第77話『心という黒箱は推測さえ許さない深淵なのだろうか』
《ビビアンの世界》
昼が終わり、夕方になり、夜に染まり、また朝が来る。
それらの流れが何度か巡り、ぼくはようやく愛の渦から解放される。
具体的に言うと、ニーナの魔力が尽きたのだ。
「……ふぅ」
全身を支配する気だるい感覚を押し退け、隠していたアンジェの魔力を呼び覚まし、ぼくはむっくりと起き上がる。
体を起こすことさえ久しぶりだ。仕事がどれだけ溜まっていることやら。
「はぁ……。現実が襲ってくる……」
這って動き、寝床の下に転がっている義手と義足を拾い上げ、装着する。されるがままにされる時間は、ここまでだ。
寝床の上を見ると、ニーナが安らかに眠っている。
寝顔を見るのは初めてだけど、いやに静かだ。機能を停止しているという表現の方が近いかもしれない。
全身が魔道具だから、動かすための魔力が尽きたら倒れるしかない。いつもはそうなる前に休んでいるけれど、今回は興奮しすぎて、そういう冷静な判断をくだせなかったわけだ。
「好きだとしても……やりすぎだよ」
ぼくは痣だらけになった体を見下ろして、呆れる。
ニーナの愛情表現は、まさに暴力だった。体が千切れるかと思うくらい、色々なところを色々なところにねじ込まれた。ノリと勢いで首を絞められたし、尻も叩かれた。
「ニーナは無傷で、ぼくは血塗れ。これじゃ2回目は無いねぇ」
ぼくはニーナを茶化しながら、全身から滴り落ちる水と血を吸収し、傷を塞いでから服を着る。
首の痕も消せるけど……これは残しておこう。自分の心を殺した証として、しばらくは体に刻んでおきたい。
「ティルナの場合、ノーグにこうされたなら、残したかな……。ま、ぼくはぼくか。好きにやろう」
ぼくの核となった女性を想像しつつ、ぼくは首筋をなぞる。
かつては気に食わない女だったけど、何故か連想してしまったのは、他人からの愛を受けたからか。
それに、貴族の恋愛なんて、ティルナの他に比較対象がいないし……。他にもっといい例があればよかったんだけどなあ……。
「これからどうしたらいいんだろう。流石のぼくも、この展開には困惑しちゃうなぁ」
やっぱり、ニーナに愛されてしまった責任を取るべきなのだろうか。具体的に言うと……ピクト家の仲間入りをするべきなのだろうか。
……嫌だなぁ。今の身分が一番楽なのに。
手が届く位置にいる部下と、不自由しないだけのお金。そして何より、身の安全。それだけあれば十分なのに……。
ぼくは……まだニーナのことを友達だと思ってる。気の迷いで抱かれただけの、仲の良い相手。ただそれだけだ。結婚する気にはなれない。
「ごめんよ、ニーナ」
ぼくは部屋を出る前に、ニーナに声をかける。
金属製の体。その中にあるのは、誰よりも有機的なケダモノ。生命力と意欲に満ち溢れた、人間の代表。
見目麗しい彼女に、最低な言葉をわざとぶつける。
「ニーナは親友だ。だからこそ、どれだけ身を委ねても、この先に恋は待っていない」
ぼくは扉に手をかける。
人がいる廊下に出て、次の日に移ろうとしている。
眠っているニーナを置いて、ひとりで違うことをしようとしている。
……これでいい。これでいいんだ。
「それでもぼくは、君との絆を感じてるから……嫌いにはならないよ」
何様のつもりだ。ニーナの心を奪っておいて、逃げるつもりか。かつて命を救われたのだから、愛を受け入れて恩を返せ。
もうひとりのぼくが、ぼくの行動を罵倒する。ニーナが起きるまで傍で待てと指示してくる。
それでも、ニーナに合わせる気にはなれない。ニーナに嘘をつく気にもなれない。ニーナと同じだけの情を抱けない。
どれだけ貴族に染まろうとも、恋だけは譲れない。
狂った男の執着心から産まれたぼくだからこその、誇りというやつだ。恋愛とは、もっと重く、神秘的であるべきなのだ。
「またね、ニーナ。次会うときは、元の友達だ」
