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第88話『交霊、助霊』

 《ビビアンの世界》


 ぼくは義体の修理を諦め、気体と化した彼女を保護することに専念する。工具と材料が足りないため、この場でどうにかするのは不可能だと判断したのだ。


 間に合わせとして、壊れた頭部から部品をいくつか拝借して、簡易的な風よけを組み立てる。これで吹き飛ばされる懸念はなくなるはずだ。


 完成したそれは、なんというか……不恰好な兜のようだ。

 納得がいかない仕上がりだが……とりあえずニーナの意見を聞こうじゃないか。


「具合はどう?」

「聖水が通っていないと憑依できませんわね……」


 ニーナはそう言って、カタカタと金属片を鳴らす。


 憑依……。なるほど。まさしく霊魂だ。

 魔物の中には幽霊という種類がいるらしいが、まったく目に見えないため、存在が疑問視されていた。ニーナはそれだったというわけだ。


「(鎧に取り憑く幽霊か……)」


 ぼくがそんなことを考えていると、アンジェが知識の海で調べてくれる。


「幽霊……。確かにそうだね。ただ、名前が存在しないみたいだ。悪魔からの呼び名もない」

「えーと、つまり?」


 ニコルが兜の目の部分を覗き込みながら尋ねると、アンジェは咳払いをして解説する。


「シュンカやマンモンといった魔物の名前は、人間の学者による命名だ」

「あ、それ人間が付けてたんだ」

「例の狼の場合、人間がつけた学名が『シュンカ』、人間の村や街での慣習的な呼び名が『血煙』、悪魔の呼び名が『石登り』だ。地域によって表記揺れがあるけど、だいたい似たような感じ」

「ふーん……」


 アンジェは魔物に関する基礎知識を披露した後、主にナターリアの反応を見て続ける。


「本を書くような知識人は、絶対に『シュンカ』という表記をする。知識として後世に残す以上、より広く伝わる言葉を選ぶのが理にかなってるからね。訛りを排除するのと似たような感じかな」


 その通り。

 ちなみに、田舎育ちでありながらシュンカを『シュンカ』と呼ぶアンジェは、はっきり言って異常者だ。知識の海に毒されているというわけだね。

 確かマーズ村では『血煙』の名で通っていたはず。ミカエルもそう呼んでいた。……懐かしいなあ。


 アンジェはニコルの表情が退屈で弱っていることに気がつき、軽く咳払いをする。


「でも人間が幽霊を認識できず、過去の記録においても未確認扱いだったから、ニーナの種族には名前が無いんだ。ここまではわかるね?」

「うん。誰も知らなかったってことだよね?」


 知らないものを研究することなどできない。見えないものを語り継ぐこともできない。人の間では、霊的存在は与太話として処理される。死や闇に対する恐怖が生み出す、まやかしだと。


 アンジェは人差し指を立てて、学者っぽい話し方で続ける。


「では悪魔からはなんと呼ばれているかというと……実は、呼ばれてさえいない」

「どういうこと?」

「死人の声が残留する『現象』として扱われている」

「えっ。意識があるのに、現象?」

「普通の幽霊は、ニーナほどはっきり残らないみたいだからね」

「可哀想っすね……」


 墓場で手を合わせていたら、死者の声が聞こえたような気がした。振り返っても誰もいない。きっとあの世から見守ってくれているのだろう。

 魔物や悪魔にとってもその程度だと、アンジェは言う。


「幽霊に出くわした時、ほとんどの人はこう思う。()()()()だと」

「まあ、失礼しちゃいますわ!」


 ニーナは兜の内側で、プンスカと怒っている。

 生きていると主張するニーナの姿は、透明で何も見えない。しかし、ぼくはニーナの意見に賛同する。


「まったくだ。ニーナはここにいる。無視されるべきではない。断じて」

「ああ、ビビアン! わたくしの希望!」


 ニーナにビビアンと呼ばれると、なんだか違和感がある。群青という呼び名にすっかり慣れてしまっているからだ。……変な気分だなあ。


 すると、床に倒れているニーナの義体を見下ろしながら、ドムジが呟く。


「アンジェくん。その知識を何処で手に入れた?」


 当然の疑問だ。悪魔による魔物の呼び名や、目に見えない幽霊の存在については、あらゆる知識が集まるこの地においても、ほとんど知られていない。魔物に関する書物を読み漁っただろうドムジでさえ、今日まで知らなかったはずだ。

