第76話『密会、決壊、おつかい』
《ビビアンの世界》
ぼくはニーナの義肢を整備しながら、ここ最近の慌ただしい日常を思い返している。
近頃は屋敷の中が騒がしい。単純に人が増えたからだけど、みんなが短期間で一気に仲良くなったからでもある。
アンジェの発見。ニコルの襲来。一気に人がなだれ込んできて、一時はどうなることかと思ったけれど、丸く収まりそうでよかった。
最近のアンジェは、ニコルといちゃいちゃしながらも、確実に好印象を掴み取っている。
大人しく、人懐っこく、勤勉で、そして何より魔法使いとして優秀。それがアンジェの評価だ。今の屋敷に、アンジェの敵はいない。
人に対して誠実に生きてきたからか、最近は色々な許可を得て、行動範囲を着々と広げている。
屋敷内に限りひとりで行動する許可。屋敷の庭に出る許可。他にもたくさんの許可をアンジェは得た。
これらは貴族や使用人たちからの信頼の証だ。アンジェが認められて、ぼくも嬉しいよ。
書庫に入る許可を得てからは、そこに蓄えられている知識を石板に書き写して、何か考察らしきことを考え続けている。
彼女なりに研究をしているのだろう。この領地の役に立つことだといいな。
人との関わりはあまり広がっていないが、屋敷内で見かける機会は増えた。そのため、使用人達の間では『屋敷を守る妖精さん』として親しまれている。
妖精さん、ねえ。ま、アンジェは可愛いからね。ふふん。
てちてちと廊下を歩く姿は、もはや小さな愛玩動物だ。ぼくもたまにすれ違うたびに、たいへん癒されている。
一方で、ニコルは社交性を活かして使用人たちとの交流の輪を広げている。性格的に通じるところがあるのかもしれない。
ニコルは他人に対する奉仕の精神が強いし、やろうと思えば家事もできる人だ。使用人らしい面も、確かにある。
今のニコルの仕事は、前代未聞の魔力量を活かした魔道具への魔力供給。あと、たまに魔物の掃討も。
アンジェとは違い、その実力を高く買われて、積極的に戦力として活用されている。
そうそう、まだ研究途中だから結論は出せていないけど、たぶんニコルは……英雄の後継者に相応しい、究極の能力を持っている可能性が高い。本人に伝えたらどんな反応をするんだろうね。楽しみだ。
ナターリアは常に病室で大人しくしている。四肢を拘束されていて、痒いところがあっても掻けない状態だから、いつ見ても本当に辛そうだ。
数日に一度、いつも屋敷にいるアンジェが、彼女の体を清めている。
ナターリアは色々不満が溜まっているらしく、洗っている間のアンジェに文句をぶつけることも多いらしい。詳しい内容は聞き出せなかったけど、アンジェでさえ口を閉ざすようなものなら、聞かないほうがいいのかもしれない。
ぼくとアンジェとニコル以外にも、大勢の人がナターリアのところに訪れて、彼女の退屈を埋めている。
特に多いのはニーナかな。ニコルのおかげで戦場に出る頻度が大幅に減り、暇になった時間をナターリアのために使っているのだ。他にすることがたくさんあるはずなのに、あの人は本当に……。
まあ、おかげで最近のナターリアは幸せそうだ。ニーナとずいぶん仲良くなって、最近は言葉も理解できるようになってきているらしい。2人の共通の親友として、とても嬉しいよ。いずれは3人で遊びに出かけたいね。
……さて。アンジェ、ニコル、ナターリア、ニーナの4人の様子を振り返ってきた。
ここまでは良い雰囲気だけど、ぼくにとってはまだ懸念事項がある。
エイドリアンだ。
エイドリアンは与えられた部屋にひとりで篭っている。ナターリアと同室だったけど、あっちはすぐに病室送りになったから、離れ離れになってしまった。
幼い子供の面倒を見るという意味でも、また悪魔の行動を制限したいという意味でも、エイドリアンをひとりにするわけにはいかない。
