されど時が来れば桜は
「復讐しようよ」
「え?」
まゆちゃんの言葉に、私は思わず聞き返した。まゆちゃんは、いいことを思いついた、とばかりに目を爛々と輝かせている。復讐。なんだか物騒な言葉に胸がざわついた。
小学校も卒業を控えた三月の頭だった。まだ尾を引く寒さに震えながら、私たちは小学校を離れることへの寂しさと、中学校への期待を、桜のつぼみと共に膨らませていた。
「やっとあの先生から解放されるよ」
クラス中でそんな言葉が囁かれ始めたのも、そのくらいの時期だったと思う。ヒステリックな先生とサヨナラできる喜びを分かち合うのが、その頃のクラスでのブームだった。
「復讐ってどういうこと?」
私が聞くと、まゆちゃんは、よくぞ聞いてくれました、とばかりに自慢げに言った。
「文字通りだよ。先生に復讐するの。あの先生のせいで私たちさ、小学校最後の一年間、散々な目に合わされたでしょ。だから仕返しとして、最後の最後に先生にぎゃふんと言わせてやるってこと」
私はちょっと眉をひそめた。それは、どうなんだろう。私だって先生のことは好きじゃないけど、なんだかそれって後味が悪い。
言葉につまった私に、まゆちゃんは、いいでしょ?と期待の籠った眼差しで同意を求めた。私が何も言えず答えを濁していると、まゆちゃんはランドセルの中から百均で売っている花柄の便箋を一枚出して、私に渡した。
「これに、先生の嫌なところを全部書く……か」
家に帰ってベッドに寝転がった私は、貰った便箋を蛍光灯に透かして、ぼんやりと考えていた。水彩で描かれた色とりどりの花が所々にちりばめられた、見れば見るほど綺麗な便箋だった。
クラス全員に便箋を渡し、先生に対して溜まっている鬱憤を書き出してもらい、全員分の手紙を綺麗に包装した後、卒業式の日に花束と共に感謝の手紙のフリをして渡す……。それがまゆちゃんの立てた計画だった。
「名前は書かないでね。あと、筆跡も変えて。誰が誰か分からないようにするから」
まゆちゃんの言葉を思い出す。便箋を透かし、上にあげていた右手を下ろし、そのまま右腕で視界を覆った。暗くなった世界で私はため息をついた。
鬱憤なら溜まっている。先生に対する不満なんて山ほどある。小学校最後の一年間、どうしてくれんだ、と何度も思った。一ヶ月後から、あの耳に刺さるようなヒステリックな声に怯えなくていい生活が始まると思うと、ほっとする。
だけど、手紙を書く気にはどうしてもなれなかった。なぜか、一度だけ見た先生の泣き顔を思い出して、それがどうしても頭から離れてくれなくて、重い体はベッドから動いてくれなかった。
「やめようよ、これ」
翌朝、意を決して発した私の言葉を聞くと、まゆちゃんは意味がわからない、というようにぽかんとした表情になった。私がそんなことを言うとは、まるで予想していなかったようだ。
「え……。なんで?」
「……こんなの、ずるいよ。卑怯だと思う」
まゆちゃんは口を閉じて、目を伏せた。それはなんだか、悲しそうな顔に見えた。思っていた反応と違い、私はなにか、取り返しのつかないことをしてしまったのでは無いかと、その時思った。
「急に、そんな。良い子ちゃんぶらないでよ……」
怒っている、訳では無いようだった。揺れる声は、長年の友人に裏切られたような、そんな戸惑いが滲んでいた。
もしかしたら、良い子ちゃん、ぶってるのかもしれない。でも、どうしたって書けなかった。
「だって、そんなのずるいよ。自分だって分からないようにするなんてさ」
「でも紗奈だって先生、好きじゃないでしょ?先生の嫌なところ、いっぱいあるでしょ?」
「それとこれとは違うよ……」
「先生を庇うっていうこと?」
「……そういうんじゃなくて」
まゆちゃんは泣きそうな顔をしていた。ショックを受け、私に失望していた。私もきっと同じような顔をしていたと思う。目の前にいる女の子を、私はなんでも分かっていたはずなのに。私たちの間に入った亀裂は、生まれてこの方私がだらりと溶けて馴染んでいた世界にまでヒビを作り、今まで見えなかった私自身の輪郭というものを嫌という程見せつけた。
「味方だと思ってたのに。……そういうの、ウザいよ」
味方だと思ってたのに。当時やっていたドラマか何かで聞いたようなセリフだった。まゆちゃんの言葉は乾いていて、鋭くて、私の輪郭と擦れて、痛かったけど頭を上げて目の前の彼女の顔を見ると、その言葉は精一杯意地を貼った強がりのようにも思えた。
結局どれくらいの人数が手紙に協力したのかは分からない。私以外全員かもしれないし、案外少数に留まったのかもしれない。
「これ、皆で書いたんです。家に帰ってから、開けて読んでください」
そう言って、しっかりと包装された手紙の束をまゆちゃんが花束と共に手渡すと、先生はありがとう、と鼻声で言って受け取った。涙は流していなかったけど、先生の目は赤くなっていた。貰った花束を抱えて、震える声でしきりに感謝の言葉を繰り返す姿に、おのずと教室の後ろにいる保護者から拍手が起こり、いつの間にかそれは子供たちにも伝染した。拍手に包まれる教室で、私はただ、俯いていた。分からなかった。嬉しそうな先生を見て、笑っていられるまゆちゃんが、私は分からなかった。分からなくて、痛くて、ムカついた。
***
私は高校の制服を着て、卒業式が終わった後の、あの日の教室にいた。本当にあの日のものかどうかは分からないけど、直感的に、あの時の教室だ、と思った。俯くと、胸で足下が隠れて見えなかった。私の身体だった。教室には、私ともう一人しかいなかった。もう一人は、席に座って、俯いていた。小さい背中だった。
その子が不意に振り返った。その子は、私だった。見た目で分かった訳では無いと思う。顔はよく見えなかったけれど、とても自然に、私なんだなと思った。
