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我が魚戸家は朝方家族である。両親をはじめ、その生活習慣を刷り込まれた俺たちもまた、アラームなくとも決まった時間に起きれるし、寝覚めが悪いなんてこともほとんどない。平日も休日もそれは変わらず、みんな呪われたように決まった時間にリビングに集まるのだ。
ゆえに、白昼夢か何かだと勘違いしたくなるような馬鹿げた一日を乗り越えた翌朝でも、この習慣が揺らぐことはなく、俺は体内時計に叩き起こされるように5時50分ぴったりに目を覚ました。しかし、身体は重い。これほど朝に不快感を感じるのもいつぶりだろう。目を覚まそうとカーテンを開けて日を入れても、さわやかに晴れ渡っている空に余計嫌悪感を抱くだけだった。
気だるさに後ろ髪引かれながらリビングへ赴き、手の凝った朝ごはんを食って色々支度を整える。
父は体育教師、母は植物園の職員。仕事柄二人ともそれなりに朝早いことが多い。日向子も中総体を控えているため毎日朝練である。我が家の朝に慌ただしさはないが、三人とも支度を終えたらすぐに家を発つ。早起きする意味などあるのかと疑問に思うほど時間を持て余すのは俺だけである。食器洗いと洗濯物干しという我が家の頭領から賜わった使命を果たしたとしても40~50分くらい暇になる。普段なら適当にテレビや動画を見て時間を潰したり、前日に残した宿題をやったりするのだが、この日はどうも寝足りなくてギリギリまで仮眠をとることにした。その結果、今度は念のためセットしておいたスマホのアラーム音に叩き起こされる羽目になり、余計に寝覚めが悪くなった気がして散々だった。
いつもの時間になったら火元と戸締りを確認して荷物を持って玄関へ。別に待ち合わせているわけではないのだが、いつもなら家を出てすぐの曲がり角で文香とばったり出くわすのでそのままの流れで一緒に登校している。これも体に刻み込まれた習慣だ。思い返してみても、高校に入ってから登校が別々だった日に心当たりがない。もちろん、先週のような欠席、あるいは公欠の日は例外だが。
昔は歩翔とも一緒に登校していたものだったが、中学校に進学するときにアパートから一軒家に引っ越してしまったため、今では2,3kmくらい距離がある。今でもバス内で合流することはあるが、歩翔は時間に細かくないし、気分屋なので今となっては登校時は別行動なことが多い。
一週間ぶりに会う文香の顔を想像しながら、あの毎日がまた戻ってくるのだなと俺はひそかに胸躍らせた。勉強が面倒だ思うことはあれど、学校そのものが苦痛だと思ったことはない。新しい環境に変わり不安もあるが、あいつらとまた時間をともにできるというのはそれだけ嬉しいことだった。
そんないつもの日常を想像していたものだから、玄関先で文香がインターホンを押そうと手を差し伸べていたところに出くわして面食らった。長年培ってきた習慣も今日は微妙に通用していないみたいで調子が狂う。
「あ、おはよう。勝助」
いきなり扉が開いたことには驚いたようだが、話しぶりはいつも通りで動揺は見えなかった。俺は声を詰まらせながらおはようと返した。
「ジャストタイミングじゃん」
「何でうちまでわざわざ?」
「何でって、そりゃ心配してたからだよ。一週間ぶりなんだよ。元気な顔も拝みたくなるじゃん。大丈夫だった?」
「大丈夫だったかと聞かれるとそんなことはなかったけど、今はもう元気だよ」
話をしながら玄関に鍵をかけ、隣に立って太陽の方へ歩く。二度寝起きなので降り注ぐ日光がまた瞳孔に刺さるようだった。
「そっかそっか。それは何より。でも、あんま無理しないでよ。あんた自分に鈍いんだから」
「昨日歩翔にも同じようなこと言われたよ」
「あはっ、マジ?ウチら一緒にいすぎて思考も言動も似てきてんのかな」
楽しそうに笑みを浮かべて話すこの少女こそ、俺の信頼するもう一人の幼馴染、百瀬文香である。身長は161cmと女子にしては高め。肩ほどまで伸びたブラウンの髪はいつも一つにまとめられており、持ち上げられた髪の隙間からうなじが垣間見える。小顔だし瞳も大きいし肌のキメも細かい。控えめに見てもかなりの美形であると言って差し支えないだろう。体つきに関しても、空手部に所属していて筋肉もあるしスタイルもいい。パワフルでスポーティーな美少女って感じだ。
