第87話『人、成り、神霊』
《ビビアンの世界》
辺境伯代理のドムジ。辺境伯のニーナ。
2人は何やら使用人と会話を交わした後、ぼくたちに告げる。
「使用人が炉の使い方を間違えたらしい。許してやってくれないか」
だから茶菓子が出てこないのか。
それにしても、向こうから呼んでおいて準備が整っていないのは不自然じゃないか。まさかとは思うが、このまま菓子のひとつも提供しないつもりか?
……いや、たとえぼくたちを嫌っていたとしても、そんな露骨なことをする奴じゃない。気にしすぎだろう。
ぼくはあくまで使用人のせいだと言い張るドムジの不手際を、軽く流す。
「良い物を作るには、それなりの手間がかかりますから。焼きたてを提供してくださるお心遣いだけでも嬉しく思いますよ」
「ありがたい」
隣でナターリアが腹を鳴らしているが、それは無視しよう。
ぼくはお茶を味わいつつ、ドムジがまた話しかけてくるのを待つ。
自己紹介が終わり、次こそ本題に入るだろう。これからが正念場だ。ドムジの思惑がはっきりする。
ぼくが一息つくと、案の定ドムジが話を切り出す。
「ところで、群青卿。クリプトン男爵は息災か?」
意外な人物の名前が出た。
クリプトン。ピクト家が所有する工房の主任技師であり、ぼくの師匠にあたる人物だ。ニーナの体を作る役目は相変わらず彼が指揮を取っている。
今となってはぼくの方が地位も資金力も技術力も何もかも上回っているが、ニーナの製法だけは譲られていない。
まあ、彼にも意地と立場があるからね。お払い箱にされないために必死なんだろう。ぼくがあの人を邪険にすることなんてないのに。
ぼくにとっては重要な人物。とはいえ、ぼく以外の面々とは関わりがないはずだ。今話題にするのはどのような思惑によるものか。
「彼は優秀な技師であり、今もなお尊敬を集めていますよ。当然、私からもね」
素直にそう言うと、ドムジは内面が窺い知れない無表情で問いかけてくる。
「彼もそろそろ良い歳だ。そうは思わないかね?」
……彼を引退させ、ぼくを代わりに立てたいのか?
今のところ、ぼくにその気はない。彼がニーナを背負ってくれているからこそ、ぼくは自分のやりたいことをできているんだ。
魔道具の布の量産。前線での戦闘。これ以上の役割を持つには、まだ早い。
ぼくは首を横に振り、提案を突っぱねる。
「幸いにも、この街には優秀な魔法使いが多く集まります。年波に奪われた若さは、周りが……」
「後継は君しかあり得ない。彼ならそう言うだろう」
ドムジは強い口調でそう言い切る。
なんだ。何が起きている?
そんな話がしたいなら、ぼくだけを呼べば済んだだろう。当のクリプトンはどうした?
