古ぼけた思い出は
小学六年生、小学校最後の学年が始まったその日、教室にやってきたのは若い女の先生だった。私たちの担任となるその先生は、ツヤツヤの黒髪をひっつめ髪にし、細い銀縁の眼鏡をかけていた。背が高くて、眼鏡越しの視線は針のように鋭利で冷たかった。
私は、先生の眼鏡を外した顔は、一度しか見たことがない。普段は銀縁の中で鋭く光っているのみのその目は、眼鏡を取ると思ったより丸くて、大きくて、幼かった。
クラスの皆が先生の悪口に興じ始めたのは、その先生が赴任してから一ヶ月ほど経った頃だった。見るからに生真面目そうなその先生は、その実とてもヒステリックな人で、ことある事に耳が痛くなるような甲高い声で児童をなじり、詰問を浴びせた。それは遠足や校外学習などの行事ごとでも同じで、私たちはもう辟易していた。皮肉な事だけれど、先生という絶対的な敵をみんなの中心に据え置くことで、クラスの団結力は他のクラスと比べてもすこぶる高かったような気がする。とにかくまあ、とても感じの悪い先生だった。
一度、先生が授業中に泣き出したことがある。なんの授業だったか、何が理由だったかも、もう思い出せないけれど、とにかく先生はあの時泣いたのだ。しんとした教室で、先生のしゃくり上げるような声だけが響いていた。それからどうやって泣き止んだのかは忘れたけれど、ただその事が速攻でクラスの皆の悪口のネタにされていたことは覚えている。泣いている先生のモノマネをしてどっと沸く教室の中で、私はただ、眼鏡を外して涙を拭った、あのあどけない顔が目に焼き付いて離れなかった。
小学校に通っていると、そんなことを思い出してしまう。もう六年も前になるのに。
***
運良く梅雨の晴れ間となった今日は、プール開きだった。プール横の更衣室は蒸れたような匂いと、籠った熱気がむわっと広がっていた。つやつやとしたビニール素材のプールバッグから、背中に「角谷」とゼッケンの貼られた紺色の水着を取り出す。乾いている時は少しごわごわした素材の感触が、懐かしかった。スカートを下ろさずにパンツを脱ぎ、そのまま水着を着る。中高では水泳の授業は無かったため、スクール水着を着るなんて五、六年ぶりだ。股に食い込む水着を指でパツンと引っ張って直す。
そういや、小学生の時はプールの授業がある日は制服の下に水着を着て行ったなあと、思い出す。ポロシャツの中でモゾモゾと着替えるとなかなか手間どるもので、今日もそうすればよかったと、水着に着替えてから思ってしまった。周りではスナップボタンの着いているタオルを体に巻いて着替えいる子もいる。けれど、ああすると夏場は暑いのだ。
水着に着替え終わった私は、黄色い水泳帽を被ろうとして、肩にかかる髪に気付いた。しまった、と思う。今日に限って、寝坊をして寝癖のまま家を飛び出したので、ヘアゴムも持ってきていないのだった。髪を結ばなければいけないという決まりは無いけれど、長い髪を水泳帽に押し込むには髪を結んでいた方が楽なのは確かだ。
「ヘアゴム、使う?」
困っていると、横から声がした。制服を着た茜がこちらを覗き込んでいる。なぜ着替えていないのだろう。
「いいの?」
うん、と茜は頷くと、自分のポニーテールの根っこを掴み、しゅるりとヘアゴムを外した。束ねていた細い髪がポニーテールの名残を残したまま肩に落ちる。茜は型がついたままの少し浮いた髪を撫でながら、私に今しがた外したヘアゴムを渡した。
「え……。でも、茜はヘアゴム使わないの?」
「うん。私、見学だから」
「ああ、なるほど」
ありがと、と言ってヘアゴムを受け取り、髪を手櫛でまとめて簡単なお団子を作る。水泳帽を被ると、お団子を作った部分が、ぼこっと隆起したシルエットを描いていた。
