第86話『猫舌、二枚舌』
アンジェたちはピクト家の面々が待つ城の内部へと足を踏み入れる。
巨大かつ堅牢な正門をわざわざ開け、堂々と正面から。
本来は武装した家来たちが専用の機材を使用し、長い時間をかけて開けるものだが……ニコルがいれば、蔦であっさりだ。
衛兵たちが青ざめた顔で立ち尽くしている。
「ぐ、群青卿。並びに白き剣士殿。我々の仕事に、何か不手際がございましたでしょうか!?」
「無い」
気の毒な彼らの様子を見て、ニコルは呟く。
「今更だけど、招かれる方から開けるのって、お行儀が良くなかったのかな。待った方がよかったかも」
「……少なくとも、前例は無いよ」
「ま、いいんじゃない?」
アンジェの知識には、城門をひとりで開けてはいけないという規則は載っていない。堂々としていれば、案外何も言われないかもしれない。
いつのまにか城門を守る雇われの番人が何人も集まっているが、口をあんぐり開けたまま何も言ってこない。彼らも判断に迷っているようだ。
もし上に咎められたら……その時考えよう。
「それにしても、こんな立地なのに、城門を広くする理由があるすんかねえ。ここから軍隊がバーって出てくることなんて無いでしょうし」
ナターリアが誤魔化すような口調で疑問を口にすると、多少は事情を知っているらしいビビアンが捕捉する。
「貴族ってのは見栄っ張りな生き物なんだよねぇ。実際に大勢が出入りすることがなくても、目に入る部分は飾りたくなるっていうか」
「本当にそれだけっすか? その割には、結構無骨に見えますよ?」
ニコルの背中に乗ったまま訝しむナターリア。
領主が暮らすあの街に住んでいた以上、貴族に関する噂も入ってくるのだろう。彼女なりの貴族像が出来上がっているものと推測できる。
すると、背中をナターリアを気にかけながらニコルがくすくすと笑う。
「お貴族さまのことですから、色々考えてると思いますよ。たとえば……いざって時にみんなを中に匿うためとか」
「ああ……それもそっか」
守られる側の視点、ということだろう。ニコルにとっての城と、ビビアンにとっての城は……まるで意味が違うのだ。平民と貴族。村娘と軍人。
ビビアンは何か思うところがありそうな顔で、城の石畳を見ながら頭を掻く。
「……思い返してみると、ぼくには普通の平民だった時期がほとんどない。意外と政策の受け手の視点が欠けているのかもしれないね」
「じゃあ、その分はあたいとかニコルさんとか、周りの人が補佐するってことでいいんじゃないすか?」
暗くなりかけたビビアンを、ナターリアはお気楽な口調で笑い飛ばす。
「あたいはどうやっても偉くはなれませんから、こんなことで役に立てるなら万々歳っすよ」
「……ナターリア」
「あたいこそ、みんなに助けられてばっかりですからね。支え合える関係になりたいっていう……まあ、ただの願望みたいなもんです」
ナターリアはニコルの翼に頬を擦り寄せながら、目を閉じてその感触を楽しんでいる。
彼女は無力だ。知識も技能も経験も、何も持ち合わせていない。失礼な感想ではあるが、知識の海を持つアンジェの目にはそう見える。
だが、それだけではない。人間とは、決してそれだけの生き物ではないのだ。
「(ナターリアはちょろくて、気が多くて、直情的。人懐っこくて、他人に好かれたがる。そういう不器用な生き方もまた、人間の魅力だ。オレはそう思う)」
この場では最も大人に近いが、それでも不完全なナターリア。アンジェは彼女のうっとりした姿を見つめながら、自分自身を見つめ直す。
他人の役に立ちたい。大切な人を守りたい。足を引っ張りたくない。それはアンジェも同じだ。
これからピクト家の面々と会うことになる。きっと覚悟や資質を問われるだろう。……それでも、隣人を愛する気持ちを正直に答えれば……最低限、人として扱われることにはなる……と、思いたい。
すると、そんなアンジェの決意をよそに、軽い口調でニコルが叫ぶ。