予想外の展開にぼくが困惑していると、アンジェが心配そうにぼくの心を落ち着かせようとしてくる。
「(ビビアン。ここは冷静に、相手の思惑を探ろう。クリプトンさんはよく知らないけど、彼のこと、すぐには決められないだろうし……)」
「(うん。わかってる)」
「(私たちには難しくてわからないけど、必要だったらいつでも呼んで)」
アンジェはクリプトンを見たことがあるが、目覚めたばかりで右も左もわかっていない時期だ。ほとんど記憶にないだろう。ニコルに至っては顔すら知らないはずだ。
「彼の考えを、直接聞きたいところですね」
ひとまず、それが最重要だ。時間稼ぎの側面もあるけど、あの人の意志を蔑ろにしたくないのが一番だ。
ニーナを今の今まで支えてきた、優秀な技術者。ピクト家からの信頼も厚い、尊敬すべき先達。彼の意見を無視するわけにはいかない。
ところが、ドムジは静かに首を振る。
「彼には要望を聞いてある。私と同じだ。辺境伯からの信頼が厚い君を主任技師に据えようとしている」
「……その名に誓えますか?」
「当然。後日、会って確かめればよかろう」
疑ってみたものの、こうも言い切られると確かだとしか思えない。
あの堅物クリプトンも、ぼくを推薦しているのか。どういうことだ。何故ぼくへの相談も無しに決めてしまったんだ。
……そして、今のドムジの発言で、もうひとつ聞きたいことができた。
「辺境伯も今回の件に賛同していらっしゃるようで」
これがどうにも引っかかる。
ぼくの昇進……そしてクリプトンの実質的な左遷に彼女が関わるとは思えない。そんな手回しをする性格ではないはずだ。
「(クリプトンと一番関わりが深いのは、彼女だったはず。彼を引退に追い込むような真似はしないと思いたい……けど……)」
ただ、ぼくが絡むと暴走するのは、過去の事例通りだ。真意を確かめておかなければ。
ぼくはニーナの方をじっと見つめる。
彼女はお茶を飲んで誤魔化すこともできず、目を逸らしている。
大きな体に、繊細な心。まったくもって、不器用な人だ。
突破口は彼女にある。ぼくはそう確信する。
適当な理由をつけて、ニーナに話を振ろう。
「辺境伯。羽を伸ばしましょう」
せっかくのお茶会だというのに寡黙すぎる。もっと喋ってくれ。……という意味だ。
ドムジが横目でニーナの顔色を窺う。
余計なことを喋るな……と言いたげな鋭い眼光。しかし、その内側に漠然とした不安のようなものが見えるのは気のせいだろうか。
ニーナはドムジの横顔を見て、黙り込む。
黙秘しているのではない。考えているのだ。口を開く前に思考をまとめなければ、喋ることさえままならない。それがニーナだ。
「……わたくしは」
ニーナが口を開いた途端、ドムジが目を見開いて止めにかかる。
「気分が優れないようだ。別室を用意しましょう」
「おい待て」
ぼくはうっかりして、汚い口調で咎めてしまう。
ドムジは悪魔祓いのように強い眼光でギロリとぼくを睨みつける。
……構うものか。
「あまりにも乱暴だ。彼女は何らかの意思を示そうとしていた」
「群青卿。今回は私との対談であったはずだ。辺境伯は案内をしてくださったに過ぎない」
ドムジは強権を発動している。地位だけならニーナの方が目上なのだが、人の世界は肩書きだけで回ってはいない。彼は、父親なのだ。
ピクト家に忠実な使用人が、ニーナのそばに動く。席を立てと言わんばかりに、暗に圧をかけている。どちらが主人かわかったものではない。
——その時。
「ニーナさん。親って、面倒くさいっすよね」
沈黙を保っていたナターリアが、いつになく真面目な表情で声を上げる。
「家業を継げだの人の役に立てだの、それっぽいことを言いながら、子供の未来に線を引いている。不自由ですよねえ」
「メジロ……。我が町よ」
「人としての正道に導くつもりなら、それでいいですよ? 歩き方、喋り方は親から教わるものです。でもね……子供の自由を奪っちゃいけないんすよ」
生粋の平民であり、貴族に萎縮していたはずのナターリアは……今まさに権力を振りかざしているドムジに向けて、断固として主張する。