性格は真面目で努力家。落ち着きがあって、大人びているとよく言われている。実際、よく周りを見ているし常識もあるし頼れる奴だ。だが、先述した通り人との距離感を慎重に見定める気質があり、距離を詰めるの詰められるのも苦手である。それゆえ第一印象でクールビューティーで一匹狼な感じに捉えられてしまうのか、一目置かれて高校ではあまり友達が作れていないようである。同級生で絡みがあるのは同じ空手部員くらいだろう。仲いい奴の前では結構おしゃべりだしよく笑うし、愛嬌あって楽しい奴だ。コスメやファッションに精通していたりとか、実は筋肉太りを気にしていたりとか、年相応の女子高生っぽい可愛らしい一面も結構ある。本当はそういう魅力が沢山ある奴なので、俺としては学校で孤立気味なのはかなりもったいなく思う。歩翔のように人気者になれるポテンシャルはあるはずなのだが。
「今日は何食べたのー?」
「ん。白身魚のムニエルだった」
「いいね。相変わらず凝ってるなぁ。朝なのに」
これはいつものやり取りだ。文香は魚戸家恒例のちょっと豪華な朝ごはんに興味津々らしい。泊まりに来たときなんかはいつも朝から幸せそうである。
「そうだ、お前さ、寝込んでるときに毎日ミーツ送ってくるなよ。挙句通話までかけてくるし。こっちは吐き気と腹痛でうなされてんだぞ」
「ごめんごめん。迷惑なのはわかってたんだけどさ。勝助あんまり体調とか崩さないから心配で心配で。別に律儀に返さなくてもよかったんだよ?」
「だったら最初から送るなよ心配性。返答なかったらそれはそれでお前また不安になるだろ」
「確かに……」
ミーツとはスマホやパソコンで利用できるチャット型のコミュニケーションアプリである。先週一週間毎日のように心配メッセージが届き、俺は頭を抱えていた。余計な心配をかけさせまいと体に鞭打って返答していたというのに、メッセージ送っていた張本人には自重のかけらもなかった。まあ、それだけ心配してくれる人がいるというのはある意味ありがたいことでもあるし、悪く言いすぎるのも気が引けたので、平謝りだとしても免じて許してやることにした。
そんな雑談に身を投じたのもつかの間で、あっという間にバス停に着いた。俺たちはいつも一番後ろの端の席に隣同士になるように座る。文香は基本的にバス内では静かになるので、俺も黙って時間が過ぎるのを待つ。20分弱程度で目的の停留所に着く。文香は部活の疲れからかたまに寝ているときもあるが、今日は元気そうだった。
改札を抜け、どことなく楽しそうに歩く文香と肩を並べて、俺たちは再び学校へ向かう。
「そういえば、聞いた?歩翔のこと。昨日会ったんでしょ」
「ああ、聞いたよ」
「見た?」
「見たよ」
俺の答えを聞くや否や、文香は当時の興奮を再現するように目を見開いて力強く言った。
「やばくない?あれ。マジで超パニックだったもん私」
「ああ、滅茶苦茶動揺してたんだってな。歩翔が面白がってたよ」
「うーわ腹立つー。でもさぁ、動揺しないわけなくない?冗談抜きで夢だと思ったし」
「まあ、目の前であんなの見せられたらな」
「勝助はどうだったの?」
「ん。そりゃ俺もビックリだったよ。言葉が出ないとはまさにこの事って感じで」
「違う違う、そうじゃなくて。かわいかったっしょ?」
「ああ?」
文香はからかうような視線を俺に送りながら、何故かちょっと誇らしげにしていた。昨日歩翔にされたような仕打ちを今度は文香から受けようとしている。疲れが残る体では冗談に付き合う余裕もなく、俺はうんざりして眉をひそめた。
「あのなぁ。中身はあの歩翔だぞ」
「そんな余裕そうなフリして、ホントはちょっとドキドキしたんじゃないの?なんて」
「お前、歩翔の胸揉んだんだろ?俺のことからかえる立場かよ」
これは昨日から気がかりに思っていたことだ。信じがたい話だったし、今日会ったら問い詰めてやろうと昨日の夜は意気込んでいたものだった。だが、今朝になって考えを改め、俺はそれを自重することに決めていた。文香の性格上掘り返すのがかわいそうに思えたからだ。実際かなり混乱していたみたいだし、事実だったとしてもある意味事故みたいなものだったのだろう。散々歩翔に振り回されただろうし、俺にまで切り込まれてはきっとたまらない。むしろ、俺たちは同じ被害者同士なのだ。ここはともに手を取り合い、慰めあった方がお互いのためというものである。
しかし、今日の文香の様子、歩翔の話題に対する踏み込み具合からして、胸を揉んだことは意外とこいつにとっては些細なことだったのかもしれないと俺は思った。そう捉えられても仕方がないほど警戒心のない話題展開。踏み込まれたくない事実があるなら、普通はその話題になることをそもそも避けようとするはずである。だから、それこそ俺につつかれても痛くも痒くもない程度のことなのだろうと結論づけたのだ。文香に対する認識を少し改めなければならないと、そう思っていた。
