私とわたしは入れ替わる
隣の部屋に、新しい住人が越してきたのは今から半年ほど前の事だった。
若い夫婦に、小学生と幼稚園児の二人の娘の四人家族。父親は仕事が忙しいようで、一年経った今でも姿を見かけることはほとんどないけれど、姉妹の姉の方、紫のランドセルを背負った彼女とはマンションのそこかしこですれ違うことが多かった。
礼儀正しい子で、私の姿を見つけると、すぐさまタタタっと駆け寄って挨拶をしてくれる。
彼女は、いつからか、私のことを「お姉さん」と呼ぶようになった。年齢は恐らく五、六歳ほど離れているのでお姉さん呼びも差支えはないけれど、生まれてこの方姉という立場になったことの無い私としては、そういった風に慕われるのは、少し気はずかしい。
理由はよく分からないけれど、何だか懐いてくれているみたいなので、私もその子のことは「紗奈ちゃん」と、名前で呼んでいる。
お隣の、苗字の変わった表札にも慣れたこの頃、紗奈ちゃんとの取り留めもない会話が、私、野々村七海の惰性で続いている日常のささやかな楽しみとなっていた。
***
朝、目が覚めて。
眠気の靄が薄れていく中、私は身体にぼんやりとたまった熱を覚えていた。つい最近まで残っていた夜の涼しい風はここ数日であっという間に消え去り、夜中に窓を開けても気温はそう変わらなくなった。
熱のこもる毛布に代わって二日前から使い始めた薄い生地のタオルケットは、私の寝相のせいなのか、目を覚ました今、ベッドの隅にくしゃっと丸まってある。
時計を見ると、短針は六と七の間を指していた。今日は早く起きすぎてしまった。いつもはあと二時間ほど長く寝ているのに。二度寝をしようかと目を閉じるけれど、どうしたって眠気はやってこず、やけにスッキリした頭にため息が出た。
梅雨の訪れはもうすぐらしい。寝ている間も雨が降っていたのだろう、窓にはまだ乾ききらぬ水滴が斑点模様をつくっていて、外の景色ははっきり見えない。でも空が青いことは確かだ。きっと今は晴れている。
中学時代の体操着である半ズボンから露出した太ももをすりすりと擦り合わせながら、一応、学校に行く理由を考えてみた。テスト……は今日はなかったか。昼休みにパン屋さんが来るのは……明日だ。ふと、この前担任に言われた言葉が蘇ってくる。
「このままだと、お前、出席日数足りないんじゃないか」
まだ一学期だし、そんなことは無いと思うけれど。でも少しサボりすぎた自覚はある。
よし、と小さく声に出し、かったるい身体に力を入れてぐっと伸びをした。
何も辛いことなどないのだ。ただ面倒なだけ。だったら行ったって同じようなものだろう……。
私は、ハンガーにかけられてた制服を手に取った。
起床から一時間とちょっと。身支度の整った私は玄関のドアを開けた。湿気を含んだ空気がむん、と身体にまとわりつく。いつの間にか季節が確実に夏に向かっていることを実感させらる。暑さが増していくだろうこれからのことを考えると、どうも気だるい。
マンションのエレベーターを利用しようとして、ふと張り紙に気づいた。
『故障中。階段を利用してください』
殴り書きのように乱雑に書かれたそれを見て、思わずため息が漏れる。ここは八階だ。階段なんて使ったら足の筋肉が発達してしまうぞ。一瞬、Uターンして帰ることも考えたが、学校に行くためわざわざ巻いた髪がちらりと目に入り、勿体ないなあなんて思い、そうなってしまうと、私の足が自宅に向かうことは無かった。
昨日の雨は階段にも少し入り込んだようで、踊り場には一部、小さい水溜まりが出来ていた。
階段を三階ぐるぐると回ってようやく五階。一階に行き着く前に最早疲れ果てている私は踊り場の手すりに肘を置き、外の景色を眺めていた。手すりの水滴でブレザーが若干湿ってしまったがそれはもういいだろう。
お世辞にも都会とは言えないこの町は全体的に建物が低く、マンションが少し高い位置にあるということも手伝って、五階からであっても町を見下ろすような形になる。ほんの数キロ離れれば田んぼや畑が広がっているような、映えない地方都市なので、見下ろしたところで別段感情は湧いてこない。けれど、雨に濡れた街が太陽の光を反射して白く光っている様は、ちょっと綺麗だな、と思った。なんだかんだ私は、私の住んでいるこの街を気に入っているのだ。