「ニーナさんはもう成人で、しかもこの領地の長でしょう? なんであなたが偉そうにしてるんですか。静かに横に控えてなさいよ」
「……ずいぶんと、胆力のある娘だ」
ドムジはナターリアを睨みながら不敵に笑う。企み笑顔だ。裏で何を考えているか、窺い知れない。
それでもナターリアは怯まない。
「違いますよ。あたいは臆病で、ピクト家に守られなければ死んでいたはずの、か弱い存在です」
「ならば、何故牙を剥く?」
「友達のため。そして、大事な友達がいるあたいのためです」
平然と、そう言ってのける。
「ニーナ様は友達です。命を張るのに十分な理由になります。あたいには、失うものなんて何も無いんすから」
「カッコいいけど、エイドリアンが驚愕してるよ」
「あっ」
エイドリアンよりニーナの方が大切だと言わんばかりの態度に、褐色の少女は呆然と口を開けてひっくり返る。
椅子が倒れる音と共に、エイドリアンの体が床に投げ出される。
「ドリーは『うしなうもの』じゃない……?」
「ドリーちゃんっ!!」
「おねえちゃんがドリーのことをわすれても……ドリーはそばにいるよ……」
失うものはここにあるだろう。エイドリアンのためにも、もう少し自分を大切にしてくれ。人の親に向いてないよ、ナターリア。
ナターリアはエイドリアンを抱き起こし、滝のように涙を流しながら懺悔を始める。
「ごめんね、ドリーちゃん。そんなつもりじゃなかった。忘れてなんかいない。ドリーちゃんはいつでもあたいの中にある。でもちょっと、ほんのちょびっとだけ、カッコつけたくなっちゃって。勝手に命を賭けたりしないから。ちゃんと面倒見るから。だから、嫌いにならないで……」
「……メジロ」
「無礼を働いて本当にすみません。ドリーちゃんが悲しむから軽い罰で許してください。何卒!」
「なんだこいつは……」
謝罪と共に厚かましい要求を始めるナターリアに、ピクト家の2人は大いに困惑を露わにする。
ナターリアはこういう奴なんです。後先を考えないし、視野が狭いし、話が長いし、表情がうるさい。
……でも、おかげで空気を入れ替えられそうだ。気持ちを新たにして、会合に挑もう。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
しばらくエイドリアンとナターリアの問答があった後、ようやく茶菓子が運ばれ、会談が再開される。
「わたくしが工房を動かしました」
開口一番、ニーナはそう言ってのける。
「宿老を引退させ、群青を据えようと席を構築したのはわたくしです」
宿老とは、クリプトンのことか。あまり似合わない渾名だ。
……最近になって名付けたような名称だが、それにしては的を射ていない。何か由来があるのだろうか。
ぼくはニーナに向けて、率直に尋ねる。
「何故、ぼくを推す?」
「愛している、からです」
ドムジが弾かれたようにニーナの方を見る。
……とはいえ、知らなかったわけではなさそうだ。貴族たちが集まるこの場であけすけな話を始めた意外性に戸惑っているのか。
「(愛している。……スラスラ言えるようになったんだね。どれだけ訓練を積んだのやら)」
ニーナは驚愕する彼に構わず、ぼくの目を真っ直ぐに見つめてくる。
「群青を我が包括にしたい。秘宝の全権を真水に浸けたい。それが我が大望。故にそれに相応しい椅子を釣ってきたまで」
「秘宝……。まだ何か隠し事があるのか。まあ、ニーナは辺境伯だから、当然か」
秘密の暴露。その続きが始まろうとしている。
ニーナはあの場でも、ほとんど何も喋らなかった。普段は尋常ではなくやかましいのに、あの空間においてはあまりにも寡黙過ぎた。
……きっと、ぼくたちとは比べ物にならないほど重い秘密を抱えているのだろう。領地を守る責任があるのだから、おいそれとは話せないのも無理はない。
ドムジはぼくと、そしてナターリアを見て、震えている。
恐怖しているというのか。あれほど豪胆で底の見えなかった男が。信じられない。
「ニーナ。やめてくれ。この場ではまずい。群青卿だけを取り込む約束だったはずだ。我々もずっと、そのつもりで動いてきた」