 悪魔とはいえ、かつては一介の村娘だったアンジェがどうしてそんなことを知っているのか。追及しないはずがない。


 アンジェはおろおろしているナターリアの腰に手を当てて宥めながら、ドムジの疑問に答える。


「オレは欲しいと望んだ知識を入手できる魔法を持っています。たぶんオレの固有魔法です。痒いところに手が届かない仕様ですけど……」


 アンジェは後頭部をポリポリと掻いている。


 ぼくもアンジェとの同調で、ある程度知識の海の使い勝手を承知している。

 だからこそわかる。あの魔法の使い手が謙遜しちゃいけない。


 確かに深い内容は調べられないし、情報が古いものも多々あるし、田舎の話は入ってこなかったりするけど……安楽椅子に座ったまま世界を知ることができるなんて、ふざけている。ずるいぞ。


 ドムジは信じられないものを目にしたような顔になって思案に耽る。


「『知識の海』という魔法を操るとは聞いていたが、我ながら認識が甘かったな……」


 アンジェは膨大な知識と、それを十全に操る思考力の持ち主だ。ドムジの想像さえ超えていても、ぼくは不思議に思わない。


 ドムジは更に深く眉間に皺を寄せる。


「ならば、ニーナを救うことができるのではないか?」

「救うと言われましても……何をどうやって?」

「それは……ニーナに聞いてくれ。私は幽霊ではないからな」


 曖昧で、そして難易度が高い依頼だ。アンジェの心から不安が流れ込んでくる。

 しかし……ドムジから信頼を得る良い機会ではないだろうか。ニーナが傍目から見ても救われた状態になれば、一気にアンジェたちの立場を改善できる。


「(やってみようよ。ぼくも支援する)」

「(私も賛成かな)」


 2人分の後押しを受けて、アンジェは拳をぎゅっと握り、ニーナの兜に顔を近づける。

 ひとまず会話をして、細かい打ち合わせをしなくてはならない。正式に依頼を受けるのはその後だ。


「ニーナ様。何かお困りのことはありますか?」

「困っていないように見えまして!?」


 ニーナは相変わらずアンジェへの当たりが強い。

 少し前までは理由がわからなかったけど、今ならなんとなく察することができる。ニーナはぼくのことが好きだから、ぼくの心がアンジェにある状態に嫉妬しているんだ。


 ……ぼくはニーナに救われてばかりだったから、まっすぐな聖人のように思っていたけれど……そういう部分ばかりではないんだね。ぼく自身も、乱暴されたし。


 ニーナは兜をぴょんぴょん跳ねさせながら、不満を次々に述べる。


「物を食べられず、肌の感覚もなく、生きている実感がまーったくありませんの。眠ることもできませんしお茶の香りもよくわかりません! 生身の感覚に例えますと……そうですね……」


 ニーナは兜をくるりと回し、燭台を示す。


「ろうそく。あれを溶かして塗って……足の裏で文字を書いたとして……綺麗に文章を書くことができるでしょうか」

「無理です」

「ええ。……憑依というのは、それくらい難しいことですのよ」


 意思疎通がままならないのも、その影響か。


 こうして直接霊体と触れ合うことができれば、もっと簡単に会話できるようになる。でもそよ風に吹かれただけで死に至るほど貧弱なら、密閉された容器から外に出すわけにはいかないし……難題だ。


 アンジェは自分の手のひらを眺めた後、ぼくの方をチラリと見る。


「今のところ、改善案は思い浮かぶ?」

「無い」


 霊体に関する知識が足りない以上、下手に手を加えるわけにはいかない。今までの改良を思えば、余程の変化でない限り問題はないはずだけど……今のニーナを見ると、未知に足がすくんでしまう。