そのため、最近は使用人のリンさんが彼女の部屋に出向いている。
……だけど、リンさんが言うには……エイドリアンは静かすぎるのだそうだ。
ぼくは整備した義肢から目を離し、隣に立つリンさんにエイドリアンのことを尋ねる。
「最近のドリーちゃん、どう?」
「最低限の会話しかしてくれません。嫌われてるってわけではないみたいですけど……」
リンさんは悪魔の尻尾を哀しそうにもたげながら、頬に手を当てる。
この話をするために、わざわざ呼んだのだ。日常の仕事もあるだろうに、彼女には苦労をかける。
「植物の魔法の練習ばかりしていて……。理由を聞いたら、みんなの役に立ちたいって。……心配です」
「うむぅ。ナターリアにも会いに行かないのぉ?」
「まったく行く気配がありません」
リンは額に手のひらを当て、ため息を吐く。
「それどころか、部屋の中でさえまるで動きません。朝出かける前に見た時と、夜帰ってきた時で、座っている場所がまったく変わっていないことさえありまして……」
丸一日、一歩も動いていないということか。
あの年頃の女の子なんて、目に映るもの全てが楽しくてたまらないだろうに……。完全に自分の世界に篭ってしまっているだなんて、もったいない。
姉のナターリアに懐いていたはずなのに、気にかける素振りを見せないというのも気がかりだ。一時期は治療のために面会謝絶をしていたけれど、今は面会を許可されている。
会おうと思えばいつでも会えるはずなのに、どうして行かないのだろう。
「(嫌な予感がする。エイドリアンは心が弱っているんじゃないだろうか。サターンの街での失敗と、社会からの排斥により、鬱状態になった可能性がある)」
ぼくは整備し終わった義肢を大事に持って、席を立つ。
ニーナの部屋に行こう。彼女とナターリアを交えて三者会談をしたい。
ニーナもきっと、エイドリアンのことを心配しているはずだ。ニーナは弱っている魔物を助けてしまうほどのお人好しだから。
これから義肢を渡しに行く約束がある。ついでに誘ってみよう。
ぼくは自分の使用人であるラインに声をかけ、工房を後にする。
屋敷の廊下は、最近ほのかに冷気を帯び始めた。冬が近づいているのだろう。廊下にも暖房がほしくなるが、流石に燃料がもったいない。
「うぅ、寒い」
「近頃は急激に寒さが厳しくなってきましたね。冬のお召し物を手配いたしましょうか?」
「ニーナのお下がりだけど、貰い物がある。当分はそれを着るよ」
ラインは少しだけしんみりした顔で視線を落とす。
「辺境伯が生身だった頃の……。群青卿ほどの背丈の頃は、まだ気温を感じていたのですね……」
「おっと、そこまでだ。寒さが余計に増すからね」
人間も魔物も、結局自然には勝てない存在なのだ。こうして使用人と共に寒さに震えていると、己の弱さを実感するよ。
そうだ。歩きながら、彼からも話を聞いておこう。
エイドリアンは植物魔法で使用人を手伝っていると聞く。もしかすると、ラインも話をしたことがあるかもしれない。
「ねえ、ライン。エイドリアンと話したことある?」
ぼくが話しかけると、ラインは慌てた様子で言葉を返そうとする。
「え? あ、すみません。……んんっ。エイドリアン殿とは、世間話のようなものをいたしました」
ラインはかしこまった口調を装い直してから、答えてくれる。
世間話の内訳は、やはりと言うべきか、大したものではないようだ。
この周辺の気候や催事。部屋にある家具。菜園にある植物。そして、ぼくの様子。そんなことを尋ねてきたらしい。
そんなことを話しているうちに、ぼくはニーナがいる部屋の前にたどり着く。
ラインが扉を叩き、中の使用人と話をして、ぼくは招かれる。
「群青!」
真っ先に目に映るのは、赤い髪の巨体。ニーナだ。
相変わらず目立つ容姿だ。美しいのはもちろんだけど、部屋に赤い物が置かれていないから、より一層映えて見える。