「群青だけではない。我が外縁には、こんなにも神々しい証がいるのだ」
「我々でも、この場にいる全員の面倒は見切れない。秘密を知る者を過度に増やすわけにはいかない。わかるだろう?」
ドムジ、及びピクト家の真意が見えてきた。
彼らはぼくをお抱えの工房の長に据え、法律と規則の鎖で雁字搦めにするつもりだったらしい。立場に縛り付け、よそに秘密を暴露できないよう封じ込め、ぼくの頭脳と技術と魔力をこき使う。
もし計画が成功していたら、ぼくは一生屋敷のある街から出られず、魔道具を作り続ける機械と化していただろう。
その計画は途中までうまく運んでいた。恩義と親愛でぼくは心を許し、文字通り生まれ変わったようにニーナに尽くした。ピクト家に忠実な存在へと成長しつつあった。
しかし、ここ最近になって誤算があった。アンジェの漂着。そしてニコルたちの襲来。これにより、ぼくの交友関係が大きく広がったのだ。
新たにやってきた悪魔たちは揃いも揃って有能で、しかもぼくの知り合いだ。抱え込まなければ損。野に離せば危険。しかし、ぼくに与えられた『地位』という拘束を解く可能性が極めて高い。
事実、アンジェの扱いに不満を持ったぼくは、場合によってはアンジェを連れて出ていくことさえ検討していた。
ピクト家は大混乱だったに違いない。まさか何ヶ月もかけて懐柔したぼくに離反を考えさせるほどの存在が、急に現れるとは思わなかったはずだ。
アンジェたちを研究し、その力に驚き。ぼくたちを纏めて抱える方法を考え、それは不可能だと理解し。
手練手管で操るには、ニコルとエイドリアンは、ちょっと厄介すぎる。
……ドムジの言葉が正しいなら、予定通りぼくをさっさとピクト家に巻き込んで、後の面々についてはそのうち対処するつもりだったのだろう。ぼくさえ守っていれば、他の面子も暴れないだろうと判断して。
ぼくは心の中で、アンジェに確認を取る。
「(アンジェみたいに推測してみたけど、どうだろうか。これで合ってると思う?)」
「(オレに聞かれても困る。……あえて付け加えるなら、クリプトンさんは結構な高齢で、それなのに後継がいないみたいだったから、焦っていたのかもね)」
なるほど。そう考えると、ピクト家の動きに合点がいく。こうも慌ただしい対応になっているのは、そういうわけか。
彼の後継ぎになれそうなぼくを、早めに拘束したかったのか。ふうん。
……さて。今の問題は、ニーナの秘密とやらがどんなものなのかだ。
知っている者がいないと困るが、増やすわけにはいかない。ドムジの発言からは、そんな雰囲気が感じ取れる。
一体どんな秘密なのだろう。
ぼくの疑問を受けて、アンジェはその脳を凄まじい勢いで回転させて、必死に事態を考察する。
「(推測するに、ニーナの体のことだろう。クリプトンが関わっているなら、たぶんそうだ。秘密を誰かに打ち明けないと修理できない。でも、技術者なら誰でもいいわけじゃない。腕前があって信頼されている人物じゃないといけない)」
「(ぼくしかいないのか)」
「(その上で、ビビアンにまだ隠されている部分。つまり脳。……これだ)」
確かに、ぼくはまだニーナの脳を見たことがない。脳を入れている堅牢な魔道具はクリプトンの管轄であり、他の者は設計図を見ることさえ許されていない。このぼくでさえもだ。
そうか。ピクト家はニーナの脳を任せられる人物を増やしたいのか。なるほどね。
……だとしても、何かが引っかかる。
ぼくたちがひたすら思考を巡らせていると、静観していたニコルが会話に混ざってくる。
「(ねえ、2人とも。よくわからないんだけど、ニーナさまって、脳だけが生身なの?)」
「(そうだよ。筋肉、骨格、内臓、血液……。脳以外の全部が魔道具だ)」
ぼくが肯定すると、ニコルは率直な疑問を呈する。
「(それって、生きていると言えるの?)」
「(えっ)」
「(アンジェみたいにぎりぎり消滅しないで済んでるとしても……それはもう、人間の生き方じゃないと思うんだけど……)」
思い返せば、ニコルはニーナとの接点がほとんどない。会話をろくにしておらず、お互いに興味が薄そうだった。だからこそ、容赦のない評価が可能なんだろう。