「あ、ニーナさまだ。おーい!」
先頭のニコルが、城の奥から現れた人物に対して声をかけたのだ。
長身の貴族女性、ニーナ。派手で美しい服装に、城の石壁が不思議とよく似合っている。
すると、ニーナは焦った様子で周囲の使用人の様子をキョロキョロと見回す。
「か、関する者なり。故にこそ、光明なる響きを伴っているのだ」
「……ニコル殿。先ほどのような発言は、この先ではお控え願います。どうか、我が主人の立場が危ぶまれることにならぬよう、ご配慮をお願い申し上げます」
この使用人は、確かクロムという名前だったか。ニーナの側近のような立ち位置だ。
彼はどうにも我々に手厳しい。そして、ニーナにも甘くは無い。リンのような全肯定はせず、彼自身の頭で考えて動く。優秀だが、気難しい老人だ。
クロムは最後尾にいるビビアンをまず睨み、そこから列の先頭へと視線を動かす。彼の中での優先順位が垣間見える素振りだ。
「辺境伯代理のもとへご案内いたします」
彼の案内を受け、アンジェたちは緊張感を高めながら城の内部を歩いていく。
真新しい石材の澄んだ色合い。反響する足音。新築の城砦は、歴戦のそれとは違う風格を放っている。
ここはもう、アンジェたちの領域ではない。平民が畏れ無くして足を踏み入れられる場所ではない。
「(あの屋敷には、生活臭があった。住み慣れたビビアンがいて、受け入れてくれる人たちがいて、それなりに居心地が良かった。でも、この城は違う)」
アンジェはすれ違う使用人たちがおざなりな挨拶しかしない点に恐怖を覚える。
ニーナが辺境伯だから、仕方なく足を止めている。そんな無愛想な内面が透けて見えるのだ。後ろにはビビアンもいるというのに、敬意がまるでない。
アンジェはニコルの腰を指先で突き、会話用の花をもらうことにする。
ニコルの声が出る花飾り。それを改良し、口を開く必要さえなく意思疎通ができるようにしたものだ。ビビアンの同調を羨ましがったニコルが、一晩で完成させた。
アンジェが小さな花を髪に挿すと、ビビアンも自分の体を切り離して手渡してくる。同調のためだろう。
アンジェはビビアンの一部である雫を受け取り、それに花を生ける。
「(アンジェ。聞こえる?)」
「(聞こえるよ、ニコル)」
「(お、ぼくにも聞こえる。便利だね)」
「(……同調してると、こんな感じになるんだね)」
どうやら3人で会話できるようだ。
またずいぶんと便利な魔法を身につけたものだ。ニコルとビビアンは常にアンジェの想像の上を行く。まったく、頼もしい限りである。
「(ねえ、ニコル。これから会うドムジはかなり厳格な人だ。地位を持っているぼくが代表で話すよ)」
「(じゃあ、お願いするね)」
「(困ったらオレたちも頼ってくれ)」
この花ではナターリアとエイドリアンとは会話できない。ニコルの情報処理能力にも限界があるのだ。
少し残念ではあるが、彼女たちは貴族の前ではそれほど主張しないはずだ。問題はない……と思いたい。
とはいえ、確認くらいはした方が良いだろう。
アンジェはニコルの背中に乗ったままのナターリアに、そっと声をかける。
「ナターリア。先に言っておくけど、話し合いはビビアンに任せてもらっていいかな? 言いたいことがあるかもしれないけど、しっちゃかめっちゃかになったら困るから……」
「気弱なあたいじゃ向こうの言い分をほいほい聞いちゃいそうなので、その方が助かります。頼みますよ、ビビアンちゃん」
いざとなれば悪魔が相手だろうと立ち向かっていける彼女だが、貴族相手の舌戦では不利だ。本人もそれをよくわかっているらしい。
アンジェはエイドリアンにも同じことを伝え、ビビアンにそっと目配せを送る。
「(これでいい?)」
「(ありがとう。心強いよ)」
アンジェの耳の奥で、ビビアンの魔力が感激に震えている。ただ2人に用事を伝えただけで、そんなに喜ぶものだろうか。
