第81話『混沌と叫喚、惨憺たる空間』
辺境伯ニーナは、ついに群青……すなわちビビアンへの愛を公表し、主張する。
椅子に片足を乗せて、キザったらしく、いつも以上に声を張り上げている。
堂々たる有様。まさに英雄であり、大貴族だ。ビビアンに対してひどいことさえしていなければ、尊敬できたかもしれないのに。
アンジェはビビアンの様子を窺いながら、ニーナの発言を一言一句聞き逃さないよう神経を尖らせる。
「群青は我が定規なり。大地に直線を引くもの。心の長さを測るもの。闇より出し渾沌でさえなければ……どれほどこの身を焦がしたものか!」
「ちっ」
ニーナの求愛に対し、ビビアンは舌打ちと共に辛辣な眼差しを送る。
ニーナは何を言ったのだろう。理解できそうな気がするが、アンジェはビビアンほど翻訳が上手くない。何処が気に障ったのか、さっぱりだ。
「ビビアン。嫌だとは思うけど、翻訳をお願い」
「アンジェに聞かせたくない」
反抗期だ。アンジェはその年頃の子供というものを知らないが、なんとなくそれに近いものを感じ取る。
ビビアンのこの態度には、甘えも含まれているのではないだろうか。ただ単に嫌っているわけではなく、ニーナやアンジェなら邪険に扱っても問題ないだろうという信頼が底にあるようだ。
感情を知性で補強するビビアンにしては、いくらなんでも胸の内が表面に出過ぎている。
アンジェは自分もまたビビアンの信頼に訴えかけることにする。
「ねえ、ビビアン。オレにも教えてよ」
「くっ……!」
眩しい宝石を目にしたような顔で、たじろぐビビアン。
これほどまでに過敏な反応をするとは思わなかったが、効果があったなら何よりだ。
「ニーナはね……ぼくこそが生きがいだって言ったんだよ。ぼくの赤黒い部分が、アンジェじゃなくて自分のものだったら良かったのに……とも」
「思ったより普通だね」
アンジェは率直な感想を述べる。
辺境伯という立場でありながら、その地位にそぐわない蛮行に及んだのだから、生きがい程度では済まないと思っていたのだが……月並みな愛の重さではないか。
アンジェにとって、ニコルに人生を捧げるのは当たり前。どうすれば人生以上のものを与えられるのか、教えてほしいくらいだ。
ニーナの愛も、それくらいであってほしい。勝手な期待かもしれないが、他人の貞操を奪うくらいなのだから、それくらいでなければ、アンジェとしては味方しにくい。
「もう少し重いのかと思った。いや、もっと重くあるべきだ。その程度の覚悟でビビアンを襲ったなら、許せないよ」
「……はあ。君はまた、人の気も知らないで」
ビビアンは表情に影を落とし、寂しげに愚痴る。
「ぼくの中にアンジェがいる。その証であるこの赤黒い髪を否定されたんだ。それはぼくにとって、何よりつらいことなんだ。……この黒は、誰が何と言おうとアンジェの黒だ」
「それは……なんというか……重いね」
友情、なのだろうか。少し感情が重い気がするが、アンジェはあまり友達付き合いをしたことがないので判断できない。
ジーポントやミカエルともっと長い付き合いをしていれば、自ずと感覚が身についていただろうに。自分は案外もったいない人生を歩んでいるのだろうか。ニコルに捧げる価値のある人生なのだろうか。
「(いや……今はそんなことを考えている場合ではない。今のビビアンの発言は、普通じゃない。友達という関係性から逸脱しているように感じられる)」
周囲は呆気に取られている。アンジェと同様に言葉を紡ぎ出せないでいるようだ。ニコルでさえそうだ。
ビビアンの内心に渦巻く感情を、理解できずにいるのだ。
対して、ニーナはほのかな怒りを握り拳に乗せ、足を乗せた椅子を踏み抜いて破壊する。
表情の変化は少ないが、必死に堪えているだけなのだろう。元より作り物の体なのだから、表情を誤魔化すくらいはできるはずだ。