……ぼくたちには、そんな残酷な結論は出せなかったよ。薄々思っていても。
「人間じゃないんだ」
アンジェは口に出して、指摘する。
口論しているドムジたちにも聞こえるように、はっきりと伝える。
「かつては人間だったのかもしれない。だけど、今はもう……」
次の瞬間、目を見開いた人物が一人。
「やめろ!!」
ドムジが立ち上がり、絶叫する。
「私の娘は人間だ! 見ろ、ここにこうして座っているではないか! 人として、人の姿で!」
取り乱した形相。上擦った声。その態度が、真実を物語っている。
ぼくたちの推測は、確たる証拠があるわけでもないというのに、当たってしまっていたのだ。……ドムジにとっては、酷い事故だろう。
「ニーナは死んでなどいない! 我々が死なせはしない! あらゆる手を尽くし、人間としての姿と、地位と、名声と……。ああ、そうだ。何ひとつ不足のない人間にしているのだよ!」
ドムジは声を荒げて主張している。
……だが、答え合わせをすればわかる。生きた証拠がそこにいるではないか。確かめよう。
ぼくは覚悟を決め、ニーナに頼む。
「ニーナ。ぼくのお願いを聞いてほしい」
「無論である」
ぼくが何かを言う前に、ニーナは清々しい表情で額に手を当てる。
……待て。何をするつもりだ。後で設計図を見せるなりすればいいんだ。真実を口に出してくれるだけでも構わない。
「我が真髄を、お見せしよう!」
「バカ、やめろニーナ!」
飛びかかるぼくを躱し、ニーナはあらゆる機能制限を解除し、自らの頭部を破壊する。
魔王と殴り合えるほどの恐ろしい連撃。それを自らの頭部に向けて解き放つ。
「ぐふっ!」
勢い余って、ぼくは床を転がり、壁に背をつける。
壁を蹴ってもう一度飛びつこうとして……そして、何もかもを失ったニーナの頭部を目にする。
部品ごとに分解され、中が剥き出しになった頭部。その頂上にあるのは、不釣り合いなほど古ぼけた魔道具。まるで呪具のような、禍々しい入れ物。
美しい真珠の義眼が、床に落ちる。耳が剥がれ、肩に垂れ下がる。
しかしニーナは、砕けた上顎を鳴らしながら、喉を震わせて叫ぶ。
「見たまえ! 貴族としてのニーナ・フォン・ピクトの死を!」
ニーナはその古びた容器を、最新式の……ぼくが作った義手で、粉砕する。
一撃。たった一撃。それだけで、容器は粉になって床に散乱してしまう。
強度も出力も魔力効率も、何もかも義手の方が優れているのだろう。作られた時代がまるで違うのだ。クリプトンさえ、その古い聖域に手を入れることができなかったのだ。
「……ああ」
涙ぐむドムジの声が、微かに響く。彼もまた、ニーナの全てを見届けたのだ。
ニーナの容器には、何も入っていない。人間の脳など欠片も見当たらない。
ニーナ・フォン・ピクトは、生きていない。とっくの昔に死亡していたのだ。
部屋の全てが、呆気に取られて静まり返る。
頭が働かない。自分の脳までもが、空っぽになってしまったかのようだ。
だって、ニーナが……ニーナは……。
「これがわたくしです」
残ったニーナの頭部から、声がする。
間違いなくニーナの声だが、どこか透き通った響きだ。魔道具を介していないためだろうか。
声は容器から響いている。中にある飛び散った聖水が、声に合わせて動き、音源の存在を示している。何もいないのに、確かに空気が震えているのだ。
「わたくしは悪魔。エイドリアンさま……いえ、ドリーちゃんさまと同じ、人間の体を触媒として生まれた悪魔です」
みんなの視線が、エイドリアンとニーナの間で揺れ動く。
今はただ、事実を受け止めるので精一杯だ。黙って彼女の話を聞こう。
「かつてわたくしは、優れた魔法使いでした。6つの頃までは神童と呼ばれ、家庭教師だったクリプトンさえ上回る魔法を行使しておりました」
姿のないニーナは、周辺の空気を僅かに歪ませながら話し続ける。
「ところが病に侵され、10になるまで生きられないと宣告されました。体を薬に浸けて延命しましたが、全ては虚しい努力でした」
ドムジが涙を流し始める。当時を回想しているのだろうか。