ところがどっこい。文香はしっかりと会心の一撃をくらっていた。俺の発言を聞いた途端にぴたりと足を止めて、顔を真っ赤に染め上げてこれ見よがしに目を泳がせ、誤魔化す方法を必死に考えている。俺の思慮も配慮もあざ笑うかのような現実。俺が当初から想定していた解釈一致の文香の姿がそこにあった。
「……………揉んでないよ」
「お前嘘つけないんだからやめとけ」
「い、いや。揉んでない」
「やめとけ」
俺は慰めるように声をかけた。責めるつもりもないし、この程度のことで幻滅したりするわけでもない。むしろ、動揺を通り越して怯えているのではないかという具合の表情を浮かべるその姿が心底かわいそうにみえて申し訳なくなった。俺は文香の理解者だ。この件については絶対に味方でいてやろうと心に決めた。
だが、不可解なのはやはり、文香にしてはあまりにも計画性もないし警戒心も薄かったということ。ここまで掘り返されたくないことなら、話題選びにはもっと慎重になりそうなものなのだが。
そんなことを考えていた矢先、次の瞬間に文香がつぶやいた一言がその理由を結論づける。
「誰にも言わないって言ってたのに」
俺は戦慄した。これはつまり、一歩間違えればあるいは俺と文香の立場は逆だったかもしれないということである。あったかもしれない未来が嫌でも想像させられて、その恐ろしさに思わず身震いした。
「……………どんまい。スキンシップとかに積極的なの意外だなぁとは思ったんだけど、混乱してたんだもんな。そういうこともあるって」
当たり障りのないフォロー。文香にとっては気休めにもならなかったらしい。慰めるために肩に添えていた俺の手を振り払うと、文香は弁明をはじめた。
「女が女体嫌いなわけないじゃん!それもかわいい女だったらさぁ!」
これがその弁明の最初の一言目である。いつもは慎重に言葉を選ぶ文香が、えらくでかい主語を使って偏見まがいなことを言い始めたのがあまりにも衝撃的で反応に困ってしまった。
「そもそも、私が嫌なのはガンガン距離詰められることであって、別にスキンシップ的なのが嫌な訳じゃないから!単純に、大して仲良くなったわけでもないのに突然くっつかれたりするとビックリしちゃうだけだから!そうじゃないなら全然ハグとかできるし!心の準備ができてたら、ちゅーでもなんでもしてやれますけど!」
「ちょ、ちょっと落ち着け」
「っていうか、勘違いしないでよ!私自らセクハラしにいったわけじゃないからね!」
「分かってる、分かってるよ。揉んでいいって言われたんだろ?俺もそうだったよ」
「え、オレも……?」
表情も顔色も一転。真っ赤にしていた顔は一気に青ざめ、俺から2,3歩距離をとると絶望して泣きそうになった目で視線を送ってきた。
「勝助……………揉んだの?」
「ねぇよ。断ったわ」
もちろん即答。疑いをかけられることすら心外である。文香は胸をなでおろし、心底ほっとしたように息を吐いた。
「よかった。まじでよかった」
文香から受ける信頼の厚さがどれほどのものかを再確認した。この信頼を守れただけでも歩翔の誘いに乗らなかった甲斐があったと思う。
「にしてもあの馬鹿。男相手になんてことしてるんだか」
「馬鹿なことすんなって言っといたよ」
「おお、流石!」
「お前は咎めなかったの?」
「いや、あの時はそれどころじゃなかったというか……。もう掘り返すのやめない?」
どういう過程を経てそこに至ったのかこの上なく気になるところではあったが、文香の意向を尊重し、俺は渋々口を噤んだ。
やはりあの時変な欲求に流されずに誘いを断ったのは正解だった。もし歩翔の胸に触れていたら、今の俺は存在しないだろう。これほどの信頼を受けながらそれを裏切るようなことになっては恥である。二人とも俺にとっては誇れる親友だ。俺も二人にとって誇れる親友でいてやりたいとつくづく思う。
が、まるで不満がないわけではなかった。
俺は俺の体裁と歩翔の尊厳のためにその誘いを断った。しかし、文香は迷いはしたのかもしれないが、最終的にはその胸に触れることを厭わなかったらしい。