私の世界に影が差し始めたのはいつなんだろう。何をするにも明瞭だった視界は、いつの間にか薄暗い影で覆われ、私の動きを阻むようになっていた。小学校の卒業式での一件。中学校で成績が落ちたこと。部活で結局最後まで結果を残せなかったこと。高校受験で第一志望に落ちたこと。決定的なトラウマは何も無いけれど、私の人生はいつからか、ずっと緩やかに下降している。
窓の外では桜が咲いていた。卒業式の時に桜なんて咲いていただろうか。分からない。ただ、淡い、優しい色が世界に広がっていた。窓からの光が教室の薄汚れた床に、四角い模様の影を作っていた。あまりにも綺麗で、幻想的で、過去だった。現実と切り離された、私の醜くて美しい思い出だった。
幼い私が、じっと私を見つめている。怒っているのだろうか。情けなくなった私に。
あの時ヒビが入って見えた私の輪郭は、あれからどんどん濃くなって、鋭くなって、世界が私から離れていくように感じた。それが嫌で、いつからか、私と擦れ合う世界の全てのことを、そんなもんなんだな、と思うようにした。世界がそんなもんなら、私だってそんなもんなんだろう。そうしたら、卒業式のあの日のことも、なんだかそんなもんだな、と許せるような気がした。
風が吹いて、桜の花びらが大量に教室に入ってきた。薄い桃色で私の視界が埋まる。いや、さすがにこの量はおかしいだろう、とやけに生臭い思考がじわりと浸透したと思うと、世界がぼやけて、目が覚めた。
ベッドの上のうさぎのぬいぐるみと目が合う。紗奈ちゃんの部屋だ。外は明るいけれど、時刻はまだ五時をすぎた頃だった。私は伸びをする。この小さい身体にもいい加減慣れてきた。なにか夢を見ていたような気がするけれど、この一瞬で一気に記憶から抜け落ちてしまったようだ。何も思い出せない。夢の残滓だろうか、ふと視界に薄い桃色がよぎったような気がして、ぶるんと頭を振った。二度寝をする気にもならず、私はハンガーにかけてある小学校の制服を手に取った。
***
夕食後、部屋で宿題を進めていると、玄関の方でチャイムが鳴り、その後とんとん、と扉をノックする音が聞こえた。はいどうぞ?と疑問符をつけて返事をすると、扉を開けて入ってきたのは高校の制服を着た紗奈ちゃんだった。
近頃、こういうことが多い。私たちが野々村宅でお泊まりをしてから、紗奈ちゃんのお母さんもお隣の女子高生に深く信頼を置き始めたようで、私たちは以前に比べ、お互いの家を頻繁に出入りするようになった。
紗奈ちゃんは、お邪魔します、と律儀に礼をして部屋に入ってきた。元々は紗奈ちゃんの部屋なんだけどな……。むしろ邪魔してるのはこっちかも。
「今、大丈夫ですか」
「うん、大丈夫だよ。なにか?」
「いえ、大したことでは無いのですが」
紗奈ちゃんは持っていたスマートフォンを掲げ、私の方に画面を見せた。表示されているのは誰かとのメッセージ履歴だ。
「茜から連絡が来ました。明日の午後遊びに行かないかって。オッケーでしょうか」
明日は学校が半日で終わる。夏休みも近づく今日この頃、ちょうど暇を持て余していた所だった。誘いを承諾する旨を紗奈ちゃんに伝え、それからこのまま一緒に部屋でゲームでもするかと誘うと、紗奈ちゃんはこちらが心配になるほど熟考した後、若干涙の交じった声で
「テスト勉強があるので」
と断って部屋から去っていった。
考えてみれば高校は今、期末テストの期間だ。本来私が受けるべき苦行を小六女児に強いている上に、あまりにも気遣いの足りない誘いをしてしまった。テスト勉強なんてしなくていいのよ、と伝えてはいるけれど、紗奈ちゃんはやっぱり果敢に高三のテストに食らいついているようだ。さすがに申し訳ないので、後でお菓子でも差し入れに行こうか。
しかし、とさっきの会話の本題を思い出して首を捻る。茜から誘うなんて珍しい。なにか特別な催しでもあっただろうかと記憶を探っていると、スマホがメッセージの着信を知らせた。
『一時に校門前に自転車で集合。それから自転車で近くのショッピングモールまで行くそうです』
楽しんできてください、と追加でメッセージが送られてきた。オッケーサインを作っているハリネズミのスタンプとともに勉強頑張ってね、と打って返信しようとして、あまりにも他人事な文面に自分でも腹が立ったので、やっぱりスタンプのみにした。
***
テスト最終科目を無事乗り越えて、校舎全体が軽くなったようなお昼の時間。社会科教室は、四階の隅の突き当たり、校舎の最も奥まった場所に位置していた。ノックをする前に、首元の汗をハンカチで拭う。窓ガラスには、何かのコンクールのチラシが数枚貼ってあった。
お姉さんは社会科係だそうで。先生に、ノートを教室に運ぶ手伝いという名目で社会科教室まで呼び出されたけれど、正直、わたしは気が進まなかった。
躊躇いを打ち消すように唇を噛んで扉を二回叩く。程なくして、社会科教師は扉から顔を出した。
「ああ、野々村。暑い中悪いな」
「いえ、別に」
短い黒髪をワックスでツヤツヤに固めた、先生って言うより、なんだか大学生っぽい見た目の人。あと、ノリが軽くてちょっと苦手な人。そして、お姉さんの噂の、相手の人。
お姉さんが噂は嘘だって言っていたから、本当に何も無いのだろうけど、それでもこうして向かい合っていると居心地が悪い。へらへらした顔を見ると、あなたのせいでお姉さんが!!と叫びたくなる。
先生は部屋の中から積み上げたノートを抱えて、出てきた。ノートをどさっと教室の前の机に置くと、
「じゃあ、これ、教室まで頼む」
半分をわたしの腕にゆっくりと移し、そうしてもう半分は先生自身が抱えた。ノートを抱えたわたし達は、並んで教室まで歩き始めた。半分の量のノートは思っていたよりかさばらず、予想していたよりずっと軽かった。これなら二人で分けなくとも、一人で全部教室まで持って行けるんじゃないのかな。
「野々村、最近どうだ?」
段差に気をつけて階段を下っていると、不意に先生が聞いた。
「え?」
「ああ、いや、野々村、ちょっと前、長いこと休んでたからさ。その、最近は体調とかどうだ?」
「体調なら、大丈夫です」
「その、悩みとかも……」
「悩み?いえ、大丈夫です」
