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俺は言葉を失っていた。
部屋には少女の声が残響するだけで、あらゆる環境音もこの事態に怯えるように今はその身を潜めている。悪い夢でも見ているのかと勘違いするほどの静寂のなか、やがて少女は俺を指差し、腹を抱えて盛大に笑い始めた。
「ぶわはははっ!カチ、お前っ。俺、お前のそんな表情初めて見たよ!」
その笑い方、口調、態度。どれをとっても歩翔そのものだ。状況的にも疑いようはなく、目の前の少女は歩翔本人だとしか考えられない。だが、俺の頭はこの事態を簡単には受け入れてくれなかった。
「なん、何がどうなって…」
思わず動揺が口から漏れ出す。歩翔は依然懲りずに笑っていた。俺の顔が相当間抜けに見えるのだろう。俺は目の前で起こっている現実を直視することができず、ぐっと眉間に皺を寄せては指でつまんで目を背けた。
だが、それもすぐに直視せざるを得なくなる。
俺の頬になめらかな人肌が包み込むように這った。そして白魚のような指が俺の口角のあたりを強くつまむと、痛いくらいに引っ張ってきた。
「夢じゃないぜ」
目が合うと嫌でも緊張感を感じさせられる。俺は唖然としたままとりあえず頷いた。その指に込められていた力がゆっくりとほどかれると、少女の手は再び自身の腰にあてられる。そして今度は鼻先を天に掲げるように身をのけぞった。
「これが魔法少女になった俺の姿だ。どうだ!かわいいって言え!」
そう言って少女は意地悪な笑みを浮かべて俺を見下す。俺はとにかく頭が真っ白で何も考えられない状態だったが、この少女の表情は長年の付き合いにより俺の脳に無自覚に形成されていた歩翔センサーのようなものを強く刺激させた。目の前の少女はまさに調子に乗っているときの歩翔のようである。愛くるしさすら感じられる少女の様相でも、その裏にある人を煽って小馬鹿にするような魂胆を俺は見逃さなかった。
それに気づけたおかげで俺は少し冷静さを取り戻す。俺は自分の手を頬に当てて、引っ張られた時のわずかな痛みの残滓を伸した。
「はぁ、ちょっと待ってくれよ。病み上がりの頭にはちょっと重すぎないかこれは」
「ははっ、たしかに。文香も若干パニックになってたんだぜ。しかもさ、あいつこの姿で話しかけるとちょっと他人行儀になるんだよ。おもしろかったなーあれ」
文香は初対面の人との距離感にはかなり慎重になる奴である。見知らぬ少女がガツガツ距離を詰めてきたものだから、歩翔だとわかっていても気圧されてしまったのだろう。パニックになる姿も他人行儀になる姿も容易に想像できた。そして、それを見て大笑いする歩翔の姿もまた想像に容易かった。水を得た魚のようにいじり倒したに違いない。
まんまと俺も餌にされてしまった。愕然とする俺の表情がよっぽどいい収穫だったのだろう。一通り笑い終えるといいもん見れたぜと心の底から満足そうだった。
「で、どうよ。この姿」
歩翔はいま一度体を見せびらかすように一回転してみせた。フリルのついたスカートがふわりと舞い上がり、甘いフルーツのような香りが優しく鼻腔をくすぐった。
文字通り鼻につく態度だった。今のこいつにやすやす屈するのも癪に障る。俺はベットにたてた膝の上に腕を置いて、黙って歩翔を睨みつけた。歩翔はムッとして再び声を張り上げる。
「かわいいって言え!」
「やだ」
「何でだよ!俺、かわいいだろ!」
「自分で言うのかよ」
確かに、その見た目は絶世の美少女といっても過言ではないかもしれない。だが、今のこいつは神様が与えた美少女の皮を被っただけに過ぎないのだ。決して歩翔本人がかわいいわけではないのである。控えめに言っても褒めてやる義理などどこにもない。頑なに態度を変えようとしない俺が気に食わないようで、歩翔の怒りはさらにエスカレートし始めた。
「お前、何でもうそんなに余裕そうなんだよ!」
「あぁ?」
「こんなに美少女なんだぞ!普通もっと狼狽えたり慌てたりするだろ!」
「何でちょっと俺に惚気てほしそうなんだよ」