……きっとドムジと直接話し合う状況が恐ろしく、心細いのだろう。
ビビアンの中にはアンジェの魔力があるが、アンジェの中にビビアンはいない。他人を中に存在させるという感覚は、どのようなものなのだろう。アンジェにとっては、理解しがたい感覚だ。
ビビアンからアンジェへの感情は、凄まじく重い。何ヶ月も昏睡していた間の日々がそうさせているのだろうが、アンジェは苦しい眠りの中にいたため、完全な形では共有できていない。ビビアンにとってのアンジェがどれほど重い存在でも、それを理解できないのだ。
それでも……多大な信頼があってこそ成立している状態だということは、アンジェにもわかる。
「(ビビアンの献身に、応えたい)」
アンジェは矢面に立ったビビアンのために、少しでも力になろうと決意する。
……そして、その想いが伝わってしまったのか、ビビアンは悪戯っぽく笑う。
「(ひひひ。大好き)」
同調していると、胸に秘めた決意さえ伝わってしまう。うっかりしていた。
……そうこうしている間に、アンジェたちは城の最上部にたどり着いてしまう。
「(またずいぶん高いところに……不便だろうに)」
地位のある人物がいるべき場所は、上階。そんな決まりがあるのだろうか。確かに城から出入りする機会が多いのは下々の者だろうが……。
クロムは一際丁寧に磨かれた扉の前に立ち、ビビアンに了解を得た後、中の人物に声をかける。
「こちら、クロムでございます」
どうやら使用人同士のやり取りらしい。辺境伯代理であり、ニーナの父親であるドムジの使用人が、中で取り次ぎを行なっているような雰囲気だ。内部の物音は聞こえないが、クロムを見ればわかる。
「(……アンジェ。ニコル。一応、聞いてくれ)」
ビビアンが不安に満ちた感情をこちらに流し込みながら、宣言する。
「(ぼくは……君たちを信頼している。尊敬しているし、友情も感じている)」
「(えへへ。ありがとう)」
「(ふふっ。嬉しい……)」
こうもまっすぐに好意を伝えられると、照れてしまう。ニコルも同じ気持ちのようだ。
ニコルはここ数日の濃密なやり取りを経て、ビビアンの中にいるアンジェを認識した。その結果、どういうわけかビビアンに対しての態度が軟化したのだ。
嫉妬、あるいは失望するかと思いきや、ビビアンの心にあるアンジェへの想いの強さを理解したらしい。
要するに、お互いに腕前を認め合い、同好の士となった。
……ニコルは一途だが、柔軟に人と接することができるのだ。価値観が柔らかく、可能性に満ちている。
ビビアンは主にニコルに向けて、意思を伝える。
「(だからこそ、遠慮はいらない。ぼくのことは気にせず、意見があったら正直に伝えてくれ)」
「(もちろん)」
「(異論ないよ)」
巨大な扉が、その貫禄に見合わないまっさらな静寂と共に開いていく。
その光景を前にして、3人は覚悟を決める。
「ぴえ……」
後方にいるナターリアが恐怖に駆られる声を聞き、少しだけ不安がよぎるが……彼女とエイドリアンは、我々が守ればよいのだ。
「おねえちゃん、だいじょうぶ」
ナターリアの手を握りつつ、エイドリアンが小さな声で励ます。
「なんとかなるよ」
意外なほど達観した、エイドリアンの言葉。それを聞き、ナターリアは深呼吸をして、先に行くニコルたちにくらいつく。
権威が怖いだろう。未知に怯えてしまうだろう。それでも歩みを止めずに、彼女は我々について来てくれている。
アンジェは胸を張って、虚勢で恐怖を塗りつぶす。
「いざ」
アンジェが一歩踏み出すと、後ろで扉が閉まる音が響く。ニーナとその使用人が退路を絶ったのだ。
それは開戦の笛のようにも、儀式の鐘のようにも聞こえる音だ。荘厳かつ冷酷。人の生活を断ち切り、異なる何かに変える合図。
先に待つのは、生か死か。
アンジェは顔を上げ、目の前の未来に注目する。