「お姉さん?」
私の妙な感慨を打ち消すように、溌剌とした声が上から響いた。
紗奈ちゃん。
振り向いて、踊り場にいる私を見下ろすように立っている彼女を見る。目が合うと、紗奈ちゃんは嬉しそうに口角を上げた。
紗奈ちゃんが越してきてから一年ほど。私たちはいつの間にか、会えば世間話をするぐらいの仲になっていた。
「上の階に住んでると大変ですよね」
はきはきとした口調で話す彼女に、そうだね、と返し、私は手すりに置いていた肘を離す。
紗奈ちゃんは、紫のシックなデザインのランドセルを背負い、私も通っていた近所の公立小学校の制服を身にまとっている。人形のような顔立ちに、サラサラと柔らかくなびく黒髪の、どこか落ち着いた、おっとりと上品な雰囲気を与える娘だ。しかし、口調だけはその印象から外れ、一字一句をはっきりと発音して話す様子は、アニメのしっかり者のヒロインを彷彿とさせる。
早くも衣替えをした、半袖の可愛らしいデザインのポロシャツからは白く華奢な腕が瑞々しく伸びていた。改めて、おはようございます、と私に挨拶をした紗奈ちゃんに、こちらも挨拶を返す。紗奈ちゃんはなぜか私のことをとても良く思っているようだけれど、それは本当に買いかぶりすぎだと思う。一緒に居ると自分が情けなくなって来るほど、彼女は礼儀が正しい。
私たちが住んでいるマンションから数分ほど進んだところにある、駅前の踏切までは私たちの通学路は同じで、そこから踏切を渡らず左に行くと私の通っている高校に着き、踏切を渡ったあとまっすぐ商店街を抜けると、紗奈ちゃんの通っている小学校がある。
「踏切のとこまで一緒に行く?」
私がそう誘うと、紗奈ちゃんのきりっとしていた顔が嬉しそうに、ほにゃ、と緩んだ。
「はい!」
そして、私のいる踊り場まで下りようと、足を踏み出した。
あっ、と、悲鳴ともつかないような気の抜けた、小さな声が紗奈ちゃんの口から漏れ、その瞬間身体がこちらに傾くのが分かった。
紗奈ちゃんが足を踏み出した所には、昨日の雨で濡れた落ち葉が溜まっていて実は滑りやすく危険だった……というのはもちろん後から気づいたことで、実際に紗奈ちゃんが足を滑らせてから私と衝突するまでの時間は、私がやばいと思って体を硬直させることを許さないほどのほんの一瞬。
紗奈ちゃんの身体が重力に従ってこちらに向かっていることに気付いた次の瞬間、衝撃に備える暇もなく私の意識は一瞬、身体を離れた。
私と紗奈ちゃんの距離は実際のところ段差にしてほんの数段ほどしか離れていなかったけれど、それでも質量を持ったもの同士が衝突するとやはり、どしん、と重い威力を放つものなのだ。
私の身体は脆い人形のように、また、耐えることを許されないドミノのように、為す術もなく、身体中にじわりと広がりはじめた鈍い衝撃とともに床に接近していった。
実際に意識を失っていた時間はきっと一秒にも満たないのだろうけど、私にとっては一度世界がリセットされたかの様に思えるほど、意識の深い部分まで一気に消滅したような、そんな重大な感覚を覚えていた。
はっ、と、一度どこかに出かけてしまった世界が私の中に再度戻ってきた時、徐々に機能を取り戻していく意識とともに、私は、頬に何か、固くて柔らかいものが当たっている感触を覚えていた。
固くて柔らかいもの?
けれど固くて柔らかいものとしか言いようがないのだ。どこか懐かしいこの感触はなんだろう。
ゆっくりと身体を起こして周りを見回す。私はどうやら階段の踊り場でうつ伏せになって倒れていたようだった。思考に支障をきたすほどに主張する痛みも特にない。無事、だったのだろうか。
ふと、背中に違和感を覚える。圧迫されているような固い感覚。ギュム、という感じの軋む音。なぜか既視感が脳に走る。
そして自分が何か柔らかく、温かいものの上に乗りかかってしまっていることに気付く。下を向くと、私はいつの間にか、仰向けに倒れている、制服を着た女子高生の上に馬乗りになっていたようだった。さっき感じた柔らかいものはこの女子高生の胸か?
……女子高生の上に馬乗りに?
