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休日『悪童たち・後編』

 アンジェたちは大剣士アルミニウスが管理している領域に突入し、彼らの生活を垣間見ることにする。


 アンジェが見たら泣き出しかねないほど恐ろしい場だと聞いているが、真実やいかに。……尚、当たり前のことではあるが、アンジェは素直に怯えて泣いてやるつもりなど毛頭ない。


「お、ちょうど定例会だ。見学させてもらおうか」


 ビビアンが大広間に続く扉を開けると、中から凄まじい怒号と空気が弾けるほどの絶叫が寄り集まり、嵐となってビビアンたちに畳み掛けてくる。


「せいれえええええつ!!」

「うひゃっ」


 後ろで立っていただけのアンジェにも、その声は届いてくる。殺気立った、敵を屠ることしか考えていない刃のような声。


 ビビアンは反射的に扉を閉め、わざとらしく顔をしかめてからもう一度開ける。

 再び繋がれた向こうの空間から、爆音が濁流のように流れ込み、アンジェの鼓膜を揺さぶってくる。


「かけごえええええっ!!」

「うおおおっ!!」


 扉の内部で繰り広げられていたのは……新人研修であった。

 一際大きな体格の、強そうな戦士が一名。あれはおそらく領軍のどこかに配属されている小隊長で、今回の研修における教官役だろう。


 教官は数名の新人たちを前に、極めて威圧的で攻撃的な口調で命令を下す。


「貴様らゴミクズ共には、これから部屋住みとなってかの大英雄アルミニウス様の身の回りの世話をしてもらう。屑籠に転がる紙切れよりはマシな働きをするように。いいな!?」

「はいっ!」

「声が小さいっっ!!」

「はいっ!!」


 まるで軍ではないか。いや、ここの責任者は軍人のアルミニウスであり、彼が商会に送り込んだ人材には退役軍人が多い。軍での育成方法をそのまま利用しているのか?

 アンジェは顎に手を当てて、学者のように見えるだろう顔を作って考えに耽る。


「ふーむ。住み込みで組織の長、あるいはそれに準ずる者の世話をすることで、新人でありながら遥か上の上司と直に顔を合わせる機会を得られるってことか。確かにやる気の底上げにはなりそう」

「さあ、それはどうかな?」


 アンジェは足を震えさせながら推測してみたが、ビビアンは経験を持ちこんで論を打ち砕く。


「買い出し、道具の準備、荷物持ち、掃除。地味なようで、これが結構きつくてねえ。この段階で辞める奴も少なくないんだ」

「まあ……使いっ走りみたいなものだよね……」


 この国では奴隷制が禁止されて随分長く経つようだが、実質的な奴隷状態になっている人は未だに多い。貨幣や競争がある以上、貧しい人間をいいように使い潰す輩は尽きることがない。


 ビビアンもまた、そのうちのひとりだということだろうか。実力主義が行き過ぎて、目下の者への配慮を忘れてしまったのだろうか。少なくともアンジェは、こんな訓練を受けたいとは思わない。


「これ、本当に必要?」

「理不尽に見えるかい? まあ、否定はしない。ただし一応、こちらにも合理というものがある」


 ビビアンは頭を下げた教官に手を振って挨拶をしつつ、アンジェに理屈を説く。


「アンジェは悪魔祓いを見たことがあるかい?」

「ある。何度も」


 恩人のドイル。サターンの街の騒動。よくわからないまま別れたモズメ。知識の海より深く濃い体験を、身をもって得ている。


 ビビアンは頷き、訓練に励む男たちを機械の腕で指さす。


「連中はそれだ。悪魔を殺すために旅をしてきて、そして……挫折した」


 軍ではなく商会にいるということは、そういうことなのだろう。理由は色々あるだろうが、アンジェには妄想することしかできない。


「殺しの手段を身につけた人間は、不器用かつ過剰な自信を身につける。悪魔に勝てるという優越感は、そのまま人間にも発揮される。指図されることを嫌い、他者を無闇と傷つけるような外道も少なくはない。たとえ失敗という学びを得たとしても、急激に人格を変化させられるほど、人間は器用じゃないんだ」

「ほんとにそうかな? ……一部は、そうかも」


 アンジェはエコー騒動の中で相対した、かつて人間だった男を想起する。

 彼は悪魔になってしまったが故に凶暴化したのだろうか。元から凶暴だったからこそ悪魔と手を組んだのだろうか。赤の他人たるアンジェにはわからないが、後者の可能性を捨てられない程度には、人間の醜さを知っている。ビビアンの理屈もまた、完全に否定することはできない。