「群青……。何故……何故、何故何故何故!」
頭部を掻きむしりながらの、悲痛な叫び。
「わたくしが、唯一、自らの意志で望んだものだというのに! 生まれ持った役割でも義務でも権利でもないというのに!」
「……仕方ないじゃん。そういう意味では好きになれないんだから」
「体の全てを捧げよう! 心の全てを捧げよう! 財の全てを捧げよう! それでも尚、昏き縁には届かぬというのか!? 矮小で鈍い固形墨に!?」
アンジェはひとつ、誤解していたのかもしれない。
ニーナは想像以上に、捧げていた。ビビアンのためにあらゆるものを差し出していた。機械の体も、慈愛の心も、貴族としての財産も、何もかもをビビアンに委ねていた。
ニーナの愛は……アンジェのそれに似ている。人生を投げ打ってでも、誰かのために尽くしたいのだ。
「(やるじゃん、ニーナ様。ああ、やっと共感できるかもしれない)」
途端、アンジェの内側に同情と憐憫が湧いてくる。
親近感だ。歪んだ鏡に映る自分を見ているかのようだ。
同じ本質を持ちながら、違う結果に終わる。それがなんとも奇妙で愛おしく感じられる。
「(ニーナ様を知ることができて、よかった)」
この会を提案したニコルにより一層の感謝と敬意を覚えつつ、アンジェは目の前の大貴族を見上げる。
今後は歩み寄っていこう。良好な関係を築いていこう。ビビアンさえ良ければ、仲を取り持ってもいいくらいだ。
アンジェが決意を新たにした、その時。
「我慢の限界だ。一発殴らせろ」
ビビアンが飛び上がって、ニーナの顔面を殴る。
「えっ!?」
「ビビアンちゃん!?」
凄まじい衝突音。金属が歪む音。弾け飛ぶ空気が、遠く離れたアンジェの頬を叩く。
ふらつくニーナ。だが流石は人類最強の英雄。ビビアンによる魔道具の一撃を受けても、それで顔面に焼け跡がついたとしても、倒れさえしない。
ビビアンは雨粒のように落下して、床に這いつくばる。
一体何の魔法を使ったというのか、義手から煙が立ち上り、肉体との繋ぎ目から滝のように血が溢れている。ニーナよりも、負った傷は深い。
「血……?」
ニコルはその赤さに目を奪われ、呆けている。
そうか。知らないのか。あの子はもう、ほとんど水になれなくなっている。以前崖の上で対峙した時のように魔法を受け流すことは、もうできないのだ。
ビビアンは吠えるようにニーナをなじる。
「矮小!? 鈍い!? もう一度言ってみろよ!」
「ぐ……ん……」
「何処の、誰の悪口を言った!? アンジェはぼくの大切な人だ!」
……なんということだ。
決して嫌いではないはずなのに。乱暴されても許すほどの仲だったというのに。一線を超えてしまった。怒りを露わにしてしまった。殴ってしまった。
……このままでは、完全に仲違いしてしまう。それは避けたい。この話し合いは、将来喧嘩をしないためのものなのだ。
「やめて、ビビアン!」
アンジェは床に身を投げ出すように飛びつき、ビビアンの脚に縋る。
「オレは、オレはそんなこと望んでない! 一体どうしちゃったんだ!? いつもはもっと冷静で、落ち着いてるだろう!?」
アンジェが知るビビアンは、目の前にいる友を不意打ちで殴るような人ではなかったはずだ。
「ニーナがビビアンを傷つけて、ビビアンがニーナを傷つけて……。どうして喧嘩しちゃうんだよ……」
ビビアンが息を呑む音が聞こえる。自分の行動の愚かさに気がついたようだ。
……これは越えなければならない壁だ。価値観が違う両者が、今の今まで仲良しこよしを続けられたことが奇跡なのだ。
ビビアンは理性的だが、それ以上に感情的だ。少し心が乱れただけで、すぐに態度に出る。そうした発露をニーナという生粋の貴族が受け入れるのは、難しいことだろう。