「(不用意に手を出したら、ニーナが死ぬ)」


 そういえば、クリプトンはニーナの状態を知っていたのだろうか。……知らないはずがない。ぼくが作った魔道具に許可を出している立場なのだから。


 彼の意見を聞きたい。そう思い、ぼくは尋ねる。


「クリプトンは何処にいる。主任技師なら何か知っているはずだ」


 ドムジに圧をかけると、彼は待っていたとばかりに即答する。


「ここの病床だ。心臓近くの血管に裂け目ができ、血が染み出した。ここにいないのは、そういうことだ」

「無事なのか?」

「数日で出られる。だが、流石に背筋が凍った」


 外傷ならともかく、体の奥深くの治療は、簡単にはできない。おそらく溜まった血を抜いた程度だろう。自然治癒しない限りは、そのうち再発する。


「(ぼくを後任にしたいと言い出したのは、死期が見えたからか)」

「(ご老体には申し訳ないけど、病み上がりの体に鞭打って、ニーナ様の改良に手を貸してもらわないといけないね)」


 アンジェは首を横に振る。


「(前例がないから、簡単にはいかないよ。知識の海があったとしても)」

「(そうか……)」


 ……さて。


 アンジェの知識も、クリプトンの経験も、今は頼れないらしい。ニーナに関しては、まだどうしようもないだろう。


 この辺りでひとつ、ドムジを試してみるか。交渉してアンジェを要職に就け、地位を引き上げるのだ。


「提案があります。アンジェを技師の一人として工房に参加させましょう。知識の海を有効活用し、この地の力になってもらいます」

「……君を、か」


 ドムジはアンジェを見下ろし、睨みつける。


 小さな黒い子供。本来ならまだ何も知らないはずの少女であり、人類の最先端を行く専門的な研究に参加することなどできやしない。


 貴族特有の威圧感に震えるアンジェを見て、ドムジは冷静に判断を下す。


「それは……許可できない」

「しかし、進歩のためには必要でしょう?」

「娘を死に追いやるような真似は、万が一にもできない。危険を犯すべきではない」


 アンジェの能力は得体が知れない。だからこそ、深いところに招くわけにはいかない。その理屈はわかるよ。だけどさあ……都合よく利用するつもりなら、もう少し冒険してみるべきだと思うよ。


 ……まあいいや。貴族はそういう生き物だ。危険に近寄らず、遠巻きに手勢を送り込んで世界を動かす。そういう立場なんだ。文句は言うまい。


 ところが、ニーナはアンジェの方に這いずり、願い出る。


「お父さま。わたくしはアンジェさまを信じ、身を委ねます」

「なっ!?」


 彼はニーナがいる兜に触れようとして、ぎりぎりのところで思いとどまる。


「ニーナ。お前にもしものことがあったら、私は耐えられない。今はもう、戦場に出すことさえ許し難いのだ。我々と共に、後方で暮らそう。わかってくれ」


 切実な願いだ。

 それに対して、ニーナは毅然とした態度を示す。


「確かに魔王は手強い相手でした。好戦的で容赦がなく、どうしようもなく気まぐれ。我々が膝を抱えていてもお構いなしに蹂躙することでしょう」

「ああ、そうだ。だから……」

「わたくしが箱入り娘になってしまっては、奴をどうやって食い止めるというのですか」


 正確な言葉を伝えられるようになったニーナは、いつになく真剣な声で訴える。


「我々は戦わねばならないのです。世界中から力のある者を取り込んで、貪欲に生きねばなりません」

「だとしても、危険を背負うのは貴族の役目ではない。他の者に任せればよいだろう」

「武功に応じて爵位を与える制度を導入しておきながら、今更後ろに下がれるものですか」

「英雄と政治家は違う。安全に生きろ。お願いだ」

「民衆にとっては同じなのです!」


 前線に立ち、命懸けで生きる戦士と、彼らに守られる民をその目で見てきた。その経験を糧に、ニーナは誇りを持って意を示す。


「貴族と民の距離が離れれば、貴族は貴族だけ、民は民だけで生きるようになります。貴族の持つ財や知識が民まで行き届かなくなる。領内の動きが精彩を欠けば、悪魔と戦うすべを失います。貴族の英雄が必要なのです。間を繋ぐ、架け橋が」