更衣室を出ると、そのまま道はプールサイドへと繋がっている。真夏になると日光に熱されたプールサイドは焼けるように熱くなって、つま先立ちでしか移動出来なくなるけれど、まだ六月の今は、ぬるく熱を持っている程度だった。
頭上には、ここ最近あまりお目にかかれなかった青空が、まばらに白い雲を乗せて広がっている。雲間から覗いた日光が、プールに溜まった水に反射してキラキラと光った。プールの底に何本か引かれた群青色の線が、透き通った水を通して、揺らいで見えた。ちりちりと光を乗せた水面に、飛び込みたい衝動をぐっと堪えて、プールサイドに整列する。"地獄のシャワー"を浴びなければ、プールには入れないのだ。
極寒のシャワーを浴びて、ガタガタなる歯は、プールに入っていくらか泳ぐと、いつの間にか治まっていた。シャワーを浴びたあとは見苦しいほど広がっていた二の腕の鳥肌も、プールの冷たい水に溶けたように姿を消している。数年ぶりのプールだったけれど、ふっと肩の力を抜き、無重力に身を委ねるような感覚を思い出すと、もうこちらのものだった。小学生のとき、楽しくて仕方がなかったプールの時間を思い出す。今の私は我を忘れるほどはしゃぐことは出来ないけれど、それでも重いものから解放されたような嬉しさがじわりと身に染みて、胸が高揚する。
透明な水に体を委ねると、光の中に入っているみたいだった。大勢が水中で動くと凪いでいたプールに波ができ、それに合わせてきらりと日光が泳ぐ。
久しぶりに潜ると、息が続かなくて瞬く間に苦しくなってしまった。すぐに顔を出してしまったけれど、ちらりと水の中から見えた水面は、その先に天国があるかのように光り輝いていて、神秘的だった。心の底から、綺麗だと思った。水の中は、現実世界から隔絶された写真の中のフィクションのようだ。
ひと通り泳ぎ終わると、その後に自由時間が与えられた。鬼ごっこを始める子、競うように水中で宙返りをする子、泳ぎの自主練習をし始める子……。めいめいがプールの中でてんでばらばらになり、あちこちで興奮したような歓声が響いた。
はしゃいでいる子たちの間を縫って、私はプールの端までドルフィンキックで進んだ。皆の時間がゆっくりと進む水中にいると、一瞬現実から切り離された別の場所にいるような感覚がして、ちょっと楽しい。端について、ぷはっと水面へ顔を出すと、ちょうどそこはプールサイドに設置してある屋根の影が差していて、薄暗くなっている場所だった。
茜はプールサイドで体育座りをして、小説を読んでいた。プールの様子にはあまり興味が無いのだろうか。茜の感情の薄い表情のまま文字を追う姿を見ていると、不意に、後ろで飛び交う皆の興奮交じりの笑い声が一気に遠くなったような感覚に襲われる。光の当たらない薄暗い所にいると、プールの中とは露骨に漂う空気が違う。
茜がこちらに気付いたように、本から顔を上げた。プールの方にとてとて、と寄って、私を見下ろすようにしゃがんだ。この位置のプールサイドは水面と高低差が大きく、水の中にいる私とプールサイドの茜は、まるで水族館のアシカと飼育員のような構図になってしまう。
「足だけでも浸からない?」
私がそう聞くと、茜は数秒黙ったあと、別にいいや、と答えて、体育座りに戻るとまた難しそうな小説を開いた。水、苦手なのかしら。
「紗奈ちゃん、一緒に鬼ごっこしない?」
後ろから、声をかけられた。同じクラスの女の子だった。少し逡巡して、それから丁重に断った。そっかー、と言ってまた違う子を誘い始めたその子の背中を見ながら、私は近くのプールサイドに腰かけた。長い間水に浸かっていると、肌に空気の触れる感覚に違和感を覚える。プールに浸かっている脛より下の方が、何故か慣れ親しんだような感じがした。