アンジェは顔を上げて、見上げきれないほど背の高いニーナに申し出る。
「オレは気にしていません。辺境伯がこの身をどのように形容しようと、問題にしません」
「その……えーと、あの……」
「この場におかれましては、何卒、穏便に対応していただけませんでしょうか」
怪力で殴り返す。あるいは、一時の感情に任せてビビアンに処罰を下す。ニーナがそうした行動をしないよう、避けなければならない。故に、渦中にいる自分が身を切って、敵意がないことを示すのだ。
ビビアン自身が謝罪できるならそれが最善だが、まだ頭に血が昇っている可能性が高い。何としてでも抑えなければ。
すると、ビビアンはアンジェの背中に義手にではない方の手を添えて、同調し始める。
……意外だ。あれほどのことがあった直後に、こうした落ち着いた行動に出られるとは。
「(あの頃のビビアンとは違うんだなあ……)」
アンジェの脳裏には、彼女が自ら死を選んだ光景が焼き付いてしまっているが……過去に囚われ続ける自分が恥ずかしくなってきた。
ビビアンはアンジェと心を通わせ、先程より数段落ち着いた様子で謝罪する。
「申し訳ありませんでした」
「群青。猛き勇士の頭は、空に浮かべてこそだ」
よくわからないが、頭を地面につけるなという意味だろうか。ビビアンはニーナの言葉を受けて、床の上で座り直す。
……横顔が凛々しい。思わず美しいと思ってしまうほどに。
「(あんなことを言われた後だからか……。大切な人とは、つまり……情愛という意味か……)」
アンジェはビビアンから受ける好意の意味を考え直しつつ、ニーナの裁定を待つ。
この場にいる最高権力者であり、最高戦力。彼女は2人を泣きそうな顔で見下ろしてから、屈んで視線の高さを合わせる。
「許す」
「……感謝いたします」
ニーナが席に戻ってから、2人は元の椅子に腰を下ろす。
他の皆の視線が痛い。どのように声をかけるべきかわからなくなっているようだ。責められているわけではないのが救いか。
「これで一巡しましたね」
次に口を開いたのは、やはりニコルだった。
「折角ですし、進行役も交代制にしましょう。次は私がやってみたいです」
……ビビアンへの配慮か。相変わらずニコルは優しい人だ。アンジェの手柄ではないが、誇らしい。
ナターリアがニコルの意見に賛同し、わざとらしい声を上げる。
「あ、あたいも、そういうのがいいなって、思うっすよー!」
「わざとらしい……」
「おねえちゃん……おねえちゃんも、やりたいの?」
「えっ……あたいには向いてないかもしれないけど、そういうのじゃなくて……ええい、とにかくあたいはニコルさんを応援しますよ!」
ナターリアはやけっぱちだ。
……何故、そんなにも強くニコルを支持するのだろう。空気が悪くなったからだろうか。それとも、それ以外の理由が……。
やはり、ナターリアはニコルを好いているのか。
「(オレは……恋も愛も、何も見えてなかったのかもしれない)」
髪をかき分けるビビアンを見つめながら、アンジェは静かに己を見つめ直す。
「(オレたちはきっと……オレが思っているよりも、ドロドロした関係なのか)」
〜〜〜〜〜
《ニコルの世界》
勢いでビビアンから進行役を奪ってしまった。エイドリアンの薬で駄目になっている私に務まるかどうかわからないけど……。
でも進行役をやっていたら、黙ってゆっくりすることもできないからね……。これでしばらくは落ち着く時間を与えられると思う。
「では、次から二巡目ですね。前の順番は気にせず、話したい人から話しましょうか」
前の順番通りだと、早速私からになっちゃうし。それに、たぶんこう言っておけば、ナターリアが話を始めてくれるはずだ。長話をしているうちに、うやむやになってくれそう。
案の定、ナターリアが挙手をしようとして、痛そうに腕を押さえる。
