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えたいのしれない不吉な塊が、などと大層なことは言わないが、どうも最近気分が晴れない。
虚脱感と言おうか、喪失感と言おうか。
今のこの感覚に名前を付けるならと、頭を巡った感情の中でもことさらしっくり来たのはこの二つだった。しかし、『筆者の気持ちを答えなさい』の解答欄にこの言葉を並べられたとしても俺は丸を付けない。迷わず三角にするだろう。
決して鬱な訳ではない。他愛のない日常の中にも楽しさはある。小さな幸福もある。つまらないことがあっても、そこに不満があるわけではない。俺は確かにこの平穏な日常を愛せていた。
では、いったい何が俺をこんな気持ちにさせているのだろう。そもそも俺はいったいいつからこんな気持ちに陥ったのだったか。
俺には信頼のおける二人の親友がいる。その二人曰く、俺は自分のことにひどく鈍いらしい。二人とも事あるごとにそう言って俺を心配するものだから、今も変わらず俺の鈍さは健在なのだろう。
そんな俺がいま、こんなにも自己を省みている。ひょっとしたらこれは途轍もない異常事態なのではないだろうか。
高校二年生に進級したはいいものの、早々にして俺は体調を崩ししばらく学校を休むことになった。クラスも変わってまた新しいメンバーでやっていこうという矢先にである。
とはいえ、体調不良の原因が俺の不吉なメンタリティが祟ったせいだとも、季節の変わり目の寒暖差にあてられたせいだとも言うつもりはない。
急性虫垂炎。いわゆる盲腸だった。
何度も言うが、生活に支障が出るほど心を病んでいたわけではないし、身体もいたって健康だった。規則正しい生活を送っていたし、三食ちゃんと食っていた。こんなにも健康的な生活を送っていたにもかかわらず患ったのだから、どうしようもない。逃れられぬ運命の轍を踏みしめるがごとく俺は病床に伏す羽目になったわけだ。
薬で散らして回復に至るまで一週間あまり。月曜から学校に復帰しようといった時のことだった。
若干の気まずさと緊張、そしてほんの少しの期待を抱えていた病み上がりの俺のもとに幼馴染のひとりである五十嵐歩翔がやってきた。
身長172cm体重61kg(去年の身体測定時点)。まっすぐですっきりとした目元に犬っぽい顔立ち。何より特徴的なのは、日本人でありながら生まれつき赤髪であること。高校入学時には一悶着あったらしい。
性格は闊達で明快。どこまでも突き抜けて明るい奴だ。俺たちなんかよりずっと社交的で顔も広いし慕われている。運動神経もよくリーダーシップもあるのでクラス行事とかではいつも最前線にでて活躍していた。短所があるとすれば、小さいことに頓着しなすぎてたまに人との距離感をミスったり空回りしたりすること。あと、調子に乗りやすいのでよく足元をすくわれること。
俺の部屋にずかずかと入り込んでは「だいじょうぶかー?」と一言。いつもどおりの曇りのない笑顔でのんきなものだった。
たまっていたプリント類を俺に渡すと歩翔は窓際に備え付けられた机の上に腰かけた。俺の部屋に来る時の歩翔のいつもの定位置だ。俺はいつも自分のベッドの上に座っている。
「もう全回復か?」
「まあな。もう痛みも吐き気も熱もない」
「そりゃ何より。にしても、珍しいよな。お前が体調を崩すなんて。カチが連日休んだことなんて今までほぼないんじゃないか?」
カチとは俺のことである。魚戸勝助で通称カチ。なお、このニックネームで俺のことを呼ぶのは歩翔だけだ。
いままでの学校を休んだ時の記憶をたどりながら適当に相槌を打つ。窓からの逆光に照らされる歩翔の表情を窺うと、わずかに口角を引きつらせていた。にやけるのを我慢しているようだ。すぐ表情に出るやつなので分かりやすい。こういう時はたいてい何か悪だくみをしているか、隠し事をしているか、そんなところだろう。
「何か言いたげだな、お前」
歩翔は潔く笑いをこらえるのをやめて口角をぐっと持ち上げると、ふふんと鼻を鳴らした。そして据えていた腰を机から浮かして勢い良く立ち上がった。
「実はな、この一週間の間にとんでもない出来事があったんだ。今日はそれを伝えに来たのさ。ビッグニュースだぜ。なんだと思う?」
「文香と進展あったのか?」
問いかけに対して間髪入れずに答えると、歩翔はバツが悪そうに視線をそらした。
百瀬文香は俺のもうひとりの幼馴染である。俺は以前から歩翔が文香に対して恋心を抱いていることを知っていた。去年の冬にこいつから直々に相談を受けていたからだ。
歩翔が嬉々として俺に報告することなんてこの事くらいしか思い浮かばなかったが、どうやら違っているらしい。俺はがっかりしてため息をついた。
歩翔は何事も思い立っては大胆に行動に移す奴なのだが、恋愛についてはすこぶる慎重だった。いや、こいつなりにも色々やろうとしているのかもしれないが、俺たち三人は友人としての付き合いが非常に長いがゆえに苦戦している部分もあるのかもしれない。
恋愛経験のない俺が恋愛といえばなにかと訊かれて思い浮かべるものといえば、例えばデートだとか、記念日にプレゼントを渡すだとか、毎日頻繁に連絡を取り合うだとかそんなところだが、俺たちがこれらのアクションを起こしたところで恋愛のれの字にも発展しえない。俺たち三人にとっては日常と変わりないからだ。
サシで遊びに行くなんてざらにある。誕生日には毎年プレゼントを渡しているし俺も貰っている。バレンタインもホワイトデーも同じでほとんど意味を成していない。連絡の頻度も高い。寝るまで通話することも場合によってはあったりする。