ドムジ・フォン・ピクトは、部屋の主人として厳粛な立ち姿でそこにいる。立派な髭を口元に蓄えた、荘厳な雰囲気の男性だ。上品な服は新品そのものの輝きを放ち、彼の地位を誇示している。
……この者は、ニーナに次ぐ権力者。特に事務においてはニーナさえ上回ると言っても過言ではない。
断罪。そんな単語が、アンジェの中に泡のように浮かぶ。
彼が権力を行使して、アンジェたちを押し込めようとするのなら……争わなければなるまい。
アンジェは床より一段高いところに立っているドムジをしっかりと見据えたまま、部屋の中央まで歩いていく。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
ぼくは背中を守る強固な盾に支えられながら、この街を実質的に統治している男と対峙する。
ドムジ・フォン・ピクト。ピクト領の9代目当主に育てられ、現在の10代目当主であるニーナを補佐する男。
厳格かつ、敵と見做した相手に容赦のない男として社交界では有名で、魔物や悪魔を手篭めにして飼い慣らしていると噂になっている。彼の正体は人間に化けた悪魔なのではないかと、遠く離れた地でも畏れられているほどだ。
……まあ、ぼくという魔の存在もあるし、間違いではないかもね。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
ぼくが目下として挨拶をし、使用人を通して手土産を渡すと、ドムジは会釈だけを返す。
威圧的だ。まともに会話をするつもりがあるのだろうか。目上である辺境伯も、招く側の一員とはいえこの場にいるというのに。
「……喉が渇いたところだ。茶にしようではないか」
つまり、早く席につけということだ。
彼は貴族としての挨拶を簡略化して済ませるつもりのようだ。前もって日程を決めた会談とは思えない。そんなに早く本題に入りたいのか。
ぼくたちは用意された椅子にそれぞれ座り、長話の準備を整える。
日の当たらない側にぼくたち。向かい側にドムジとニーナ。
陽の光を後光のように背負った彼らは、強者としての迫力を纏っている。貴族……いや、生物としての強さがピリピリと響いてくる。
「(強者……)」
ニーナは当然だが、きっとドムジも戦えば強いのだろう。そんな予感がする。体を動かす機会がさっぱりないはずの貴族だというのに。
「……失礼だが、手は足りているだろうか。この席にいる限り不自由はさせないが、こちらにも負担というものがあることをわかってほしい」
使用人を連れていないことを咎めている。
……半分お前のせいだろうが。
ぼくの使用人たち……主にラインとドーナは、屋敷の人手の埋め合わせに奔走している。屋敷からピクト家の者たちが引き上げてしまったため、実質的な家令へと繰り上げ昇格してしまい、大変なのだ。
アンジェたちが来て住民が増えた影響もあり、新しいやり方を模索しながら必死に回している。今も屋敷全体の大掃除と、使用人たちの予定の管理で精一杯だろう。
無数の枝を使用して家事ができるエイドリアンがいなければ、屋敷は機能していなかった。それだけは確かだ。
彼らの名誉のためにも、ぼくは言葉を返す。
「私は新興の貴族です故、家と人が紐づけられていないのです」
「ふむ」
わかるか、ドムジ。お前と違って家の使用人はいないし、人を引っ張ってこれるだけの権力や威厳もない。金と技術と伝手で、職人の配下をたくさん手に入れはしたけど……彼らに雑用を任せるわけにはいかない。
「口の無い手足というものは、自然にはございませんから。時間をかけて育てるか、街をかき分けて見つけなくては」
秘密の多い工房に出入りさせる以上、使用人は吟味しなきゃいけない。技術がすっぱ抜かれたら困るのはお前も同じだろう。単純労働をさせるにしても、人は選ばなきゃいけないんだよ。
「そうか。次の機会には、より一層豊かになった貴殿に会えることだろう」
また茶会を用意してやるという約束を匂わせつつ、ドムジはぼくの隣にいるみんな……特にエイドリアンの方をチラリと見て、髭をいじる。