「違う!俺はもっとお前の余裕ないところが見たいの!」
歩翔は頬をぷくっと膨らませてあざとく怒りを表現してみせた。男の時にそんな顔をしているところを見たことがない。調子に乗ってなりきりすぎているのか、変身と同時に脳みそまでおかしくなってしまったのか、どちらだろうか。
いずれにせよ、少し面倒なことになってしまって、俺は思わず天を仰いだ。歩翔は負けず嫌いだ。このままでは俺を屈服させるまで満足しないかもしれない。
相手が俺だろうと文香だろうと、優位に立てないと納得できずに駄々をこねることは今までもよくあった。そういうとき、いつもはこいつの得意分野である格闘ゲームで対戦してボコボコにやられてやることで機嫌をとるのだが、生憎俺の部屋にゲーム機などない。
あまりの悩ましさにいっそこいつのことを徹底的に褒め殺してやろうかと、そんな恐ろしい考えが頭をよぎって思わず身震いした。
「まあいい。これを聞いたら今に余裕もなくなるさ」
まだ何か企んでいるようだが、相手にしたくなくて俺は天を見上げたまま適当に相槌を打った。だが、悲しいことに歩翔は俺の雑な態度に一切動じることもなく、自信満々に一言こう続けた。
「なんとこの服、脱げます」
服をつまんで不適に笑う歩翔。窓も扉も閉まっているというのに寒風が吹きすさむようだった。俺は正直な気持ちをただ一言で伝えてあげた。
「きめぇ」
「ストレートすぎるだろ!傷つくわ!」
「だってお前、それを知ってるってことは少なくとも一回はもう脱いでるってことだろ」
「そりゃもちろん。隅から隅まで女だったぜ」
歩翔は薄く頬を赤らめながら、何を思い出しているのかいやらしくにやけ始めた。
魔法少女は正義のヒロインだ。世間からも熱い応援を受けているし、熱烈なファンだっている。憧れや尊敬の念を抱く少年少女も多いだろう。日本中の沢山の人々から愛される魔法少女様の実態がこれとは、あまりにも残酷すぎないだろうか。いや、魔法少女も人間だ。あるいは俺たち庶民が夢を見すぎていただけなのかもしれない。
悟りを迎えた俺の冷たい視線に気づいた歩翔は、さすがに少しは恥ずかしさを感じたようで誤魔化すようにまた声を荒げた。
「な、何でちょっと引いてんだよ!お前だって女になったら同じようなことするだろ!」
「思春期の男子高校生みたい」
「思春期の男子高校生だよ!俺もお前もな!」
ニヒルに歩翔をなじってやるが、多少は歩翔の言うことにも共感できなくはない。ある日性別が逆転したとして、真っ先に興味が湧くのは間違いなく性差のあれこれ。例えそこに性的でやましい気持ちが一切なかったとしても、生物学的に構造や感覚がどう違うのか、知りたいと思わない奴はいないだろう。女が男になったとしてもきっと同じだ。
「いいもーん。何はともあれ俺の身体なんだ。お前がどう思おうが好きにさせてもらうぜ」
つんとした顔で歩翔はそっぽを向いた。どんな態度をとってもなにかと様になっている。つくづく便利な体だ。
「ああそーかい。まあ、好きにするのは勝手だが常識の範囲内でな。あんまりはっちゃけすぎるなよ」
俺はわざと釘を刺すように言った。調子に乗っているときの歩翔は暴れ馬みたいなものだ。落ち着くまでは手馴れている誰かが手綱を握ってやるか、大ごとになる前にあらかじめちょっと懲らしめて躾けてやらないと危なっかしい。今の文香がこの歩翔に対してどれだけ強く出れるか分からないし、早い段階から牽制しておいて損にはならないだろうと俺は考えた。
運がいいことに、なんだかんだ今日は歩翔も拗ねてくれてその勢いも落ち着きそうだった。近場の公園ではしゃぐ子供たちの声に耳を傾けながら、また負けず嫌いがぶり返さないことを祈りつつ俺はほっと息をついた。
その時だった。隙を見せた俺の耳元で、いまだに聞き慣れない可愛らしい声が衝撃的な言葉をつぶやいた。
「カチも揉んでみたい?」
「あ?」