俺たち三人は親友同士、対等な関係のはずだ。今回のことは歩翔にとってはちょっとした戯れで、からかいだった。俺も文香もそれは理解できていたので、同程度の心意気でその誘いに乗っかってしまえば、冗談でしたで済ませることもできたのではないだろうか。なのに、世間体を気にしてみれば、文香が、女になった歩翔の胸を触るのは絶妙ではあるが何のなくセーフな感じがするのに対し、俺が女になった歩翔の胸を触るのはたとえ許しが出ていたとしても滅茶苦茶アウトな感じがする。対等な関係など建前で、どういうわけか俺の方が失うものが多いのだ。なんなら文香と同じ土俵に立つことすら禁忌的にも思える。
何度も言うが俺は俺の判断を悔いていない。思い残すものもない。だが、俺の心は悶えていた。あまりにもずるい。不公平である。
そんなしょうもない物思いに耽りながら会話を続けているとすぐに学校にたどり着いた。
校門を取り囲むように美しいシダレザクラがそびえたち、絢爛たるその立ち姿には嫌でも視線を釘づけにされる。まさに始まりの季節という感じだ。思えば今日は俺の高校二年生としての初めての登校日。クラスも変わるし後輩もできる。新しい環境に対する期待感で自然に顔がほころんだ。
俺たち三人、今年は同じクラスであることはあらかじめミーツで聞いていた。三人同じクラスになるのは中学二年生のとき以来である。きっと楽しい一年になるだろう。俺は密かに胸を躍らせながら、文香とともに新しい教室へ向かった。
2年C組。教室に入り自分の席を確認して座る。一番窓際で前から二番目だ。歩翔は一つ前の席。文香は廊下側二列目の一番後ろの席だった。小学生、中学生の時は出席番号が誕生日順だったので、高校入学時五十音順に並んでいて驚いたことを思い出した。俺と歩翔は五十嵐の「い」と魚戸の「う」でほぼ確実に席が前後になるようである。歩翔はまだきていなさそうだったが、今年は賑やかなスタートを切ることになりそうだ。
周りの生徒をさらりと見渡してみる。去年から引き続き同じクラスの奴もちらほらいるが、ほとんどは違うクラスだった奴だ。一年間同じ学年として過ごせば顔も見たことがないような奴はさすがにいないが、名前まで一致する奴はやはり少ない。去年は性格もよくフレンドリーな奴らに恵まれたが、今年はどれくらいうまくやれるだろうか。
まあ、今年は歩翔も文香もいる。頑なに交友関係を広げることにこだわらなくてもいいかもしれない。特に彼女が欲しいとかもないし、気の置けるメンバーでのらりくらりとゆるく過ごすのも悪くないかもしれない。グループを作って戯れる女子も多い中、後ろの席で暇そうにスマホをいじっている文香をぼんやりと眺めながら、そんな風に今年のことを気楽に考えていたところ、隣の席の住人がやってきて俺の視界を遮った。
「おう、勝助。久しぶりぃ」
坊主頭と鍛え抜かれたたくましい肉体を携えて、ちょっとしゃがれた声で気前よく俺に声をかけたこの男は白沢健という。去年も同じクラスだった奴だ。入学当初でも隣の席だった相手で、それなりに絡みもある。高校でできた友達の中では一番よく話す相手といってもいいだろう。野球部の主要な戦力でガタイがいい。身長は俺の方が高いのだが、その体格のせいで俺よりでかく見える。顔立ちも男前で、かなりイケメンだと思う。坊主で顔を隠すものがないからこそ、その顔の整い具合がより引き立てられていた。聞き上手だし、盛り上げ上手でもあるので男女問わず人気な男である。去年もクラスの中心的な存在だった。
健はやたらと重たそうな野球部のバカでかいリュックを机の上におろすと、これまた豪快にどかっと椅子に腰かけた。
「盲腸だったんだって?大丈夫だったか?」
「ああ、もう回復したよ。にしても、また隣同士とはな」
「それな。でも助かるわー。ツッコミ役が近くにいてくれると」
「重荷を背負わせるなよ」
「ははっ。まあ、席替えするまではまたしばらくよろしくな」
「おう。よろしく」
そして間もなく歩翔もやってきた。遅刻しかけたぜなどと抜かしながら俺の前の席に座った。
歩翔は非常に社交的で、顔が広い。なので、健と普通に談笑を繰り広げていてもなんら不思議にも思わなかった。なんなら、俺には一週間のブランクがある。これだけの期間があれば、たとえ見知った仲でなくともこいつらの性格ならばすぐに馬が合ってもおかしくはない。
やがてチャイムの音が響き、担任が姿を現した。去年と同じ人だった。五所川原寛治。30後半くらいの数学教師である。
スーツ姿に赤いネクタイ。センター分けにされた髪の隙間から表情がよく見え、ちょっと垂れ下がった目尻は優しそうにも気だるそうにも感じられる。骨ばってこけた頬から顎先にかけてシュッと細くなっていて、その先に生えている髭にはちゃんと手入れが行き届いていた。痩せて不健康そうという感じではなく、そういう骨格なのだろう。