「……ところで、この者たちは違うのだな」
使用人じゃないなら誰だ。詳しく知らないから改めて紹介しろ……と言っている。
知らないはずがないだろうに。……いや、彼らと会うのは初めてだし、この先対応するにしても、まずは直接口を開いてほしいのが本音か。
ぼくは同調したアンジェとニコルに伝える。
「(自己紹介をしてくれ。最初はニコル、次にアンジェだ)」
「(私から……。自信ないけど、いいの?)」
「(構わない。相手は信頼できる人かどうかを見ている。その点ニコルは見た目も物腰も丁寧で人間に近い。アンジェは人間離れしすぎててびっくりされるから、先に出すのは悪手だろう)」
外見年齢5〜6歳くらいの女の子が、かしこまった口調で対応したら……警戒するのが普通だ。人ではないという事前情報があれば、尚更そうなる。
ニコルは立ち上がって、お辞儀をする。平民の挨拶だが、素朴でありながら綺麗な動作であり、害意が無いことは伝わるはずだ。
「私はニコルです。ソーラ領アース村から来ました。お会いできて光栄です」
ニコルはまるで緊張を表に出さず、無難かつ明るい言葉で締めくくる。表情も朗らかで、安心できる。アンジェが惚れるのも納得の美少女だ。
次に、アンジェがひょこひょこと椅子から飛び降りて、土魔法で作った即席の足場を踏み台にして顔を出し、挨拶をする。
「私はアンジェと申します。平素より御懇情をたまわり、心より感謝申し上げます」
よくできました。アンジェは人前で喋ると緊張するらしいけど、完璧だったよ。お立ち台を用意しないドムジの馬鹿野郎を貶してやりたいくらいだ。
だがドムジは動じていない。人柄や能力をちゃんと知っているんだろう。
「(アンジェの能力くらい調査済みか。当然だね)」
アンジェが可愛いお尻を席につけると、ナターリアがガチガチになりながら上擦った声を上げる。
「ざ、じ、自分は、ナターリア、という名前です。人です。悪魔じゃないです。助けてください」
命乞いでもしてるのかこいつは……。
そういうところもナターリアらしいけど、この場においては裏目になるだろう。
ドムジは利益をちらつかせて味方を作り、揚げ足をとって敵を作る。奴がどういう手段を取るにしても、ナターリアはぼくたちにとって弱点になり得る。
それでも、ナターリアはもはやぼくたちの家族だ。見捨てはしないさ。
ナターリアが泣きそうな顔で座ると、エイドリアンがアンジェの台に立ち、おずおずと声を発する。
「エイドリアンです。よろしくおねがいします」
……彼女に関しては、ぼくたちもよくわかっていない部分が多い。
生まれた方法、持っている思想、能力の限界、そして彼女が望む未来。
何もかもがはっきりしない。あまりにも不透明すぎる。
ナターリアの妹……いや、娘……? だから、守ってあげたい気持ちはあるんだけど……。
もしかすると、この集団において……彼女こそが真の弱点なのかもしれない。
ぼくは拳を強く握りしめ、アンジェとニコルに話しかける。
「(エイドリアンをどう守ろうか)」
「(屋敷の件が不安だけど、どうなるのかな……)」
「(オレの推測だと、なんらかの処罰を受ける可能性が高い。ちょっと大胆に動きすぎた)」
アンジェはエイドリアンが足を外した後の土台を片付けながら応答する。
「(エイドリアンは好き勝手やりすぎている。ニーナの指示とはいえ、屋敷を丸ごと枝で包んでしまったのは問題だ)」
「(うん……。もしかして、ピクト家の人がここに移ったのも、それが原因じゃないかなって……。だとしたら、怒られるんじゃ……)」
「(それは違うよ)」
事情を知る者として、そこははっきりさせておかないとね。
「(連中は元から前線を離れるつもりだった。たまたまぼくたちの到来やエイドリアンの暴走と重なってしまっただけ)」
「(でも、絶対つつかれるような……)」