理解の限界を超えた情報に、脳が拒絶し始めている。
恐る恐る目線を下にやり、自分の姿を確認する。
パフスリーブに丸襟、花形ボタンのポロシャツ。紺色の吊りスカートの細めのプリーツ。乳臭さの若干残る、丸みを帯びた手の甲。
一瞬、タイムスリップを疑ったけれど、そんなはずは無い。状況だけ見れば、さっきと地続きの紛れもない今だ。
俯くと、細い黒髪が肩から流れた。私の髪はもうずっと明るく染めていて、ああ、こんなに黒い髪はいつぶりに見ただろう。けれど髪質は私のものとだいぶ違う……。
うう、と下から呻き声が聞こえ、私は未だ馬乗りになっていたことに気づき、慌てて退いた。地面に手をついて、ゆっくり身体を起こしたその娘は、痛みに耐えるように眉をひそめたまま、薄目で私のことを視界に入れ、そして呆然とした。
「え……?」
漏らした声に聞き覚えがあるということは、私にとって本当に認めたくない事だった。
その娘のことを見ると、まるで心臓にヘドロを詰め込まれたような感覚に襲われる。
コテで巻かれた明るい髪。だらしなく着こなした制服。短く折った、模様の入ったプリーツスカートに、だらりと緩めた胸元の青いリボン。
身体中のありとあらゆる細胞がその事実を認めたくないと拒否しているけれど、客観的に観察すると、どうしても、どう考えても、その娘は。
私だ。
「わたし……?」
思考がそのまま口から出てしまったかと思ったがそうでは無い。掠れた声で発したのは目の前の女子高生、というかわたし、というか。とにかく、私の方を見て唖然としているその娘がこぼした言葉だった。
とっても嫌な予感とともに、その娘に向かって、
「紗奈ちゃん……?」
と、問いかける。
さっき、聞いた声が今では自分の喉から発せられる、という絶望的な不思議。
「お姉さん……?」
目の前のその娘は、私が鏡の前でも見たことがないような、変顔一歩手前の青白い顔で、声を震わせながら答えた。
小学生の時に読んだ、児童小説を思い出した。
次に、数年前に大ヒットした青春アニメ映画が頭に浮かんだ。
ああ。
認めたくないけれど。
私たちは。
私たちは……。
入れ替わっている。
***
「ええ、どうも朝から体調が優れないようで。ええ、ええ、はい、ありがとうございます、はい、失礼しまぁす」
ふう、と息をついて受話器を置く。
「どうだった?」
振り返って紗奈ちゃんに聞くと、ぐー、と親指を立てて称賛のサインを私に示した。
「似てたかなあ」
「ええ、似てました。やっぱり親子ですね」
「声だけだけどね」
そう、中身は全くの他人である。
私と紗奈ちゃんが入れ替わってしまってから、二時間ほど後。治めたくなくても時間が経てば勝手に混乱は治まってしまうもので、入れ替わった直後はぼろぼろ涙をこぼしていた紗奈ちゃんも、今ではすっかり冷静さを取り戻してしまっている。
取り敢えず、小学校には休む旨を伝えなければと考えたところ、紗奈ちゃんの肉体を持つ私が、紗奈ちゃんのお母さんの声真似をして連絡をすることになった。身体が変わっても口調なんかは大人のそれなので、案外似ているというのは本当かもしれない。逆に、私の声を持つ紗奈ちゃんは、外見に似合わずちょっと幼い話し方になっていて、こちらとしてはむずむずする。なんか、恥ずかしい。あと私、他人から聞くとそんな声だったんだな……。
さて。
私は紗奈ちゃんに向き直る。
「さっき私たちは、階段の踊り場でぶつかって入れ替わってしまった訳だけど」
「ええ、そうですね」
「となると、普通に考えて、同じことをもう1回すれば元に戻るはず、多分ね」
「ふむ。なるほどです」
というわけで。
「えっほ、ほんとにいいんですか!?」
階段の上の段にいる紗奈ちゃんが半ば悲鳴のような声で私に聞く。私達は部屋を出て、元に戻るため、入れ替わる直前の構図を再現していた。
「どんとこーい」
私は手をパチンと叩き合わせた後、ガバッと受け止めるように両腕を開く。そう、たしかあの時は落ちてくる紗奈ちゃんの方を向いたまま、仰向けに倒れたんだ。だからこの体勢でいい、はず。
「いやでも、お姉さん死んじゃいます!」
「わ、私そこまで太ってない、から多分大丈夫!」
「で、でも……」
私だって不安じゃないと言えば大嘘になる。小学生が高校生にぶつかるのと、高校生が小学生にぶつかるのでは大差も大差。ダメージは計り知れない。でも。
「多分、これで元に戻るから!」
紗奈ちゃんが、覚悟を決めたように唇をぐっと引き締めた。足を踏み出す。そして。
「ぐぎゃっ!!!」
身体に鈍器がぶつかるような衝撃が走る。ただ、痛みより先に身体に巡ったのは失望だった。仰向けになった自分にのしかかる体温。世界は今度は途切れず、持続したままただただ衝突しただけだった。
うーん。
私の胸元から起き上がった紗奈ちゃんと、近距離で目を合わせる。何度瞬きしても、目の前に見えるのはちょっとメイクが崩れた私の顔だった。
「逆だったのかなあ……」
私が落ちる側、紗奈ちゃんが受け止める側……の方が良いのかもしれない。挑戦あるのみだ。
***
「いだ!?!?」
***
「あがぁ!!!」
***
「ぐええっ!?!?!?」
***
「ぎゃっっっ!!!!」
***
何度目の、絶望だろう。身体中に走るじんじんした痛みとともに目を開ける。私の上にうつ伏せで乗った紗奈ちゃんも、もう起き上がる力もないのか、そのままの状態で荒い呼吸をしている。数え切れないほどの自傷行為を繰り返し、私はようやく今自分の置かれている状況を理解し始めた。
あれ、もしかしてこれ、結構やばい感じ?
