第74話『君の血の色の赤』
《ビビアンの世界》
ぼくは自分の体から魔力を抽出しながら、この実験を取り仕切る主任として指揮をとっている。
とはいえ、あらかじめ決められた手順を確認して、各自に進捗を問うだけだ。ただの進行役と言って差し支えない。
ニコル、そしてアース村の正体に言及した途端、各分野の専門家たちは急激にやる気を出し始めた。この領地の苦境を打開できる秘策が眠っているかもしれないともなると、俄然身が入るというものだ。
かつての魔王を倒した英雄の魔力。それを正しい道に活用するだけ。それでぼくは更に偉くなって、得た権力で……守りたいものを守れるようになるんだ。
「(マーズ村とこの街を、ぼくの全てで守り抜く)」
ぼくは自分の体内から比較用の魔力を取り出し、魔道具に溜まったそれを見る。
青色に赤黒い塊が混ざったような液体。ぼくの魔力の色は、相変わらず澱んでいる。
ニコルの透き通った白色が羨ましい。ただの体質だから良いも悪いもないはずなんだけど……それでも、できることなら魔力まで美しく生まれたかったよ。
「ふう。時間食っちゃったな」
ぼくはそれを持って、ふらふらと自分専用の簡易式魔力分離装置に向かう。
ニコルはあっさり魔力を抽出できたけど、ぼくらの場合はそうもいかない。ぼくはかなりの魔力量を持っているのが自慢なんだけど、それでも魔力を吸うのはクラッとくるしちょっと面倒くさい。
ぼくが自分の作業に没頭していると、そのうちぼくのそばに人が立つ。
使用人のリンだ。ぼくは顔を器材に向けたままだけど、視界の端に映る悪魔らしい尻尾で判別ができる。
「次の人をお連れしました」
ニコルの次が来たようだ。さて、誰だろう。
ぼくは顔を上げて、その人を確認する。
真っ先に目についたのは、緑色の髪。そして次に、塞がった片目。ナターリアだ。ぼくの親友。
そんな彼女が、何故かリンさんの腕に抱かれた状態で運ばれている。しっかりと力強く、体重を支えられてしまっている。
……お客さんの身分で使用人に手を出すとは、ずいぶんと節操のないことで。
「最初にぼく、次にエイドリアンときて、今度はそっちを推すのかぁ」
「ち、違うんすよ! これは仕方なかったんすよ!」
「冗談だよぉ」
エイドリアンの枝を引き抜いてきたのか、全身に血塗れの包帯を巻いている。リンさんに抱き上げられないと、歩くことも手を上げることもできないようだ。
見ているだけで痛そうだ。至るところに血が滲んでいる。
……ナターリアはどうしてこうも自分の体に頓着が無いのだろう。いつの日か再起不能になってしまいそうで、ぼくは心配だよ。
ナターリアはぼくが使っていた器材を死んだ魚のような目で見つめながら、ぼんやりと呟く。
「あたい、何されちゃうんすかねえ……」
「ただの実験だよ。体を張ってもらうからね」
「ぴえ……まさかとは思いましたけど、もう人体実験するんすか!? ま、まだ心の準備が……」
いつも通りぴえぴえと鳴きながら、ナターリアは専門家たちに連れて行かれる。
楽な姿勢を取れる長椅子。痛みで暴れないようにするための拘束具。その他諸々の準備をしている間に、今回の実験内容が伝えられる。
ニコルの時と同じ流れだ。痛みに怯えるところまでニコルと同じ。
……しかし、どう考えても今回は、ニコルのようにあっさりとは済まない。なにせナターリアには、魔力が全く無いのだから。
ぼくより遥かに長い時間が必要になるだろう。それに伴う苦痛も、何十倍になることやら……。
〜〜〜〜〜
《ナターリアの世界》
あたいはぐずぐずになった手足を更に拘束されて、椅子の上に寝転んでいます。
旅の最中に、ニコルさんの足を引っ張らないために埋め込んだ枝。それを取り外したせいで、今のあたいはろくに動けません。
本をめくることさえできません。ああ、悲しき役立たず。感覚はありますけど、そのうち壊死しそうで危機感がやばいっす。
そんなあたいに向けて、何やら物騒な見た目の魔道具が突きつけられる。
針がたくさんくっついた、武器のような何か。あれをどうするつもりなんでしょうか。まさかあたいに突き刺したりしませんよね?