これ以上泳ぐ気にもなれず、後ろに手を付き空を見上げてふっと体の力を抜いた。さっきよりも雲が増えてきたようだ。明日はまた雨が降ると予報では言っていた。優しい色をした青空に、かすかに春の名残を感じた。紗奈ちゃんは今何をしているのだろう、とふと思う。
子供っぽい。ノリが悪い。精神年齢が低い……などなど。小学校に通い始めてから、紗奈ちゃんが周囲にどんな印象を持たれていたのか、だんだん分かってきた。
大人っぽくなった、か。最近言われた言葉を反芻する。外見が変わっても時間の流れは不可逆なもので、元々私の心から突き出していたはずの固いトゲはいつの間にか摩耗してなだらかになって、何に引っかかることもない。紗奈ちゃんの身体を見る。水に濡れて色の濃くなった水着は、肌に張り付いて華奢なシルエットを引き立てていた。つい数週間前まではこの身体の中を貫いていた真っ直ぐで瑞々しい芯は、もうここには無い。
いつからか、物事を面倒か楽かに二分して考える様になった。取っ掛りのない心は他人と関わっても以前のような齟齬を起こさない。まあそういうこともあるよね、と全てのことを流してしまえばそれは確かに楽だけれど、私の前に開けている未来は常に薄く影が落ちているようだ。入れ替わってしまった今は、そもそも未来のことなど考えたくもないけれど。
ほどなくしてプールの授業は終わり、私は塩素の匂いが蔓延する更衣室で制服に着替えた。冷えた身体に、温い制服が心地よかった。着替え終わって外に出ると、空はすっかり雲でおおわれ、青空は見えなくなっていた。湿気を孕んだ風がふやけた肌を撫でる。思いの外疲れたのか、身体の中がぼやっとして力が上手く入らない。喉も乾いている。今日は紗奈ちゃんのお母さんが、水筒の麦茶に氷を入れてくれたんだった。時計を見ると次の授業が近い。私は唾を飲みながら教室へ向かった。
***
ふとした瞬間に、かつての友達を思い出す。くせっ毛をいつも二つにまとめていた、ちょっとミーハーな子だった。仲良くなったきっかけは覚えていない。きっと席が隣だったとか、そんな事だけれど、私たちはお互い、小学校の六年生までなんだかんだ一番仲のいい友達だった。
その子の名前はよく覚えていない。けれど、私はその子のことをいつも「まゆちゃん」と呼んでいたからきっと下の名前は「まゆ」なのだろう。どう書くかは分からない。
一度家に行かせてもらったことがある。その友達の家は私が当時行ったことのなかった、学校よりも先に進んだところにある、一戸建ての立派なものだった。小さい妹がいたことを覚えている。友達はその妹をとても可愛がっていた。
その家の近くには大きな公園があった。見たこともない遊具があって心踊ったけれど、結局家に行かせてもらった時も公園の前を通り過ぎるだけで、そこで遊んだことは一度もない。
気が合っていたのかは分からない。その子のことを好ましく思っていたのかも今となっては忘れてしまった。ただ、その子は友達で、休み時間になると一緒に一つのブランコに乗って、その時に私はその子の足の間に座ったりして、放課後は二人で協力してピカピカの泥団子を作ることに熱を注ぎ、遠足のお菓子は二人で駄菓子屋に買いに行って、真っ先にその子と交換し、お揃いでプロフ帳を買ったときは、それぞれ最初のページにお互いの自己紹介を書いてもらったりして、学期末のお楽しみ会では二人でグループを組んでクイズ大会を企画するような、そんな子だった。