ぼくは扉を開け、歩き出す。
ニーナの残り香を振り払いながら。
〜〜〜〜〜
いつもの朝。いつもの日々。そう言えるほど、ここでの毎日に慣れてきた。アンジェは心からそう思っている。
今の自分は幸せなのだろう。環境に恵まれていて、ニコルも今のところ平和に暮らしている。人の中で暮らし、人の役に立ち、そして愛する人と愛を育むことができている。
しかし、今日、ひとつだけ幸せが崩れた。
いや、崩れたかどうかはまだわからない。だが変化が起きそうな予感はしている。
アンジェはそう思いつつ、震えを抑えながら目の前の人物と向かい合う。
「ねえ、アンジェ」
実験施設の中、アンジェの前に座っている少女の名はビビアン。青い髪に青い瞳。赤黒い色が混ざってはいるが、相変わらず水を連想させる外見をしている。
そんな彼女が乱暴されたのだ。辺境伯のニーナという女に。
「ぼくの首を絞めたのがニーナだって、なんでわかったのぉ?」
ビビアンはやけに驚いた様子で口元をひくつかせている。笑おうとして、笑えずにいるのだろう。
何も不思議なことはないと、アンジェは指を立てて説明する。
「推測だけど、首の痕は手によるものだ。大きさからして、相当な大柄。かすったような痕跡がないから、君はほとんど抵抗しなかったようだ。となると、それが出来る相手は限られているから……あとは当てずっぽうだ」
「それも、知識の海?」
「違うよ。オレの推測だってば」
アンジェは己の推測が当たっていたことに満足感を覚えつつも、自慢する気にはなれない。
「見る人が見ればわかることだよ。オレじゃなくても簡単に察せる。この屋敷にいる人ならね」
「……嫌味じゃないんだろうなぁ。アンジェは頭が良いのに、鈍いからね」
過度な謙遜は却って嫌な印象を与えると、知識の海の書物に載っている。
だとしても、アンジェは先ほどの言葉がそれに当たるとは思っていない。正確かつ客観的な評価ができているはずだ。
「大したことはしていないよ」
「こいつめ……」
やはり会話というものはよくわからない。何が相手を不快にさせるか、さっぱり予測できない。アンジェではニコルほど上手に立ち回れない。
「(ビビアンが相手でもこうなっちゃうんだから、他の人の相手はもっと……。課題だなあ)」
アンジェは文字通り同じ血を分けた間柄の彼女を見て、憂鬱になる。
だが、落ち込んでいる場合ではない。今はビビアンのために労力を割かねば。
「それで、何があってそうなったの? オレで良ければ力になるよ。仲裁は自信がないけど」
「じゃあ、同調しようか。それが一番早い」
ビビアンは隣に席を移動させ、アンジェに生身の方の手を差し出す。
何処か後ろめたい様子に見えるが、それは体を穢されたことによるものだろう。アンジェは純潔を奪われようとビビアンを恨む気になれなかったが、そう思う人の方が少ないのは、常識という概念と照らし合わせても明白だ。
「(ニーナに汚された。今の自分は無価値だ。もう嫁に行けない。そう思うのも、無理はない。他人と体を触れ合わせるのは、今の彼女にとって苦痛だろう)」
アンジェは意を決して彼女の手を取り、魔力を通じて意識を分かち合う。
川のような魔力と共に、ビビアンの感情が流れ込んでくる。思考が手に取るようにわかる。言葉より遥かに正確な意思疎通が、2人の壁を取り払う。
アンジェが真っ先に感じたのは、戸惑いだ。ニーナへの対応に困っているという程度であり、被害者じみたそれではない。
意外なことに、ビビアンはあまり精神的苦痛を受けていないようだ。
「ふーん。まんざらでもないんだ。無理矢理襲われたのに……」
「からかってるのぉ? オレもだんだん、ぼくに似てきたね……」
ビビアンがアンジェに似てきているのと同様、アンジェもビビアンの影響を受けているのだろう。
悪いことではない。ニコルに嫌われない限り、何の問題もない。姉妹のように仲睦まじく生きていくのも魅力的だ。