明らかに、"これじゃない"ことは確かだ。多分、千回繰り返したって元には戻らない。
「え……。どー、しよ」
私の力の抜けた呟きに反応するように、紗奈ちゃんがのろりと起き上がった。私は寝転がったまま、真上にある自分の顔を見つめる。私の顔が、緩やかに、でもどんどん歪んでいくのが分かる。細い眉がなにかに耐えるように中央に寄って、色のついた唇がひくっと震えて、マスカラが滲んだ、ように見えて、頬に温かい何かがぽとりと落ちた。
***
「どおーずるんでずがぁぁぁ!」
紗奈ちゃんが、嗚咽しながら絶叫した。
あれから私は、ぽろぽろ涙を流しながら放心状態になっている紗奈ちゃんの手を引いて、一旦野々村家に帰った。紗奈ちゃんは、リビングの椅子に座ってしばらくは涙を流したまま唖然としていたが、数分経つと、ようやく状況が掴めてきたのか、号泣を開始した。
「もどでぃもどれだぁいぃ!!!」
元に戻れない、と多分言っている。紗奈ちゃんはひぐひぐひーぐひぐっ、と絶妙なリズムを刻んでしゃくり上げた。私はコップに水を入れて、紗奈ちゃんの前の机にコツ、と置いた。
その水を一気に喉に流し込んだ紗奈ちゃんは、それでも数十分ひっぐひっぐと泣き続けたあと、また茫然自失の状態に戻ってしまった。
「どぉしよ……」
私も椅子に腰かけて、背もたれに体重を預けて視線をぐら、と天井に向けた。途方に暮れる、という言葉はこんな時のためにあるのか、と理解した。
私達はぐったりして、ほとんど会話も交わさないままなんとか昼ごはんを済ませ、気づけば外は薄暗くなってきていた。
ガチャリと、ドアの開く音がした。ソファに座ってくたばっていた私と紗奈ちゃんは、驚いて玄関の方に視線を送る。部屋に入ってきたのは、仕事から帰った私の母親だった。染めた髪をひとつに結んだ、子供の年齢にしては若々しい見た目の私の母は、仕事終わりの疲れた顔で私を一瞥し、
「ああ、七海、リビングに居たの。あれ?隣に居るのは……角谷さんちの娘さん?」
母の言葉にビクッと反応した、私の隣に居る紗奈ちゃんが、我に返ったようにソファから起き上がり、きりっと居住まいを正した。
「あ、はい!お邪魔してます!」
「……?」
いきなり他人行儀に話し始めた実の娘に、私の母親は不信そうに首を傾げる。
ま、まずい、と思って、慌てて声を上げる。
「あ、いえ、私が、角谷紗奈です!お邪魔、してます!」
「そ、そう……。君ら、仲良かったのねえ……」
明らかに様子のおかしい私たちに、多少のことでは動じないうちの母親も、ちょっと不思議そうな顔を浮かべた。
紗奈ちゃんが言うには、紗奈ちゃんのお母さんも、夕方には家に帰ってくるそうだ。お互いの親に事情を話す、という訳にもいかないし、取り敢えず一晩はそれぞれの家でどうにかやり過ごすしかない。
明日また学校を休み、二人きりになった時にまた解決策を考えようと約束し、私達は隣合った、別々の家に別れた。
夜になると、私は紗奈ちゃんのお母さんが作ってくれた夕飯を少し残して、そそくさと紗奈ちゃんの部屋へと足を急がた。できる限り会話量を減らしたかったのだ。紗奈ちゃんのお母さんには心配されたが、私は明日、体調が悪いとうそぶいて学校を休むつもりなので、むしろ伏線になるかもしれない。都合がいい。けれど、出来ることなら今日のことが全部夢でありますようにと願って、私は紗奈ちゃんのベッドで寝た。
翌朝目を覚まして、ぼんやりとした頭で寝返りを打つと、何やらスカッとした感覚に意識がねじれて、じきに明瞭になっていく。なんだと思うと、あるはずの胸の膨らみがない。というか、パジャマが違う。
ああ、そうかと気づく。私は昨日、紗奈ちゃんと入れ替わってしまったのだ。自分で言葉にして笑いだしそうになる。なんだ、入れ替わるって。悪夢はまだ続いていたようだ。
デフォルメされたうさぎがドット柄のように散りばめられた模様の毛布を跳ね除け、ベッドに腰かける。昨日つけたクーラーを消し忘れてしまったようで、部屋の中は涼しかった。朝になって改めて思うが、やけにファンシーな部屋だ。全体的に淡いピンクで統一されていて、毛布にもプリントされていたうさぎのキャラクターが部屋の所々に顔を見せている。紗奈ちゃんの雰囲気にはとてもあっていると思う。私もこんな部屋に憧れていた時期があったような気がする、多分。
紗奈ちゃんのお母さんは台所にいた。包丁で何かを切っているのか、リズミカルな音が聞こえる。私は努めて弱々しい声を出してみる。
「ねえ、お母さん……」
「なあに?紗奈」
温かみのある優しい声が返ってきた。微かに罪悪感を覚える。
「あ……、えっと、今日ちょっと体調悪いから、学校、休むね……」