あたいは乞うような目つきを作って、実験をする人に質問する。
「そ、それ、どうするんです? まさかあたいの脳天にブスっと刺したり……」
「肌に浅く当てます。表皮から魔力を得るのです」
さいですか。痛くなさそうで良かった。
あたいは見るだけで怖い針山から目を逸らして、その時を待つ。
たぶんだけど、痛いのは一瞬。チクッとすればすぐ終わるから、我慢我慢。
眼鏡をかけた男の人が、あたいの腕にそれを押し当ててくる。
慣れた手つきで、痛みもありません。ちょっとだけ不安が和らぐ感じがしますね。
「(なんだ。大したことないっすね)」
しかし、その直後。あたいは油断したことを後悔することになる。
体の奥底に手を突っ込まれて、内臓を丸ごと引っこ抜かれるような……そんなおぞましい感覚が、あたいの体を襲う。
「げふっ!?」
あたいは喉の奥から潰れたカエルのような悲鳴をあげてしまう。
視界がチカチカする。耳鳴りもする。意識が、意識が飛びそうだ。死ぬ。死んでしまう。
吐き気を催すような不快感は容赦なくあたいの臓腑を殴り続けている。
「お、おお゛? お゛っ、おおお゛、おお……」
体が震え始める。体温がみるみる奪われていく。
寒い。冷たい。生きるために必要な力が、どんどん失われていく。まるで冬の夜のようだ。冬は嫌いなんすよ、あたい。
ずいぶんと遠くから、慌てふためく男の人たちの声が聞こえてくる。
「魔力消失反応だ!」
「医療班! すぐに手当てを!」
切羽詰まっているけれど、真面目で冷静な声色。こんな惨めなあたいを、本気で助けようとしてくれているんすね。実験動物としてさえ、無能なあたいを。
……情けない。自分が情けないっす。ただ寝っ転がって好きにされるだけでいいというのに、それさえまっとうできないなんて。
あたいに一体、何の価値があるっていうんですか。こんなか弱い生き物に何の価値を見出したっていうんですか。
「(弱い自分が、情けない……!)」
何人もの男の人に連れ去られながら、あたいは少しずつ意識を失っていく。
ビビアンちゃんらしき小さな手があたいを優しく励ましてくれている。死なないで、負けないでって応援してくれているのを感じる。
ああ、やっぱりビビアンちゃんはいい子だなあ。そんなことをしみじみと感じながら……あたいは眠りに誘われていく。
はあ。あたいも少しはいいとこ見せたいっすねえ。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
ぼくは医務室に運ばれていったナターリアを見送りつつ、先ほどの事故の原因を追及する。
「おい。何が起きた?」
魔道具技師に尋ねると、彼はきょどきょどと辺りを見回しながら、調査結果を報告する。
「機器に異常はありません。ですので、ナターリアさんの魔力が異常なのかと」
「それは知ってる。異常だからこそ、研究するんだ。聞きたいのは異常の中身だ」
「おそらくですが、体内に含まれる魔力が少なすぎる上に、その少量の魔力に生命を依存している状態となっているのではないかと思います」
つい詰問のような口調になってしまったけど、流石はその道の一流。澱みのない口調で理路整然と答えてくれる。
……ふむ。ナターリアからは魔力を取っちゃいけないということか。
なら、一旦は後回しか。非常に手間がかかるけど、魔力を抽出せずに検査する手もあるし。
ぼくはナターリアが手足から溢した血を丁寧に吸い上げながら、皆に命じる。
「念のため、ナターリアの血はぼくが取り込んで分離しておく。実験はそれでやれ」
「はい」
「……そういうことで、じゃあ、よろしく」
ぼくはナターリアが気がかりで仕方がない。この場は皆に任せて、ナターリアのそばに……。
いや、ぼくが入ることで指揮系統が混乱するし、何よりぼくは医療に明るくない。医療班の邪魔になるだけだ。
冷静になれ。冷静に……。
ぼくにできることは……まず、取り込んだナターリアの血を抽出して、保存することだろう。
ナターリアそのものにほとんど魔力が含まれてなかったんだから、血液を調べたところで魔力が含まれているわけがない。それでも、医学的な検査で何かわかるかもしれないし、とっておこう。
