真夏の夜
武 頼庵(藤谷 K介)さま主催「夏企画・if……物語」参加作品です。
テーマは、「もしも〇〇がなかったら?」
――ねえ、想像したことある?
――なにを?
――ぼくたちのいない世界を。
夜の森。きわめて暗く、光沢のある深いみどり。天鵞絨の闇。
器用に樹々のあいだを縫い流れる風が、気まぐれに木の葉の裏をくすぐります。
そうして夜風が葉を擦る声にまぎれて、あるいはそれそのものが、くすくすと、ひそひそと。
だれも気がつかないような、ちいさなちいさな光がさざめいて、深みどりの絨毯のうえにさらさらとお砂糖のあかりをまぶしてゆきます。
――想像というより、すでに。ぼくたちはないものだよ。
――そうなの?
――そうだよ。
――……あ、だれかが来たよ。
森に、ひと組の男女がおとずれました。
手に手をとりあい、何者かから隠れるように、ひっそりと。
けれど、ふたりの顔はあまり深刻にはみえません。陶酔。うっとりと、この逃避行に酔いしれているようです。
――ねえ、あの顔をみてごらん。
――あれは、すっかりお熱だね。
――ほら、やっぱりぼくたちはあるんだ。あんなふうに熱に浮かされるだなんて、ぼくたちのだれかがスミレの惚れ薬をつかったにちがいないもの。
――そうかな。
――そうだよ。
秘密の恋人たちは、おもむろに木の根元に座ります。
そして、ほんとうは興味なんかないくせして星々の輝きについて語ってみたり、時折恥じらうふりをしながら夜闇に口づけを交わしたりしています。
――あれじゃあきっと、どちらかの頭がロバになっていたって気がつきやしないよ。
――そうだね。
――そうだよ。
――ふふふ。
――ふふふふ。
小さきものたちは、にわかに笑い出します。
ころころと、からからと、ぐうぜん落ちた葉が湖に波紋をひろげてゆくように、いっそう笑いころげます。
なにがそんなに愉快なのか、彼らのいう“惚れ薬”によって、我も忘れるほどお互い夢中になっている森の恋人たちか、はたまたそれを覗き見しているこの状況か、自らこぼしたロバうんぬんの冗談か、それらすべて、あるいはどれでもないのかもしれません。
ただただなにかが面白くてたまらない、そんな夜もあるのでしょう。
――じゃあさ、やっぱり。ぼくたちがいなくなったら、人間はあんなふうに、恋をしなくなるのかな。
――そうだね、そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。
――そうじゃないかもしれない? どうして?
遠くの地平線に、ちらちらと、ゆれる炎の色がみえます。気づけば、軽快なステップを踏むみたいな微かな喧騒も。
けっしておおきくなく、かえって森のしずけさをきわだたせるほどに。
人間の町。今夜はお祭りでもあるのでしょうか。
いつしか向きを変えた風が、煙る祭りの熱と、すこし湿った土の匂いを運びます。
――人間は、愚かだから。きっとぼくたちがいなくても、勝手に恋をするんだろうさ。恋をして、失って、嘆いて、そしてまた恋をする。何度だって、愚かに、したたかに。
――ふうん。それならやっぱり、ぼくたちはないのかな。
――そうかもしれないね。
――そうだよ。
――そうか。
風がふたたび向きを変えました。
なまぬるいような、つめたいような、明かきも暗きも自由にとびまわりて、揶揄うように、かとおもえば真剣に、そう、すべてはお気に召すまま。
――でもそんなこと、どちらでもいいね。
――うん、どちらでもいい。
――ふふふ。
――ふふふふ。
短い夏の夜は、しずかに更けてゆきます。
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テーマは、「恋の妖精がいない世界」。
彼らは三色菫の汁でつくった媚薬を携え、人に恋をもたらします。
(三色菫の絞り汁からできた媚薬をまぶたに塗られると、その者は目が覚めてはじめて見た相手を好きになってしまうのです。)
え? 元から妖精はいないって? ……どうでしょう。
或る物事を「ない」と信じている世界に生きる我々には、そもそも、「ある」=もしも〇〇がなかったら? ということを思い描いてみる概念すら、浮かばないものですから。
身におぼえのない恋に落ちてしまったとしたら、もしかしたらそれは、彼らのせいかもしれませんよ。
(補足)
好きな絵画がありまして:エドワード・ロバート・ヒューズ「真夏の夜(Midsummer Eve)」、それをみているうちにふと書いてみたくなり、したためました。
この絵画は、シェイクスピア「夏の夜の夢」(喜劇)に想を得て描かれたものと思われます。ほかにも(この画家に限らず)これを題材にした絵画はたくさんあります。
喜劇のあらすじについては割愛しますが、上述のような惚れ薬を扱ういたずら妖精が登場します。
なお、「夏の夜の夢」(原題:A Midsummer Night's Dream)において、物語の時節及びそれをどう日本語訳題に反映すべきかという論は様々ありますが、本作はあえて「真夏の夜」というタイトルにしています。
天鵞絨は、色名で、ビロードの生地のような暗い青みの緑色を指します。
妖精というものは、ヨーロッパの文献などを見れば、昔はもっと身近な存在だったように思われるのですが、今はまるきり空想上の生き物ですよね。
お読みいただきながら、彼らと一緒に“もしも〇〇がなかったら(恋の妖精がいなかったら)”に思いを馳せていただきまして――あれ? そもそもないよな? ある? あれ? と、ちょっと不思議な気持ちになっていただけたとしたら、たのしいなと思います。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!