紗奈ちゃんのお母さんが、振り返った。栗色のボブが揺れる。細くて、綺麗で、柔らかい雰囲気を持った優しい人だ。割と肝っ玉母ちゃん的な母親を持つ私としては、なんか、気まずい。
「あら、大丈夫?熱はあるの?」
紗奈ちゃんのお母さんが近づいてきて、私のおでこに手を当てた。少し水で濡れた、ひやりとした感触が額から伝わってくる。
「発熱はしてないみたいだけど、しんどい感じかな。頭痛とかは大丈夫?」
「あえ?あ、えっと、お腹が、痛い、かな」
「あら、そうなのね、分かった。学校には連絡しておくから」
「あ、うん。ありがとう……」
そう言って部屋に戻ると、私は頭から毛布を被って声にならない声を上げた。私、紗奈ちゃんじゃないんですよ!ニセモノなんですよ!背中のチャック開けたら汗臭い女子高生が入ってんですよ!仕方の無いことだけど、騙しているようで、良心が痛む。
ベッドに寝転がって大の字に四肢を伸ばした。小さい身体。薄い胸。高くてちょっとハスキーな声。自我がどこか揺らいで不安がつのる。紗奈ちゃんにはやく会いたい。
しばらくすると、ドアをコンコンとノックする音が聞こえた。
「じゃあ、お母さん、結衣を保育園に送っていって、それからお仕事行ってくるからね。何かあったら連絡してね。お昼ご飯は冷蔵庫に入れてあるから、食べられそうだったら食べてね」
結衣、というのは紗奈ちゃんの妹だ。近くの保育園に通う、五歳くらいの女の子で、以前からちらっと姿を見かけることはあった。
はあい、と返事をすると、程なくしてガチャっと玄関のドアが開く音がし、結衣ちゃんの無邪気な声と紗奈ちゃんのお母さんのたしなめる声が遠ざかって行った。
ふうう、と盛大にため息をついて私はベッドから下りる。そろそろ野々村家も紗奈ちゃん一人になる時刻だろう。父親が単身赴任で家を離れ、数年前に姉が一人暮らしを始めた野々村家は、現在は私、野々村七海とその母親の二人暮しである。そしてその母親も、きっともう仕事に向かう頃だ。
私は、何か洋服を着ようとクローゼットの中を覗き込んだ。クラシカルな、品の良さそうなデザインの服がずらりと並んでいる。欲を言えば一つ一つの服を取り出して眺めたかったのだが、その気持ちは押し殺して適当に目に付いた服を手に取った。
綿素材の、ヒラヒラしたパジャマを脱ぐ。成長途上の控えめな胸があらわになった。他人の裸ではあるけれど、本人の目線で見てしまうと、見てはいけないものを見てしまったというより、懐かしいなという気持ちの方が強くなる。私にもこんな時期、あった。
下着はクローゼットの下の引き出しに畳んで入ってあった。胸の部分が二重になっているキャミソール、ああ、私もかつてはこんなの着てたな。それを着用したあとに、袖の膨らんだブラウスに、黒いジャンパースカートを合わせた。背中の方にリボンが着いていて可愛らしいデザインだ。
鏡で自分の姿を見てみると、思わず笑みがこぼれてしまった。か、可愛いじゃん。ドールみたい。これはなかなか、着せ替え遊びが捗りそうなビジュアルである。
流石に私の母親も仕事に行っただろうと踏んで、私は野々村宅へ向かった。新鮮な気持ちでチャイムを押す。自分の家だけど、一応ね。
「は、はーい」
部屋の中から、女にしては低めの、私の声が響いた。やっぱり入れ替わってるんだと再確認させられる。
「お姉さん、おはよう、ございます」
ドアが開いて、紗奈ちゃんが姿を現した。紗奈ちゃんも私の持っている私服に着替えたらしく、夏らしい、薄手のTシャツを着て。着て……。
「ねえ、紗奈ちゃん」
「はい」
「あの……」
「はい」
「その……」
「はい?」
薄手の、Tシャツ。の、その。あのね。
「ブラジャー、つけた?」
***
「ブラジャー、つけた?」
お姉さんの問いに首を傾げる。
ブラジャー?ぶらじゃー。ぶら……。目線を胸元にやる。途端、体温が急上昇するのが分かった。
「あの、いえ違うんです。急いでて。なんか着なきゃって、それで」
それで。必死に弁解をはかる。何に対しての弁解なんだろう。つけてないことは事実なのに。お姉さんはわたしの顔を見て苦笑している。
「うん、分かったから。一旦、家に入ろう。そして、着替えよう」
「は、はい」
お姉さんが慣れたように家に入り、そのままお姉さんの部屋に入っていった。わたしも続けて部屋に向かう。
わたしがさっきまでいたお姉さんの部屋は、はっきり言ってとっても汚かった。無論、わたしが汚した訳では無い。元からこうだったのだ。