アンジェはビビアンの中にある記憶と感情を探り、ニーナとの間に何があったのか、大雑把に理解する。
「へー。使用人がみんな……ピクト家も……あ、こんなことしたんだ。いやらしい……」
「上手だなぁ。ぼくはそんなに素早く読み取れないんだけど……」
「知識の海と同じ要領だからね。簡単簡単」
ふと、アンジェはなぜ知識の海と同じ感覚で記憶を覗けるのか、不思議に思う。
「(知識の海と人の意識は、同じもの……?)」
あるいは、アンジェが知識の海と呼んでいる知識の塊は、多数の知的存在の記憶が寄り集まってできた、ある種の群体ではないだろうか。確固たる根拠はないが、アンジェはなんとなくそう推測する。
「(この屋敷の書庫にも、知識の海は載っていなかった。本当に興味深い能力だ)」
「ちょっと。考え事してるでしょ? ぼくに集中してよぉ」
ビビアンがただを捏ねながら、アンジェに頬を擦り寄せてくる。
冷たく柔らかい、餅のような頬。それをアンジェの頬にくっつけて、上下に動かしている。
顔と顔で触れ合っていると、このまま溶けて混ざり合ってしまいそうだ。
「今はぼくの時間なんだから、ぼくだけを見て」
「確かにその方が効率が良いね」
「効率の話じゃなくて……あぁ、鈍感!」
ビビアンから流れ込んでくる、ほのかな苛立ちと、それ以上の好意。アンジェの身に余る光栄だ。
とはいえ、好意が何に由来するものなのかは、アンジェにもわからない。そこまで深く探ってしまうと、取り返しのつかないことになりそうで怖いのだ。
心の奥深くを探ること。それはさながら心臓に手を入れるようなものであり、何かの拍子に大量の魔力を送ってしまったら……魔物が動物に対してそうするように、眷属化してしまうことだろう。
「(ビビアンはビビアンのままでいてほしいな。オレの魔力は相当強いみたいだし、あんまり深いところには送らないでおこう……)」
アンジェは冷静にニーナの行いを探ることにする。
破廉恥な記憶がそこら中に散らばっている。それより奥には、ニーナに救われた記憶も。
体のほとんどを失ったビビアン。死に急ぐビビアンを介抱するニーナ。
多大な恩義。積み上げた友情。信頼関係があったからこそ、それが揺らいでいる今、彼女たちは岐路に立っているのだ。
ビビアンの心を占める最も大きな感情を見つめ、アンジェは問う。
「ぼくの……ビビアンの中に、不安があるね」
張り巡らされた思考の隙間に、まるで埃のように溜まった感情。それがビビアンの心を汚し、曇らせている。
目に見えてはいるが、直接取り除くのは不可能だ。アンジェにできるのは、それを分析することだけ。
「別れたくないけど、同じままではいられない。ビビアンは今までと同じがいいのに、相手はそれを望んでいない」
「そう。まさにそうなんだよ」
ビビアンは不安の内容をピタリと突かれ、息を飲んで目を見開く。
「ぼくは、なんというか、先が見えないんだ」
「ほう」
「だって、どうなってしまうんだ? ピクト家はぼくが辺境伯の妻になることを望んでいる。そうなると、領地を経営しないといけない。ぼくは既に組織を持ってはいるけど、規模が全然違う」
ビビアンは俯き、握り拳に力を込める。
「今でさえいっぱいいっぱいなのに、更に広い知識が必要になる。無理だ、ぼくには」
ビビアンはアンジェに縋りつき、鼻先が擦れ合うほどの距離で内心を吐露する。
「それに、貴族になったら相応しい後進を育てないといけない。ぼくはまだ子供なのに、子供のことを考えなきゃいけないなんて」
「……うん」
「ぼくは魔物だから、人と一緒に生きられない。人に嫌われるし、人を育てられる自信もない」
「……そうかな?」
「だって、ぼくの真似をした子供が、危険な目に遭ったりしたら……。成長した子供が、ぼくのせいで後ろ指を指されたら……」
アンジェは同調のおかげで、ビビアンの心にある悩みの奥底までたどり着いたことを察する。