一言で表すなら平凡な人だ。教師といえば話し方とか癖とか性格とか、何かしら特徴的な部分がある人が多いものだが、この人の普段のふるまいには何のつかみどころもない。授業も普通。態度も普通。不真面目な奴がいたら適当に注意するし、褒めるときはそれとなく褒める。特定の生徒に肩入れするようなこともせず、粗雑に扱うこともない。生徒に好かれるほど面白い人でもないし、嫌われるほど短気で理不尽で怖い人でもない。学生の間でも話題に上がることがほとんどない人である。
学生なら、あの先生は好きこの先生は嫌いなどと、独断と偏見による先生評論会的な談議を一度はしたことがあるだろう。何かしら印象的な先生が次々とランキング付けされていくなか、この先生に関しては一通り議論が白熱した後になって思い出したかのように話題にあげられ、雑に評価を与えられて終わる。大抵は中の上から上の下のあたりに収まるのではないだろうか。教師というのは仕事柄学生に嫌われがちなものだ。好きな先生よりも嫌いな先生の方が多い生徒の方が圧倒的多数だろう。そんな世界にいながら好きでも嫌いでもないという立場をキープできているのだから、教師としては及第点なのではないだろうか。
そんな五所川原先生だが、文香はこの先生のことをひどく嫌っていた。理由は簡単。この人の本性がただの平凡な人ではないからだ。多方面で「普通の人」なふるまいを見せているこの先生の本性が、平凡とはかけ離れていそうなことを俺と文香は何となく察知していた。
多分だが五所川原先生はものすごくプライドが高い。心の内では生徒はおろか教師全員まで見下しているのではないかと思う。教えるとき、話すとき、褒めるとき、注意するとき、教師として生徒の前に立つときはそのふるまいに何の違和感もない。だが、例えば廊下ですれ違う時、ホームルームを終えて生徒を見送るとき、全校集会で傍らに立っているとき、そんな時に窺える素の表情が、俺たちにはいつもそういう侮蔑的な本性を映し出しているように見えていた。
それでも俺は五所川原先生のことはそれなりに気に入っていた。なぜなら、この人は仕事はちゃんとやっている。例え俺たち一人一人に対して嘆かわしいほどの不平不満を抱えていたとしても、仕事中はそれを誰かに当たることもないし、それどころか見せようとすらしない。公私をしっかり分けていて、やるべきことはちゃんとやっている。ある意味信頼できる人ではないだろうか。
とか、文香に語ってみたこともあったが、嫌そうな顔でそれはないと一蹴された。本当に困っているとき、きっと助けてくれないだろうというのが文香の見解らしい。確かに一理あるとは思う。
「勝助、この後職員室来てくれ。お前一時間目公欠な」
五所川原先生が俺を名指しして職員室に呼び出すことなんて今までなかった。不意打ちを食らった俺は唖然としたまま気の抜けた返事をして、準備していた古文の勉強道具をロッカーへしまった。
言われた通り職員室に行くと、傍らにある休憩スペースのような場所に連れられて、先生と向き合うようにちょっと皮の剝げたソファに座らされた。
「体調大丈夫だったか」
「あ、はい。一応」
「ん、そうか。お前聞いてるか。歩翔のこと」
「…ん?」
歩翔は魔法少女のことは秘密にしろと言っていた。だから、先生からその話題が飛び出すとは思ってもみず、俺は何か別の問題を歩翔が抱えているのかと考えてしまった。
「あれ、お前、歩翔と仲良かったよな。聞いてないの?」
「いや、え?ま、魔法少女のことっすか?」
「ああ、そうそう」
俺は周りに注意しながら恐る恐る訊いたのだが、先生はまるで気を遣う様子がなかった。
「よかった。知ってるなら話が早い」
そう言って先生は一冊の冊子と、一枚の紙を俺に差しすように机上を滑らせた。冊子には「魔法少女に関する特定秘密情報の取り扱いについて」と題が印字されており、下の方には防衛省異形対策課の文字があった。国家機関が公務の一環として真面目に作ったとは思えないほど少女趣味でメルヘンなデザインをしており、見たことのある有名な魔法少女が三人、二頭身のキャラクターになって可愛らしく描かれている。紙の方には、文字がずらりと並んでおり、誓約書という文字があってどことなく仰々しさを感じる。
「なんすかこれ」