部屋中にくすねてある洋服。床に林立するペットボトル、缶。ゴミ箱から飛び出したお菓子の袋。恐らく学校のものと思われるプリントは、床にそのまま積み上げられてビルのようになっている。机の上には文庫本が積まれていて、こちらは塔のようだ。でも、難しいタイトルの本ばっかり。小説なのかな。やっぱりお姉さんはお姉さんなんだなと、思った。
「いやー、ごめんね。こんな汚い部屋押し付けちゃって。嫌だよねえ」
部屋を見回して、お姉さんが申し訳なさそうに言った。
「いえいえ!全然大丈夫ですよ!」
本音である。お姉さんの部屋だし。なんかお姉さんの匂いがするし。むしろちょっとなんか嬉しいし。
お姉さんが引き出しから黒いブラジャーを引っ張り出した。見たところ、お母さんが使ってるのより、大きい。そうなんだ……。ちょっと下を向いて、胸元を確認して、ほう、と頷いた。
「はい。これ使って」
「あ、ありがとう、ございます」
お姉さんからブラジャーを受け取って、着ているシャツに手をかける。手をかけて。
「え、お姉さん……」
ここに、いるんですか。
お姉さんはベッドに腰かけて、うーん?とあまり興味無さそうにこちらを見ていた。でも、そうですよね。見たって自分の身体、ですしね。
そこでふと気づく。お姉さん、着替えてる。わたしの、わたしの裸。は、はだかぁ!?みら、みられ!?
全身の血が一気にぶくぶくと暴れ出す。
「お、お姉さん、き、着替えたんですか!?」
「え?あ、ああ、うん。そう、だけど」
お姉さんは戸惑ったように頷いた。
「は、へ、ほえ。ど、どーでしたか」
自分でもよく分からないことを言っている。
「え、どうって……。ああ、可愛い服、持ってるよね。羨ましい。紗奈ちゃん、似合うもんね」
「あ、ひゃい」
わたしはなんだかよく分からなくなって、シャツをがばっと脱いだ。目の前の鏡に、お姉さんの裸体が写る。白いなめらかな肌に、深い影が映えていた。キュッとしまったウエストとか、身体の凹凸なんかで、ああ、大人なんだなって。一瞬見惚れて、ハッと我に返る。顔が熱くなる。見てはいけないものを見てしまっている気がする。実際多分、まじまじと見ていいものでもない。
「あ、ぶらじゃあ」
黒いそれを手に取って、つけようと、する。初めてなのだ。こんなことするの。肩の紐に両腕を通すと、鏡で正面から見たところ、胸がパッドに隠れて広告なんかでよく見る姿になってきたような気がする。お姉さんの方をちらっと見ると、何やら険しい顔をしていた。な、なんだろう。
背中のホックをつけようと、腕を後ろに回す。しかしこれが上手くいかない。フックになっている金具に掛ければいいのだが、なにせ目視できないので、どうもはまらない。
「私がやるよ」
お姉さんが、ベッドから立ち上がってわたしのすぐ背後に来ていた。金具を手に取って、さっきのわたしの奮闘が嘘みたいにスムーズに留める。それからわたしをその場に座らせると、わたしの後ろから覆い被さるように肩から腕を出し、今つけたブラジャーの中をまさぐり始めた。すごく、くすぐったい。お姉さんの白いおっぱいが、お姉さんの手の動きに合わせて形を変える。や、柔らかいんだなあ。
「な、何してるんですか?」
そう聞くと、お姉さんの動きがピタリと止まった。見ると、鏡を直視して固まっている。この絵面、やべえな、とぼそっと呟く声が後ろから聞こえた。鏡を見ると、小学生が、高校生のブラジャーの中に手を突っ込んで、胸を揉んでいる。ほんとですね。なんだろう、これ。
お姉さんは小さくため息をついて胸から手を離した。
「はみ出してた胸をブラの中に入れてただけだよ。しかし、」
自分の裸を客観的に見るってなんかやだね、と言ってベッドにドサッと腰掛けた。
俯いて確認すると、ああ確かに。さっきは出来てなかった谷間が生まれている。お姉さん、下着屋さんみたい。
わたしは脱いでいたTシャツを着て、もう一度鏡に向き直る。うん、今度は大丈夫。さっきより胸が張っているようだ。Tシャツのお腹の部分に、胸の高さの分の隙間が空いていた。
着替えも終えたところで、早速本題に入る。
「お姉さん、何か案はありますか」
わたし達が一刻も早く元に戻るため、出来ることはせねば。
お姉さんはしかめっ面で首を振った。
「思いつかないよ。昨日のが無理だったんだもん」
「以前テレビでやってた映画ではお酒を飲んで入れ替わるシーンが……」
「うーん、それと、これとは……、てか、紗奈ちゃんあの映画、映画館で観てないんだ」
「はい。公開された時は小さかったので……」
「うーん、それはジェネギャ……、じゃなくて、」
どうにもならないなあ、と呟いてお姉さんは天を仰いだ。
「あの、昨日ネットで調べたんですけど、入れ替わる呪文があるとか!」
お姉さんは胡散臭いものを見るように、ちょっと目を細めた。