真実には限りがある。故に、心の底が顔を出すまで真実を掘り続ければ、解決の糸口が見つかる。アンジェはそう信じている。
全てを綺麗に丸く収めるものでなくとも、妥協して前に進む方法くらいは、アンジェでも与えられる。
アンジェは大切な友人のビビアンに、贈り物を与えることにする。
今の彼女に必要なもの。それは、一歩目を踏み出す勇気だ。
ビビアンの心は、とっくにニーナの恋を受け入れている。結婚に踏み切れないのは、変化に対応する自信がないからだ。恋愛をする勇気がないから、親愛だと言い張って自分を騙しているのだ。
ビビアンが他の人間に惚れているとは考えにくい。もしそうなら話は違うが、そんなはずはない。魔力を送らなかった心の最奥に、そんなものを隠しているとは考えにくい。
よって、先ほどの吐露は単なる漠然とした不安によるものでしかないのだ。
「オレがいるよ」
アンジェはビビアンの手を握り、額をくっつける。
コツンと音がして、頭蓋骨がぶつかり合う。痛みのない衝撃が波打ち、2人に響く。
ビビアンは戸惑い、青い瞳でアンジェの目を見る。
果てしなく広がる大海に一隻の小舟を見つけたような、そんな視線。
「ビビアンが悩んだら、オレを頼ればいい。ひとりでできることには限りがある。そんな時は、いつでもオレを使ってくれ」
「……!」
「あ、でも、オレは不出来だし臆病だし……。それでも、知識の海は便利だから……えっと……」
物語の主人公のように励ましたかったものの……なかなか話の着地点が見当たらない。自信を振りかざして自分を大きく見せるのも不得意だ。
「(ひとりで何もかもやろうとするのは、オレも同じだからなあ……。人のこと言えないよなあ……)」
アンジェは内省して気落ちしつつ、強引にビビアンへの激励を締めくくる。
「ま、まあ、そういうこと。だから、重荷があったら周りに押し付けちゃっていいと思うよ。オレに限らずね」
「……結婚するなら、伴侶の面倒を見るのはぼくの責任だ。子供も組織も、最終的にはぼくにのしかかる。周りのせいにして自分だけ楽になるのは……」
「みんながビビアンを頼りにして、重荷を預けてるから、そうなるんだ。ビビアン側も遠慮はいらないと思うよ?」
ビビアンはハッとした様子でアンジェと目を合わせる。
そして、同調によって強い好意を流し込んだ後、顔を赤くして目を逸らす。
「そっか。ありがとう。少し、楽になったよ……。いざとなったら、頼ってもいいんだね」
ビビアンは目の縁に浮かんだ雫を拭いながら、無邪気に微笑む。
アンジェが語った内容が常に正しいとは限らない。
実のところ、アンジェはまだこの領地の風習や法律について知らないのだから、ビビアンの悩みに回答を与えられる立場ではないのだ。
それでも、彼女が納得して悩みを消化できたなら、それでいい。理論の正しさは、大した問題ではない。
アンジェはビビアンの笑顔を見て、そう信じることにする。
「(とてつもなく重い好意をもらっちゃったけど、これはきっと親愛だろう。ビビアンが信頼してくれるなら、オレは報いるだけだ)」
アンジェはビビアンの未来を応援するつもりで、笑みを返す。
……そして。
「さて、ビビアン。話を元に戻そう。ニーナの暴走についてだ」
アンジェはそれまでの流れを断ち切るように演技くさい咳払いをして、話題を元に戻す。
ビビアンの人生相談に脱線してしまっていたが、そもそもはニーナとビビアンの間に起きた、暴行事件が発端だ。それの解決を目指さなければなるまい。
アンジェはビビアンの記憶を覗いて得た内容を、口に出して確認する。
「ニーナがエイドリアンと使用人たちに頼んで協力を要請。ビビアンに謎の薬を飲ませて弱体化させ、乱暴を働いた。これが顛末だね?」
「たぶん、そう」
ならば、探るべきはエイドリアンだろう。
彼女がニーナに協力する道理がピンとこない。それほど仲が良いようには見えなかったのだが、実際には魔法を使ってまで加担している。