先生は、それなら良かった、と言って頷いた。
階段を下り終えて、わたしの教室がある、二階に着いた。かすかに上がった息を整える。先生は思い出したかのように、言葉を続けた。
「最近は暑いから、熱中症とかにも気をつけろよ」
「はい、気をつけます」
そう、確かに最近はすごく暑い。数日振り続けた雨が止み、それから一気にぐんと気温が上がった。外にいるだけで閉じ込められたように、熱が身体を圧迫してくる。
じわりと身体中を湿らす汗が気持ち悪い。本当は首だけでなく、素っ裸になって全身をタオルで拭きたい。シャワーを浴びたい。
クーラーの効いた教室に着くと、外とはまるで空気の質が異なるようだった。熱された身体にすっと冷風が染み込む。教壇の横の机に運んだノートを置いた。
「ありがとう、野々村」
そう言った先生に軽く頭を下げ、自分の席に戻ろうと踵を返した、その時。
「七海の彼氏じゃん」
冗談まじりに、ぼそっと誰かが言った。声のした方向を見ると、入口近くにたむろしているスカートの短い女の子たちがわたしと先生をちらちら見てにやにやしていた。きっとさっきの声は先生のいる位置には届いていない。届かないくらいの大きさで言ったんだ。
その言葉は、思ったよりもわたしの神経を逆撫でしたみたいだった。怒りで全身が熱くなる。一瞬でドスの効いた赤色に染まった感情が体の中でふつふつと煮えたぎる。お姉さんならこんな時、きっと何も感じないかのように振る舞うんだろう。でも、わたしはそんなこと出来ない。お姉さんにとってはどうでもいいことでも、わたしにとっては何よりも、許し難いことだった。
わたしの剥き出しの怒りが理性をなぎ倒し、お姉さんの体の主導権を握る。気づいたら身体が動いていた。歯止めはもう聞かなかった。聞かせようとも思わなかった。
彼女の方へ、足を踏み出し……あ、やばいと思った。足首に鉄のような硬い感触が触れて、ぐぎっと圧迫される。これ、机の足だ、と分かった時には、わたしの世界は現在進行形で斜めに傾いていた。
ああ、わたしのバカ。最近気づいたけれど、わたしは多分どうしようもないほどドジだ。こんな時に机に足をひっかけてコケるなんて。
床に激突するかと思った視界は、しかし意外に予想を外れ、横の男子生徒の机へと接近。まずいと思った瞬間、わたしの右頬に、机の角がごん、と。抉られたような衝撃が右頬を中心に広がっていった。
***
小学校に通い始めて思い出したことの一つ。毎日掃除があること。高校では放課後の当番制で、学期に一回ほどしか回ってこなかったけれど、私の通っていた小学校では、毎日昼休み終了後の二十分間は、全員で掃除の時間なのだった。その間に流れるクラシックは、私が通っていた頃と変わっていないようだ。スピーカーから流れる時々静かで、時々壮大な音楽が"魔法使いの弟子"というタイトルであることを、私はこの学校を卒業してから知った。
魔法使いに水汲みを頼まれたその弟子が、楽をするため、ほうきに魔法をかけて、頼まれた水汲みを自分の代わりにほうきにやってもらう……が、結局ほうきを止める魔法をかけることが出来ず、部屋が水浸しになってしまう、なんて話が元になって、できた曲らしい。それを掃除の時間に流すのは、しっかり自分の力で掃除をしようね、というメッセージなのだろうか。
階段を一段ずつ降りて、ホコリやゴミをほうきで落としていく。踊り場まで着くと、額に浮かんだ汗を腕で拭って一息ついた。夏休みも近づいてきたこの頃、もう言い逃れできないほど、季節は夏だった。数日前から、通学路の緑地公園でもセミが鳴き始め、今年もちゃんと季節が巡ってきたことを実感する。身体は例年と違っていても、世界は真っ直ぐ動いているのだ。
「紗奈ちゃん。ちりとりいる?」
ちりとりを手に持って階段を下りてきたのは、例の後ろの席の女子だった。席が近い彼女とは、掃除当番も同じ班だった。ポニーテールに結んだ髪に、今日は水玉のうさ耳リボンをつけている。毎日毎日凝った髪型をしていて、ちょっと尊敬してしまう。ヘアアクセ何個持ってるんだろう?
「うん、ありがとう」
そう言ってちりとりを受け取り、床に置いて、集めたごみを、ほうきを駆使してちりとりの中に入れようとする、がどうも上手くいかない。ちりとりとほうきのサイズが合っていないのだ。
「小ぼうき使う?」
手のひらサイズの小ぼうきを渡される。その場にしゃがんで使ってみるとなかなかこれは使い勝手がいい。ちりとりにジャストなサイズ感だ。ちりとりの前に跪いて、私はごみを片付け始めた。
「ねえ、あのさ」
後ろの席の彼女が、壁にもたれてしゃがむ私を見下ろしていた。
「紗奈ちゃんってさ、黛さんとよく一緒にいるよね」
「え?……ああ、うん、そうかも」
気の強そうな大きな目を、一瞬伏せて、迷ったように唇を何回か開けて、閉じて、そして開けた。
「でもさぁ、黛さんってさ……、正直何考えてるか分かんなくない……?話しかけてもあんまし返してくれない……よ、ね……」
ディミヌエンドをかけたように、声はどんどんしぼんでいった。言葉尻を濁して、こちらの同意を待っている。
ちりとりの中にごみを集め終わって、立ち上がる。目の前の彼女の顔を見ると、自信なさげに私から目を逸らしていた。時々ちらりと私を見て、様子を伺っている。ここで、「わかる~っ」と言ったらどうなるんだろう、と思う。遊びにでも誘われるのだろうか。
「……そう、かなぁ」
私の出した声は、思っていたより掠れていた。彼女は目を逸らしたまま、焦ったように口をもごもごさせる。
「あ……、えっと、その」
「その、話してみたら、意外とこう、ああいう子も面白い、かも。……みたいな……」
今度はこっちの声が萎む番だ。取り繕うように慌てて重ねた言葉は、我ながら情けないほど日和っていた。けれど、彼女の顔は少しほっとしたように緩んだ。
「そっか。うん、……そうかも」
掃除の時間の終わりを知らせるチャイムが鳴った。周りの子は、がやがやと掃除用具を片付け始める。