人数の多い学年だったけれど、それでもなぜか私たちは六年間同じクラスだった。中学生になっても、高校生になっても、ずっと仲良しでいる……つもりだったかどうかは正直分からない。当時の私は未来のことなど考えていなかったし、ランドセルを背負っている今と、高校生になるような未来が地続きであるか、どこか訝しんでいたから。小さく丸みを帯びた自分の手が、角張った大人のそれになることなど、どれだけ時が経ったってありえない気がしたのだ。実際は、うかうかしていると気づいたら高校の制服に袖を通すようになっていたし、手だっていつの間にか母親と手のひらを合わせた時に、自分の指の方がはみ出るようになってしまったけれど。
過去を振り返ると、その子と過ごした日々は独立して、切り離されて、自分以外の誰かの人生のように思える。幼い頃の記憶しかないため、私と同い年のその子が今年十八になることがどうも思考の中で噛み合わない。私の立っている生臭い場所に、その子も本当にいるのだろうか。
結局、どこの中学に行くのかも聞かずじまいだった。聞いたって会いに行くことなど無かっただろうけど。
「味方だと思ってたのに」
そう言って、泣きそうな顔で私を見つめた、その失望に染まった顔だけが、ぼやけた記憶の中でやけに鮮明に残っている。
***
「紗奈、先行ってるから」
赤白帽を持った茜がそう言って教室を出ていくと、教室の中は伽藍堂になった。蛍光灯が消え、薄暗い部屋を照らす光は無い。死んだように物音一つしない教室と対比するように、窓の外は土砂降りの雨の音で満ちていた。
紗奈ちゃんのクラスでは、毎週金曜日の昼休みは、"みんな遊び"が恒例らしい。"みんな遊び"と言っても、特段変わったことをする訳では無い。クラスの皆でドッジボールをしたり、ケイドロをしたり、つまるところまあ、クラスのみんなで楽しく遊ぼう、ということだ。運動場でやるのが常だが、たまに体育館が借りられる日もある。朝からの雨が激しさを増し、とてもじゃないが運動場を使用できない今日は、くじでうちのクラスが体育館を利用できることになった。体育館をめいっぱい使ってドッジボールをするらしい。
私は窓際の手すりにもたれ、雨音を背にスカートのポケットからスマートフォンを出した。紗奈ちゃんからメッセージが1件届いている。
「こちらは特に問題ありません」
こっちも大丈夫だよ、と送信する。いつの間にか、紗奈ちゃんと昼休みにこうして連絡を取るのが習慣になっていた。
すぐに既読が着く。紗奈ちゃんは今、どこで私のメッセージを読んでいるのだろうか。教室だろうか。それとも別の場所だろうか。クラスの子とはどんな風に喋っているんだろう。私は窓ガラスに後頭部をつけて体重を乗せ、ふっと息を吐いた。もう長いこと行っていない高校に思いを馳せる。あの教室で、私が、野々村七海が居るけど、居ない空間でどんな時間が流れているんだろう……。
突然、教室の扉がガラッと開いた。雨に包まれた静寂が一瞬にして崩壊し、私の肩はびくっと跳ねた。私の手から離れて床に落ちそうになったスマートフォンを咄嗟にキャッチし、思わず安堵の溜息を漏らす。
「角谷さん?」
教室に入ってきたのは担任だった。私はへへ……と誤魔化すように笑う。
「教室に残って何か用事が……」
言葉を切った担任の視線を追うと、私の胸の前のスマートフォンに熱く注がれている。あれ?そういえば小学校はこういうの持ってきていいんだっけ。
無言でつかつかと私の前に歩み寄った担任は私の手からスマートフォンを奪い、私に見せるようにそれを掲げながら、
「放課後、職員室に来てちょうだい」
にっこりと笑ってそう言った。
昼休みが終わり、頭を抱えたまま午後の授業も去ってしまい、帰りの会が終わって皆が教室を出ていく中、私は椅子から立ち上がらず、天を仰いでいた。紗奈ちゃんごめん!