昔は気づかなかったけど、貴族としての感性が磨かれた今ならわかる。ニーナはここまで計算して部屋の模様替えをしている。部屋の中にいる時、どんな家具よりも自分が一番綺麗に見えるようにしているのだ。
ぼくは目上のものに相対した貴族として相応しい、流麗かつ優美な挨拶をして、茶会の席へと腰を落ち着ける。
……そして、息を吐く。
「ふう」
堅苦しいやりとりはおしまい。ニーナは貴族らしくないぼくが好きらしいから、望み通りにしてあげないとね。
ぼくはお茶を蒸れるのを待つ間、義肢の調整内容を簡単に伝えて、手早く交換する。話を聞かれないようにするため、使用人たちにはお茶の準備だけさせて部屋から出てもらってある。
ここまではいつも通り。本題はこれからだ。
「ニーナ。エイドリアンについて、どう思う?」
「むっ!?」
ニーナは何故か背中が跳ねるほど驚いて、口元をひくつかせる。
嘘が下手だなあ。絶対何か知ってるでしょ。
「エイドリアンは塞ぎ込んでいるらしい。ぼくは彼女と親しくないし、なかなか時間が取れないから、力になってあげられない」
「うむ」
「だから、お願い。ニーナの力が必要なんだ。あの子について知っていることを教えてくれ」
ニーナはしばらく悩んだ後、席を立つ。
重大なことを伝えるとき、ニーナはすぐに話そうとしない。
もったいぶっているわけではない。言葉を選んでいるのだ。ただでさえ相手に意思を伝えられない言葉遣いなのだから、悩むのは当然だ。
「……彼女を巣箱と呼称する」
エイドリアンは巣箱、ね。了解。
人を色で呼称することが多いニーナにしては、珍しい呼び方だ。確かナターリアのこともメジロと呼んでいたか。宿屋の名前である『小鳥の巣』とかけているのかな。
ぼくは準備が整った茶を解放し、部屋中にお茶の香りが漂い始めるのを感じつつ、ニーナの続きを待つ。
焦ることはない。ぼくは多忙だけど、優雅なお茶会で催促は厳禁だ。最近はニーナと過ごす時間を取れていないから、茶会の質にはこだわりたい。
ぼくは鼻で息をして、芳醇な香りを味わう。
濃厚かつ奥行きの深い、贅沢な匂い。色々な茶葉を混ぜたもののようだけど、統一感があって上品だ。
「この香りは……初めてだ」
香りだけで銘柄を当ててやろうと思っていたけど、失敗したなあ。ぼくはここに来て日が浅いから、季節の茶を出されると弱い。特に高級品は旅をしていた時に扱ったことがないから、さっぱりだ。
ニーナはどういうわけかしどろもどろな口調で解説する。
「遠く谷を越えた先、群雄割拠の国より取り寄せた、愛の茶である。白くなる季節になれば、手の内に入れることさえ高き壁になる。故に、その……ご馳走するのが、温もりであると……」
「ほう。魔王がいる谷を挟んだ向こうのお茶か」
あの国とサターンは、厄介な土地で隔たれているにもかかわらず、歴史的にも文化的にも深い繋がりがある。何代にも渡る長い間、共に同じ敵と戦っているからか、結構仲が良いのだ。
谷を大きく迂回して交易する都合上、冬になると雪の影響で道のいくつかが使えなくなる。だから寒さが厳しくなる前に入手して、ぼくに飲ませたかったというわけか。
ぼくはニーナの心遣いに感謝しつつ、初めて対面するお茶を楽しむことにする。
目を開けると、濃い橙色の茶が注がれているのがわかる。落ち葉より色鮮やかで、紅葉より僅かに透明感がある。
「いいお茶だね」
「……うむ」
ニーナは茶菓子を取り出しつつ、頷く。
歯切れが悪いのは、エイドリアンのことを考えているからだろうか。焦る必要はないよ。ぼくはいつまででも待つから。
……いや、本音を言うと、そろそろ話してほしいとは思ってるけどさ。急かすわけにいかないじゃん。
ぼくが退屈しつつあることに気付いたのか、ニーナは気まずそうに口を開く。
「巣箱は悪ではない」
ん?