正確には、押さえようとして反対の腕を動かして、また痛がっている。怪我人なんだから、おとなしくしていてほしい。
「あたいがやります」
「おねえちゃん、やすんでて」
「いやいやドリーちゃん。口は動かせますよ。悪魔と戦った時だって、どんだけ痛くても口だけは達者でしたからねえ!」
まあ、そうだったけど……。でも心配だ。強がりな人は、見てて不安になってしまう。
「あたいのこと、話しますね。えーと、話す内容決めてなかったなあ……」
……本当に不安だ。
私がじっと見つめていると、ナターリアは眉間に皺を寄せて考えて、ようやく喋り始める。
「あたいはですねえ……なんと、ドリーちゃんに専用の魔法を贈呈したのです!」
なるほど。私と共闘した時の、巨人が使っていた技か。無難な話題だ。この街の人なら、新しい魔法には興味を示すはずだし……。
…………それから。
ナターリアは長話を始める。
名前の由来。考えるのにかかった時間。没にした他の名前。親の意見。試し撃ちの過程。
たまにエイドリアンに意見を聞きながら、ひたすらに話し続ける。よくあんなに舌が回るなあって感心してしまうくらい喋り続ける。
「あたいが使ったのは実戦が初めてでしたけど、流石はドリーちゃんの巨人。あたいでも十分な威力が出ましたよ。いやー、あの時はよかったなあ。ニコルさんと初めて肩を並べて……。いや、初めてというか、ほぼ唯一というか。思えばあの時くらいっすねえ、あたいが役に立てたのは……」
話の風向きが変わり始めたのは、エコーとの戦いに話題が移った時だ。
ナターリアの勢いが急速に萎み始める。まるで枯れていく花のように。
旅のことは、あまり良い思い出じゃないのかな。私の役に立てないだなんて、気にする必要ないのに。だって怪我人だったんだから。長い治療が必要なくらいぼろぼろだったんだから。
それに、万が一役に立てなくても……私がナターリアを見捨てることなんて、絶対に無いのに。
「あたいは……あたいは、アンジェちゃんに勝てないんです。知恵も、見た目も、魔法も、行動力も、いざって時の機転も、何ひとつ……」
アンジェと比べる必要はないと思うんだけど、どうしてそんなことを気にしてしまうんだろう。比べるべきは私だと思うけど。
私は進行役として、ナターリアに声をかけるべきか迷う。落ち込んできてるし、長話が過ぎるし、そろそろ他の人に話題を移した方がいいはずなんだけど……もっと聞くべきだって、私の中の直感がそう言ってるんだ。
「あたいはニコルさんの隣にいられない。それがとても辛いんです。どうしたらいいんでしょう?」
「停止せよ、メジロよ」
ニーナさまが、口を開く。
「貴様の手になる技について、認識を煮込まねばなるまい。鍋を用意せよ」
「…………えっと。通訳をお願い」
ちょうどいい。当たり障りなく、ビビアンちゃんを会議に戻せる。
ビビアンちゃんは長い髪をさっとなびかせて、私とナターリアに視線で確認を取る。
「編み出した魔法について、詳細を聞きたいらしい」
「お、お目が高いっすね」
ナターリアは若干緊張しながら、ニーナさまと魔法のことを談義し始める。
意外とニーナさまの言葉がわかるみたいで、ビビアンちゃんを間に挟まなくても会話が弾んでいる。
私が司会する必要、あるのかな……。まあ、止める必要を感じたら間に入ろう。
「巨人じゃなくても使えますよ。他の人でも、ドリーちゃんの生身でもいけます。ねー?」
「うん。ドリー、こぶしでじめんほれるよ」
「なんたる卓越! この世で最も厚い黒の壁を、その枝で!?」
「ふへへ。ドリーちゃんは強いんすよ。拳で地盤を砕いたことがありまして……」
……宿から酒場まで地下室を拡大していたってことは、それだけの空間を支え続けていたってことだもんね。
エイドリアンって、もしかして凄い子なのでは?