 ビビアンはあまり面白くなさそうな表情で、淡々と事実を口にする。自分が通ってきた道を案内するかのように。


「商会という新しい環境、新しい職場に就いたにもかかわらず、問題を起こす奴はいる。そこで、叩き直すことにしたのさ。この商会の規格に当てて、型にはめる。これを導入してから、組織として実に動きやすくなったよ。礼儀、建前、ついでに備品の場所もすぐに覚えてくれる」


 ビビアンは幼い魔物だが、貴族であり、経営者だ。時には残酷とも思える判断を下すのが、彼女の役割なのである。

 ……とはいえ、どことなく理想主義的な部分もあるのが彼女の魅力でもある。アンジェは目の前の光景に圧倒されつつも、彼女の美点を忘れてはいない。


 アンジェは流し目を送り、一応確認してみる。


「ビビアンって結構過激派だったんだね。もしかして犯罪スレスレのこともしてる?」

「うっ。いやいや、嫌がってる人にこんなことはしないよ。最初にこういう訓練をするってことは、彼らには伝えてある。そのうえでああしているんだよ。だから犯罪なんかじゃない。同意に基づいた契約の上さ」


 ビビアンは意外にも焦りを感じているようだ。おそらく、法に触れかねないこともしているのだろう。

 そんなことをしてほしくはなかったが……その恩恵に預かる身としては、注意しにくい。


「……やりすぎないようにって、言っておいて。ああいうのって、加減が難しいと思うから」

「……アンジェは優しいね」


 罵声が飛ぶ部屋に背を向け、アンジェはビビアンの袖を引っ張る。

 長居はしたくない。エイドリアンの教育にも、おそらく悪影響だろう。彼女はまだ、暴力の裏にある感情や思惑を飲み込めるほど、人生経験を積んではいないのだから。


 ビビアンはどことなく皮肉っぽい笑みをたたえ、2人を部屋から連れ出そうとする。


「ここはもういいかな。……ちょっと話があるから、こっちにきて」


 アンジェが醸し出す雰囲気の暗さや、エイドリアンの不満げな頬の膨らみに気づいたようだ。ビビアンはなんらかの方針転換をするつもりらしい。


 大人しく引っ張られて部屋を出た後、ビビアンはやけに堅苦しい事務的な口調で声をかけてくる。


「ぼくは商会の長だから……会長室を持っている。入れてあげようか」


 入れたくないと言いたげな素振りだ。普通は自慢するために是が非でも客を招くだろうに。何故だろう。


 アンジェはビビアンの手を握り、魔力を混ぜあって同調しつつ、首を縦に振る。


「行くよ。楽しみだ」


 期待半分、不安半分。この気持ちも、ビビアンには同調で伝わってしまうだろう。

 それでも言葉の上では、期待だけを表に出す。ビビアンは大親友だが、配慮を欠いてはいけない。


 ビビアンは同調した魔力を通じて、アンジェの胸をも押し潰しそうな不安感をじわりと滲ませながら、そっと微笑む。


「……ありがとう」


 一同は口数少なく歩きながら、ビビアンが所有している個人の領域を目指す。

 途中ですれ違う人々の、やけに堅苦しく礼儀作法に忠実な挨拶を聞きながら。


 〜〜〜〜〜


 巨大で重い扉を慎重に開けて、会長室に足を踏み入れる。

 人間では開けられないだろう重量。まさしく、ビビアンのためだけの空間だということか。これでは重役の部屋というより、閉ざされた蔵のようではないか。


「これはこれは……ずいぶんと面妖な……」


 アンジェは部屋の奥に見える壁飾りに目を奪われ、率直な感想を口にする。

 剣と盾。そして、それらを持った魔道具の義肢が飾られている。実用的な外観はしておらず、美術品としての価値の方が高そうだ。


 ビビアンは扉を閉めながら、やけに背筋を固くして解説する。


「そいつはこの街から見た、ぼくの印象そのものだ。街の中でも、ぼくをよく知らない連中に作らせた」

「へー……」

「軍人であり、技術者……。大多数の住民は、ぼくをそう思っている。その作品からは、そうした意識が読み取れるわけだ」

「うん。……そうか、そういうこと」


 アンジェはその剣の分厚い刃をじっくり眺めながら答える。

 剣と盾は領軍と共に戦う立場であることを指す。それらに加えて義肢を添えることで、ただ無心に剣を振るだけの戦士ではないことも伝えている。盾の紋様は魔道具に刻む魔法陣に似ており、魔法の達人であることも反映されている。