いつもの婉曲表現だろうけど、読み取れない。エイドリアンは悪魔だけど、悪い奴じゃないのは既にわかりきっている。
「あの子はいい子だね。付き合いの短いぼくでもわかるよ。悪というより、善にさえ見える」
「それは錯誤である。彼女は悪だ」
……んん?
さっきと言っていることが違う。というか、正反対じゃないか。ついに狂ったか?
ニーナは光を反射してテカテカ輝くおでこを押さえながら、言葉を選び直す。
「いや、あやとりである。巣箱は悪ではなく、しかし足りている。危うい場所に立っている」
「悪魔だから、潜在的に悪に変じる可能性がある……ということか?」
それは暴論だ。いや、学説的にも前例的にもニーナの言い分が正しいんだけど、それを例外的な存在に当てはめるのは良くないと思うんだ。
「エイドリアンは生まれからして普通じゃない。だから典型的な悪魔に対する常識で判断するのは、あまり得策とは言えないよ」
「巣箱は……事実、隣人の幸福を願っている。ただしそれが世界の害となるかは、我々が掲げる常識次第なのだ」
……なんだか難しい話になってきた。まさかニーナ相手に頭を使う会話をすることになるとは。
ぼくはニーナの言葉を頭の中で咀嚼して、自分なりの意見を入手する。
「あの子が世間一般の考えと相反する善意を持っていると、そう言いたいのか?」
「是である。巣箱は暖炉となる。だが、原液である。世界に希釈されていない。獣に報告している。獣の心臓、獣の骨、獣の目を持つ」
我が強く、世間擦れしていない。それでいて、自分なりの善意を押し通そうとする人柄ってことか。
これは一度、エイドリアンに会ってみないといけないな。彼女の周りにいる人と話すだけではどうにもならない。ぼく自身がエイドリアンを知りに行く必要がある。
ぼくはニーナが口を閉じたのを見計らって、冷め始めたお茶に口をつける。
まずくなってしまう前に味わって、感想を伝えないと。どんな味がするのか、楽しみだ。
ぼくは口いっぱいに広がる恵まれた味わいを、舌で堪能して……頬で転がして……そして、一気に飲み込む。
味は良い。濃い割に癖が少なく、万人に受けるだろう。茶菓子と共に楽しむのも良いし、単品でも満足できる。
舌触りはやや不透明で、ざらついている。まあ色々混ぜたお茶なら、仕方ない部分かな。
問題は、その奥に隠された微かな違和感だ。
ぼくを誤魔化せるとでも思ったか?