「帰らないの?」
そう聞いてくる茜にちょっとね……と曖昧な返事を返し、私は憂鬱な足どりで職員室に向かった。
担任は、職員室に入ってきた私を見るなり、私の手を引いて、職員室の隣の面談室に連れていった。ものが少ない、閑散とした部屋だった。端に教室で使う机と椅子がいくつか並んでおり、中央にそれとは違う背の低い白い机と、その机を挟んで折りたたみ式の椅子が数個向かい合って座っている。壁には、教室で見るのとは違う四角い時計が時間を刻んでいた。現在、三時四十分。担任は椅子を引いて私に座らせ、ポケットから昼休みに没収した私のスマートフォンを出すと、私の前の机に置き、
「もうすぐ、別の先生が来るからね」
と言って面談室から去っていった。
てっきり職員室で怒られるものだと思っていたので、色々と予想外というか、肩透かしを食らった気分だ。それとも、別の先生が来ると言っていたけれど、その先生にお叱りを食らうことになるのだろうか。返されたスマートフォンをちらりと確認して、ポケットに直す。充電が心もとないので早く帰りたい。
ガラリと扉の開く音がした。私は慌てて背筋を伸ばした。入ってきたのは、いかにも怒り慣れてそうなごつい体育教師……ではなく、優しそうな雰囲気の若い女性だった。落ち着き方からして、三十手前ぐらいだろうか。その人は、私を見ると柔らかく微笑んだ。
「生活指導の幸坂です。よろしくね」
声を聞いた瞬間、ぎゅっと喉が詰まったような感覚がした。向かい側に座った彼女の顔を、恐る恐る見る。ミルクティー色に染めた髪を後ろで緩く結んで今風に軽く前髪を作っている。雰囲気はまるで違うけれど、その下で主張する、特徴的な大きな目は確かに見覚えのあるものだった。ハンカチで溢れ出る涙を拭う、あの攻撃的なほどのむき出しの弱さはもうどこにも認められないけれど、顔の造形はどう見ても私の脳裏に焼き付いているあの姿そのものなのだった。苗字が変わっていることは、右手の薬指を見て合点がいった。眼鏡、取ったんだ、と心の中で呟いた。
「スマホ、返してもらったよね?」
優しげに尋ねた声に、はい、と小さく返す。こんなに声、優しかったっけと不思議に思う。キンキンと叫ぶ声しか私の記憶には残っていなかった。
戸惑っている私の様子を何か違うふうに受けとったのか、怖がらなくていいからね、と私に言って、微笑むと本題に入ることを示すように軽く咳払いをした。
「角谷さんはなにか最近、悩んでることとか、ない?」
ん、と言葉につまる。怒られる訳では無いのか、と不思議に思う。もしや、スマートフォンを学校に持ってきたことを、なにか精神的な不調が原因だと思っているのかしら。というか、もしかすると担任は紗奈ちゃんの性格が変わっていることにとっくに気づいていたんじゃないか。スマートフォンの件は最後のひと押しだった、とか。
精神的な不調といえば、それはもう大不調ではあるけれど、残念ながら本当のことを人に話せば、別の病気を疑われてしまう。
何も言わない私を見て、目の前の先生は言いたくなかったら、言わなくていいからね、と慌てて付け加えた。
「あ、いえ……その」
面倒なことになる前に、それっぽいことを言って切り抜けなければ。
「昨日、学校帰りにそのまま家族と外食に行って。その時にスマホをランドセルに入れて、そのまま出すの忘れて学校に持ってきちゃったんです」
私がそう言うと、
「ああ、そうなの。そうだったのね」
先生は安心したように頷いた。
「悩みとかは、特にないんで大丈夫です」
「そう、でも相談したいことがあったらいつでも言うのよ。スマホは、次から気をつけてね」
はい、と返す。思ったより早く済みそうで胸を撫で下ろした。
「あの、」
「うん?」
「先生の旧姓って、神野、ですか」
これだけは確かめたくて、私は咄嗟に尋ねた。先生はびっくりしたように目を見開き、ええ、と頷いた。
「すごいね、角谷さん。なんでそんなこと知ってるんだろう?」
「あ、えっと、知り合いのお姉さんが、多分先生の教え子で、それで」
「あら、そうだったの!なんて言う名前なのかな?教えてほしいなあ……」
「あは……。それは、秘密、です」
