第8話『月と太陽の静かなる暴走』
《ニコルの世界》
マーズ村の宿。それなりに見慣れた、馬小屋のような建物。その中にある、藁を布で包んだだけの寝床。
私はそこで、ぐったりと横たわっている。精魂尽き果てて、しなびた野菜のようになっている。
生きた心地がしなかった。
……違う。今もまだ、生きた心地がしない。
あの魔物が襲いかかってきたら、こんな村のひとつやふたつ、あっさりと滅びてしまう。魔王軍じゃなくても、あの狼だけで……。
寝ている間に殺されるかもしれない。アンジェを切り裂いたあの爪が、引きちぎったあの牙が、また向けられるかもしれない。
私が死ぬのは別にいい。楽になれると思えばおあいこだ。でもアンジェをまた目の前で死なせたら、私はもう……。
「う、ぐ……」
吐き気がする。
耐え切れなくて、部屋の外に向けて戻してしまう。
いつもより弱っている。間違いない。
日差しを浴びすぎたり生理が重すぎたりで気分が悪くなることはあったけど、心労で我慢できなくなるのは初めてかもしれない。
悪魔になってから、日焼けと月のものを制御できるように、優先して努力した。
日光は私にとって天敵だった。長時間外にいるだけで全身が炙られたように痛くなった。あの体質のままだったら、長くは生きられなかっただろう。
生理は私にとって仇敵だった。せっかく空が曇っていても、あれのせいで外に出られないことがたくさんあった。布だけじゃ抑え切れないから、水を吸うコケなんて気持ち悪いものを使わざるを得なかった。
……そんな生活から解放されたというのに、どうしてこうも不幸せなんだろう。そういう星のもとに生まれてしまったのだろうか。
「……アンジェ」
私は寝返りをうって、既に眠っているアンジェを見る。
目を閉じたアンジェは、まつ毛の長さが際立つ。お人形さんみたいだ。
すやすやと漏れる寝息は、どんな楽器よりも美しい響き。動物の赤ちゃんみたい。
甘い体臭が鼻をくすぐる。私はずっと前から甘いものが大好きだ。高くて滅多に食べられないけど、だからこそ。
目と耳と鼻が幸せ。脳が溶けそうになる。
アンジェが不幸な私を救ってくれている。
生きる気力が限りなく湧き上がってくる。
……そこで私は、あることに気づく。
うつ伏せになって、左腕を枕にして、右を向いてアンジェを見ている。数日前、アンジェに指摘された通りの体勢だ。
ただひとつ違う点は、そこにいるアンジェが本物か妄想か。それだけだ。
アンジェは私を良く見ている。だけどアンジェはまだ、私を知らない。欲望まみれの、だらしがなくて、薄汚い私を知らない。
それでも私を見ようとしてくれている。考えて、察して、近いところまで来ている。それがたまらなく嬉しい。
「見て。私を見て。もっと、私を……」
私はアンジェの顔を見ながら、寝る前の日課に励むことに決める。
まだ手に残る死の感触を意識しながら、今ある生を存分に味わう。背徳感と充実感で気が狂いそうだ。
こんなことをしていると、悪魔になる素質は、元からあったような気がしてしまう。
〜〜〜〜〜
アンジェはゆっくりと目を開き、寝心地の良い枕で寝ていることに安堵する。
疲れているにもかかわらず、恐怖によって夜中に何度も目が覚めてしまった。
ニコルも同じだったようで、悲鳴のような声を押し殺しながら震えていたのをぼんやりと覚えている。
ニコルは右手の指をしゃぶりながら眠っている。ニコル本人のものではなく、アンジェの指を。
「自分のじゃ飽き足らず……もう……」
良い歳をして何をやっているのだろうか、この幼馴染は。呆れたものだ。
……とはいえ、ニコルはアンジェより年上ではあるが、一般的にはまだ子供とされるはずの年齢だ。こうした癖が抜けないこともあるだろう。しばらくは改善されるのを待つことにしよう。
アンジェは起こさないようそっと指を離し、しばらくしげしげと眺めた後、魔法で水を生んで洗い流す。
一瞬だけ舐めるという選択肢が浮かんだが、それは不潔であり、ニコルに対して不誠実だ。
「おのれ悪魔め。オレは理性を捨てないぞ」
彫刻の題材にするべき美しさを備えたニコルの寝顔を見ながら、己の中にある知識の海に向けてそう宣言する。
アンジェは顔を洗い、水面に反射した姿を見て身だしなみを整え、宿の外をちらりと見る。
そこには見知らぬ人がいて、様子を窺っている。自信はないが、おそらく村の前で警備をしていた男だ。