ニーナさまは新しい魔法の知識に感心しつつ、満足そうに微笑んでいる。
ニーナさまが魔法を使うって話はちっとも聞かないんだけど、魔道具に魔力を奪われ続けているだけで、魔力そのものは多いだろうから……きっと使おうと思えばいくらでも使えるんだろう。
「よきかな」
そう言って、ニーナさまは私の方を見て、ナターリアとの会話をそこそこに打ち切る。
……意外と話し上手だ。言動と態度はちょっと変だけど、中身は普通の人なんだね。気遣ってもらえると急に親しみを覚えてしまう。我ながら単純だ。
「……さて。それでは、次の話題に移りましょう。まだ話していない人がいいな」
私がニーナさまと微笑みを交わし合いながらみんなに促すと、ついにアンジェがおずおずと挙手をする。
「オレが話すよ」
緊張した面持ちだ。……話す内容は想像がつくよ。だって昔話の時にわざと省いていたからね。
アンジェにまつわる、最も重要なこと。今の可愛らしいアンジェからは、想像もつかない過去。
アンジェは薄い唇を震えさせて、恐怖と戦いながら告げる。
「オレは……昔、男だった」
知らなかったのは、ニーナさまとナターリアと、エイドリアン。
ニーナさまは無表情だ。ちょっと怖いくらい静かな反応で、内心を何も推量れない。……もしかすると、驚きすぎて思考が外に出なくなっているのかも。
ナターリアはアンジェを見て、私を見て、そしてまたアンジェを見て……最後に、何故か悔しそうな顔で唇を噛む。
「あたいじゃ絶対無理じゃないすか……!」
何が無理なんだろう。確かにアンジェは男の子だったけど、今は心も体も女の子だ。最近出会ったばかりのナターリアに影響があるとは思えないけど……。
エイドリアンは椅子から降りて、アンジェをぺたぺたと触り始める。
好奇心と、猜疑心。目の前の不思議に魅了されているんだね。宿に小さな男の子が泊まりにくることはほとんど無いだろうから。
……変な勘違いをしないといいんだけれど。
アンジェはエイドリアンに間近で観察されながら、不器用な笑顔を見せる。
「オレが女になったのは、つい最近だ。悪魔に襲われて、その影響で変化したから……」
「じゃあ、今も男のつもりなんすか」
ナターリアは一切の光が消えた目でアンジェに問いかける。
「男だから、ニコルさんと愛しあえるんすか」
「違うよ。オレがアンジェで、ニコルがニコルだからだよ。性別がどうなろうと、一生一緒だ」
アンジェの正直な気持ちを、ナターリアは軽く振り払う。
「わからない。まったく同意できません。女に生まれていたらお互いの意識は違っていたはずっすよ。ニコルさんがあなたを好いているのは、男だった過去があるからなんすよ」
もしかすると、ナターリアは愛の丈夫さを信じていないのかもしれない。変化に応じて簡単に揺らぐものだと思っているのかもしれない。
ナターリアにとってはそうかもしれない。きっと他の人たちにとっても。でも私にとっては……私たちにとっては、そうじゃない。
「ナターリア。私はアンジェが好きなの」
「女の子だとしても?」
「可愛いアンジェも素敵だよ。最初から女の子に生まれていたら……ふふっ。女の子として愛でる期間が、数年長くなっていたね。ただそれだけ」
「男に戻ったら?」
「男の子しかできないこともあるから、そういうことを楽しんで生きるだけ」
アンジェが恥ずかしそうにもじもじする一方、ナターリアは天を仰ぐ。私たちの考えをまったく理解できないみたいだ。
……そうだね。私もどうしてナターリアが苦しんでいるのか、まったくわからないよ。
それでも、私にとってナターリアは大切な友達だ。苦楽を共にした、かけがえのない仲間。だから頑張って理解して、これからも支え合っていきたい。
ナターリアは心の抜け殻のようになった顔をこちらに向けて、からっぽの壺を鳴らしたような声で、告白する。