……ぼくたちは次の人が来るまでの間、実験の後片付けと情報の整理をする。
さっきの事故を踏まえて、機器の点検や手順の確認を再度行うのだ。
実験の手順に魔力量の自己申告が追加された。ナターリアに魔力がまるで無いとあらかじめわかっていれば、あの事故は防げたはずだ。その意見が満場一致で同意されたのだ。
……ナターリアほど少ない人間はまずいないから、普通は必要ないんだけどね。
個人が保有する魔力量は、状態によってかなり揺らぎがあるため、計測が難しい。試しに簡易的な測定器を作ってみたことがあったけど、針がぐわんぐわん暴れてまるでお話にならなかった。
よって、人体の保有魔力を数値として表すことは難しい。はっきり計測する手段が完成すれば、文明が数段階飛躍すること間違いなしなんだけどなあ。
……その件については、今はどうでもいいか。
落ち着け。動揺しすぎだ。
「群青卿は、ナターリア氏と既知だったのだろう?」
魔物の専門家が、山のようでありながらしっかりと引き締まった筋肉を隆起させて、ぼくを非難する。
「何故彼女の体質を申告しなかった。無謀だとわかっていたはずだ」
「あそこまで少ないとは思わなかったんだよ。知ってたらあんなことするもんか」
ぼくはサターンの街にいたナターリア……すなわちまだエイドリアンがいなかった頃のナターリアを想起する。
「以前に見た時は、人並み以上の優れた魔力を持っていた。今のナターリアがあそこまで貧弱なのが信じられないくらいなんだ」
人並み以上。具体的には、あのエイドリアンという悪魔の魔力量に近かったはずだ。少なくとも、ぼくが初めて会った時はそうだった。
エイドリアンはナターリアの眼球と魔力から生まれた。故に、魔力的な繋がりがあると見た方が自然だろう。
たとえば、ナターリアの体で生成されている魔力を横取りすることで、エイドリアンはその存在を保っている……とか。
まあ、調べてみなければ確定はできないか。
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《ビビアンの世界》
エイドリアンはやけに素直な子だ。
ナターリアが倒れたと聞いても、特に動じる様子はない。物騒な拘束具をつけられても、不愉快そうな顔をすることさえない。
ただ幼い顔を緊張で固くして、耳をぴこぴこ動かしながら、ぼくたちの言葉に従うだけ。
「ドリーはいいこにしてるよ。だから、ひどいことはしないでね……」
どことなく怯えのようなものが垣間見えるのは、ナターリアの身に起きた出来事を知っているためか。
……やっぱり魔力的な繋がりがあるから、様子を察知できるのかな。ぼくとアンジェが同化できるみたいに。
魔力の専門家が、エイドリアンに器具を押し当てる。
手つきがさっきよりも慎重になっている。事故が起きたためか、それとも相手が悪魔の魔力を垂れ流しているためか。
魔力の抽出は滞りなく終わり、規定量の魔力が魔道具の中に収められる。
「これはこれは……」
色は緑と茶が混ざったような、どこか温かく、それでいて原始的な強さを感じさせるものだ。深い森の中のような……あるいは太古の遺跡のような……そんな雰囲気が感じられる。
エイドリアンとはもう少し個人的に話がしたかったけど、今回は実験のために呼んだだけだ。仕方なく、ぼくは彼女を部屋に帰すことにする。
「終わったよ。お疲れ様」
「おねえちゃんは?」
案の定尋ねてきた。実験が終わるまで我慢してくれたのは、ぼくたちへの配慮だろうか。賢い子だ。
ぼくは念のために言葉を選びながら、正直に伝えることにする。
「ちょっと気分が悪くなったみたいだから、お医者さんに診てもらってるんだよ」
「ドリーは、いっちゃだめ?」
「……ごめんね」
肉親に対する純粋な親愛を引き裂いているようで、気分が悪くなる。昔のぼくだったら、見ず知らずの人にノーグと引き離された瞬間、取り乱して大暴れしていただろう。
エイドリアンは悪魔なのに理性的だ。ナターリアの教育が良かったのかな。