「……群青卿が、いるではないか」


 ぼくに責任をなすりつけるなよ。いよいよ混乱してやがるな、こいつ。


 ニーナは弱々しい声で陳情する。


「他で補える、という話ではないのです。わたくしは満足に動く体が欲しいのです。温かい手足が、必要なのです。民を守るために」


 物質的な手足のことだけではないだろう。ピクト領に生きる民を、自らの手足としたい。そんな想いも含まれている。

 霊体から聖水の距離。聖水から義手の距離。ニーナはそれだけ離れてしまっている。民衆から遠ざかってしまっている。それがたまらなく苦しいのだろう。


 ……ぼくは間違っていた。

 ぼくはニーナの義眼を見て、美しいと感じた。芸術に似た輝きを目の当たりにした。だからこそ、魔道具の職人となってそれを作りたいと思った。


 人が持つ心の魅力は、作れるものではなかったというのに。


 床に転がるニーナの瞳を見つめるぼく。

 その隣で、ひそひそと声がする。


「ニーナさんが苦しんでいる。それだけでも身を粉にして働くには十分な理由でしょうに。政治の話なんかする必要あります? つまらないんですけど」

「お貴族さまと私たちじゃ、立場が違うから……」


 ナターリアとニコルが、部屋の隅で会話している。

 わざとこっちに聞かせているみたいだ。

 なら、ぼくも2人を気遣った方が良さそうだ。


「この話は、長くなりそうなので……また後の機会にしましょう」

「……そうだな」

「とりあえず、ここに来た目的を果たしましょう」

「ああ。屋敷の譲渡の件だな。早めに切り上げて、クリプトンの見舞いに行くといい」


 ぼくたちは改めて席に戻り、今回呼び出された件について説明を受ける。


「世間話としては些か重みがあったが……そろそろ、屋敷を譲渡するに至った経緯について説明しよう」


 魔王の襲来を受けて、ピクト領内では更なる戦力を求める動きが強まった。

 魔王を撃退した事実を大々的に広め、ピクト領軍が健在であることを喧伝。軟弱者は後方へ下がり、士気の高い悪魔祓いたちが前線へ。

 こうして軍は更に力強い戦力を得るに至った。


 しかし、怖気付いて撤退した者たちが大勢外に出てしまった結果、領外に「ピクト領から逃げよう」という空気が漂ってしまう。

 更には魔物であるビビアンを引き込んだ事実や魔物を受け入れる近年の体制と混ざり合い、「ピクト領は悪魔に占拠された」という事実無根の噂さえ流布され始める。

 他領の貴族たちにはニーナが万全であることやビビアンが誠実であることを伝え、誤解を防ぐことができたものの……点在する村々にはなかなか伝わらない。


 特にピクト領に近い村の中には、土地を捨てて逃げ出す者たちも現れ始める。

 そうなると他領に被害者面でつつかれる上に、交易にも滞りが出る。


「ありましたねえ、そんな村……」

「あったね……。ビビアンの噂を手に入れたのも、あの辺りだったね……」

「土地を捨てて逃げ出しても、よそじゃ食っていけないでしょうに……」


 ナターリアとニコルは道中でその実例を見てきたようだ。納得顔で頷いている。


「魔王の影響はそれだけではない。軍の内部も混乱に見舞われることになった」


 ドムジは2人にあまり興味がない様子で、話を続ける。


 悪魔への恨みを持つ悪魔祓いが増えた結果、ピクト領軍はこれまでの防衛重視の集団から、より好戦的で血の気の多い集団へと変化していった。

 もっと首級をあげるべく、遠征を。そんな意見さえ出始めた。魔物がうようよしている荒野を越え、瘴気が蠢く山を越え、敵の本拠地である谷に飛び込むのは無茶だというのに。

 しかし、貴族たちはその風潮を無視できない。拒否すれば人が逃げ、戦力が足りなくなる。前線で戦う者たちが離れれば、待っているのは破滅だけだ。金を抱いたまま、魔物に殺される。