目的語がなくとも、男としての矜持が無意識に言葉の意味を察知する。全身に一瞬で緊張感が走った。先ほどまで目の前に立っていた歩翔は、気が付くと俺の隣に鎮座していた。体重が軽いのかベッドの沈み込みが浅く、ふわりと雲に持ち上げられているみたいである。表情を見るとさっきまでの挑発的な感じや恥ずかしそうな感じもなさそうで、純粋無垢に微笑んで俺を誘っていた。
「友達のよしみだからな。ちょっとだけなら揉ませてやってもいいぜ。特別にな」
俺は何と言葉を返したらいいのか分からなかった。
「そう遠慮すんな。お前だって興味ないわけじゃないだろ。思春期の男子高校生君」
そう言って歩翔は何のためらいもなく上体を傾け、その胸を俺の方へ差し出した。
でかい。
冗談みたいなサイズとまではいわないが、一般的なサイズよりはふた回りくらい大きいのではないだろうか。少なくとも俺の身の回りでこれほどの巨乳は見たことがなかった。
当然だが、歩翔の言う通り俺だって興味がないわけではない。しかし、ここでこいつの胸を触ることは絶対に正しいことではないと断言できる。この世界には法がある。モラルがある。天地がひっくり返ってもけしからん行為だ。俺の人生で大切に育て上げられた理性がここぞとばかりに警鐘を鳴らしていた。
それに、後々のことを考えてもやはりよくない。このあと微妙に気まずい空気になったらどう収拾つけるのか。歩翔には一生いじられることになるかもしれない。きっと文香はドン引きするだろう。いや、何かの間違いでさらに噂が広まりでもしたら、文香だけにとどまらない。誇張抜きで俺を知る人間全員から信頼を失いかねない。
一時の欲求に駆られ道を踏み外すような愚かな人間になどなってやるものか。俺はリスクとリターンを冷静に勘定できる男だ。ひとつ大きく唾を飲み込み、俺は歩翔の前に制止するように手をかざした。
「いや、いいわ」
「はぁ?何でだよ。男じゃねーなー」
歩翔は不服そうにしながらも乗り出していた身体を起こした。俺はゆっくり息を整え、張り詰めていた心の糸を一つずつ解きほどいていく。
これでいい。これで俺の平穏は保たれる。
そう思った次の瞬間、かざしていた手に細い指先が触れた。何を思ったのか歩翔は俺の手首を柔らかく握ると、ぐっと自分の胸に近づけた。
「ま、我慢するなって。誰にも言わないからさ」
何の恥じらいもなく歩翔はゆっくりと俺の手をその胸に向けて引っ張り始める。
近づけば近づくほど高揚する期待感と焦り。まるで生死の境にいるように時間が遅く感じられた。呼吸の仕方もわからなくなる。俺の理性が反射的に手を振り払おうとしたがびくともしなかった。力が強すぎる。こんな華奢な腕のどこにそんな力があるのか。戦うヒロインなのだから、考えてみればそんなこと当然なのだが、そんな簡単な問いの答えすら導けなくなるほどに、俺は滅茶苦茶に気が動転していた。
合意もある。誰にも言わないと約束してくれている。この状況で俺がちょっと欲望に忠実になったところでどれほどの罰が当たるものか。改めて考えてみれば、俺たちの仲がこの程度で気まずくなるとは思えない。後でいじられることになったとして、それが何だというのか。俺の平穏が揺らぐ要素など実はないのではないか。
俺の手のひらが彼女の胸の一寸先まで近づいたとき、自問自答でぐちゃぐちゃになった頭が最後に導き出した結論は俺の平穏がどうとか、そういうことではなかった。俺は必死になってもう片方の腕をあげて馬鹿なことをしようとする女の肩をつかみその行動を制止させた。
「やめろ!」
「えー何でー」
「嫌だからだ!お前の胸なんぞ揉みたくないわ馬鹿!」
拘束していた指の力がゆっくりとほどかれ、重力に導かれるように歩翔はその手をシーツの上に落とした。
「くそっ。まったく。ひどい目にあった」
「そこまで言われるとなんかショックなんだけど…」
なぜか歩翔は傷ついていたが、そんなことはどうでもよかった。体の熱さも心臓の痛みもすべて放出するように息を吐く。