「歩翔が魔法少女になったからな。お前が休んでいる間に魔法少女の情報管理に関するガイダンスがあったんだ。防衛省主催の。いなかった奴にも指導しなきゃならんから、この時間はその説明をする。大事なことだからちゃんと聞けよ」
「ちょっと待ってください。それってつまり、生徒全員歩翔のこと知ってるってことですか?」
「そうだよ。うちの学校関係者は全員知ってる」
昨日、歩翔は滅茶苦茶フランクにその正体を俺に明かしてきたが、それは俺を友人として信頼してのことだと思っていた。魔法少女の情報が漏れることの危険性を鑑みれば、本来これは政府が徹底的に情報統制しなければならないことのはずである。学校関係者と言ったら数百人といる。こんな大事な情報が、これ程大勢の人間に共有されて管理できるのか疑問に思った。というか、できるわけがない。意識の低い人間がさらりと誰かに打ち明けるかもしれないし、どこからか噂が立って赤の他人の耳に入るかもしれない。極めつけにはSNSだってある。情報社会と呼ばれる現代ではあまりにも無謀な対応だった。
「なんでって顔してるな」
「そりゃそうですよ。これじゃ、歩翔の正体がバレるのも時間の問題じゃないですか」
「そのための誓約書だ。これから説明するから、全部終わったら署名と押印。印鑑無けりゃ拇印でもいいらしい」
「防衛大臣殿」の文字から始まり、内容までさっと目を通してみると魔法少女に関する知り得たあらゆる情報を漏らさないことを約束させる内容が事細かに書き連ねられている。
「これ、破ったらどうなるんですか」
「刑事罰の対象になる。国家の特定秘密漏洩行為だからな。未成年のお前らでも逮捕されるぞ」
「……馬鹿げてますよ。こんなの」
慎重さのかけらもない、もはやアホとしか言いようがない国のやり方に俺は苛立ちと呆れを感じていた。
「これ、わざわざ俺たち生徒全員にそんなリスクと責任背負わせてまで情報共有させなくてもよかったでしょ。もし歩翔の情報が出まわったら、俺たち全員容疑者にされるわけじゃないですか。そんなのたまったもんじゃない」
この紙切れ一枚にどれほどの拘束力があるのかとか、罪に問われるかどうかとか、重要なのはそこではないのだ。結局、出回ってからでは何もかも遅い。どうしてこんな後手に回るような消極的なやりかたななのだろうか。後始末のことを取り決めて約束させるのではなく、情報の発生源を可能な限り絞る方が絶対に平和的で利口なはずだ。
何より、リスクを背負うのは俺たちだけではない。歩翔だ。正体がバレて一番危険にさらされるのは歩翔なのだ。魔法少女の持つ力があらゆる側面で魅惑的なのは言うまでもないだろう。誇張抜きで世界中の人のほとんどが敵になるといってもおかしくない。国を守る立場の歩翔が、何の冗談か国のせいで危険にさらされている。何よりそれが納得できなかった。
語気が強まる俺の物言いにもひるむことなく淡々と先生は答える。
「言いたいことはわかるが、何も意味なくこんな大人数に情報共有されたわけじゃない。言っちまえば、歩翔がそうさせたようなもんだ」
「歩翔が?まさか、魔法少女になったこと、そこかしこで言って回ったわけじゃないっすよね」
歩翔は勢いで行動する奴だが、決して馬鹿ではない。俺や文香の前で調子づいて変な真似をすることはあれど、普段から後先考えず適当に生きるような奴ではないのだ。
先生は俺の発言があまりにも馬鹿らしく思えたようで鼻で吹き飛ばすように笑った。
「んな馬鹿なことあるか。歩翔は常務隊なんだよ」
「ジョウムタイ?」
脳内でうまく漢字に変換できず、俺は間抜けな顔で首を傾げた。膝の上で頬杖をついていた先生は真顔のまま一瞬戸惑って言葉を詰まらせ、少し下に視線を動かすとゆっくりと口を開いてその言葉の意味を説明し始めた。この人は今、きっとめんどくせぇなと思ったのだろう。
「異形対策課が保有する三つの特殊部隊。魔法少女はそのどこかに所属することになっている。特務隊、常務隊、支援隊。歩翔が所属するのは常務隊。常に務めると書いて常務隊だ。要するに、異形が発生したときは要請があればいつでも戦いに行くってこと。常識だぞ」
俺の身体に一気に緊張感が走った。昨日からいまいち現実味がなくて考えてもみなかったことだった。歩翔はただ女の姿に変身するだけの力を得たのではない。魔法少女になったのだ。異形と戦うのは至極当然のことである。
俺は間近で異形を見たことが3回ある。どれも危険度1の小さい異形だったが、その名の通り、およそ生物とは言えない禍々しくおぞましい姿をしていた。その見た目だけでも背筋が凍てつくほど恐怖心が煽られ、ガキの頃は二人の手を握って必死になって逃げた。テレビではもっと巨大な異形が映されることだってある。魔法少女が危険を省みず戦う姿を、俺はいつも他人事のように眺めていた。