 力の入った良い芸術品であるように見受けられる。ビビアンという存在の影響力を端的にまとめているという点では、これに勝るものはない。作者はビビアンを知らないだけで、著名な芸術家なのだろう。


 だが、先ほどからの様子を見るに、ビビアンはどうやら気に入っていないらしい。


「こいつが語る群青卿は、暴力的な人物だ」


 本の内容を読み上げるように無機質な声で、ビビアンが言う。


「金属で構成された武器。それを組み上げて作ったのがぼくだって? アルミニウスの方がまだ似合う」


 ……だんだんとビビアンの言わんとしていることがわかってきた。

 ビビアンは大きな組織を持つが故に、噂程度でしか彼女を知らない者が多くいる。民に与える印象を変えたいが、どうしたらいいのかわからない。そんなところだろう。

 そもそも彼女は村人だった。その前まで遡れば旅人だった。大勢に知られることに慣れていない。いや、むしろそうした状況を避けてきたとさえいえる。追われる身であったのだから、当然だ。


 アンジェはビビアンの悩みを見抜き、まずは意見を口にする。


「暴力的なやり方をやめたら?」

「ぼくは人を育てたことがない。周りのやり方に頼るしかない。軍隊じみた教育しか知らないんだ。だからアンジェに聞いている」


 ビビアンはエイドリアンの方に視線を向けながら、愚痴のような声の塊を漏らす。

 人を育てるという困難な課題に直面し、うちのめされているのだろう。今までは他人に任せ、責任ごと被せることができたが、エイドリアンによってその弱点をそのままにできなくなったのだ。


 アンジェはきょとんとしているエイドリアンの肩に手を置き、彼女が飽きないように手遊びを行いつつ、思考を巡らせる。


「(難しい問題だ。オレだって後進の育成なんてしたことがないし……知識の海にも答えは載ってない)」

「(そっか。載ってないんだ)」

「(あっ。勝手に覗きやがったな?)」


 同調した魔力を通じて、ビビアンが納得している。

 そういえばこの少女には何もかもお見通しなのであった。たまに忘れて小さな失敗をやらかすので、気をつけねば。


 アンジェはビビアンをじろりと睨みつつ、同調を濃くして更に考え込む。


「(オレはまだ子供だぞ? 自分自身を育てきれていないんだから、他人を育てる余裕なんかあるわけないだろ。正しい教え方なんて、知るものか)」

「(んみぃ……。怒ってるのはわかった。反省したから、もうちょっと抑えて)」


 ビビアンの体がむず痒そうにもぞもぞと動いているが、気にせず魔力を送り続ける。今後は下手に心を覗かないよう、その身で学んでもらわなければ。


「(オレに聞くくらいならニコルに聞け。オレを育てた第一人者だ。ニコルでもわからないなら、思い出のノーグさんにでも聞け)」

「う、うみぃ……」

「いいね?」

「みぃ……」


 エイドリアンが「よくわからないけど、ドリーもわかったよ」と叫んでいるので、軽くほっぺたをつついて遊ぶ。


 職場の執務室で悶える商会の長など、誰も見たくはないだろう。アンジェも見たくない。ビビアンにはもう少しカッコよく、堂々としていてほしいものだ。そうでなければこちらが恥ずかしくなる。


「じゃ、口直しに会長室の案内でもしてくれ」

「……そうするよぉ」


 エイドリアンへの軽い事情説明と共に、アンジェたちは高価な品物で目移りしそうな一室を漁る。


 ビビアンの背格好にぴったりの座椅子。足音が溶ける絨毯。龍を模した彫刻。異様に硬い盤上遊戯。用途不明の刃物。義肢の予備。商品の見本。

 こんなところにも魔道具の類が転がっているのは、ビビアンの性格故か。ほとんどは本家が失われた場合の予備のようなものだが、中には何らかの記念品と思しき唯一品も紛れ込んでいる。