「あのなぁ、歩翔。お前なぁ。言っただろ。好きにするのは勝手だが、常識の範囲内でなって。意味わかってんのか?中身が男の奴にこういうこと言うのももやもやするが、身体は大事にしろ。男だったら喜ぶだろうとか、減るもんじゃねぇからとか、お前は軽い気持ちだったのかもしれないけどな、そんな簡単で単純な話じゃないんだよ。いいか、その体はお前のオモチャじゃねぇ。大事なお前の身体なんだ。男のノリでその体を軽々と扱おうとしてんじゃねぇよ。冗談じゃ済まないんだよ、わかってんのか。これからもそんな浅はかな意識でいるようなら、お前にその体を好き勝手する権利はない。次やったらマジでぶっとばすからな。いいな!」
ここまで説教垂れるのも久しぶりだった。少しは反省したようで、歩翔は俺の言葉を噛みしめるようにうつむくと、一言ごめんとつぶやいた。かわいそうに見えるほどにしゅんとして意気消沈させている。そしてしおらしく正座をほどくと、俺と並ぶようにベッドの横に座りなおした。派手な衣装なので衣擦れの音もなかなかに盛大でなもので、ゴソゴソと重めの音が響くたびちょっと動きづらそうだなと思った。
「少し前からさ、カチちょっと元気なかっただろ」
歩翔は物憂げにそう語りだした。
意外な言葉に驚いて、俺の目が自然と見開いた。俺自身が自覚していた自分の心の謎の空白。聡く鋭い文香ならともかく、歩翔がそれを指摘してくるとは思ってもみなかった。
「そうか?」
「うん。元気ないっつーか、何か落ち込んでそうだった。だから、どうにか励ましてやれないかなとか考えてたんだよ。でもさぁ………ああもう!文香もだけどさぁ!お前ら色々達観しすぎてて難しいんだよ!」
「お前、それで胸触らせようとしてたのかよ。馬鹿だなぁ」
「うるせ」
都合よく女の身体に変身できるようになったから、友達を元気づけるために胸を揉ませようと考えた、というのはなんとも歩翔らしいと思う。大胆で安直で命知らず。こういう危なっかしさがある奴だから、時には俺がこいつの平穏を守ってやらねばならないのだ。
「俺のことはあんまり心配すんな。普通に元気だよ。俺は」
「いや、そんなことないって。この俺でも気づいたんだぜ。前から文香と何度か相談してたんだ。まあ、疲れているだけなのかもしれないけどさ。いずれにしてもちゃんと休む時は休めよ。お前自分に鈍いんだから。自覚ないままストレスため込んで、もし何かあったらまた心配するだろ」
「………そうだな。気をつけるよ」
余計な心配をかけさせまいと、俺はわざと自分の違和感に気づいていない振りをした。さっきまでの動揺のせいか、下手なとぼけ方だったかもしれないが、歩翔はそこまで俺の様子を疑わなかった。
「まぁ、今日はこの辺でお暇しますかね。体調は無事に回復してるみたいだし、見せたいものも見せれたし」
まだ昼真っ盛りであるが、俺の部屋は特別娯楽があるわけではない。やりたいことやって満足したら端から帰るつもりだったのだろう。玄関まで見送ってやろうと歩翔に次いで俺も立ち上がる。俺は軽く伸びをして、座りっぱなしで凝った筋肉をほぐした。色々な意味で解放感に浸る俺を歩翔は不思議そうに見つめると、今度は近う寄れと手招きをした。言われたとおりに近づいてみる。俺が歩翔を見下ろし、歩翔は俺を見上げるような状態になった。
「お前、背ぇ伸びすぎだろ」
「お前が縮んでんだよ」
俺の身長は179cm。目測だが今の歩翔は155cmいくかどうかといったところだろう。少なくとも160cm超えている文香よりはちびだった。俺と背比べして勝とうというのか、歩翔は必死に背伸びをしだした。
「いいからさっさともとに戻れ。まさかその身体で帰るわけじゃないだろ」
「おお、そうだったそうだった」
思い出したように歩翔は踵を床におとす。そして変身した時と同じように目を閉じた。すると、歩翔の身体は再び赤い光を放ち始め、たちまちその身体は元の形に姿をかえた。
男同士でも身長差はあるが、それでも先ほどまでのような見下ろす形にはならない。歩翔は嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。
「そうそう、この感じ。いつもの感じだ」