歩翔が、俺の親友が、これからあんな恐ろしい相手と戦い続けるという事実。あの現場の当事者になるという事実。考えられなかったのではない。俺は想像したくなかったのだ。正体がバレようが、バレなかろうが、あいつの人生はこれからずっと危険と隣り合わせなのだ。その現実を今一度目の前にして、膝の上に置かれていた拳に自然と力が込められた。
「異形は全国的に見れば発生が観測されない日なんてないし、ここら一帯でも月に2,3は出てるだろ。ほとんど危険度1だけど、どんだけ弱かろうが魔法少女じゃなきゃ倒せないんだ。歩翔はうちの生徒だし、睡眠時間を除けば当然平日は学校にいる時間の方が長い。常務隊ならいずれここから戦いに出向かなきゃいけない時も来るだろう。その度に毎回何かしらの理由つけて学校を抜け出してたらおかしいと思われるだろ。それに、もし万が一危険度の高い異形が現れたら、みんなでシェルターに避難して点事とって、でも歩翔の姿だけ確認できませんなんてことになりうる。そうなりゃ生徒も教師も混乱しちまう。身近な人間に下手なバレ方して情報や噂が出まわるより、予め共有して統制する方がやりやすいんだろうよ。こういうのは」
返す言葉が見つからなかった。おかしいと思っていた国の対応も先生の補足を聞けば確かに一理あると思った。でも、俺の心は頑なに納得するのを拒んでいた。
確かに下手なバレ方するのが一番まずい。だが、どちらの方がバレるリスクが大きいかと問われれば、答えは間違いなく今のやり方の方だ。
歩翔は魔法少女として国のため人のために戦わなければならない。文字通り命がけで。なら、俺たちが親友としてできることがあるとすれば、それはそばにいてやることだ。一人で何もかも抱え込ませるようなことはさせたくない。
だが、もしその正体が世間の明るみになったとき、歩翔はどうなるだろう。今まで通り学校に通わせてもらえるのかだろうか。一緒に遊びに行けるだろうか。否、きっと歩翔は何らかの形で国に保護されることになる。歩翔の力、身体を欲する見えない勢力から守るために。そうなれば、歩翔の自由がどれほど担保されるかわからない。俺たち三人が今まで通り肩を並べる機会がどれほど与えられるだろうか。
「うだうだ悩んでもどうしようもないぞ。納得できようができまいがこれが今の国のやり方で、俺たちはそれに従わなければならない。ご理解とご協力をってやつだ」
「…………はい」
「…あのな、勝助。異形と魔法少女が現れて15年。15年だ。これだけの期間、日本は魔法少女の個人情報を他国はもちろん国内でも漏洩させた事案は一度もない。こんなやり方でって思ってんのかもしれないが、現にこれで15年も表沙汰にせずうまくやれてんだぞ」
「でも、それって今日覆されないことを約束できるものじゃないですよね」
ピンク色の冊子に目を落としながら俺はつぶやくように言った。先生の顔は見えていない。ひょっとしたら心底めんどくさそうな顔をしているかもしれない。困らせるのも申し訳なくなって、俺はうつむいたまま謝った。
「すいません。ガイダンス始めてください。もう大丈夫っす」
先生は喉を鳴らすように返事すると、小冊子を開くように指示し、説明を始めた。そして一通り説明を受けた後、俺は誓約書に署名と押印をした。
ちょうど授業が終わるくらいの時間に教室に戻ってきて、間もなく休憩時間に移った。
「何だったんだ?説教?」
と、無邪気に問いかける歩翔。相変わらずの調子でいつも通りだった。さっきまでもやもやしていた心も、この日常に戻れば少しは晴れていくようだった。俺は呆れてお前のことだよと言い返すと、やっぱりなと隣から健が横槍をいれた。
「俺のこと?」
「察し悪っ、お前」
「あ、あー!俺のことね」
「なぁなぁ、勝助はさ、その…見たのか?歩翔のこと」
「ん、まあな」
「もうめっちゃメロメロだったぜ」
「んなわけあるか馬鹿」
「目がハート型になってたもん」
あひゃひゃと声を上擦らせながら健は笑う。想像してツボにでも入ったらしい。歩翔はその勢いのまま俺をいじり倒して、健はひたすらに笑い続けた。俺は諦めて途中から突っ込むのをやめてしまった。