知らない顔に寝床を見張られていると思うと背筋が凍るような心地がするが、村で起きた事件について、一刻も早く詳しい話を聞きたいだけだろう。
……彼には悪いが、眠りの姫を起こすわけにはいかない。もう少しだけ待ってもらうことにしよう。
「(知らない人と話すのが怖いわけじゃないぞ)」
その間に、アンジェは宿の中の物を一通り検分し、異常が無いかどうか確かめる。
布は何処にでもあるただの布。藁はくたびれた普通の藁だ。それ以外も全て、ありきたりなもの。誰かが侵入した形跡はなく、罠も仕掛けられていない。
……全て調べ終わって退屈を感じ始めても、ニコルはまだ起きない。寝坊助である。
そういえば、ニコルはいつもこうだった。村にいた時から、ずっと。
流石に日が高くなり始めているので、そろそろ起きてもらわないと困る。滞在期間の交渉を村としなければならない。
「ニコル。朝だぞ」
アンジェが肩を掴んで揺らすと、ニコルはうっすらと目を開ける。やはり眠りが浅かったようだ。
ニコルは極めて緩慢な動作で目を擦り、アンジェの姿を認めると、ゆったりと相好を崩す。
「おはよう、アンジェ」
鈍いアンジェにもわかる。今のニコルはあらゆる男を虜にしかねないほど凄まじい色気をまとっている。
いつも以上に隙だらけの笑顔。アンジェがいることに安心しきっており、魔物に対する警戒どころか油断しかしていない。
「うひゃ……」
その隣を見ると、中身が詰まった乳房が腕で挟まれてもっちりと潰れている。あれは目に毒だ。視界に入れるだけで毒が回り、全身が麻痺してしまうかもしれない。
体の上にかけられた毛布の下には、小柄でありながら芸術的な体躯が隠されている。布を取り払うことは秘匿された神秘を暴くが如き大罪である。ニコル教の教祖たるアンジェが許しはしない。
「(気色悪い考えが次々に浮かんでくる。ええい、頭から離れろ、離れろ!)」
……アンジェはどきまぎしながら、ニコルに背を向ける。
彼女を視界に入れるのが気まずい。妙な視線を向ける自分が恥ずかしい。
「……ちょっと、いってきます」
これは危険だ。悪魔的だ。マーズ村の馬の骨どもに見せるわけにはいかない。特にあの男。今も外で待っている男に、見せるわけには……。
アンジェはそう直感し、自分に鞭打ち、初対面の男をひとりで追い払うべく、宿から出て行く。
しかし。
「アンジェー。おはようの返事が貰えてないよー」
そんなことを言いながら、乱れた格好のニコルが外に飛び出した。
……アンジェがぴょんぴょん跳ねて隠したので、男には見えなかった。そう信じたい。
〜〜〜〜〜
アンジェは村長をはじめとする村の代表者たちの前に出され、居心地の悪さを感じている。
「(こわい。たすけてニコル)」
正面には中年の村長が、ひとりだけ椅子の上に座っている。なかなかの強面だ。
その隣には前村長らしき老人が敷物の上で胡座をかいている。村長との血縁を色濃く感じる凄みである。
そこからずらりと円を描くように人、人、人。それぞれ色の違う敷物に座り、はち切れんばかりの屈強な肉体をこれでもかと誇示している。
何故アンジェを取り囲むように座っているのか。威圧感でも与えたいのか。これがこの村の外交か。やり方が汚いぞ。
アンジェは視線によって無言の抗議を送る。村長ではなく、それより地位が低そうな、この場所まで案内してきた男に。
「大丈夫だよ。お兄さんたちが守ってあげるからね」
心配されてしまった。
アース村とは違う扱いに少し新鮮みを感じるが、特に気分が良いものではない。こいつは断じて、兄などではない。
「(というか、年齢的にお兄さんではなくおじさんではなかろうか)」
アンジェの口からそんな不躾な発言が飛び出しかけるが、どうせ今後も彼と宿の前で会うことになるのだろう。顔を合わせるたびに気まずくなるのは避けたいものだ。
そう思い、なんとか言葉を飲み込む。他人との会話というものは、本当に疲れが溜まる。
その様子をどう勘違いしたのか、村長が気遣うような口調で声をかけてくる。
「まだ、話したくないか?」
また心配されてしまった。
そろそろ現実逃避をやめて向き合うべきだろうか。いかんせんまだ緊張が解け切っていないのだが。
村長はぶっきらぼうな話し方とは裏腹に、穏やかな目をアンジェに向けている。子供に慣れているのだろう。