たった十数分の出来事だったが、いまの歩翔の姿がとても懐かしく感じた。無意識に残されていた心の緊張がほぐれ、俺の表情も自然とほころんだ。
玄関まで移動し、歩翔はいつもの外靴に履き替え始める。緑のスニーカーだ。
「あ、そうだ。魔法少女のこと秘密な。誰にも言うなよ。バレたら滅茶苦茶怒られるぜ」
「ん、誰に?」
「国に」
あまりにも桁違いの相手が出てきて一瞬思考が固まってしまった。
でも、よく考えてみれば当然のことだった。日本の平和を守るため、魔法少女たちは防衛省異形対策課の管理、統括のもとに活動している。魔法少女はある意味国の保有する軍事力であり兵器なのだ。その正体がバレようものなら、多方面から拉致、監禁、実験、抹殺の対象にされかねない。
俺は魔法少女にあまり詳しくはないが、200人以上いる魔法少女の誰一人としてその正体が判明している人はいないらしい。彼女たちの情報は驚くほど厳重に秘匿されている。
だというのに、歩翔は軽々と俺にその力の存在を打ち明けてしまった。俺のような一端の高校生が知っていいことだったのだろうか。なんて、心配したところで今さらなのだが。
「忘れ物してないな」
靴紐を結び終えて立ち上がった歩翔に念のため聞いてみると、「あっ」と歩翔はこぼすように言った。世話のかかるやつである。半分呆れつつも何を忘れたのか聞いてみると、歩翔は「いや、一応伝えておこうと思って」と言ってはにかんだ。
事務的な伝言か何かかと思ったが、こいつが伝え忘れたことはそんな生易しいものではなかった。俺の中の常識が大きく覆されるような爆弾発言。再び俺はこいつに翻弄させられる羽目になったのである。
「お前は断ったけどな、文香は揉んでたんだぜ」
「……………え?」
「じゃあ、また明日な!お邪魔しましたー!」
「ちょ、ちょっと待て!その話詳しく……」
扉が勢いよく開かれると、歩翔は差し込む光に逆らうように駆け出した。俺がどれだけ手を伸ばしても歩翔は振り返らない。俺の声はむなしく空を切り、やがて開け放たれた扉は自重によってゆっくりと閉ざされた。
純真純情清廉潔白。文香は普段から過激なこととか露骨に避けるような奴だった。しかも、たとえ女同士ある程度仲良くなったとしても、過度に接触しあうようなことにはいつも消極的である。公衆の目とか世間の評価とか一般常識とかにもかなり神経質になる奴なので、グレーゾーンに自ら足を踏み入れたというのはなかなか信じがたかった。そもそも、ちょっと気圧されて他人行儀になっていたのではなかったのか。
「あれ、歩翔くん帰ったの?」
「あ、ああ」
再び思考がかき乱されていた俺に後ろから妹が声をかけてきた。魚戸日向子。中学三年生である。
「はや。さっき来たばっかじゃね」
「あいつ、やりたいこと好き放題やったら満足して帰りやがった」
「あっそ。いつも通りだね」
適当にあしらうように日向子は言う。たいして興味もないのに声をかけてきたように見えるが、もともとさばさばした奴なのでこれがいつも通りの態度である。
今日はずっと歩翔に振り回されっぱなしだった。さすがの俺も精神的にも肉体的にも疲れを感じていた。ふらふらになりながらも重たい足を懸命に動かして自分の部屋へ向かう。
「ねぇ。さっきの、揉んだってなんのはなし?」
「………知らねぇ」
日向子が横から何の悪びれもなく聞いてきた。否応なしにあの巨乳が頭を横切る。余計なことは考えまいととにかく足を速め、俺は最後の力を振り絞って階段を駆け上がった。
部屋につけばもう立っている気力も湧かなかった。俺はベッドに崩れ落ちた。今日のことは一旦すべて忘れて休もうと、そう思った。
その時、ベッドに染み付いた甘い匂いが俺の鼻を刺激した。俺の頭にとある女の姿が駆け巡る。
「もう、勘弁してくれ」
俺のつぶやきは布団の中へ吸収されるようにかき消されていく。先ほどまでの賑やかさが嘘みたいに無くなったこの部屋の静けさを噛みしめるように俺は目をつむった。
友人に心配されるほど自分に鈍感な俺がこれほどまで疲れを自覚しているという事実。やっぱりこれは途轍もない異常事態なのではないだろうか。