まあ、そうだね。これ幸いとぼくたちの責任に仕立て上げてくるだろう。エイドリアンも罪を感じて謝罪してしまうに違いない。たぶんナターリアも。
そこからぼくたちがどうやって巻き返すかが問題だろうね。
「(罪を軽くするのがぼくたちの仕事になる。あるいは、実験台となってピクト領に利益を提供することで罪滅ぼしはできていると主張することもできる)」
「(……居候の代金だと思ってたけど、あれで本当に罪を償えてるの?)」
「(悪魔の刑期に関する法律なんかないよ。だから言ったもん勝ちだ。ぼくたち自身の行いが、新たな法を生む。強気に行こう)」
ドムジは利益にうるさい。よって、ぼくたちが有益だと思えば囲い込もうとするだろう。上手くいけば、むしろ大きな味方にできるかもしれない。
自己紹介がひと通り終わったので、ぼくはドムジの反応を窺う。
「……して、群青卿。彼らは生まれ育ちも、種族さえも異なるが……如何なる理由で集う者たちだろうか」
たぶんぼくたちの爛れた生活も承知しているんだろうね。ニーナがぼくを抱いたことは既に耳に届いているだろうし、関係を疑うのは当たり前だ。
ぼくは胸を張って、ドムジの目を見つめ返す。
「対等な盟友であり、共に生きる仲間たちです」
「…………対等、か」
何故かドムジの表情が歪む。予想のど真ん中を撃ち抜くような答えだったはずだろうに、どうして動揺しているのだろうか。
ドムジの隣にいるニーナも、心なしか暗い顔になっている。自分は対等ではないと言われたかのようだ。
「(なるほど。ニーナが何か吹き込んだか)」
ぼくたちはあの日、ニコルの提案で秘密を打ち明けあい、肌と肌の付き合いで打ち解け合った。だがニーナはその輪に混ぜることはできなかった。
ニーナはわかりやすく内面を伝えられない。だからぼくたちと心を通わせ合うことができなかった。
そして、いざという時に奥手だ。風呂場にぼくたちを置いて逃げてしまった。ぼくを襲ってしまった過去を引きずっているのだろう。
故に、ニーナはぼくたちと十分に親しくなれなかったのだ。
「(オレ、まだあの人が苦手だ)」
アンジェは初対面の印象が残っているのか、気まずそうにしている。
「(基本的にはいい人だってことは知ってる。ビビアンのことを愛しているということも。だから、友達になれるといいんだけど、やっぱり辺境伯だし、見た目も行動も怖いし……難しい)」
ぼくたちはお互いに愛し合う道を選んだ。故に、外にいる人間が新しく輪に加わるのは至難だ。輪の中にいる全員を愛し、全員に愛されなければならないのだから。
ニーナが加わりたいなら……アンジェにもニコルにもナターリアにも、そしてぼくにも、好かれなければならない。それはきっと、至難だろう。
「(ビビアンはニーナさまのこと、好きなの?)」
「(大親友だった。今は……ちょっと落ちて親友)」
「(その割には、ぎくしゃくしてる)」
「(知っての通り、色々あったからね)」
きっとぼくたちには、触れ合う時間と、新しく関係を練り直す機会と、それに伴う多大な労力が必要だ。
ぼくは今の輪を乱したくない気持ちが強い。せっかくアンジェやニコルと分かり合えたんだなら、それを壊してご破産になるのが怖い。
「(ぼくの方から何かするってことは、今のところ考えてない)」
ぼくがニーナの様子を窺っていると、ドムジは使用人が注いだお茶を一口飲んで、皆にも勧める。
「私の好物だ。ご友人の皆さんにも振る舞おう。ぜひ感想を聞かせてほしい」
ぼくは自分の分を軽く覗いて、銘柄を当ててみることにする。
薄紫の茶だ。珍しい色合いだが、高貴な雰囲気を感じられる。香りから、おそらくは花茶。果実の類は入っていない。
ぼくがアンジェを見習って推測していると、当のアンジェは知識の海を起動してさっさと答えを言い当ててしまう。
「『女王茶』ですね」
「ほう」
ドムジが感心した様子で高い声を上げる。