侮ったな。ぼくはそこまで間抜けじゃない。
「ニーナ。人を呼ぼう」
ぼくは机の上に置かれた金の鐘に手をかけようとして、ニーナに止められる。使用人を呼んでほしくないということか。
……ぼくの身に何が起きたのか、わかっているのだろうか。きっとわかっていないのだろう。
ぼくはニーナに向けて、自分が感じた違和感の詳細を伝える。
「妙な魔力が混ざっている。たぶん毒だ。ニーナは茶を飲まないから、ぼくを狙ったものだろう。使用人を呼んで拘束する」
「彼らが、下衆であると?」
「他にいないだろ」
毒が仕込まれていたのが、茶葉であろうと茶器であろうと……部屋に出入りする人間は限られているのだから、他に心当たりがない。
だがニーナは首を横に振る。全てを理解しているような、泣きそうな顔で。
「否である。悪は巣箱であり……我である」
「なんだって?」
ぼくは思わず聞き返す。
誤訳だと信じたい。いつも通りの、遠回しな表現だと思いたい。
しかし、ニーナは再度、同じ言葉を口にする。
「悪は、巣箱であり、我である。同じ流れの中にある存在だ」
……それは。
それでは、まるで。
それではまるで、この毒を仕込んだのが……ニーナだって、言ってるみたいじゃないか。
途端、ぼくは胸の中に猛烈な何かが押し寄せてくるのを感じる。
熱い。体が熱い。業火に包まれ、熱湯になってしまったかのようだ。
「馬鹿な。あんな少量で、このぼくを!?」
これは自慢だけど、ぼくは強い。魔力の質も量も、通常のアウスでは逆立ちしても及ばない領域に突入している。
強者が集う領軍でさえ、魔力でぼくに敵う奴はいやしない。アンジェの魔力のおかげだけど、ぼくは変わったんだ。
そんなぼくを、苦しめるだなんて。一体どんな毒を盛りやがったんだ。
「う、うう……」
ぼくは生まれて初めての壮絶な感覚に身を焦がしながら、ぼくをこんな状態にした毒について考察する。
おそらくは魔力的な性質が強い毒だ。曖昧で、物の中に紛れやすく、暗殺向き。
仕込んだのは茶葉の中だろう。バレにくいように味が濃い茶を選び、保管用の大箱に混ぜたのだ。
「エイドリアンめ……」
ニーナは黙って首を縦に振る。
あの子は悪。ニーナも悪。ニーナは最初から、ぼくに教えてくれていたのだ。
言いにくいわけだよ。言えなくて当たり前だ。むしろ正直に告げてくれただけありがたいよ。裏切られたのはつらいけど。
ぼくは体に起きた変調をもどかしく思いながら、席を立つ。
何口も飲む前に気がつき、体内の魔力を弄って抵抗したからか、体はよく動く。むしろ普段より好調なくらいだ。
ただ、体温の上昇は如何ともし難い。
風邪をひいた時のように汗ばむし、思考がおぼつかない。喉の奥がたまらなくひりついている。紛い物の心臓がばくばくと音を立てて警告を鳴らしている。
とはいえ、これらの症状は命に関わらない。体内にあるアンジェの魔力が、毒を分解している。もうじき完治するだろう。
「はあ……」
だけど、これはそういう問題じゃない。体なんかどうだっていい。
「はあ…………。くそっ…………」
ぼくはため息をつき、ぼくの手で砕け散った茶器をぼんやりと眺める。
「なんで……こんなことしたの?」
普段の自分より、ずっと弱った声が出る。
昔に戻ったみたいだ。マーズ村にいる変な女の子だった頃の、弱くて不安定な子供だった頃のぼくに。
「ぼくは信じてたのに。ニーナを信じてたのに。どうして殺そうとしたの?」
あるいは、最初から何ひとつ、変わってなどいなかったのかもしれない。ぼくはアンジェのおかげで賢くなれただけで、本質はあの頃のままだったのかもしれない。
ミカエルとくだらない冗談を言い合って。ジーポントと馬鹿みたいに笑い合って。
ああ、あの頃は幸せだった。今の幸せも、きっとあの時の思い出が下敷きにあるんだ。あの時が戻ってくることを、心のどこかで求めていたんだ。
「嫌だよ……。殺されるのは嫌だ……。命を狙われるのは、もうたくさんなんだ……。ニーナにも言ったはずなのに……。なんで……なんで……」