「そう……。でもきっと立派になってるんだろうなあ。先生の教え子はいい子たちばかりだもの」
「そう、でしょうか」
私の言葉に、先生はん?と首を傾げた。
「そんなこと、ないんじゃないでしょうか。悪い子だって、いるんじゃないですか」
言葉にした後に、後悔する。言わなくても良かったことだった。先生は戸惑ったように微笑みながら、
「そんなことないよ。みんなみんな、いい子達だった。本当よ」
ぐっと何かがこみ上げるように息が詰まった。今、私たちの身に起きていることを全て話してしまいたくなる。それだけじゃない。全部、本当に全部。私の中に詰まっている全てをさらけ出してしまいたい。大きくなった姿で。高校の制服を着た野々村七海として、これから私はどうすればいいんでしょうかと、どう生きればいいんでしょう、と問いたくなる。
そんな衝動を抑え、そうですか、とだけ返した。先生は、思い出を回顧するように少し上を向いていた。
「そっか、最初の代の教え子は、もう今年成人になるんだ。早いね、ほんと」
「成人……。もう、大人ですね」
「そうね。でも、思ってるよりずっとすぐなのよ。角谷さんもきっと、気づいたら大人になってるよ」
「そう、ですね」
その時、四時を知らせるチャイムが鳴り響いた。そろそろ終わりにしましょうか、と先生が言う。
「お友達も待ってるみたいだし」
びっくりして振り返ると、廊下に面した窓ガラスにぼんやりと茜の姿が映っている。
椅子から立ち上がってドアに向かっている途中、溜まりに溜まったものを吐き出すように、口からぽろっと言葉がこぼれた。
「私、このままでいいんでしょうか」
先生は少し考えて、口を開いた。
「先生は、角谷さんの性格、すごく好きよ」
「え……」
「時々、代理で授業する時あったでしょう?」
そうだったんだ、と思いながら、一応はい、と返す。
「その時から思ってたのよ。素敵な子だなって」
「……ありがとう、ございます」
答えになってるかどうかは分からないけど、と申し訳なさそうに言って、先生はドアを開けた。
茜は壁にもたれて本を読んでいた。タイトルは……『人間失格』?茜、難しいの読んでるなあ。私が部屋から出ると、のろりと本から顔を上げた。
「じゃあ、気を付けて帰るのよ。黛さんもね。相談したいことがあったらまた来てね」
さようなら、と先生に頭を下げ、茜と共に下駄箱へ向かった。さっきまで地面を叩いていた土砂降りの雨は、いつの間にかやんでいた。
「ごめん、待っててくれたんだ」
茜はんー、と返事ともつかないような返事を返し、私の隣を歩いた。
「怒られた?」
「いや、全然」
「そっか」
校門を出て、ほどなくして茜とは別れた。茜の家は、私の住んでいるマンションと、反対方向にあるらしい。だというのに待っていてくれたのか。
じゃあね、と手を振って帰路に着く。雨が上がって不要になった傘が邪魔だった。どれくらいで梅雨は終わるだろうか。居酒屋の店先の紫陽花はまだ咲いていた。
***
コンビニを出ると、明るい店内とは打って変わり、わたしの体は夜闇に包まれた。道路には見たところわたしたち以外に人はいない。昼間とはまるで違う様相に、"街が死んだよう"という、どこかの本で読んだ表現を思い出した。本当にその通りだとは。夜中に人がいないのは当たり前だけれど、こんな世界が実際に存在しているとは思わなかった。
お姉さんは、コンビニで買った棒アイスを早速袋から出して口にくわえた。
「さなひゃんも、たふぇなはらかへふ?」
紗奈ちゃんも、食べながら帰る?かな。行儀悪いですよ、言いかけてやっぱりやめた。
「わたし、カップアイスですから」
帰ってから食べます、と言うと、お姉さんは確かにそうだ、と頷いた。
お姉さんのお母さんが今日は夜勤で、家に1晩誰もいない、ということを言うと、お姉さんが泊まりに来てくれることになった。というか、元々お姉さんの家だから、自分の家に帰るようなものだけれど。