ふと、文香の方を見る。相変わらずスマホと睨めっこかと思っていたが、違った。前の席の女と話していた。というか、一方的に話しかけられていた。確か名前は村上だか、村山だかそんな感じだったと思う。その強烈に印象的な見た目から、去年より度々話題を耳にしていた。金髪青目で高身長。明らかに欧米か西洋の血が混ざっていそうな美人である。長い金髪は癖がついているせいかかなりボリュームがある。鼻筋がすっきりと通っており、見た目だけではおよそ日本人にはみえない。ただ名前は姓名ともに日本の名前だった記憶があるので、ハーフかクオーターなのだろう。ハキハキとした発声で見るからに快活そうで、文香はちょっと気圧されていた。
やがて昼休みに入った。昼ご飯は俺と歩翔と健と、滝沢海人という健と中学が同じだったらしい男との四人で食べることになった。健とは去年から縁があるため、海人とも面識がある。身長は歩翔と同じくらい。サラサラで細い髪をアシンメトリーに切りそろえていてちょっとクールな装いだが、全然そんなことはない。馬鹿騒ぎするタイプの調子者って感じの奴だ。よく言えばムードメーカーだが、下ネタとかも平気で口にするため度が過ぎると空気を凍り付かせたりすることもある。本人的には面白いようなのでそういう空気も気にしていないようだが、女子からの好感度はかなり低そう。決して見下すつもりも馬鹿にするつもりもないが、俺は歩翔の下位互換だと勝手に思っている。決して馬鹿にするつもりはないが。
去年はクラスが違ったのでそこまで頻繁に話すことはなかったものの、仲が悪いなんてことはもちろんないし、俺は特に嫌ってもいない。食事なんて人が多い方が盛り上がるものなので、和気あいあいとはしゃぐ三人についていく形で俺は学食へ向かった。
その途中、廊下にて俺の腕が何者かに突然引っ張られた。わずかに崩れた大勢を立て直すため、反射的に声が漏れる。違和感を感じてか、前を歩く三人は俺の方を振り返っていた。
手を引っ張ってきたのは文香だった。何やら少し気が動転しているように見える。
「どうした?」
「あ、歩翔っ。ちょっと勝助借りていい?」
「ん、ああ、いいよー。じゃあ、俺ら先に行ってるなー」
「お、おう」
俺の意思が入り込む隙もないままそんなやり取りが行われ、俺は腕を握られたまま遠のいていく歩翔達をぼんやりと見送った。
「で、何?」
「飯いこう、飯!三人で!」
「三人?」
文香の後ろに目を向けてみると、そこには今日文香に話しかけていた女子生徒が立っていた。目が合うと愛想笑いを浮かべてなぜかピースサインを送ってきた。
「えっと。村山?」
「うん。初めましてだね、魚戸君」
「ああうん。初めまして」
「村山奏です。一年間よろしくね」
「魚戸勝助です。よろしく」
俺の名前は知っていそうだったが、名乗られたら名乗り返すのが常識というものだ。俺は軽く会釈を返して再び文香に問いかけた。
「なんで俺?」
何となく状況は理解できた。村山奏に距離を詰められサシで飯に誘われたが、その緊張に耐えかねてヘルプを求めているのだろう。しかし、こういう場面にはより社交的な歩翔の方が向いているような気がする。というか、そもそも女子同士の食事に男が混ざることを村山奏はどう思っているのだろうか。
「あんたの方が信頼できるからだよ」
考えあぐねていた俺に文香はそう耳打ちした。なるほど。文香は村山奏との仲を取り持ってほしいらしい。一年の時、友達を作らない文香を心配して色々アドバイスしたり相談に乗ったりしたものだったが、結局最後には俺たち二人がいればそれで十分だと決まった文句を垂れていた。だが、男である俺たちとだけ絡むのと、女の友達を作るのではまるで話が違う。このままでいいと本気で思っていたのかもしれないが、いざチャンスが舞い降りてきたら積極的にならずにはいられない気持ちは大いに理解できた。入学当初の失敗を経て、文香も少し変わろうとしているのかもしれない。かけがえのない親友の、勇気を振り絞っての頼みだ。断る理由などない。
「悪いな。なんか俺も混ざることになるっぽいんだけど、大丈夫か?」
「もちろん!むしろ魚戸君こそ、女子の間に挟まる感じになっちゃうけどいいの?」
「まあ、些細なことだよ」
断られたらそこまでだったが、幸い奏は快く承諾してくれた。文香が心を開こうとするのも分かるくらいいい奴そうだった。
「ごめんね、村山さん。変なの誘っちゃって」
「いいんだよー。ご飯はみんなで食べたほうがおいしいからね。でも、ちょっとびっくりしちゃった。友達誘うっていうから女の子かと思ったもん」
肩を並べて歩きながら平謝りする文香に対し、奏はまるでペットをなだめるかのような優しい口調でそう言った。