「じゃあ、私、先教室戻ってるね。あ、ちりとりは教室の掃除用具入れに入ってたやつだから、そこに戻しといて」
そう言って階段を駆け上がって行った彼女が、角を曲がって見えなくなってから、私はふう、とため息をついて、新たに湧き出た額の汗を拭った。
早く教室に戻って涼もう。
***
一旦家に戻って洋服に着替えてから、紗奈ちゃんの自転車を借りて待ち合わせ場所に向かった。紗奈ちゃんの持っている服は、全体的にスカートが多く、ややロリータっぽさがある。これが良く似合うのだ。けれど今日は自転車に乗るので、チェックのキュロットを、リボンの着いたブラウスと合わせて家を出た。
自転車に乗るなんて久しぶりのことだった。小さい頃は姉のお下がりである、プリンセスのイラストが描いてある自転車を使っていたが、それのサイズが合わなくなってからは自分の自転車は持っていない。紗奈ちゃんから借りた紫色の自転車を漕いでいると、存外スピードが出て、進みながらもちょっと怖じけずいた。
ちょうど太陽が真上に登っていく時刻だった。カッとした直射日光のもとでは、立ち漕ぎをしても、風を切るような爽快感は無い。汗の滲む額を片手で拭うと自転車のバランスがよろっと崩れかけ、ちょっとビビった。滑るように商店街を抜け、居酒屋の横を過ぎて、校門前に向かう。居酒屋の店先に咲いた紫陽花は、焼けつくような日差しを浴びてちょっと色あせていた。彩度が低くなった花弁を見て、どこか切なくなる。紫陽花はやはり、雨の中だからこそ鮮やかに映えるものだ。
緑地公園のセミの合唱を抜けて校門前に着くと、茜は既に到着していたようで、生い茂っているサクラの葉が作ったまだら模様の影の中で、止めた自転車のサドルに腰かけて文庫本を読んでいた。約束の時間より十分も前だけれど……。
「ごめん、待った?」
私が声をかけると茜が顔を上げ、サドルから降りて持っていた本を掲げた。本の名前は……"雪国"?今は夏なんだけどね。
「大丈夫。私が早かっただけだから」
茜は自転車のカゴに入っているトートバッグに、無造作に文庫本を入れ、
「じゃ、行こうか」
自転車を止めていたストッパーを蹴って、サドルに跨った。
先に茜が、続いて私が走り出した。
最初の方は住宅街の中を、そして大きな川に架かる、傾斜の急な橋を渡って、それから緑に波打つ田んぼの横を過ぎると、十五分ほどでショッピングモールに着いた。この地域では最も規模の大きい商業施設だが、田んぼに囲まれた場所に位置している辺り、やっぱりここは田舎なんだろう。私は経験したことが無いけれど、ここらへんの小中学生の定番デートスポットと言えば、まあここである。むしろここ以外に行くところがないのだ。
ショッピングモールの冷気で熱の溜まった身体をひとしきり冷やしたあと、フードコートでドリンクを買って飲んだ。茜は抹茶ラテを、私はキャラメルラテを頼んだ。しつこいくらいの甘ったるさが疲れた体にちょうど良かった。
映画でも観ようかと茜を誘ったが、茜はお金をそんなに持ってないから、という理由でやんわりと断った。それもそうだな、と思う。考えてみれば私も小学生の頃は大したお小遣いを貰っていなかった。思いつきで映画を観られるようになったのはいつからだろうか。
しかし案外、洋服やアクセサリーを物色するだけでも楽しいものだった。何でもかんでもほいほいと買えてしまうと、かえって価値が下がるのかもしれない。
プチプラのアクセサリーショップで、宝石のようなビーズをふんだんにあしらったリボンの形のヘアピンが目に付いた。値段の割に安っぽさを感じさせないデザインで買おうか迷ったが、横に置いてある鏡に映った自分をちらりと見てやっぱりやめた。照明が上手い具合に当たった綺麗なその鏡に映っている小学生の少女には、この派手なヘアアクセは似合わないと思ったのだ。このヘアピンは、最近は触れることの少なかった、野々村七海に似合う、野々村七海の趣味のものだった。きっと人形のような顔立ちの紗奈ちゃんには、もっとシックなデザインの方が似合うだろう。
私の代わりにテストを頑張ってくれている紗奈ちゃんへお土産でも買おうかと思い、迷った末にいつか白いリボンのヘアアクセを喜んでくれたことを思い出して、レース生地でできたリボンのヘアアクセを買った。紗奈ちゃんの好みと、野々村七海の顔面の中間地点を選んだつもりだ。それにしても自分にあげるなんておかしな気分だ。
私がレジを済ませると、茜はまだ迷っているみたいで、カチューシャを前にして腕組みをしていたので、私はアクセサリーショップの前にあるソファーで休憩することにした。オレンジ色のソファーに腰を下ろし、背もたれに体重を預ける。目線をあげると、吹き抜けから上の階がよく見えた。平日なのもあって、人はそんなに多くなかった。一つ上の階のゲームセンターから、同い年ぐらいの男の子数名が出てくるのが見えた。彼らも私たちと同じクチだろうか。
小学生の時、まゆちゃんと呼んでいた友達と、このショッピングモールに来たことを思い出す。その時はバスを使ったんだった。私が親以外とバスに乗ったのはたしかその時が初めてだ。ショッピングモールでその子と何をしたのかはよく思い出せない。雀の涙ほどのお小遣いで私は何を買ったんだろう。ただ、友達が隣にいるショッピングモールなんて新鮮で、あの時一気に大人になったような気がした、ような気がする。多分。
アクセサリーショップを見ると、会計を済ませた茜が、店名が書かれた小さい紙袋を手にこちらに向かっていた。茜は、おまたせ、と言って私の隣に腰掛けた。
「何買ったの?」
私が聞くと、茜はその質問には答えず、紙袋の中から手のひらサイズに包装された包みを取り出して、私に手渡した。
「これ、あげる」
どういうこと?と聞いても答えてくれない。ただ、私に包みを開けることを促すのみだ。わざわざ店員に包装までしてもらってなんだろう、と思いながらも言われた通りに開けると、中には私がさっき買おうとして断念した、ヘアピンが入っていた。