弱っていくニーナを、間近で見守り続けた男。
「しかし、わたくしは辺境伯となるために生を受け、惜しみない愛情をありがたくも受けて育った身。故にわたくしは、自らの死に抵抗しました」
「……うん」
「悪魔へと変化する儀式を編み出し、魂の器となる魔道具を作ったのです。このために魔法の才を天より授かったのだと、わたくしは確信いたしました」
ニーナの魔力は、最新式の魔道具を山ほど集めて、三日三晩動かせるほど凄まじいのだ。
だからこそ、人間から悪魔になるという前段未聞の実験を成功させることができたのだろう。天才という言葉がよく似合う。
「わたくしは悪魔となりつつも、魔道具によってその気配を隠しました。万が一にも正体を知られてはなりません。ここはピクト領。悪魔と戦う戦士たちの地」
「……うん」
「そこで、わたくしとお父様は決意しました。緩やかに時間をかけて、この地を魔物に迎合させるのです。そうすれば、この秘密が知られても命を奪われることはなくなります」
ピクト領が魔物との融和を目指しているのは、それが理由か。ぼくやアンジェや、リンなどの悪魔を受け入れているのも、全てはニーナのためだったのだ。
……きっとドムジは、親バカだ。忌むべき悪魔となってしまったニーナを、どうしても手にかけることができなかった。それどころか、積み上げてきた歴史を捨て、多くの人間から反感を買う危険を犯してまで、領内の改革をしてしまったのだ。
なんと愚かで、なんと美しいことだろう。
「こうしてわたくしは特別な存在となり、ピクト家の加護のもと、悪魔と戦うこととなったのです」
見えないニーナはそう締めくくる。
直後、金属の体が支えを失い、崩れ落ちる。糸が切れた人形のように、あっさりと魂が抜けた物になってしまう。
「ニーナ!!」
ぼくが咄嗟に駆け寄ると、ニーナの声が響く。
「あらまあ。ビビアンはお人好しですわね。わたくしと結ばれるつもりもないのに、まるで伴侶みたいに手を差し伸べて。罪な人……」
「……ニーナ。もしかして、案外平気?」
声がする辺りに視線を向けて尋ねると、ニーナの声は明るく笑う。
「当たり前ですわ。わたくしは悪魔。魔力の生命体」
「いやいやいや。だからってこんな……何もないのに生きてるだなんて……」
ぼくが手をかざそうとすると、ニーナは慌てふためいた声と共に義肢を動かし、ぼくの腕を掴む。
「あ、ちょっと。それはいけませんわ。今のわたくしは気体ですので、扇がれると困ってしまいます」
「……なるほど。そうか」
アンジェが何事かを閃いたようで、人差し指をピンと立てながら考察を口にする。
「魔物や悪魔は様々な形状のものが存在する。ビビアンは水の魔物であり、常温ではほぼ液体として活動している。ならば気体の魔物が存在するのも、それほどおかしな話ではないわけか」
「そう、その通りですわ! 流石はアンジェさま!」
ぼくのそばで何かが揺れる。
極めて薄い煙。春の霞より更に不安定な霊的存在。そこにあるような無いような、幻覚じみた何か。
ニーナは力を失った義体の上で、誇らしげに叫ぶ。
「わたくしはニーナ・フォン・ピクト。『一種者辺境伯』ですわ!」
口調がまるで違うものの、明らかにニーナだとわかる態度だ。これほど朗らかで馬鹿馬鹿しい貴族は他にいない。
……魔道具の塊を放り投げるべきか悩むぼくの背後で、ドムジが呆然と呟く。
「ずいぶん元気そうじゃないか」
そうか。ニーナの本体はもう10年以上容器の中に詰まっていたのだから、彼も本来のニーナを見るのは久しぶり……あるいは、初めてなのか。
もしかすると、彼もぼくたちと同じように勘違いをしていたのかもしれない。ニーナが不自由で不幸な身の上だと。生きた人間より劣った存在だと。
ニーナは軽く笑い、そして親しげに答える。
「元気なものですか。わたくし気体ですから……そよ風が吹くだけで死にますわよ」
「げっ」
ぼくは無言でニーナの修理を始める。
これで本当に死んでしまったら、洒落にならない。
それでも……いずれにせよ……思ったより大事ではないようだ。少しだけ、安心したよ。