ぼくはエイドリアンをちょっと撫でてから、優しく肩を掴んで、リンさんに引き渡す。
「ドリーはビビアンちゃんのこと、しんじるよ。おねえちゃんのおともだちだから」
最後に言われたその言葉が、胸に突き刺さる。
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《ビビアンの世界》
最後にアンジェだ。
彼女は既に屋敷の中で一定の信頼を得ている。腰が低く、あちこちに顔を出して愛想を振りまいて、自分にできる事を積極的にこなしているからだ。
人を魅了して操る悪魔も世界の何処かにいるらしいけど、アンジェがそれなんじゃないかとさえ思えてくるほど、あの子は可愛い。
普段はぼんやりした顔をしているのに、話してみると意外と人懐っこいし、よく笑う。
ぼくはそんなアンジェを拘束することに心を痛めながら、実験の準備に取り掛かる。
魔力の抽出だ。アンジェは尋常じゃなく魔力が多いから、あっさり終わるだろう。痛みも感じないはず。
「ねえ、ビビアン」
アンジェはぼくの顔色を窺いながら、質問する。
「ナターリアは無事?」
「えっ。な、なんのことぉ?」
まさかアンジェにもバレているとは。どうして気づいたのだろう。盗み見たのか、それともエイドリアンと内密にやりとりをしているのか。
アンジェは医務室に続く扉を一瞥して、唇をきゅっと結ぶ。
「残滓が見える。血でも流したのかな」
……知識の海なしでも、アンジェは鋭い。
ぼくはナターリアに起きた出来事を説明できない。被験体に情報を与えすぎないように釘を刺されているし、ぼく自身もその通りだと思っている。
それはそれとして、ナターリアがあんな目に遭ってるのにだんまりってのは嫌だね。研究者ではなく友達として、ある程度は教えてあげよう。
「ナターリアは魔力が少ないから、実験が思うようにいかなくてね。ちょっと別室で待機中」
「怪我の具合は?」
「大したことないよ。それより、ここに来るまでに負った傷の方が心配かな。せっかくだから、ついでにそっちも治したいね」
ここの医療設備は世界一だ。折れた左腕を元通りにしたり、悪魔の薬漬けで弱った体内を浄化したり、両足の炎症を抑えたり……それくらいなら容易くできるはずだ。
……なのにぼくは、今でもナターリアの心配ばかりしている。そんなの必要ないはずなのに。
ぼくは顔を上げてアンジェの様子を見る。彼女もまたぼくの顔を覗き込んでいる。
「ビビアン、つらそうな顔してるよ。抱え込むのはよくないと思うんだ」
「ぼくにしかできないことが多過ぎるんだよ」
知識も地位もあるぼくが先頭に立って指揮をしないと、問題になる。功績を積み上げて爵位を得た立場なんだから、働かなくなった瞬間、白い目で見られるようになるのは確実だ。
そして……たくさん働けば働くほど、責任がのしかかるようになる。重荷はさらに増していく。
アンジェはそんなぼくの苦労を察してくれたのか、それとも単に自分が切り出したかっただけなのか、にっこりと微笑んでぼくを見つめる。
「大丈夫。ビビアンは十分頑張ってるよ。だからオレたちにも、ちょっとくらい負担を背負わせてほしい」
「気持ちは嬉しい」
苦しむ羽目になるかもしれないけれど、アンジェとぼくが手を組めば、あらゆる壁を打ち破れる。
「期待してるね」
そう言って、ぼくはアンジェから魔力を吸い出す。
当然事故は起こらず、あっさりと終わった。
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《ビビアンの世界》
さて。これで全員分の魔力が揃ったことになる。
ナターリアはぼくが持つ少量の血液だけだけど、今のところはこれで勘弁してほしい。
魔力の専門家は眼鏡をくいくいと持ち上げて、部下たちと共に目を光らせる。
「ここからは我々にお任せください」
当分は彼らの独壇場だ。数日は暇になるだろう。
とはいえ、やることがないわけではない。頼まれれば魔力を貸さないといけないし、ぼくは魔物が襲ってきたら戦いに出る必要がある。