「それ、プレゼント」
茜がヘアピンを指さして言った。
「気になってそうだったから」
「え……。な、なんで突然?そんな、悪いよ」
茜は不思議そうに首を傾げた。
「誕生日プレゼントだよ。私の時にもらったし」
「誕生日……」
「うん。近いでしょう。七月二十日、だったよね」
「そう……、んです」
そうなんだ、と言いそうになって咄嗟に舌を噛んだ。
「私、当日は旅行に行く予定だから。だから、今日」
「……そっか」
ありがとう、と小さく返す。
紗奈ちゃんの、十二歳の誕生日。考えると胸が締め付けられた。プレゼントは、本来は私が受け取るものでは無いのに。ありがとう、なんて我が物顔で言っちゃって。そうか、と気づく。当日もきっと、祝ってもらうのは私なんだ。おめでとうと言ってもらうのも。ケーキを食べるのも。
無言になった私を茜が不思議そうに見ているのに気がついて、貰ったヘアピンを顔の前で見せるようにして、ありがとう、ともう一度言ってから、私は露骨に話を逸らした。
「旅行、家族で行くの?」
「うん。パパと、ママと、お姉ちゃんと。グアムに」
「お姉ちゃん、いるんだ」
「うん、六つ上の」
私と同い年だな、と思った。茜と小学校が同じなら同級生だろうか。記憶を遡ろうとしたけれど、かつての同級生の記憶はもう大分ぼやけてしまっていた。
それから程なくして、私たちはショッピングモールを出て、帰路に着いた。もう少し長く居ても良かったけれど、もうあまりすることも無いということで、意見が一致した。
茜の後を追って自転車を漕ぐ。行きとは違う道を通っているようだ。私は来たことの無い道だった。スピードを出すと、頬にぬるい風を感じる。気温は少し下がったように思うが、空の色はまだ変わる気配がない。優しい色をした青空に、絵の具で書いたような雲が薄く広がっていた。入道雲なんかができるのはもう少し先だろう。
車通りの多い道を抜けると、団地が並ぶ、少しばかり古びた所に出た。不意に子供のはしゃぐ声が聞こえ、何かと思うと、道路の右手には公園があった。定番の遊具は揃っているようで、低学年らしき男の子数人が遊んでいる。こんな所があったのかと通り過ぎたようとして、パンダを模したスプリング遊具が目に入った時、思わず足を着いて自転車を止めた。
公園の前で止まった私に気づいた茜が、自転車から降りてUターンし、こちらに戻ってきた。
「何かあった?」
「あ……。いや、なんか」
ここ、一度来たことがあるような。そう言うと、茜は公園の中の時計を見て、
「時間あるし、ちょっと遊んでいく?」
「え?」
「私の家、すぐそこだから。解散するには時間早いし」
茜が曲がり角の先を指さして言った。あそこを曲がった先に茜の家があるということか。
「それか、私の家来る?」
「あ、いや、公園で、遊んでみたい、かも」
私たちは公園の入口近くに自転車を止めた。公園に入り、誰も乗っていないパンダのスプリング遊具を撫でて、私はなんとなく記憶が蘇るのを感じた。
まゆちゃんと来たところだ。
パンダの背に乗ってみると、私の体重のかかったバネが、思いのほかぐりんと曲がり、落っこちそうになったので、慌ててパンダの頭から生えた持ち手にしがみついて、身体を縮こませる。
一瞬身体を前後に振ってみると、バネが根元から動いてパンダがメトロノームのように揺れた。楽しいような気もするけれど、酔いそうな気配を感じて、早急に降りた。
茜を探すと、公園の隅にあるブランコを立ちこぎしていた。足を曲げるタイミングが上手いのか、鎖は大きい角度を描いている。隣で二人こぎをしていた男の子が茜に尊敬の眼差しを向けていた。数分続けた後、ブランコが前方に浮かんだタイミングで茜は鎖から手を離して、空中を飛んだ。心配させる暇を与えないほど華麗にジャンプした茜は無事私の前に堂々と着地し、何事も無かったかのように私に向き直った。
「紗奈ってさ、」
「茜ちゃん、またそんなことやってんの!?危ないでしょ、やめなさい」
茜の声を遮るかのように、通る声がその場に響いた。驚いて声の主を探すと、公園の入口の方から制服を着た女子高生がこちらに走ってきていた。胸元の濃い赤色のリボンはこの地域では有名な進学校のものだ。
くせっ毛の黒髪をひとつに結んで、サイドに出たおくれ毛がゆるりとウェーブしている。薄くメイクをしているようだが、派手なタイプでは無い。スクールバッグを背中に背負って、右手に手持ち扇風機を持っていた。
「お姉ちゃん……」
「お姉ちゃん……?」
茜の呟いた声についオウム返しをしてしまう。あの女子高生が、茜の姉?
駆け寄った女子高生が、ぺしっと茜の頭をはたいた。
「こら、危ないことしないの。やめなさいって前も言ったでしょう。……で、こちらの子は、茜の友達?」
女子高生が、私の方を見て尋ねる。私は、なぜか早くなる心臓の音を聞きながら、自己紹介をしようとして、粘ついた喉が上手く動かないことに気づいた。目の前の女子高生と目が合うたびに、受け入れ難い違和感が襲ってくるようだ。
「そう、私の友達。角谷紗奈」
茜が代わりにした私の紹介を聞いて、女子高生は、ふうん、と呟き、少し屈んで私に目線を合わせた。
「茜の姉の黛友香です。どうも、茜がいつもお世話になってます」
名前を聞いた瞬間、ぼやけていた記憶がすっと鮮明になった。時間が折れ曲がったように、過去と現在が一瞬触れ、公園に春の匂いを残した。目の前の彼女を、私は今まで何回も思い出してきた。既に私の中の一部として過去に溶けた存在なのに、私の知らない人生を背負って、彼女は目の前に居る。背が高くなって、顔が大人びて、声が少し低くなったけど、彼女は、
「まゆ、ちゃん……」
記憶がすっと蘇る。まゆちゃんの"まゆ"は名前じゃない。名字から取ったものだった。確か一年生のころ、同名のクラスメイトがいて、ややこしくなるからって、それで。
「まゆちゃん……?」
怪訝そうに眉をひそめ、女子高生が尋ねた。
「そのあだ名、誰から聞いたの?」