記憶は更にさかのぼり、ぼくは旅をしていた頃を思い出す。
ぼくを襲ってきた人がたくさんいた。殺されかけたことだってあった。そのたびに、ノーグが守ってくれた。
彼のような職人になりたかった。彼のように勇敢に戦いたかった。だからぼくは、この場所で頑張った。
……ああ。嗚呼。
どうして、こんなことに。
「ぼくは……ここが好きだったのに」
床に落ちたお茶の残りに、ぼくの涙が混ざる。
ぼくの体から落ちた水が、濁って毒になっていく。
……そうか。毒の正体は、エイドリアンの植物だ。植物を生む魔法で独自の茶葉を作り、混ぜたんだ。調べ上げれば確かになるだろう。
ニーナは何も言わずに立っている。悲痛な顔で、それでも何かを決意した様子で、ただ背筋を伸ばして立っている。
凛々しい。そして、美しい。
あの体の大半は、ぼくが作ったものだ。それをニーナは完全に制御して、もはや芸術ともいえるほど高貴な存在に昇華させている。誇らしいよ。
ニーナはようやく、声を出す。
「愛している」
ぼくは直感する。
その一言を紡ぐために、時間をかけて試行錯誤していたのだ。自由にならない言語を操り、精一杯頑張ってくれたのだ。
「わたくしは、群青を、愛している!」
ぼくの中のニーナ語は、違う意味だと告げている。
だけど……これは……。
ニーナはきっと、己の身に課せられた制約を超えようとしている。それがどれほど苦しく、努力の要ることなのかは、ぼくにはわからないけれど……その想いの強さは、ひしひしと伝わってくる。
ニーナは屈み、ぼくの脇に手を入れ、投げ飛ばす。
ぼくはそれを、黙って受け入れる。
落ちた先は、柔らかい枕。見上げると、煌びやかな薄布の天蓋。ここで寝ろということか。
寝返りを打ち、ふと窓の外に目を向けると、日差しの中に人影が見える。
悪魔らしい、黒く細い尻尾。顔が見えなくてもわかる。あれはリンさんだ。
彼女は慌てた様子で窓から離れ、何処かへと去っていく。
……あの人も共犯だったのか。
「あれ……まさか……」
騒ぎを聞いているはずなのに、誰一人、ここに来る気配がない。ぼくの使用人も、ニーナの使用人も。
お茶会をしているのだから、いつ片付けに呼ばれてもいいようなところにいるはずなのに。
「使用人も、全員……」
「まだ狭い。もっと、もっとだ」
ニーナはぼくの上に覆いかぶさり、長い髪を変化させてぼくの手足に巻きつかせ、拘束してくる。
ニーナの赤髪は、もちろん地毛ではない。シュンカの毛だ。鋼のように硬く、意思一つで動くため、武器になる。変色して擬態する性質があるので、薬品さえあれば髪の色を自在に変えられる。
おかげでぼくの義手は役立たずにされてしまった。こんな戦い方があるとはね……。やられたよ。
ぼくは寝床に押さえつけられたまま一切抵抗せず、ニーナを見つめ返す。
影になったニーナの顔は、いつもより暗く、それでいて情熱的に見える。
輝かしく派手な一面ばかり目立つけれど、ニーナもじめじめとした内面を抱えていることを、ぼくは知っている。
その湿った感情が、今、ぼくに向いているらしい。
「群青が取り込んだのは、病みをもたらす害毒ではない。燃えるような灯りの薬だ」
「毒ではなく、薬か。おそらくは……媚薬」
「そうだ」
ニーナはその手でぼくの頬を撫でる。
なるほど。この騒動はそういうことだったのか。
ぼくは、今から……。
「浮気性の群青を、諸手で以て仕留めたい。故にこそ大群を誘い、長を宥め、利によって理を得て、我慢をやめたのだ」
長とは、この街の長か。つまり、エイドリアンや使用人だけでなく……ピクト家も関与しているというのか。この襲撃に。
「闇になど渡さん。我が光で照らしてくれよう。群青はわたくしのものだ。わたくしこそが大尽なのだ!」
闇……暗黒。ぼくがアンジェのことばかり気にしているから、こんな手段を。
なんという醜い嫉妬だ。でも……ようやく見せてくれた本音でもある。
「群青。……群青っ!」
「ニーナ」
ぼくは全てを理解して、決心する。