「ドリーはこれがきになるよ」


 エイドリアンが触れないように指差したそれは、一枚の絵画だ。何枚もの絵がこの部屋の壁を彩っているが、その中でも一際小さく目立たないものである。


 アンジェは知識の海を借りず、まずは己の審美眼でそれを楽しむ。


「抽象画だ。他とはずいぶん趣が違うね」


 他の絵画は現実の風景を元にしたものと思われる写実的なものだが、これだけは派手で人工的な異彩を放っている。


 アンジェは知識の海を起動してみるが、特に情報は得られない。作者不詳、制作年月日不明の作品というわけか。

 一見すると水彩画のようではあるが、筆を走らせたというより内側から滲み出したような色のつき方をしている。使われた画材が気になるところだ。


 アンジェが必死に分析していると、ビビアンは顔を真っ赤にして白状する。


「それ、ぼくが描いたんだ。誰にも見せる気はなかったんだけど……せっかくだし……」

「おお、ビビアンが!」


 アンジェは知識の海から完全に浮上し、その絵を食い入るように見つめ始める。

 親友が生み出した魂の軌跡なのだ。血涙が出るまで観察し、ありとあらゆる考察を解きほぐし、理解を深めねばなるまい。それがアンジェなりの礼儀というものだ。


「青い円が連なった塔……これはビビアン自身を表現したものだろう。頂点にのみ垂らされた一滴の赤がよく映えている。外見的特徴をあえて省き、水と血液の混合物たる本質をまざまざと描いたからこそ、ビビアンという個人が持つ激流のような荒々しさと、川が上から下に流れるように論理的な思考が……」

「単に下手なだけだよ……。深い考えなんてない。ぼくに描けるのはラクガキだけだ……」


 顔を背けるビビアンを横目で確認し、アンジェはそっと首を横に振る。


「技能の問題じゃない。ビビアンが自分をどう思っているかが、この絵から読み取れる。普通、人体を渦で表現することはないよ。部分部分を円で表すことはあれど……。いや、場合によってはこういう描き方もあるのか……ビビアンは独自にその境地へと至り……」

「んみぃ!? 下手なだけだってば!」

「ビビアンは世界を巻き込む大渦だ。端から端まで使って大胆に描かれた太く力強い線を見るに……」


 その後、アンジェは芸術からビビアンを考察するべく脳を振り回し、エイドリアンが飽きて寝るまで息継ぎさえせず話し続けた。


 サターンでの逢瀬といい、アンジェは芸術に関心があるのかもしれない。アンジェはビビアンの両肩を掴んで握りしめ、ぼんやりとそう思うのであった。


 〜〜〜〜〜


 《ビビアンの世界》


 正直なところ、ほんの少しだけ不安だった。ぼくのことを軽蔑するんじゃないかって思っていた。


 ぼくがノーグ商会を見学の舞台に選んだのは、ここがぼくの領域だからだ。魔物のビビアンではなく、人間の英雄……群青卿としてのぼくの居場所だからだ。ぼくが社会のために何をしているのか。それがはっきり現れる場所。


 自分が生きた証を見せずして何が親友か。ある意味では、これはケジメのようなものだ。秘密を持たない関係を目指すにあたって、どれだけ気まずくても開示するしかなかったのだ。


 アンジェは受け入れてくれた。新人いびりの頂点に立つぼくを。自己表現のうまくないぼくを。


 ぼくの冷たい一面の象徴たるこの部屋の中で、ぼくはアンジェを見つめる。

 アンジェはエイドリアンに感想文を書かせ、今回の見学で得た学びについて評価している。漠然とした考えを文章化させることで具体的にし、自覚させる……と言っていた。


「一番印象に残ったところを絵にしてみようか」

「おえかきするの? ドリー、うまくないよ?」

「思い出にするのが目的だ。後で振り返ることができるなら、それは間違いなく糧になる。記憶より確かで実物より色鮮やかなもの。思い出こそが、学びだ」

「よくわかんないけど、ドリーはとりあえずやってみるよ」


 エイドリアンは渡された簡単な画材で下手くそな絵を描き始める。

 ……これで良いのだろうか。こんなことで彼女のためになるのだろうか。もっと質の良いやり方があるんじゃないのか。


 ぼくが不安を滲ませると、アンジェはすぐに感じ取って、わざわざ耳打ちしてくる。


「この時期の子供なら、こんなものだよ。『楽しかった』以上のものを引き出せているだけマシな方だ」

「……これで勉強になってるの?」

「なっている……はず。子供には子供なりの、正しい手順があるんだ。オレが言うとおかしな感じだけど」


 エイドリアンよりアンジェの方が幼く見えるから、なんだか妙な気分になってしまう。実際、アンジェはまだ幼児だ。本来ならエイドリアンと一緒にままごとでもしているはずの年齢なんだ。ぼくと並んで教える側に回っているのはおかしい。


 ……いや、ぼくも大概か。ぼくもまた、飛び級をしてここにいるようなものだから。


「かけたよ!」


 エイドリアンは色とシワでぐちゃぐちゃになった紙を提出し、アンジェの意見を待つ。

 ぼくも覗いてみるけど、何が描いてあるのかさっぱりわからない。赤と茶色の蜘蛛の巣が縦横無尽に張り巡らされているように見える。下に引っかかっている黒い棒は虫か?