それとなく目線を観察してみると、アンジェを緊張させないように気を使っているのがわかる。自分のいかつい風貌と、それがアンジェに与える影響を考えている仕草だ。
「どうしても嫌なら、帰還後のニコルに頼む」
村長とニコルは面識があるのだろうか。そう思いつつも、アンジェは首を横に振る。
裸を晒してしまった後、ニコルは宿の前にいた男から、村の男衆がアース村の確認に向かったと聞いて、真っ青になって同行を願い出たのだ。
アンジェとしても、理屈の上では納得がいく。この村の男たちがどれほどのものかは知らないが、シュンカ以上の魔物を撃破することは不可能だろう。最悪の場合、ひとりも逃げられず全滅することもあり得る。魔物が村のすぐそこに居座り、その情報さえ持ち帰れないのは危険だ。後手に回りすぎる。
そういうわけで、アンジェは胃痛を堪えて笑顔で送り出した。
ニコルは強い。簡単に食い散らかされた自分とは違う。ニコルと離れたくないというアンジェ自身の感情を抜きにすれば、これが最善だ。
知らないおじさんたちに萎縮しすぎて消えてしまいそうな気分だが、いま一番大変なのはニコルだ。迷惑はかけられない。
「(オレはニコルに任せる。ニコルはオレに任せる。いいじゃないか、これで)」
アンジェはニコルがいない間におつかいを済ませるべく、上擦った声で答える。
「だいじょうぶです。アンジェは、ニコルがいなくてももんだいない、つよいこころをもっていることを、ちかいます」
村人たちの視線が、一斉に気の毒な子供を見る目に変わる。
……恐怖心が薄れるので、その方がありがたいかもしれない。
〜〜〜〜〜
アンジェは自分とニコルが悪魔になった部分だけ省いて、アース村で起きた出来事を詳細に語った。
魔王が現れた話をした時は「さてはこいつ話を盛ってやがるな」と言わんばかりの半信半疑の様子であったが、その表情はみるみる曇り、最終的には一部の村人が半狂乱となって退席するに至った。
平常心で受け止めるには、あまりにも被害が大きすぎた。マーズ村の人々は熊が現れて民家を襲った程度だとたかを括っていたが、それすら生ぬるい異常事態だった。
熊でも多数の死者が出ることもあるというのに、それとは比較にならない本物の怪物が出現したのだ。しかもこの村の目と鼻の先に。落ち着いていられる方がおかしい。
アンジェのたどたどしい語りが余計に生々しさを醸し出し、図らずも怪談じみた恐怖を演出してしまったこともある。
実話であるというだけで話に凄みが生まれるのは、アンジェも寝物語でよく知るところである。
「君もニコルくんも、よく無事だったな……」
「偶然です」
2人はたまたま村の外に遠出をしていて助かったということになっている。
子供だけで遠くまで遊びに行くなど、本来アース村ではありえないのだが、その点は抜かりない。ニコルは子供には見えない外見で、マーズ村でもほぼ一人前の扱いを受けている。
そして、マーズ村では子供が親の目の届かない場所で遊ぶこともたまにあると聞いている。この嘘に違和感は抱かないはずだ。
村長は隣にいる前村長……長老と呼ばれていた男と相談をして、アンジェに告げる。
「村の者が帰ってきたら、また話を聞こう。それまでゆっくり休むといい」
「ありがとうございます」
信憑性が低いと判断されたのだろうか。会議に参加して意見を言うことになると思っていたので、楽に済んで良かった。
これ以上、この空間に長居したくはない。立っているだけで心の中の何かがゴリゴリと削られていく心地がするのだ。
村人たちはその場に残り、アンジェだけ静かに退出する。
親と故郷を失った子供として、周りからの扱いが更に丁重になり、なんとなく肩身が狭い。
優しさが怖い。無償の善意だとわかってはいるが、数日で追い出される覚悟をしてきた身としては、なんだか申し訳なく思ってしまう。
「(人間不信だったのかもしれない。オレは勿論、ニコルさえも)」
マーズ村は、アンジェの想像以上に豊かだ。物も人もゆとりがある。見ず知らずの他人を容易く受け入れるほどに。
「優しいですね。この村は」
アンジェがそう呟くと、立ちっぱなしで待っていた案内役の男が、首の裏側を掻きながら答える。
「子供を見捨てるようじゃ、大人じゃないでしょ」
どことなく背伸びをしているかのような言葉に、アンジェはほんの少しだけ親近感を覚える。