「……」
答えに窮する私に、彼女はハッと我に返って誤魔化すように笑った。
「ああ、ごめん。昔仲良かった子が私の事そう呼んでて、それで」
「仲良かった、子」
「うん、友達だったんだけどね。中学校が別々になっちゃって、それがきっかけで疎遠になってね」
「え……」
じゃあ先帰ってるから、と茜に言って身を翻した彼女の手を、思わず掴んでいた。
「あの、」
びっくりしたように振り返った彼女を見て、ちょっと後悔する。けれど止めるすべもなく言葉は私の口から溢れ出した。
「中学校が別々になったのが、きっかけって、本当なの。本当にそうなの。もっと別の何かがあったんじゃないの。六年生の時に何か、なにか……」
言葉を吐き出す私を、彼女はぽかんとした顔で見ていた。それから、戸惑いを隠せない様子でゆっくりと答えた。
「……えっと、どうだろう。何も無かった、と思うけど。六年生……?うん、何も。……あ、六年生といえば、」
思い出したように茜の方を向いて尋ねた。
「神野先生って今小学校にいる?」
心臓がどくんと跳ねた。
「神野先生……?いや、いないと思う」
当たり前だ、と私は心の中で呟く。名字が変わってるんだもの。
「神野先生っていう人がどうかしたの?」
茜の問いに、彼女は苦笑を漏らした。
「いーや、何も。ちょっと懐かしいなと思っただけ」
懐かしい。それを聞いて、記憶の中の彼女が私の中から一気に離れていくような感覚がした。
私は掴んでいた彼女の手をゆっくりと力を抜いて離した。すみません、と笑顔を作って言うと、彼女も困ったように笑った。
「じゃあ、茜と仲良くしてやってね。紗奈ちゃん……だっけ」
「はい」
「じゃあね」
彼女は手を振って、茜の家の方へ去っていった。彼女のいた所には、化粧品のような、香水のような、少なくとも小学校ではほとんど嗅ぐことの無い大人の匂いが微かに残っていた。
「そろそろ帰る?」
茜の言葉に頷き、私たちは公園を出た。
茜の家はやっぱり見たことのある一戸建てだった。かつて訪れた時はまだ赤子だった茜は、いつの間にかあの時の私たちより大きくなったのか。
「道、分かる?」
「うん、ここからなら」
緑地公園の入口が見えていた。あそこを通ればそのうちきっと知っている道にたどり着くだろう。
「ねえ、紗奈」
「うん?」
「紗奈ってさ、ほんとに紗奈?」
全てを見透かしたように、軽い口調で茜は言った。身体の底がキン、と冷えたような感覚がした。不意に、目の前の少女が見も知らぬ他人であるかのように思えてくる。
「私、別人っぽかった……?」
「一か月前くらいから。違う?」
言葉につまる。今まで自分を覆っていたメッキがこの一瞬で剥がれ落ちてしまったかのように、私はどう振る舞えばいいのか分からなくなった。別に今まで演技をしてきたわけでもないのに。
「……その、それは」
「でも、完全に変わったって感じでは無いかな。似てる部分はあった」
「……似てる?」
茜はなぜか嬉しそうに軽く口角を上げた。茜の笑う顔なんてほとんど見た事が無かったのに。
「紗奈さ、今日の掃除の時に私の悪口言わないでいてくれたでしょ。そういうとことか」
「……聞いてたの」
「うん、廊下掃除だったから」
「……そっか」
迷った末に、私はでも、と言葉を続けた。
「でも、紗奈ちゃんなら、もっとキレたと思う」
茜は数秒ほど何も言わず、私を見つめていた。何かを言おうとして口を開け、何も発さず閉じてを繰り返した後、拾い集めた言葉を組み立て終えたように納得した表情で、
「私もそう思う」
と静かに言った。
それから私は茜と別れ、微かに熱を持った西の空に向かって自転車を漕ぎ出した。最後に茜に、グアム楽しんで、と言うと、お土産を買うことを約束してくれた。
人のいない緑地公園を、立ち漕ぎをして進む。私の中に微かにこびり付く春の残り香を打ち消すように強くペダルを蹴った。途端、スピードが出る。周りの景色が瞬く間に後方に飛び、木の隙間から校舎の上部の時計がちらりと見えた。
生暖かい風は、走れども走れども体にまとわりついて離れない。頭がじわりと熱くなる。喉にせり上がってくる何かを必死に飲み込んだ。溢れそうな感情を、何か言葉にしたくてたまらない。
校舎が目の前に迫ってくる。覚えている。あの子と何度も通った道。放課後遊ぶ時はいつもここで待ち合わせしたんだ。黒い鉄の校門が姿を現す。卒業式の日に立てられていた立て看板を思い出して、一瞬、桜に囲まれたような錯覚を覚える。瑞々しい苦さが、春の残滓が、私を包む。
でも、と私はペダルをぐいと押す。左手に見えていた校舎を追い越して、後ろに消える校門に目もくれず、私は走り続けた。桜は瞬く間に散って、緑に生茂る景色から蝉の声が聞こえる。私の肺に入ってくるのは夏の空気だ。
もう、さよならだ。あの春の日とはさよならなんだ。楽しかった。絶対楽しかった。多分、じゃない。あの子と過ごした時間は楽しかった。
でも、私は。
未だ胸の中で燻っている春を、捨てる。
「許せないなあ」
呟いた声が、風に紛れて、それでも私の耳に届いた。
許せなかったんだ。卒業式のあの日のことを。世界との齟齬が痛かったときのことを思い出す。でも、それで良かったんだ。世の中そんなもん、なんかじゃない。
「許せない」
もう一度呟いた。あの日からずっと、形にすることを避けていた感情だった。でもきっと、許せないことはちゃんと許せないで良かったんだ。叫びも、殴りもしないけど、許せないことは許せなくたっていいんだ。私は私以外の人間になんてなれないんだから。
***
「ほんとに大丈夫?」
皆の心配する声に軽く頷きながら、教室を出た。右頬が、じくじくした痛みを主張していた。ゆっくりと指で頬に触れると、じり、と重い電流が走ったように鈍痛が走る。い、痛い。腫れてるかな。変色してるかな。身体を支配していたはずの怒りが全部痛みに変換されたみたいだ。お姉さんの教科書に書いてあったなんたらかんたら保存の法則て、こういうこと?