「前方には死に急ぎの悪魔祓い。後方にはデマを流す愚者たち。厄介な状況と言うほかない」


 ドムジは考えたのだろう。彼らを納得させつつ意識改革を行い、領内の空気を変貌させる方法を。


「象徴を据えることにしたのだ」

「象徴……。何のですか?」

「無論、この領地だ」


 ドムジは髭を撫でつつ、上体を前に倒す。


「新たに要塞を建造し、そこに我々が住む。民衆に近い位置にある屋敷も、エイドリアンくんの協力で武装する。さて、民衆の目にはどう映るだろうか」


 ぼくはしばし思案する。


 要塞を建てただけなら、民衆は貴族に反感を持つだろう。自分たちだけ後方に逃げ、身を守っているようにしか見えない。

 しかし、彼らが住んでいた屋敷まで様変わりしているとなると、話は別だ。貴族が従来の倍以上奮発し、戦おうとしているようにも見える。


「軍備に金をかけているのが一目でわかります」

「そうだ。我々は武力を強化し、立ち向かっている。それを目に見える形で表したのだ。ピクト領の強さを示せば、悪魔祓いも、よその臆病者たちも、文句は出せまい」

「なるほど……」


 そして、屋敷の管理はぼくに任せる。以前から英雄として祭り上げられていた、このぼくを。

 そうすれば、領内は変わる。旧来の住民を納得させつつ、少しずつ意識を入れ替えることもできる。


 理屈としては納得がいく。だけど、やり方がどうにも気に食わない。


「言ってくれればよかったのに」


 ぼくやみんなに何の説明もなく推し進められた。それがどうしても不愉快だ。

 ドムジからニーナへ。ニーナからエイドリアンへ。下請けはそこで止まり、他には隠し通された。秘密主義も大概にしてほしいものだ。


「役目を与えたいなら、もっとぼくを信頼しろよ。ちゃんとお前たちに絆されているから、安心して全部任せろよ」


 ドムジはバツが悪そうな顔で呟く。


「結局のところ、私は君を信用しきれていなかったのかもしれないな。魔物に対する嫌悪感を、拭いきれていなかったのだ。幾度となく食事や茶の席を用意し、内面を見極めたつもりだったが……」