エイドリアンは悪魔に騙されて薬を作らされ、それを利用された。その過去を鑑みれば、並大抵のことでは力を貸すことはないと思われるのだが……。
「オレは今日、エイドリアンのところに行く」
多忙なビビアンに代わり、手足となるべきだろう。どうせ暇なのだから、食事と宿と命の恩を返さなければ。
〜〜〜〜〜
エイドリアンを訪ねる前に、ナターリアのお見舞いに行こう。研究室に来たついでだ。
そう思い立ち、アンジェは実験室の近くにある病室の扉を開ける。
「ナターリアはいますか?」
「いないわけないじゃないすか」
ナターリアはぷらぷらと包帯まみれの手足を揺さぶって目立たせる。
複雑骨折と、酷使による炎症。あと少し手当てが遅かったら、手足を切断する羽目になっていたそうだ。
当然、数日で治るほど生やさしい状態ではなく……最低でも半年以上、彼女はここに拘束されることになっている。
治癒力次第ではもっと早く包帯を取り、歩行や食事の訓練を始めるそうだが……ナターリアはじっとしていられない性格なので、期待はできない。
アンジェはナターリアの手足を知識の海で見つつ、治療法を探ってみるが……どうにもならないようだ。
そもそも医術はアンジェにとっても難易度が高く、一朝一夕では身につけられそうにない。知識があろうと、学問を経験として適切に積み上げてきたわけではないアンジェにはどうしようもないのだ。
「布を魔道具に変えるくらいしか、オレにできることはなさそうだね」
「もっと簡単なことでいいっすよ」
そう言いつつ、ナターリアは口に挟んだ棒で本をめくる。
アンジェの方は、チラリと見ただけだ。興味がないのだろうか。
「ニコルさんの様子とか、アンジェちゃんの身の回りのこととか、そういうのを話してくれるだけでいいんすよ」
「そう?」
そういえば、ナターリアは話好きだったか。これでもかと言葉を浴びせてくる以前の彼女の姿を連想し、アンジェはどこか寂しい気持ちになる。
「オレなんかのことでいいなら……」
アンジェは最近の生活における喜怒哀楽を、思いつくままに話す。
魔力量に目をつけられてビビアンの傘下に雇われそうになっていること。服がたくさんあって選ぶのが楽しいこと。身長が伸びていないこと。
「オレ、お化粧も始めたんだ。慣れるとお絵描きみたいですっごく楽しい。今よりもっともっと可愛くなれるし」
「へー。ニコルさんに習ってるんすか?」
「そうだよ。でも、ニコルは教えるばっかりで自分の顔にはしないんだよなあ。できるんだからすればいいのに」
ニコルの真っ白な肌を思い浮かべながら、アンジェは愚痴る。
手本がないと今ひとつわかりにくいため、自分の顔で実験するしかないのだ。ぐちゃぐちゃになってしまった時の無力感は辛いものがあるので、少ない回数で済むならそれが一番だ。
だがナターリアは、一切繕っていない顔を素早く横に振り、否定の意を示す。
「ニコルさんはあの容姿っすから、無難に仕上げるのが難しいんすよ。肌も髪も真っ白な人なんて滅多にいませんし、お化粧しなくてもいいくらい美形なんですから、別に良いのでは?」
「なるほど……勉強になるなあ」
「まあ、あたいはあんまり化粧したことないので、詳しいことはよくわかんないっすけどね。お母さんからの聞きかじりっす」
そういえば、ナターリアはあの街にいた頃から化粧の気配がさっぱりない。それで看板娘として成り立っていたのだから、彼女の言う通り、天然の美少女は得なものである。
「(いや、ナターリアは自分が美人だと思ってないみたいだから、自分を飾るのに興味がないだけか)」
アンジェはいつのまにか本から目を離しているナターリアと目を合わせる。化粧の話をしていたためか、どうしても顔に意識が向かってしまう。
よく見ると、左目を縫い合わせている糸が新しいものに変わっている。知識の海によると、この街で製造されたもののようだ。