校内地図を確認しながら、保健室に向かう。階段をおりていると、休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。テストが終わった次の時間はホームルームだ。担任の先生には保健室にいる旨を伝えてもらうよう、クラスの子に頼んでいる。
チャイムが鳴り終わって、廊下は途端に静かになった。廊下の開け放たれた窓から、蝉の鳴く声だけが、うるさく残っている。窓の外を見ると、最近急に強くなった日光が、木々を透かして青々しく光っていた。誰もいない廊下は、特別感があって、不思議な高揚感が胸の底から湧き上がってくるようだ。
「失礼します!」
コンコン、とノックしてから保健室の扉をそおっと開けて、顔を出す。保健室の先生がいるかと予想して、事情を説明する文言をここに来るまでに用意していたのだが、部屋の中を見回すと、どうやらそれらしき人は居ない。ベッドが使われている様子も無さそうだ。
「あのぉ、誰か、いますか」
声を張り上げると、奥の衝立の方で、人影がのそりと動いた。
「野々村さん……?」
真っ直ぐの黒髪をふたつに結んだ、童顔の女子。恐る恐る衝立から顔を出したのは、体育の授業の途中で保健室に走り去ったあと授業に出席していなかった、例の同じクラスの女子生徒だった。あの後から姿を見ていなかった彼女との思わぬ再会に、思わず声を上げた。
「こんなところにいたんですか!」
「あ……うん。そ、それより怪我……?」
その言葉で、はっと思い出したかのように、今の一瞬飛んでいた右頬の痛みがぶり返す。
「はい。頬をその、ぶつけまして」
衝立から出てこちらへ近づいてきた彼女が、わたしの顔を見て、痛ましそうに眉根を寄せた。
「うわー、痛そ……。今保健医の先生居ないから、私が代わりに手当やるよ」
「そんな、悪いですよ。それなら自分でできます」
彼女はどこか幼い子どもの相手をするように、ふふっと笑った。
「ううん、私がやるよ。保健医の先生にも頼まれてるから」
「そうなんですか?では、お言葉に甘えます」
彼女は慣れた手つきで、わたしの頬に消毒液をかけ、ガーゼを貼った。鏡で見ていないので分からないが、頬はどこか切れていたのだろうか。消毒液は右頬にじんと染みて、目の奥が熱くなるほど痛かった。
椅子に座るわたしの目の前に、向かい合って立った彼女は、ガーゼを貼り終えると、両手をパチンと合わせた。
「はい!終わり」
「ありがとうございます!……あの、」
衝立の奥に戻りかけた彼女は、ん?と振り返って首を傾げた。
「先日の体育のこと、すみません、でした」
彼女は、困惑したような笑みを浮かべた。
「別に、野々村さんが謝ることじゃ……」
「いえ、でも、なんか、良くなかったかなって」
わたしの言葉に、んー、と苦笑しながら彼女は唸った。
「授業に来ないの、わたしのせいかなって」
「ああ、それは、違うよ。そんなことは、ないよ」
「そう、なんですか?」
うん、と彼女は頷いた。
「野々村さんのせい、じゃない。その……うん、そうだな」
ふっと肩の力を抜いたように、どこか踏ん切りがついた様子で、彼女は言った。
「ちょっと愚痴、聞いてもらっていい?」
「え?愚痴、ですか」
「うん、愚痴。いい?」
「は、はい。どうぞ」
彼女は軽い調子で、事の顛末を語り始めた。
彼女は元々、彼女をハブっていた例の三人組ととても仲が良かった。彼女がハブられるまでは、よく四人で固まって行動を共にしていた。それが崩れたのは、四人で休日に行こうと約束していたテーマパークに、彼女が当日にドタキャンをした事がきっかけである。ドタキャンの理由が、彼氏とのデートであることが発覚すると、その三人は途端に彼女を除け者にするようになり、話しかけても無視を決め込むような風になったと。
「ほんっとクソ。謝れって言うから何回も謝ったのに。普通許すでしょ。遠距離だって言ってるんだからさ。会えるの月一くらいなんだよ?仕方ないじゃん。それをねちねちねちねち、いつまでも引きずって私のことハブってさ。何が楽しいの?頭腐ってるよ。彼氏できないブスが妬んでるだけじゃん!」
わたしは絶句していた。彼女はノリに乗ってしまったのか、マーライオンのごとく、溜まっていたであろう怨嗟を延々と吐き出していた。思っていた数十倍、わたしの知らない世界だった。彼女の言い分が正しいのかどうかも、もうよく分からない。そもそも、こんな清楚そうな子に彼氏がいるですって。お姉さん、こんな世界で生きてたんですか……?恐れすら覚えて、涙が出そうになる。
戦いているわたしに、ハッと気づいたのか、彼女は我に返ったように、顔を上げた。それから気まずそうに笑った。
「ああ、ごめんね。野々村さん関係ないのに。こんなこと聞かせちゃって。こんなに話すつもりではなかったんだけど、つい……」
「へ?あ、いえ」
唖然としてしまって、ぽかんと開いていた口を慌てて閉じる。
「えっと、じゃあね、また」
彼女はわたし相手に愚痴をぶちまけてしまったことが後ろめたいのか、そそくさと衝立の裏に戻ってしまった。
わたしは不思議な夢を見たような気分のまま保健室を出て、廊下に流れる熱い空気と同化するように、ぼんやりと考えながら歩いた。どこか、胸に引っかかるような違和感を覚えていた。
愚痴。悪口。陰口……。
ああ、そうかとなんとなく気づく。さっき彼女が言ったような愚痴、いつものわたしなら怒っていたんだ。陰口を言うなんて、と込み上げる怒りを抑えることが出来ず、暴れてしまっていたんだ。でも、今回は。
彼女は、仲間はずれにされていたのだから。だから?でもさっき言ってたようなこと、良い事では無いはずなのに。でも。
はあ、とため息をついて、頬のガーゼを撫でた。柔らかい手触りが心地よかったけれど、あまり触ると頬が痛くなる。
どこのクラスも、今はホームルームの時間だ。他教室の前を通ると、微かにクーラーの冷気が漏れ出ていた。歩いてたどり着いた自教室の前で、しんとした廊下の特別感を少し惜しみながらも、扉をガラリと開けた。
***
「おねーちゃん、最近家に来る女の人だれ?」
「うーん、隣の家の子で……」
家に帰って、さあくつろごうかと肩の力を抜いた瞬間部屋に乱入してきたのは、紗奈ちゃんの妹の結衣ちゃんだった。結衣ちゃんは今、私の伸ばした膝の上を陣取ってニコニコしている。
入れ替わる前の角谷姉妹の仲のほどはよく知らないが、もしかしたら入れ替わってから、私の態度により、結衣ちゃんをさみしくさせていたかもしれない。もう少し頻繁に構ってあげた方がよかったかしら。
結衣ちゃんが頭を動かす度に、ぴょこりと頭から生えた細いツインテールが私の頬を擦る。痒い。また、足にずしりとかかる幼児の重みは私にとっては新鮮なものだった。小さな妹がいたらこんな感じだったのか。
「結衣ね、今日保育園でね……」
トントン、と扉をノックする音が聞こえた。噂をすれば、だろうか。
どうぞ、と言うと、果たして部屋に入ってきたのは紗奈ちゃんだった。何故か頬にはガーゼが貼ってある。
「お邪魔し……え?」
紗奈ちゃんが礼をしかけた前屈姿勢で、私の膝の上の結衣ちゃんを見て固まった。
「また来たのー?」
結衣ちゃんの無邪気な声で、紗奈ちゃんの身体がぴくりと動いた。
まずい、と思う。大切な実の妹が血の繋がりもない他人に懐いている上に、実の姉である自分に向かって、また来たの、だなんて傷つくだろう、普通。
結衣ちゃんに、あっちの部屋行っておいで、と囁くと、結衣ちゃんは頬を膨らませて明らかに嫌悪を示した。
「えー、なんで。結衣、お姉ちゃんと遊びた」
「結衣」
底の冷えるようなドスの効いた低い声に、部屋の温度が一気に氷点下まで下がった、様な気がした。
声を発したのは紗奈ちゃんだった。なぜか感情の一切感じない冷たい目で結衣ちゃんのことを見下ろしている。
「ここから、出ていきなさい」
喉からひっと音が出てしまった。私、そんな声のトーン出したことないよ……。さぞ怖がっているだろうと結衣ちゃんの方を見ると、案外何とも思ってなさそうに、平然としている。仕方なさそうに、はーい、と返事をして、私の膝から下りると、部屋から出ていった。実の姉妹として、何か感じ取るものがあるのだろうか。
「お姉さん」
紗奈ちゃんは、いつもの口調に戻っていた。
「う、うん」
「結衣と、仲良いんですね」
「え……?うーん、そ、そうでも……」
紗奈ちゃんは、むう、と唇を突き出している。というか、それより頬のガーゼが凄く気になるんだけど……。
途端、紗奈ちゃんがガバッと私に覆いかぶさったように見えた。さっきとは比べ物にならない重みが膝にかかる。最早懐かしい高校の匂いと頬を圧迫されているような感覚と共に目を開けると、紗奈ちゃんは、私の膝に乗って抱きついていた。
小学生の膝に、高校生が……?