『気持ち悪いほど仲がいい』と中学生のとき、同級生の一人が俺たち三人の関係を冗談めかしてこう言った。
別に不快な気持ちにはならなかった。むしろ非常に言い得ていると思う。親友と呼べる相手がいたとしても互いのプライベートな領域にここまで踏み込んだ関係には普通はならないのだろうと思う。
実際、恥ずかしげもなく言えば、気持ち悪いといわれても仕方がないくらい俺にとって二人は何にも代えがたいほど大事だった。
歩翔が恋愛感情を自覚してから、文香を二人きりで遊びに誘うことだってあっただろうし、連絡も取り合っているだろうし、いくつもの大事な時間を共有してきただろうが、それらは結局二人にとって特別なことにはならないのだ。
だから、俺は歩翔から相談を受けたときにこうアドバイスをした。
いいからまず手をつなげと。
いくら俺たちといえど、何の脈絡もなくしきりにボディタッチしあったりスキンシップしあったりはしない。純粋無垢だった幼少時代とは違うのだ。繰り返しアピールしていれば、さすがに少しは意識してもらえるだろう。色々俺たちの関係について説明したが、結局、恋愛の第一歩は一般論のそれと変わらないのである。
だが、相談を受けたあの日から、今日の今日まで歩翔が文香の手を握って歩くところを見たことはない。むしろ、子供のころのほうが何度かそういう場面に出くわすことがあったくらいで、変に意識し始めたせいか、今の方が二入りの距離が広がっているような気さえする。知らないところで進展があったのかもしれないと期待したものだったが、そんな話が聞けるのもいつになることやら。
ちなみに俺の推測だが、たぶんこいつらは両思いである。もちろん文香の気持ちは直接聞いたわけではないが、見る限り脈ありだと思う。意識してそうな気配を何度も感じた。まるでありきたりなラブコメ漫画のような初々しい展開を前にして、間に挟まれた俺は温かい目でこいつらを見守ってやっているわけである。
仕切り直しの意味を込めて一つ咳ばらいをした歩翔。俺から言うことはもう無いので、さっさと答えを言えと視線を送った。
「まあまあまあ、それはそれこれはこれだ。今日の発表はそんなことじゃない」
「いいから早く言え」
自慢げに目を光らせて、歩翔は再び笑みを浮かべた。そして言い渡された告白に、俺は耳を疑うことになる。
「聞いて驚け、カチ!俺、魔法少女になったんだ!」
その突拍子もない発言は、当然に俺たちの間に一瞬の静寂をもたらした。
「なに言ってんだお前」
俺の脳は、その言葉が「理解するまでもなく馬鹿げた冗談」であるとして、もはや無意識に一蹴しようとしていた。
15年前から突如として日本に姿を現すようになった怪物がいる。その名も『異形』。奴らは規格外の力を持ち街を蹂躙する化け物だ。重火器や兵器の類は一切通用せず、現在の科学ではおよそ太刀打ちできないような存在。異形災害の被害者は数知れず、かつて日本が存亡の危機にさらされたことは一度や二度ではない。まさに恐怖の象徴だ。
だが、そんな怪物に対抗する力を持つ人間がいる。彼女たちは若い少女の姿をしており、常識の通用しない不思議な力を使って異形と戦う。まるで女児アニメに出てくる正義のヒロインのようであることから、彼女たちは魔法少女と呼ばれている。今の日本の平和が保たれているのは、彼女たちが戦ってくれているおかげだ。
確か、魔法少女の力は何の前触れもなく突如として発現するらしい。日本では現在200人を超える数の魔法少女がいるらしく、しかもまだ増え続けているようである。だから、俺たちの身の回りで魔法少女になる奴が出てきたとしても、それはまったくあり得ない話ではない。
だが、歩翔は男だ。
ムードメーカー的な気質がある奴なので、たまに冗談を言って笑いを誘ってくることも確かにある。が、果たしてこんな馬鹿げた冗談を突拍子もなく言うような男だっただろうか。疑問に思いつつも、俺はその言葉が嘘であることを全く疑っていなかった。
「まあ。言葉で言って信じてくれるとは思ってねぇ。だから見せてやるよ。俺が魔法少女になるところを!変ッ身ッ!」
歩翔がたくましく声を張り上げた途端、その体がまばゆく光り始めた。赤い光がくぐもった俺の表情を照らす。訝しむように潜められていた俺の眉の力がほどかれ、目の前で起こる現実離れした光景に唖然としてしまった。
光り輝く歩翔の身体は徐々に縮んでいき、華奢で女性的なシルエットが形成されていく。顔の形は柔らかく丸みを帯び、腰ほどまで髪が伸び、胸と尻が膨らんで、ウエストがくびれる。体の形が変化し終わると、フリル付きのドレスやニーソックス、ローファーなど可愛げな衣服が纏われていく。一見メルヘンで子供っぽい衣装だが、基調となる色はワインレッドと情熱的だった。また、サブカラーのブラックもよく目立ち、落ち着きと大人っぽさも感じられる。そして、髪飾りやブローチ、ドレスの装飾などのアクセサリーはイエローで統一されており、その差し色はまるで星々が輝くようであった。最後に左右の髪の一部が不思議な力で持ち上げられ、小さな赤いリボンで留められる。右手に星形のステッキが握りこまれると、身体をまとっていた神々しさは消え、浮遊していた身体がゆっくりと床に降り立った。
「ばばーん!」
これが漫画やアニメなら、可愛らしく決めポーズでもとるところだろうが、目の前の少女は腰に手を当てて仁王立ちを決め込み、甘く可愛らしい声で意気揚々とこう言った。
「魔法少女アルト、参上!」