「あたいはニコルさんが好きです」
うん。私も大好き。
……と、返してはいけない気がする。
直感だ。私は多少、人と話せるから……それくらい雰囲気で感じ取れる。
私は黙って、ナターリアを見つめ返す。続く言葉があるかもしれないから。
「あたいは、ニコルさんと結婚したいです」
……私は。
私は、そんなことを考えたこともなかった。
アンジェ以外の人と結ばれる未来なんて……そんなものは私に必要ないから。
ありなのだろうか。そんなことが。もしこの世にアンジェが存在しなかったら。死産か何かで、最初から存在しなかったら……あり得たのかもしれない。
ナターリアなら……まあ……いいのかも。誰かのために懸命に頑張る人は、応援したくなる。それに、私のことを大切にしてくれるし……。
「(アンジェがいなかったら……他の人と歩む未来があったのかな?)」
一気に視野が広がって目の前に見えてきたその事実に、私は驚嘆する。
この世界にアンジェがいる以上、私がアンジェ以外の人と結婚することはあり得ない。でも、ほんの少し世界が違えば、私はナターリアと……。
「(可能性はある。否定できない。……嫌だ。嫌じゃないのが、すごく嫌だ! 私という存在が崩れていくような……そんな気分がする!)」
私はその事実に耐えきれなくて、周囲の光景に助けを求める。
ビビアンが目を見張っている。あまりの衝撃に言葉を失い、アンジェと同調することで冷静さを保とうとしている。
エイドリアンは、意外にも冷静だ。私の方を見て、納得したように頷いている。
アンジェもただ真剣な顔でナターリアをじっと見つめている。答え合わせをしただけだと言いたげな様子だ。とっくにわかっていた……ということかな。
私はきっと、ナターリアの仲間として失格だ。あの子の気持ちにまるで気づかないまま、全てを知っているふりをしていた。ただ隣にいただけなのに、内面まで理解したつもりになっていた。
「(そっか。ナターリアは、私を。……友達か恩人止まりだと思ってた)」
私は、なんて返せばいいんだろう。私はアンジェと結ばれなくても、一生かけてアンジェに尽くすつもりだった。
でもナターリアは違う。私とは価値観がまったく違う。断ってしまったら、その心がどうなるか想像もつかない。今でさえ、生きる気力を失いつつあるというのに。
「(どうすればいいんだろう。どうすれば……)」
視界の端では、ニーナさまが思考を停止している。
私も近いうちに、ああなりそうだ。
エイドリアンから受けた媚薬が、私の理性を溶かし続けているから。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
暴露大会は極めて混沌とした状況になりつつある。
事前に予想された事態を悠々と凌駕し、各人が発狂へと近づいている。
ぼくはアンジェのことが好き。ナターリアはニコルのことが好き。それが全員にバレたのだ。こうなるのが当然だ。
ニーナは機能停止。ニコルは役割を放棄。ナターリアは沈黙。エイドリアンは傍観。
無事に話せるのは、ぼくとアンジェだけだ。精神を支え合っているから、強度が違う。尤も、アンジェはやや混乱気味だけど。
「……どうやって収拾をつけたらいいんだ」
ナターリアの咽び泣く声だけが響く世界の中心で、エイドリアンが……涙を堪えて、提案する。
「ドリーは……みんなのために、もういっかい、いうね」
小さな悪魔が——この混沌を招いた元凶とも言える存在が——ぼくたちを優しく……堕落に誘う。
「みんなで、なかよししてほしいの」
ぼくたちは、互いの泣き顔を見合わせる。
「みんなはみんなのこと、きらい?」
……嫌いじゃない。みんなそう思っている。
それだけは、言葉にしなくても伝わってくる。
急に情報量が増えて、混乱しているけれど……落ち着いて受け入れてみようか。