 困惑するぼくをよそに、アンジェは母のような慈愛に満ちた表情でエイドリアンを褒める。


「工場で働く人たちを描いたんだね。生き生きとしてるね」

「すっごいおおきくて、ちょっとこわかった。ドリーはくらくらするよ」

「ずっと上ばっかり見てたからね。お疲れ様」


 ……アンジェの審美眼は、こんなところでも役に立つのか。素敵じゃないか。


 絵を描いて、思い出に残す。きっとぼくの絵を見て思いついたのだろう。

 冷え切った部屋が、人肌で温まっていくような心地がする。ぼくはまた、アンジェに救われたのだろう。


 〜〜〜〜〜


 見学を終えて、アンジェたちは屋敷に帰還する。アンジェは自室に直帰。ビビアンは配下に報告。エイドリアンは帰って早々、使用人たちとおしゃべりだ。


 部屋でくつろぎながら、アンジェはひとりの時間を楽しむ。

 ニコルとナターリアは明日まで戻らない。今ならエイドリアンの目もない。ひとりでしか楽しめないことでもするとしよう。


 アンジェは知識の海を漁り、かつては触れることがなかった暗い物語の一節に身を投じる。


「ああ、麗しき乙女よ。何ゆえ悪魔に堕ちたのです」

「満ち足りた人よ。あなたの心をどうしたものか」


 愛だけが足りない貴族の男と、愛しか知らない飯炊き女。逃げる2人が行き着く先は、物悲しくも救われた結末。


「生きて愛する。死して愛する。人の数だけ愛があれど、我らの愛は見つからぬ」

「寄り添うことこそ愛なのよ。あなたは足りてはいないのね。足りないことに無自覚なだけ」


 アンジェはいつのまにか、愛を説く少女に心を込め始める。即物的な貴族の生き方に縁がないためか、それとも……。


「(オレは悪魔のお姫様……えへへぇ……)」

「(…………ふーん)」


 弾かれたように部屋の出入り口を見る。

 すると、同調された魔力を通じて、外にいる人物の正体がわかる。ビビアンだ。いつのまに壁越しの同調を身につけたというのか。


 彼女は躊躇いながら様式的に扉を叩き、部屋の主人の許可を求めることなく自分で開ける。

 気まずそうに俯いた青白い顔が、幽霊のようにぼんやりと迷い込む。


「見ちゃってごめんねぇ。えっと、これはただの事故なんだ。決して覗きたいから覗いたわけではないのであって……」

「気にしてない。気にしてないよ。何か用事でも?」


 アンジェは可及的速やかにこの話題を水に流させるべく、ビビアンがここに現れた理由を問う。


 すると、彼女は……寝巻きの裾を握りしめて、心細そうに頼みを伝える。


「今夜、その……2人、だけだし……。また一緒にお風呂、入りたいなって……思うんだ」

「なるほど。……ま、そういう日もあっていいか」


 同調しているので、ビビアンがどれほど欲求不満かよくわかる。アンジェも人恋しかったところだ。丁度いい。

 アンジェはビビアンの胸に飛び込み、頬を擦り寄せて甘える。


「きゃー! ひんやりしてきもちいい!」

「……じきに熱くなるよ」

「うん。心臓、とくんとくんしてるね」


 その後、2人は貸し切り状態の風呂場で、じっくりとお互いを暖め合った。

 ある程度楽しんだ後は、使用人に迷惑がかからないよう途中で上がり、寝室で団欒。


 ……人生は長いようで、案外短い。まだ数年しか生きたことのないアンジェにとって、この1日はたまらなく楽しいひとときであったが……時間を重ねるにつれ、そのうち薄れてしまうのだろう。

 特にアンジェは知識の海を持つが故に、人の数十倍の速度で人生経験を得ることになる。厳密には、ビビアンたちと同じ時間を生きているとは言えないのだ。


 エイドリアンのようにゆっくりと成長できたら、もう少し子供らしくしていられたのだろうか。


「(……そんなことはないか。みんなと肩を並べて生きられるのは、この力のおかげだ)」


 アンジェは義肢を床に落として眠っているビビアンを見つめ、愛おしく思う。


「願わくば、早く大人になって……健康で強い大人のまま、いつまでも幸せに過ごしたい」


 アンジェもまた、柔らかい毛布に包まれて、ゆっくりと眠りに落ちる。


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