「ど、どしたの」
そう聞くと、くぐもった声が頭の上から聞こえた。
「結衣ばっかり、ずるいぃ」
そ、そっち……。
紗奈ちゃんの体温と、脈拍を感じる。こんな風に人に抱きつかれるなんて今まであっただろうか。頬にあたる胸の膨らみに、なぜか懐かしさを覚えた。
膝からおりる気配はないようなので、このまま会話をする。
「その、ほっぺたのこと、聞いていい?」
「……はい」
「何があったの?」
「クラスの女の子が、お姉さんのことからかってて、それで」
「え!?喧嘩したの?」
「いえ、その。殴ろうとして、コケて、机の角にぶつけました」
「な、殴ろうとして……。それで、大丈夫だったの」
「はい。あの、すみませんでした。私、カッとなって」
「あいや、無事ならいいん、だけど」
いつか起こるかもと思ってはいた事だった。紗奈ちゃんには失礼だが、むしろ喧嘩にならずに、軽く済んだ方かもしれない。
ぎゅむ、と紗奈ちゃんが私を抱く腕の力を強めた。私の顔に私の胸が押し付けられる。どういう事だ。
「私、許せないです。お姉さんに、彼氏なんて」
「……噂、ね」
「はい。噂です」
紗奈ちゃんは私に抱きついたまま、もぞ、と頷いた。
「あの、わたし、お姉さんに憧れてたんです」
「……今は?」
「今も、です」
「幻滅されたのかと思ったよ……」
「いえ、幻なんかじゃなかったです。明るい髪とか、短いスカートとか、気だるげな感じとか、なんか大人っぽくて憧れてたんです」
「うーん?」
「でも、そうじゃなくても、お姉さんはお姉さんです。やっぱり大人だと、思いました」
「……そっか」
私は紗奈ちゃんと話しながら、なぜか懐かしい感覚に襲われていた。私の顔がめり込む胸。硬い感触はブラジャーだろう。その中の包み込むような柔らかさを私は感じたことがある。
言い知れぬ安心感。私を抱きしめる紗奈ちゃんより、六つも年上なのに、不意にそのことを忘れて、会話の仕方が分からなくなる。
「ああ、そうか」
記憶の中でピントが合い、合点が行くと同時にツンと何かが込み上げる。
お母さんなんだ。お母さんの感触なんだ。小さい頃、寝る前に毎日してもらっていたハグ。テストでいい成績が取れた時も、抱きしめてもらっていた。最近はもう長いことそんなスキンシップは取っていないけれど。
私、自分の身体に抱きしめられて、お母さんを思い出してるんだ。そう思うと、泣きそうになる。悲しいのか、嬉しいのか分からない。ただ、生まれてきた時から続いてきた何かが終わったような感覚が、はっきりとして、耐えきれずに目の奥が熱くなった。
「ねえ、紗奈ちゃん」
「なんですか?」
「暴力は、よくないと思う」
「そう、かもです」
「これから、気をつけよう」
「はい」
「でも、怒ってくれてありがと」
「え?」
「私も、噂は好きじゃない」
私のお母さんが私の姉を産んだのは、ちょうど私ぐらいの歳だったと聞く。私は紗奈ちゃんの、いや、私の胸の中で懐かしさに溺れながら、その苦しさを受け止めていた。
***
思い足取りで教室に向かう。わたしが教室で醜態を晒した翌日。教室の前について、ハンカチで汗を拭いながら、昨日のことについて思い出していた。
感情のままに、噂をしていた女の子の方に足を踏み出したのはいいものの、誰かの机の足につま先をひっかけてすっ転んでしまって。まだ大分腫れている右頬を撫でる。じり、とした痛みが走って、顔をしかめた。
暴力は、やっぱりよくないと思う。怒りが抑えられないのはわたしの悪い癖、だとも思う。それに、湧き上がる怒りと向き合うと自分でもよく分からなくなってくる。わたしは噂をされること自体が許せないのだろうか。それとも、私が許せないことは。
深呼吸して教室の扉を開ける。教室に満ちた冷気をすっと吸い込んで、それから、入口近くに集まっている女の子たちに頭を下げた。
「昨日は、すいませんでした!」
女の子たちは揃って首を傾げた。
「い、いや、全然いいよー……ってなにが?」
昨日"お姉さんの彼氏"発言をした子が、グミを片手に私に言った。
そういえば、わたしがこの子達に殴りかかろうとしたことはわたししか知らないのだった。
「いえ、その、あなた達が昨日言ったことで」
「言った?何を?」
「覚えてないですか」
「うん、なんかわかんないけど覚えてないかも。ごめん」
あ、そうだ、と言って、彼女は手に持っていたグミの袋をわたしに差し出した。
「ひとつ食べる?」
「いいんですか?」
「うん、どぞ」
お言葉に甘えてグミを貰った。口に入れると、きゅっと甘酸っぱい風味が口内を刺激した。レモン味。美味しい。
「怪我、だいじょぶ?」
「はい。なんとか」
「そかー。よかった」
ありがとうございます、と言ってから、わたしは自分の席に着いた。ため息をついて、水筒のお茶を乾いた口に流し込んだ。
グミは、美味しい。あの子は悪い人、ではないのかな。なんだかさらに分からなくなってしまった。口の中にはレモンの甘さが微かに残っていた。