ニコルがある程度倒してくれたから、最近は平和だけど……油断してはいけない。魔王がまた現れるかもしれないし。
とりあえず、ナターリアに会いに行くことにする。
会食を断り、ひとりで簡単な昼食を済ませて、自室の魔道具を適当に掴み、医務室に直行する。
医師の許可を取って、いざ中へ。
「ナターリア!」
はやる気持ちと共に扉を開けると、寝台の上には、治療を終えたばかりのナターリアがぐったりと横になっている。
翼をもがれた鳥のような、どんよりとした態度。そして何より、ぎっちぎちに拘束された手足。
ナターリアはぼくの姿を見て、曇り空のような顔で挨拶をする。
「ああ、ビビアンちゃん。ビビアンちゃんのご尊顔を見るだけで、助かったような気分になりますよ」
気分も何も、治療されて助かっている最中のはずなんだけど……この状態じゃそう思えないのも無理はないのかな。
ぼくはナターリアの様子を観察しつつ、軽い調子で尋ねる。
「思ったより元気そうだ。医者はなんて言ってた?」
「あと1ヶ月遅かったら、死んでたって」
「……えっ?」
予想以上に深刻な状態だったようだ。
1ヶ月。口ぶりからして、さっきの事故によるものではなく、旅の間に受けた怪我のことだろう。感染症が進んでいたということだろうか。
ぼくはナターリアのために持ってきた魔道具を部屋の片隅に置きつつ、疑問を口に出す。
「何で死にそうだったの?」
「病気っす」
いや、病気の一言じゃわからないんだけど。大雑把に括らないでよ。
ぼくはナターリアに文句を言いつつ、詳しい話を聞き出すことにする。
……ナターリアの話によると、彼女は熱病に侵されていたそうだ。
数日ほど寝込んだ後に回復し、てっきりそれで終わりだと思っていたそうだけど……実際には違った。病はナターリアの奥深くに潜伏していたんだ。
一旦治ったように見せかけて、半年ほどかけて体内を食い荒らす。症状が出ないように、ゆっくりと。
罹患者が気がついた時には、全てが手遅れ。内臓は穴だらけで、機能不全。血液は濁り、真っ黒に。そうして最後には、苦しみ抜いて死んでいく。
魔力を吸われたナターリアがあれほどの窮地に陥ったのも、それが原因だと見られている。無意識のうちに体内の魔力で抵抗していたからこそ、それが失われた瞬間、一気に症状が表に出たのだ。
とはいえ、ここに来たからにはもう安心だ。適切な治療を受けて養生していれば、傷んだ内臓も含めて元に戻る。
骨折やその他の傷についても、エイドリアンの枝の効果か、無理に動かしてきた割には骨の変形や各部の炎症が少ないそうだ。安静にしていれば完治できるらしい。
医師から言われたのは、だいたいそんな内容だったそうだ。ナターリアの長話を噛み砕くのは骨が折れるねぇ。
ナターリアは自嘲しながら、ふてくされる。
「あたいの旅は、勢いだけだったんすよ。ニコルさんとドリーちゃんだけなら、こんな病気にかかる心配はないのに……あたいが足を引っ張ってしまった。こんなことなら……」
ナターリアは目の前のぼくから目を逸らし、何処でもない虚空をぼんやりと見つめている。
過去の自分でも幻視しているのだろうか。その目に光はない。
「頼れる人を好きになってしまうのに、その人に寄り添うほど、自分の愚かさに気付かされる。心って不便っすね」
ついには何やら詩のような言葉を口ずさみ始める。相当参っているようだ。現実にうんざりしている。
つらいときこそ、ぼくに縋れよ。ぼくを求めてここまで来てくれたんじゃないのかよ。いつもみたいにぼくを愛でろよ。今ここにいるぼくを。
ニコルはナターリアを相棒として慕っている。エイドリアンはぼくを信頼してくれている。アンジェはぼくに肩を貸してくれている。
みんなはきっと、ナターリアに対しても同じことをするのだろう。だったらぼくも、ぼくにできることをしたい。
ぼくは寝台の横に立ち、ナターリアの頬に手を当てて、こっちを向かせる。
「ぼくを見ろ。そんな体になってまで、会いたかったぼくだぞ」
「……かっこいい」
ナターリアは頬を赤くして、また目を逸らす。さっきまでとは違う理由だろう。
もっとぼくを見ろ。そうすれば、君は笑顔になれるんだろう?