ぼくを支えてくれた使用人のみんな。裏で支えてくれているピクト家の人々。薬を悪用されるのは嫌だっただろうに、それでも手を貸したエイドリアン。
これだけ大勢の人たちが、ニーナのために動いている。ニーナを応援している。
そしてそれは、きっとぼくのためでもある。ぼくがアンジェを強く想っていることを、みんな知らないんだ。
……責められない。みんなの良心を責めることなんてできない。
ニーナはこの行為を悪と呼んだけれど、それではみんなが浮かばれない。
それに、ぼくも……アンジェを傷つけてしまった極悪人だから……報いを受けるべきかもしれない。
「今回だけだ。好きにしろよ」
「なっ……!?」
「もう一度言うよ。好きにしろ」
ぼくはアンジェの魔力を弱め、薬を体に巡らせる。
ごめんね、アンジェ。ぼくは君が好きだけど、今はちょっとだけ、静かにしてて。
「エイドリアンの茶葉。ぼくの水。いいお茶ができそうだけど、熱が足りないね」
「……許して、しまうのか?」
「親友だから、一回くらいは、ね」
ぼくにとってのニーナは、親友だ。感謝こそしているけれど、恋はできそうにない。
だけど……許せる。行為も、想いも、全てを見逃すことができる。恋してなくても、愛があるから。
「ぼくを堕としたい?」
「愛執染着の感である」
「なら頑張らないとね。ぼくの心は、安くないから」
ぼくは今までの経験を活かして、とびっきりの誘惑を試みる。
たっぷりの水を滴らせ、下品な仕草を丁寧に。理性で飾った日常を、本音で満ちた幻想へ。
「ぐちゃぐちゃにしてみなよ。ほら、かかってこい。ぼくはここだ」
次の瞬間、ぼくは意識を失った。
力加減がわからなくなったニーナに、拳を叩き込まれたのだ。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
目を覚まし、襲われて、また気絶し。
息も絶え絶えになりながら、どうにかニーナの期待に応え続ける。
ニーナの体は不完全だ。快楽を得られず、自分の喜びを他者に求めるしかない。
だからこそ、ぼくは苦しんではいけない。フリだけでもしておかないと、ニーナを悲しませることになってしまう。
……きっと、それが良くなかったのだろう。ニーナの行動はどんどん激しくなり、常軌を逸脱していく。
「ぐ……ぐる、じ……にー、なぁ……」
何度かの昇天の後、ぼくはついに演技を諦め、本音をぶちまけてしまう。
青白い肌があざだらけ。高価な布団が赤い血塗れ。ぼくが散らした尊厳の数だけ、それらの痕は刻まれている。
怪力で殴られ、締められ、叩かれ続ければ、こうなるのが必然だ。体の中心に熱い金属を流し込まれたような心地さえする。きっと内出血だろう。
ニーナは腕の中にいるぼくを手放し、壊れた機械のような目で見下ろす。
「群青……。まだ一度の巡りであるぞ。こんな塩梅では満足の君には程遠い。天より与えられた手札を全て捲る勢いでなければ……」
……丸一日経ってるのか。すっかり時間の間隔がなくなっている。
だというのに、ニーナはまだ物足りない様子だ。血で汚れた指を、またぼくの体内に突っ込もうとしている。
どれだけ好き放題すれば気が済むのやら……。こんなに乱暴なやり方が好きだとは思わなかった。
「(性的暴行とはよく言ったものだ。気持ち良くしようという努力を欠くと、こうなってしまうのか)」
ぼくはニーナの体から、最近使われなくなった覚え書きの紙を引き抜き、部屋の外に投げて伝言を残す。
「魔力研究を一時中断し、通常業務に移行すること。どうせ共犯なんだろう? 後始末くらいしたまえ。君たちの群青卿より」
これで、ぼくがいない間の穴は埋まる。アンジェやニコルの到来により、体制を変えておいたのが功を奏したと言えよう。
この調子だと、もう何日か拘束されそうだからね。
「群青。ぐんじょー!」
「はあ……。ニーナの気が済むまで、どうぞ」
「ぐんっ!! ぁああアア゛ッッ!!」
言葉にならない咆哮を聞きながら、ぼくはただ、アンジェの顔を思い浮かべる。
どうせなら、あの子にこうされたかったな。




