細めた。


 制御速度、魔力の密度、空間構成の安定性――

 どれをとっても、現時点の彼は“逸脱している”。


 だが、それは“自覚なし”のまま積み重ねられている努力の果て。


 だからこそ――


「……気づいてないんだよね、自分がどれだけ“おかしいか”」


 


 神は、もう一度画面を見つめた。

 その奥に、リヒトの体の内側に――微かに“光っている領域”がある。


 未開放の回路。

 未使用の魔力核。

 そして、転生者にだけ与えられた、ほんのわずかな“補助機能”。


 彼はまだそれを知らない。


 その領域が、いずれ彼を“本当に異常な存在”に変えるということを。


「……でもまあ、それも今は伏せとこうか」


 神は静かに微笑んだ。


「本人が“まだまだ弱い”と思ってる間が、一番伸びるからね」


 


 ちょうどそのとき。


 画面の中で、家族の会話が聞こえた。


 


『リヒももうすぐ三歳か……』


 父が、ぽつりとつぶやく。


『兄さんたちも、ちょうどその頃に森へ出たんだっけ?』


『うん。三歳は“森デビュー”の歳。うちの家訓みたいなもんよ』


『自分の力で魔物と向き合う。それが家族としての第一歩、ってな』


 


「……ふふっ、ほんとブレない家族だなぁ」


 神は楽しげに笑う。


 画面の中では、兄姉たちがにこにこと“訓練の思い出”を語り、

 母がぽわぽわと「森のスライムは可愛いから平気です〜」などと言っている。


 対して、リヒトは――


(ついに来たか……この時が……)


 と、布団の中でぷるぷる震えていた。


 泡、ぷしゅー。


「うん、わかるよ。怖いよね。三歳で魔物と対峙とか、理不尽だよね」


 でも、きっと大丈夫だよ。


 君は――誰よりも、準備してきたから。


 


 神は、ふっと目を閉じた。


 


「ただ……それでもまだ、“序章”なんだよね」


 彼が培った魔力操作も、気配遮断も、魔力皮膜も――

 この先、出会う“本物の強者”たちには、まだ届かない。


 だが、それは敗北ではない。


 まだ、“余白”が残されている証拠だ。


 未知の技術。未開の魔術体系。未起動の能力。


 それらすべてが、彼の中には眠っている。


 


「だからこそ、次が楽しみなんだよね」


 神は、そっと湯飲みを置いた。


 画面の奥で、リヒトがつぶやく。


(――森に出るなら、それまでに全部整えておかないと……!)


 泡をぷしゅー。


 


 それは宣言だった。


 慎重で、怖がりで、だけど誰よりも真面目な彼の――


 “戦いの準備”が、ついに本格化する。


 


 ――赤ちゃん時代、完了。


 ――森訓練、開幕。


 


「彼はまだ気づいていない。

 その“余白”すら、才能だということを――」


 


 神は微笑みながら、画面を閉じた。


 


 世界はもう、静かに回り始めている。


 この小さな泡吹き赤ちゃんを、伝説へと導く歯車として――。


以上で1章は終わりとなります。

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