夕食はお姉さんと一緒にピザを食べた。それから、二人でテレビを見て、ゲームをして、お姉さんがアイスを食べたいと言い出したのは十一時頃だった。正直、戦慄した。普段だったらもう寝てる時間なのに!最初は反対していたはずのわたしが、なんだかんだ今お姉さんとコンビニにアイスを買いに来てしまっているのは本当に謎だ。言いくるめられてしまった。
七月に入り、今日は蒸し暑い夜だった。でかけにお姉さんに結んでもらったポニーテールが揺れる。やっぱり夏はこうしていた方が暑さがましだ。
身体に張り付くようなじめじめした熱が鬱陶しい。外にいるだけで肌がベタついてくるみたい。アイスを食べているお姉さんを見下ろす。ふいに、お姉さんがなんだかすごく大人っぽく見えて、どきっとした。わたしの身体なのに。
「一口いる?」
わたしがじっと見つめているのを何か勘違いしたのか、お姉さんが私を見上げて、食べかけのアイスを差し出してきた。遠慮しようと思ったけど、やっぱり食べた。バニラ味。冷たい。美味しい。お姉さんの。食べかけ。耳が、熱くなる。
コンビニからマンションまでの、三分ほどの道のりをお姉さんとゆっくり歩く。向こうから、大学生位のカップルが、腕を組んで歩いてきた。何やら楽しそうに話している。夜に見るカップルは、なぜだかすごく大人な感じの雰囲気で、知らない世界を覗いてしまったような気持ちになる。ふと脳裏に浮かんできたのは、この間クラスの人に言われたことだった。お姉さんの噂。思い出しただけで、口に残ったバニラの味が苦くなったような気がした。
隣で歩くお姉さんは、なぜか楽しそうに、残り少ないアイスを食べながら鼻歌を歌っている。泣きそうになった。
「お姉さん」
「ん?」
わたしを不思議そうに見上げるお姉さんを直視出来ず、目を逸らした。
「噂ってほんとなんですか」
「うわさ」
「その、先生と付き合ってるっていう」
ああ、とお姉さんは苦笑した。
「嘘だよ」
「そう、なんですか」
「うん、私誰とも付き合ったことないよ」
「じゃあ、なんでそんな噂ながれてるんです」
「あは……。まあ、その先生とちょっとスーパーで出くわしたことがあるんだよ。それで世間話してたら、学校の人に見られて、勘違いされたわけ」
「なんでじゃあ、否定しないんですか。違うって」
「一応、したんだけどね。けどあんまり信じて貰えなくて。結構広く広まっちゃったみたいでさ。これはもう、収まるまで待つしかないかなって」
感情を抑えるため、思わず唇を噛んだ。感情の比率としては彼氏がいないことへの安心が強いのが自分でも不思議だ。なぜこんなにほっとしてるんだろう。でもやっぱり。
「悔しいです。許せない」
「そ、そんなに?」
「許せないですよ、絶対!」
お姉さんに彼氏がいる、なんて噂が今でもどこがで囁かれていると考えるだけで、腸が煮えくり返って、全身の毛穴から嫌悪感が溢れそう。そんなデマ、誰が流したんですか。ほんとに。
ここ最近行っていない、小学校を思い出した。学年が上がって増えてきた、こそこそ陰口を言う子たち。わたしが、理解出来ない子たち。
「わたし、噂って嫌いです。何が面白いんですか」
お姉さんは、曖昧に笑った。
小さい頃に比べ、わたしの世界にはどんどん許せないことが増えていく。周りの子は、なぜ私の考えていることが分からないのだろう。きっと分かるはずなのに。なぜ分かってくれないのだろう。わたしが許せないと思うことは、きっとみんなだって許せないはずなのに。
頭にふわりとした感触が乗った。何かと思うと、お姉さんが背伸びをして、わたしの頭に手を乗せている。
「……乗せるだけで精一杯で、撫でられないや」
お姉さんは諦めたのか、頭から手を離して、歩き出した。
「早く帰ろ。紗奈ちゃんのアイス溶けちゃうよ」
すっかりアイスのことを忘れていた。そうだ、チョコミントのアイス、お姉さんに買ってもらったんだった。
「帰ったら2人で映画観ようよ。明日休日だしさ、夜更かししちゃおう、ね?」
お姉さんが振り向いて笑った。心臓から、あったかくて心地のいいものが溢れてくるみたいで、さっきの怒りも忘れてしまいそうになる。
「はい!」
わたしはお姉さんと並んでさっきよりも早足で、夜道を歩いた。アイスを食べ終わったお姉さんが嬉しそうに棒を掲げた。
「あたりだ!」