知らない男から、顔は知っている男に格上げだ。
〜〜〜〜〜
その後、アンジェは村人たちに連れられて村を案内されることになる。
歩いてみるとアース村より遥かに広く、整然とした印象を受ける。話で聞くだけでは今ひとつ実感が湧かなかったが、中に飛び込んでみるとその差が明確にわかる。
……なるほど。「知識」だけでは得られないものもあるということか。
「アンジェちゃんが笑顔になって嬉しいよ」
案内役はそう言って、屈託のない、アンジェよりずっと清々しい笑みを見せる。
アンジェは彼を見上げてぎこちなく微笑み、視界の端に映る人影の方をチラリと見る。
3人の小さな人影は、寄り添いながら何事かを相談しあっている。
「わ、バレちゃったよぉ」
「どうする? 話す?」
「ちょっと待って。行くけど……行くけどさあ」
アンジェを見に来た村の子供たちのようだ。話しかけようかどうか迷っている素振りを見せている。実に微笑ましい光景である。
アンジェは浮かべた笑顔が作り物ではないものに置き換わっていくのをひしひしと感じる。
アース村には年上と赤子しかいなかった。歳の近い子供は初めてだ。
「良い村ですね」
そんな率直な感想がこぼれ落ちる。
この村の温かい歓迎に癒されたためか、それともニコルがいないことによる不安をどうにかしたいだけなのか。
……少なくとも、この短期間で二度も殺されかけた恐怖が、心の臓にこびりついてしまっているのは確かだ。
とにかく、今のアンジェはかつてないほど落ち着きがなくなっている。
「(この村に嫌われたくないし、褒められるだけ褒めておこう)」
アンジェは喋る。知識の海も使って、自分を大きく見せながら喋る。
頭で考えていることを、分厚い人見知りの層によって濾過することなく、垂れ流す。
今のアンジェには、余裕が無いのだ。取り繕うだけの余裕が。人との間にちょうどいい間合いをとるだけの余裕が。
「まず地面からして違います。人通りの多さが故に、踏み固められて安定しているみたいですね。雑草や石ころも少なくて実に歩きやすい」
男がぎょっとした顔になっているが、アンジェは地面の方を向いている。彼の反応の機微には気が付かない。なんとなく驚いているのだろうという程度の認識でしかない。
「家も全然違う。まばらじゃなくて、なんというか、整列してます。計画的に建てられている証拠ですね。この国の……なるほど。区画整理と言うんですか? その知識が存分に活用されているのが垣間見えます」
「……えっ?」
子供たちが足を止めて、訳の分からない異物を見る目を向けているが、アンジェは後ろを見ていない。
ただひたすらに、長く、長く、話す。
「マーズ村は古い農村のはず。ですが家に使われている石材を見るに、思いのほか新築のものが多くて、驚きです。これは推測ですけど、今代かその前の村長さんが、結構革新的な姿勢なんだと思います。村全体の視点で大規模に動いて、それで成功している。隣人の偉大さを知らぬまま故郷に閉じこもっていた自分の過ちを恥じるばかり……」
アンジェは男の顔を見て、そこでようやく、口先だけではない、れっきとした己の過ちに気がついた。
さっきまで談笑していた男は、得体の知れない生物に直面したかのように凍りついている。
子供たちは、もう追いかけてこない。小声で何かを話し合いながら、遠巻きに見つめてくるだけ。
ただすれ違っただけの通行人でさえ、皆がこちらを凝視している。
……この阿呆め。大馬鹿者め。
賢くなったつもりでいるだけの、哀れな未熟者。
ニコルがいなければ、子供にさえなれない半端者。
「ごめん、な、さ……」
隣村に嫌われたら、もはや何処を頼ればいいのか。
ニコルに任されたのに。うまくできなかった。
「う、あ……」
アンジェは精神的苦痛により意識を失い、倒れ伏した。
倒れる寸前、手を差し伸べる男の姿が目に入ったのが救いだろうか。
悪魔だと気づかれていなければよいのだが。
〜〜〜〜〜
その日の夜。
アース村の方から、伝令が駆けてきた。
ニコルより先に出立した者たちのひとりであり、山道に強い品種の馬を乗りこなしている。
彼は真っ先に目についた村人に、叫ぶ。
「いた。魔物がいた! 新手が群れで出やがった!」
騒ぎは村中を駆け巡り、蜂の巣を突いたような大混乱に陥った。
それは『血煙』の魔物。『地揺れを呼ぶもの』。
赤き狼、シュンカの再来であった。