「ああ、ビビアンが大量生産してる魔道具の布……あれを応用したのか。繊維だもんね」
「え? なんすか急に。ニコルさんの話は?」
「……あっ。ごめん。急だったね」
知識の海のせいで話題が飛びやすいのは、アンジェの明確な欠点だ。
アンジェは我に帰り、適当に話の流れを紡ぎ直す。
「えーと、その目もお洒落のうちに入るのかなって思って……」
「お目が高いっすね」
ナターリアはあまり嬉しくなさそうに褒めた後、口に咥えた棒を頬で転がす。
「ビビアンちゃんに縫ってもらいました。定期健診の時に」
「ああ……ビビアンにも診てもらってるんだっけ」
「ええ。ま、何日かほったらかしにされましたけど、それが何か?」
ナターリアはやけに不機嫌そうだ。
入室した時の態度といい、もしかするとアンジェのことを歓迎していないのかもしれない。
アンジェは目の後ろが熱くなる感覚を覚えながら、しょんぼりと俯いて一歩引く。
ナターリアはもう何日もこの状態だ。自分で何ひとつできない状態では、イライラするのも当然だ。
悲しいが、ここは引こうか。ナターリアにしてほしいと言われた話をしたが、それでも駄目なら、出直すしかあるまい。
「もう少し話したかったけど、行くね」
「待って。あたいも言いたいこと、まだまだたくさんあるんすよ」
ナターリアは重そうな瞼をこちらに向けて、半目でアンジェを睨む。
彼女の明るい表面の内側に……何か暗い負の感情が渦巻いているのがわかる。
ドロドロと澱んだ感情の流れが、アンジェに直接向けられている。以前のナターリアでは考えられない、異様な行動だ。
「ニコルさんの話をしてください」
「オレの身の回りの話は、嫌だった?」
「はい。あれは建前っす。ニコルさんのこと、好きなんでしょ? あの人の話をしなさいよ。すると思ったのに。なんでしないんすか」
どうやらニコルの話が聞きたかったらしい。そういえば、アンジェは自分のことばかり話していたような気がする。
とはいえ、最近のニコルは欲望を隠さなくなり、とても人に向けて話せるような話題が無いのだが……とりあえず、話せそうな部分をかいつまんでみる。
「ニコルは魔力が凄いらしいね。まさかオレより多いなんてびっくりしちゃった。旅の最中で一度も魔力切れが起きなかったから、まさかとは思ってたけど……流石はニコルだよね」
「むふふ。ニコルさんはあたいと旅した時も、ガンガン魔法を使いまくってましたからね。頼りになりますよね……!」
その後、アンジェとナターリアはニコルの素晴らしさを語り合う。
容姿。声。髪型。性格。服装。魔法。能力。戦法。その他日常的な癖について。
語るべきことは山ほどあった。語り尽くしたと思ってもすぐ新たな話題が湧いてくる。ニコルの姿がチラつくたびに、その魅力が違う側面から顔を出す。
「ニコルは泣き顔も素敵なんだ」
「見たことないっすね……」
「いつも笑ってるからね。でもナターリアとも仲が良いし、そのうち見る機会は来るよ」
「……だといいっすね」
ナターリアは恨めしそうな目で涙を零し、顔を背ける。
本が濡れないようにするためか。それとも……。
「あれ。あたいが泣いてどうするんすかね。ははは」
アンジェはナターリアとの間に、高く厚い壁を感じる。
この異様な反応。執拗にニコルの話を求めてきたということは、おそらく……。
「ニコルのこと、どう思う?」
アンジェが尋ねると、ナターリアは口を結ぶ。
そうか。そういうことか。ニコルに好意を抱き、アンジェに嫉妬しているのか。ならば、この態度も納得だ。
「わかった。今日のところは、退散するね」
エイドリアンのことを聞きそびれてしまったが、こうなっては仕方あるまい。アンジェのせいなのだ。アンジェがまた、会話に失敗したから悪いのだ。
アンジェは逃げるように病室を後にする。
ナターリアとも仲良くしたいのだが、なかなか難しいようだ。