「……ほお」
「やってみませんか?」
お姉さんはうーん、と唸った。呪文、ねえ、と疑わしそうに繰り返す。
「どうだろう……。まあでも、」
縋ってみるに越したことはない、かな。お姉さんはそう言って、わたしに向き直った。
「どうやってするの?」
「はい!まず、入れ替わる二人で手を繋ぎます!」
お姉さんと向かい合って手を繋いだ。握る手の小ささに驚く。わたしってこんなに手、小さかったんだ。
「それから、二人で声を合わせて"ルーワカレイ"と唱えます」
「ああ……、うん」
「いきますよー?せーの!」
「「ルーワカレイ!」……」
……今気づいたけど、わたしの頭頂に一本白髪あるなあ。
「紗奈ちゃん、これ、なんて名前のサイトで調べたの?」
相変わらずわたしの顔をしたお姉さんが、呆れたような声で聞いた。
「え?サイト名ですか?えっと……、まじかる☆みらくる 絶対当タル!?明日からクラスの人気者♡♡ いつでも使えるオモシロ占い&呪文百二十選☆ これで君も……」
「うん、ごめん。もう、いいよ」
スマホを取りだしてサイト名を音読し始めたわたしを、お姉さんがバッと右手を掲げて制止した。
「だめでしたねえ……」
「うん……。そう、だね」
わたしがもう一度踊り場ダイブをしてみませんか、と提案すると、お姉さんは躊躇いがちにと頷いた。
わたし達は野々村宅を出て、階段へ向かった。エレベーターはまだ使えないようだった。
じゃあわたしが下に行きますから、と言って踊り場に降りようとした時、何かがショートパンツのポケットからするりと落ちたような気がした。わたしのスマートフォンだとすぐに気づく。踊り場の床から、固いものがぶつかるような音が響いた。一瞬、身体が痺れるような感覚が走った。やっちまった、と思う。
スマートフォンを取りに慌てて階段を下りる。落ちているスマートフォンを確認すると、どうやら操作には問題は無いようだ。しかし、
「あー……。横、割れちゃったね」
わたしの隣に来たお姉さんがスマートフォンを見て言った。カバーをつけていないせいで、スマートフォンの右上の側面に削れたような大きく傷がついてしまっている。
少しの間、わたしとお姉さんの間に沈黙が流れた。
「あの、お姉さ……」
「あらー?どしたの、こんなとこで。学校は?」
静かだった空間にいきない響いた大声に、思わず驚く。見ると、階段を登ってきたスーパーの袋を持ったおばさんがわたし達の方を見て、心配そうに眉根を寄せていた。
「あ、えっと……」
言葉につまる。つい、忘れていた。いくら昼間は人通りが少ないからといって、エレベーターが復旧していないのだから階段を通る人だっているだろう。横を見ると、お姉さんもしまった、という風に顔をしかめている。
「あ……、その、わたし達、ちょっと、今日、学校休んでまして……、その」
「あら、そうなの?よく分からないけど、危ないことはしちゃダメよ~」
おばさんも特にわたし達に興味は無いのか、狼狽えているわたし達を軽くスルーして上の階へ登っていった。
おばさんが完全に姿を消した後、お姉さんと顔を見合わせる。
「……部屋、戻ろっか」
「……はい」
部屋に戻ったわたし達はやることも無く、無為な時間を過ごした。わたしが割れたスマホを眺めていると、お姉さんが、
「紗奈ちゃん、スマホケース使ってないんだね」
「はい、そうなんです。……お姉さんのスマホケースは可愛いですね」
お姉さんの手にあるスマホは、つけているケースにラメが入っていて、光に反射してキラキラしている。
「そう?」
お姉さんはスマホを見て首を傾げた。
「はい。大人っぽくていいなあ」
わたしはそうぼやいた。
***
「紗奈、まだ、体調悪い?」
私は毛布で顔を隠したまま、首を縦に振った。紗奈ちゃんのお母さんの心配そうな声色を聞いていると、どうしても罪悪感が募る。
「……そう。じゃあ、お仕事行ってくるね」
作ったような明るい声には私への心配が滲んでいた。形にせずに呑んだ言葉が沢山あることを、言葉の間の少しの沈黙が顕著に伝えている。
学校を休み続けて数日がたった。きっと私が嘘をついていることはとっくに勘づいているのだ。それでも何も言わないのは、何か事情があるということを察してくれているからに違いない。それだっていつまで続くか分からないけれど。
部屋のドアがゆっくりと閉められ、しばらくして家の中には静寂が訪れた。
私は盛大にため息をついた。嘘をつき続けるのは苦しい。紗奈ちゃんのお母さんは、何気ない風に振舞っているけれど、私のことを痛いほど心配してくれているのが分かる。