「いつになく正直じゃないか」


 ぼくが茶化すと、ドムジは鼻で笑う。


「卿こそ、口調が崩れているぞ」

「むっ……」


 ぼくは所詮、叩き上げの泥臭い水だ。ちょっと底を掬えば、すぐにボロが出る。


 ドムジはぼくが嫌な顔をしているのを見て、露骨に機嫌を良くする。

 そういえば、こいつの前でしかめ面になったのは初めてかもしれない。


「まあ、これからは手を取り合っていこう。君たちはニーナの親友なのだ。私としては、妙な交友関係を築いてほしくないのだが……娘の頼みには弱くてね」

「親バカか?」

「その通り。私は世界一の親バカだ。……今もまた、懲りずに投資しようとしている。娘が欲しがる君たちを、買い与えようとしている」


 そう言って、ドムジは使用人たちを呼ぶ。

 必要以上に大勢の人間たちによって、紙と筆記用具がずらりと机の上に並べられる。


「譲渡する理由は以上だ。では、書面に残そう」


 使用人が持ってきた様々な宣誓書に目を通し、ぼくは代表として一筆書く。

 これであの屋敷……正確には土地と財産が、ぼくのものになった。太っ腹だ。


 ただの魔物に過ぎないぼくに、どうしてこうも尽くしてくれるのだろう。ニーナのためと言われても、それだけでは納得できない。


「……ビビアンよ」


 ニーナの兜は、窓からの光を受けて渾然と輝いている。


「わたくしはあなたを信じています。ピクト家の行く末を、あなたに託しても良いくらいです」

「何故そこまでする?」

「愛に理由が必要ですか?」


 無償の愛、か。ぼくにはよくわからないな。恩を受けたわけでもないのに、何もかも捧げるなんて。


 ぼくはノーグに恩がある。育ててもらった恩だ。アンジェにも恩がある。助けてもらった恩だ。そういう利害関係があるから、好きになったんだ。


「ぼくにとっては、必要だ。恩返しこそがぼくの愛の形だ。理由のない愛なんて、信じられない」


 そう答えて、ぼくは書類に名を記す。

 ニーナにも恩がある。これからも恩を受けることになるだろう。


「君の思惑に乗ってやるのも、ぼくなりの恩返しだ。せいぜい象徴として使いたまえよ」


 兜の向こうで、ニーナがうっすらと笑った。


 〜〜〜〜〜


 《ナターリアの世界》


 よくわからない話が終わって、よくわからない書類に同意して。

 ようやくあたいは、冷めてしまった茶菓子にありつけます。


「結局、あたいが出なくてもしっちゃかめっちゃかになったじゃないすか」


 あたいはアンジェちゃんに愚痴を垂れ流しながら、離れたところで激論しているビビアンちゃんを見守っています。


 あの2人はさっきより更に難しい話を繰り広げています。権利の範囲だの、周辺住民への告知だの、よそのお貴族さまへの挨拶だの。

 あたいたちじゃ加われないから、大人しく待っていることになったわけです。


 そういえば、ビビアンちゃんはもう立派な貴族になったわけですから……会合を主催することになるかもしれませんね。あのお屋敷で。

 うむむ……お貴族さまと廊下ですれ違ったりしたらどうしよう……。こわいこわい。


「おねえちゃん」


 あたいがまだ見ぬ恐怖に怯えていると、ドリーちゃんが服を摘んできます。


 ……なんとなく、言いたいことはわかりますよ。


「ごめんなさい」


 ドリーちゃんはこれまでにないくらい意気消沈した姿で、あたいに謝罪してきます。


 ドリーちゃんは勝手すぎます。友達ができたからって、何の相談もなしに暴れたら駄目じゃないすか。エコーに騙された時から成長してませんよ。


 とはいえ、あたいたちがちゃんと叱って、どうすればいいのか教えてあげなかったからこうなったんでしょうね。

 親というものは、本当に難しい。あたいの両親も、ドムジさんも、こうやって思い悩んだんでしょうか。


 ……あたいは親になれるんでしょうか。


「ドリーちゃん。何かする時には、必ずあたいたちに相談してください」

「ニーナさんじゃ、だめ?」

「ニーナさんだけじゃ、駄目です」


 あの人は抜けてます。色々と。

 あたいも人のことを言えませんけどね。


「あたいたちだって一人じゃ何もできません。大勢で考えて、知恵を出し合って、それでどうにかなってるんですから……もっと周りをあてにしてください」


 周りを頼って、受け入れて。そうしているうちに、いろんな人にいろんな意見をもらってください。それがきっと、ドリーちゃんの力になりますから。


 ドリーちゃんは自分より小さなアンジェちゃんの方を見て、何か言いたそうに目を伏せます。

 するとアンジェちゃんは、困ったように苦笑いをして、ドリーちゃんに告白します。


「オレも一人で動くことが多かったけど……これからは気をつけようと思う」

「そうなの?」

「そうだよ」


 ドリーちゃんは驚いています。

 もしかすると、ドリーちゃんにとってのアンジェちゃんは……自分と同じ子供なのに自由に動き回っていて、とても羨ましく見えていたのかもしれません。


 アンジェちゃんは対等な友達で、ドリーちゃんは年下扱い。歪んでるのかもしれませんね、あたいたち。


「ドリーちゃんがいくつになったら、大人扱いしていいんでしょう?」


 あたいがこっそり尋ねると、アンジェちゃんは首を横に振って肩をすくめます。


「わかんない。オレもまだまだ子供だし、知識の海にも載ってない。ピクト領の成人年齢でも調べておこうか?」

「そういう問題じゃないと思いますよ」


 ドムジさんをやり込め始めたビビアンちゃんを眺めながら、あたいたちはただ甘味に舌鼓を打ちます。


 親の愛。お茶と菓子。これらもまた、ビビアンちゃんが言うところの恩。

 立場を得て、役割を果たして、立派に恩を返しているあの子こそが、一番大人なのかもしれません。

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