満面の笑みだが、決して油断はできない。眼光は未だ鋭く、より一層の険しさを帯びたように見える。
アンジェは彼への警戒心を緩めないまま、得意げに聞きかじりの知識を振りかざす。
「現在のミストルティア王国第一王女が愛飲しているお茶であり、王都で流行しているそうですね。原材料は香草と……木の皮。何種類か、豆類を入れることもあるようですね」
「それは一般的な製法だ。私が提供した茶葉に、その通りのものが含まれているかどうか……君には見極められるか?」
ドムジは挑戦的な笑みを浮かべ、顎に手を当ててアンジェを値踏みしている。
楽しそうだ。ドムジのこんな顔を見るのは初めてかもしれない。彼は賢人が好きなのだろう。
対して、アンジェは柔らかい笑みと共に、すらすらと茶の中身を語ってのける。
「一般的な女王茶の製法に記載されている品目は全種類使用されているようですが……菩提樹の皮には、僅かに熱を加えた形跡があります。おそらく材料を加工する段階で一手間加えた、一般には出回らない高級品であると推測します」
「……見事」
ドムジは過去に例がない程の上機嫌になって頷く。
「これはピクト領が外賓用に少量だけ製造しているものだ」
「おそらく、ドムジ様御自ら改良なさったものでしょう。好物とおっしゃったので……」
「その通り。私の舌に合わせて作らせた。……どうやら、君は私と好みが合うようだな。喜ばしい」
……何故当てられるんだ。
知識の海にはただの情報しか載っていない。世界で一番分厚く、それでいて使い勝手のいい書物でしかない。どれだけ探っても本で読んだ程度の知識しか得られないはずなんだ。
だというのに、アンジェは……味と香りという無形のものを認識し、知識の海にある無数の選択肢から、正解だけを取り出している。そしてドムジが改良したという、知識の海にも載っていないはずの結論に辿り着いている。
「(知識の海なんか無くても、アンジェは天才だ。身震いするほど手の広い、学問の神……)」
舌と鼻が優れていて、情報の取捨選択が上手くて、しかも……ああ、もう、理解不能だ。
「(たとえ知識の海を十全に使えたとしても、ぼくじゃこうはならない。アンジェは本当に……凄い人なんだな)」
ぼくはアンジェを誇りに思うよ。
ぼくの中にすっきりした敗北感と、誇らしく思う温かい気持ちが湧き上がる。
どうだ、見たかドムジ。これがアンジェだ。お前が相対しているのは、空前絶後の天才だぞ。
すると、ドムジはうっすらと微笑んでアンジェに尋ねる。
「先程の君の発言は、もちろん正解だ。だが、君はひとつ忘れている。私は君の感想が聞きたいと言ったはずだ。それはどこに置いてきたのだね?」
「あっ」
「先程の推理も余興としては悪くなかったが……やはり君のことを知らねばなるまい。教えてくれないか」
……そういえばそうだった。聞かれたことには答えないといけない。アンジェは知識の海に意識を持っていかれてしまい、目の前の相手を疎かにしてしまったのだ。
ぼくもアンジェに見惚れ、すっかり失念してしまっていた。助言するべきだったのに。
アンジェは羞恥心で顔を真っ赤にしながら、それでも優れた脳を必死に活用して、感想を紡ぎ出す。
「香り高く、それでいて刺激の少ない優雅な味わい。心身共に安らぐような心地がいたします。通常の女王茶より遥かに気高い逸品であることは間違いないでしょう。オレは好きです」
「結構。……君はなかなか話せるな」
ドムジはニーナの方を横目で見つつ、ゆっくりと茶の香りを楽しんでいる。
……他の面々に感想を聞いたりしないのだろうか。全員に聞くのは野暮だから、アンジェを代表として取り上げたということだろうか。話し相手を知る手段として、茶を使っているのだろうに。
「(食えない奴め)」
ぼくは上機嫌になりつつあるドムジを睨みながら、次の話題に戦々恐々とする。
これから一体何を言われるか、わかったもんじゃない。