今日一日やり過ごせたとして、明日はどうだろうか。明後日は。その次は。一人で抱えるには重すぎる不安に顔がくしゃっと歪みそうになる。
胸にのしかかる暗い感情を抑えるようにふっと息を吐き、私はベッドからおりると、着替えに取り掛かった。隣にいるたった一人の、不安を共有できる相手に会いに行くために。
***
「……わたしのせいですよね」
野々村宅にて、窓枠に肘を置き、遠い目で外を眺めていた紗奈ちゃんが、ぼそりと言った。
為す術もなく時間を浪費している平日の昼過ぎだった。私達は野々村宅で、何かをすることも無くただぼんやりと過ごしていた。
「何が?」
私は、ぼやっとした意識で返す。紗奈ちゃんのお母さんが用意してくれた昼食は、紗奈ちゃんに食べてもらった。代わりに食べるため、買ったコンビニ弁当は紗奈ちゃんの身体には少々量が多すぎて、オーバーした満足感が眠気に直結している。しかし、紗奈ちゃんは私の身体で、いつもの私の食事量を軽く超える量を平らげていたので、もしかすると食欲の差は魂の問題なのかもしれない。
「いえ、わたし達が入れ替わってしまったこと、元はと言えばわたしがつまづいて、お姉さんにぶつかってしまったからで……」
紗奈ちゃんは珍しく弱々しい声で答えた。
「うーん……」
まあそういえばそうなんだけど。どうしてくれんだー、と怒ったっていいかもしれないけれど、どうしたって怒りは湧いてこない。
「まあ、仕方ないよ。どうしようもない事なんだから。そんなこと言い始めたら、キリがないよ、多分」
「そう、ですかね」
「そうだよ、多分」
「怒って、ないですか」
紗奈ちゃんは気まずそうに目を伏せた。自分より背の高い人間が明らかにしゅんとしている様子が、なんだかおかしかった。
「怒ってないよ。こういうことで怒らないよ」
「……どういうことで怒るんです?」
「え?……うーん。怒る……。どう、だろ。よく分からないな」
紗奈ちゃんは、そうですか、と少し不思議そうに首を傾げながら返した。
静かな時間が流れていた。窓の外を見ると、駅から先の見慣れた町の風景が、広がっている。この時間帯であると、あまり賑わいは見られないようだ。コンビニ、塾なんかは夕方には学生で溢れるのに。ぼやっと眺めていると、駅前にある小さなコロッケ屋から、若い男性が出てくるのが小さく見えた。
町には、低い建物が並んでいる。それからずっとずっと視線を先に送ると、標高の低い山にぶつかる。あの山を越えて、ずっと先に行けば海が。もう少し暑くなれば、海にでも行こうかなと、頭の中でぼんやりとした記憶を使って電車の路線図を描く。
「お姉さん、この町、好きですか」
紗奈ちゃんが、窓の外をじっと見つめながら、静かに聞いた。私は、その質問の意図を図りかねてしばし言葉につまる。この町。私たちの街。どうだろう。
「うん……。私は、好きだよ、多分。愛着があるし」
「そうですか。わたしは、」
あまり好きではないですね、と紗奈ちゃんが言った。
どうしてか聞くと、
「だって、田舎くさいじゃないですか。わたし、都会に住んでみたいです」
「うーん、それはまあ……。大学とか行ったら、一人暮らしとかも出来るんじゃない?」
私がそう言うと、紗奈ちゃんは柔らかいところを探られたように、ぎゅ、と表情を固くした。
「お姉さんは、大学、とか行くつもりなんですか」
なにかに耐えるような、それでいて硬質な声だった。私は少し考える。脳の中で滑る思考が柔らかい部分をするりと避けて、大丈夫な言葉を探す。
「……つもり、というか。行けないんじゃないかな、多分」
「そうなんですか?」
「うん。行く人はもう勉強とか、準備進めてるはずだから」
「そう、なんですか」
「……私は元々、卒業だって危ういくらいだし」
そうなんですね、と呟いて紗奈ちゃんは安心したように表情を微かに緩ませた。心配してくれているのだろうか。確かに、私がもっとちゃんとした人間だったら入れ替わるなんておかしな状況、耐えられないかもしれない。きっと自暴自棄になっていただろう。
中学の時はもっと成績良かったのになあ……。卒業が危うい、なんて自分で言っておいて、ちょっと刺さってしまった自分に呆れる。
それから私達は大した会話も交わさないまま、ただ二人で外の景色を眺め続けた。時間が止まったようだった。頼むから、そうなってくれないかと思った。
六月も中旬に向かい始めた今日この頃。正午頃には青空の見えていた空も、ゆっくりと灰色の雲が覆い始めて、ぽつぽつと雨が降り始めた。二人で眺めていた外の景色も、窓に落ちた水滴でぼやけ、外との断絶が深くなったような気がした。小学校に置いてある、児童用の黄色い置き傘が、商店街の向こうから見えたような気がした。