ぼくはナターリアの笑顔が見たい。お調子者のような、何処か憎たらしい、でも可愛らしい笑顔が見たいんだ。
ぼくはナターリアの耳元で、殺し文句を囁く。
「ぼくはナターリアと再会した時、嬉しかったよ」
「ぴぃ……」
「だから、旅をしたのは失敗だったなんて、二度と言わないでくれ。ナターリアがここにいるだけで、ぼくは幸せなんだから」
ナターリアがもぞもぞと抵抗している。でも手足を拘束されていて、動けないみたいだ。
「嫌がることないのに。本心では喜んでいる。知ってるよ。ぼくは君の大切な人だから」
「大切、ですけども……!」
ナターリアといると、やっぱり昔の幼いぼくが顔を出してしまう。悪いことを次々に思いついて、それを実行したくなってしまう。
ある意味では、甘えなのだろう。ナターリアの厚意に寄りかかっているのだ。
ぼくは内側に澱んだ疲労や衝動に突き動かされ、更なる悪戯を試みる。
「ねえ、ナターリア。今でもぼくのこと、好き?」
「ふゅっ!?」
ナターリアは隙間風のような声を漏らして、ぼくの方を見つめる。
ぐるぐると視点の定まらない目で、静かに……ただ静かに……こちらを見ている。
何も言わずに。何も答えずに。
「いひひ。好きって言えよ。ほら、言ってみろ」
ぼくはじれったく思い、ナターリアの心に発破をかける。
ナターリアはぼくの踊りが好きだったはずだ。ぼくの体が好きだったはずだ。
だから、そんなにつらそうな顔をするなよ。ぼくがここにいるんだぞ。最高がそばにいて、なんで最低な顔をしていられるんだ。
「ぼくに会えて幸せですって言え。早く言え。笑顔になれよ。幸せなんだろう?」
「う、うう……でも、あたいには、す……好きな人がいるんすよ」
エイドリアンのことだろう。確かに、今のナターリアはあの子と共にいる。姉妹のように寄り添って、助けて合って生きている。
それでも、友達が多くて損をすることはないはずなんだ。原初の気持ちに戻りたまえよ。
ぼくはナターリアの真っ赤な耳を噛むように、唇を動かす。
「いろいろな人と出会う中で、いろいろな人を好きになるのは、普通のことだ」
「うぴ……っ!?」
ナターリアは目の前に岩でも落ちてきたかのような顔で、ぼくの方を向く。
ぼくだけを見ている。ぼくに夢中になっている。悲しみを忘れて、情熱に身を焦がしている。
面白い。楽しい。
「好き……です」
「よし。ぼくはナターリアの一番のままだね」
それが聞ければ満足だ。やっぱりナターリアは前向きじゃないとね。失敗をくよくよ悩むのは、ナターリアらしくない。
……さて。そろそろ時間だ。ぼくも研究に戻らないといけない。いろんな人を待たせてるからね。
ぼくは病室の扉に手をかけて、振り向く。
「また来るね。次は笑顔を見せてほしいな」
「あ、はい……」
ナターリアはぼくが踊っていた頃よりずっと熱っぽい瞳で、ぼくを見送ってくれる。




