第70話『引き際は目に見えない』
《ニコルの世界》
私は街から離れたところで、先に蝶で脱出したナターリアに事情を説明して、今後の作戦を立てている。
貴族らしき男性に目をつけられていること。手勢がたくさんいて、もう街には戻れないこと。これからも襲われ続ける可能性が高いこと。
腰を落ち着けようと思った矢先にこんなことになってしまうなんて……。ピクト領に入って緊張感を持っているつもりだったのに。観光気分で油断しすぎたのだろうか。
話し終わった後、ナターリアはうつろな表情で私に告げる。
「なら、さっさとここを離れましょう」
話が早い。というか早すぎる。私が恥を偲んで提案したかったことを、先に言われてしまうとは。
私は生き急いでいるナターリアのために、慌てて他の選択肢を示す。
「待って。ビビアンの耳にも入っているかもしれないし……行き違いになるかもしれないよ」
「敵っぽい勢力の方が先に着いてるじゃないすか。それにビビアンちゃんが直接動いてくれるとは限りませんよ」
ナターリアは蝶に締め付けられてついた痣を撫でながら、考えを語る。
「あたいたちの噂がビビアンちゃんに届かない状況かもしれません。届いていたとしても、味方とは限りません」
「まさか……あの追手がビビアンの手先だって言いたいの?」
「ビビアンちゃんが血も涙もない悪徳貴族になっていて、あたいたちを排除しようとしているのかもしれませんよ。過去を全部捨ててしまいたいとか、そういう理由で」
この場にいる誰よりもビビアンに会いたがっていたナターリアが、そんなことを言うなんて。
……もしかすると、不安になっているのだろうか。新天地に来てからたった数日で襲われて、ビビアンを信じられなくなっているのだろうか。
私もかなり動揺しているし……。ここは落ち着かせるべきなのかな。目的を見失わないように。
「そんなはずないよ。ビビアンはそういうことをする人じゃない。ナターリアもわかってるでしょ?」
「自ら死を選ぶほど追い詰められて、そこから立ち直った人の気持ちなんか、あたいにはわかりませんよ。たとえ親友でもね……」
……確かに、ナターリアが語るビビアンと私が知るビビアンでも大きな差があるというのに、さらに貴族になってしまった彼女の精神状態なんて、さっぱりわからない。
ナターリアは私の体についた埃や塵を払って、困ったように笑う。
「暴漢に襲われて嫌になりましたか? 諦めて引き返しますか? 今ならまだ間に合いますよ。ビビアンちゃんからは遠くなりますが、あたいは構いません」
……なるほど。ビビアンのことを気にしていないという素振りを見せて、戻るという選択肢を示してくれているのか。
きっと、私が襲われたからだろう。私の恐怖心を、ナターリアは試しているんだ。
でも、今更じゃないか。襲われる覚悟はとうに済ませている。ここまで来て撤退するほど、私は優柔不断じゃないよ。
「このまま行くよ。どうせ私が離脱を選んでも、2人だけで突撃するんでしょ?」
「……………………そっすね。ビビアンちゃんがどうなっていても、あたいは会いに行きますよ。ははっ」
……ちょっとだけ嘘くさい言い方に聞こえたけど、気のせいだよね? 本当にビビアンちゃんに会いたいと思ってるんだよね? 今のナターリア、ちょっとだけ挙動不審だよ。
私はふらふらと落ち着きなく揺れているナターリアに、あんな発言をした意図を確認する。
「私が危ない目に遭ったから、こういう提案をしてくれたんだよね? そういうことだよね?」
「ま、実はそうなんすよね。あたいったら気配り上手っすね。ははは……」
……私の気にしすぎ、なのかな。
これはナターリアなりの発破なんだろう。ピクト領に入って早々予定が崩れてしまったから、士気が下がっているかどうか確かめたかったんだろう。
……そう思いたい。
大丈夫だよ。貴族に襲われた程度で、私は怖気付いたりしない。方針は変わらず、だ。
私は荷物に包まれたまま顔だけ出しているエイドリアンに向けて、確認を取る。
「ドリーちゃん。たぶん危ない目に遭うと思うけど、それでも一緒に来る?」
「うん。ドリーはビビアンちゃんにあいにいくよ」
エイドリアンは、元より他に選べない。
置いていくことになったとしても、保護者を失った悪魔の行く末なんて、考えたくもない。私たちがいない間に悪魔祓いに殺されてしまったら……たぶんナターリアは発狂する。
こうして、私たちは旅を続行することに決まった。
ビビアンがいると思われる最前線の地まで、一気に駆け抜ける。蝶で居所を調べて、夜の間に押し入ってでも、ビビアンに会いにいく。
もしかすると、これが私たちの最後の旅になるかもしれない。
悪魔祓いに捕まって殺される。貴族に捕まって慰みものになる。バラバラに解体されて研究対象になる。
ちょっと思考を巡らせただけで、色々な結末が私の脳内に現れては消える。
だけど、ここまで来たからには、止まる気はない。
〜〜〜〜〜
《ニコルの世界》
丁寧に整地されたピクト領の街道を、私たちは駆け抜ける。
ソーラ領よりやや寒冷。だけど冬にも寒くなりすぎないらしい。農作が捗る絶妙な気候だ。
……と、それはともかく。
私たちはついに、ピクト領の領主であるニーナ辺境伯がいる『インバース』の街にたどり着いた。
魔王がいる暗黒の谷に最も近い人間の領域。力と力がぶつかり合う、暴力の最先端。
そして、暴力のためにあらゆる知識や技術が集まる街でもある。血で血を洗った後に、知識が残るのだ。
より効率良く魔物を殺すために、戦術を練る。より多くを殺すために、体を鍛える。
集積された知識が金という価値に変わり、それを餌に魔物を殺すための人手を集める。
人間の業の深さを煮詰めたような場所。
それでも法はあるし、人は人に優しい。魔物や悪魔でなければ、意外なことに生きやすい街だそうだ。
私は嫌いじゃないよ、そういうの。絆があるのは、きっと良いことだ。
「そういうわけです」
「どういうわけすか」
私はまたナターリアと作戦会議をしつつ、インバースの街の遠景を望む。
人の領土から見る分には、それほど物騒なわけではない。普通の街だ。色は赤が多めで、優しい暖かさを感じる。
街の端には水路。川からひいたものらしい。子供の遊び場になっているようで、水量調整のための機械のそばで、アンジェくらいの女の子がキャイキャイとはしゃいでいる。
だが魔物の領土に面している部分は、刺々しい柵や頑強な壁で覆われている。無骨で傷だらけのそれは、長きにわたる人の戦いの記録をその身に刻んでいる。
清濁併せ持ってこそ、人。この街を見ていると、そんな教訓が頭の中に浮かんでくる。
私は頑丈そうな建物を指差して、ナターリアに告げる。
「たぶん、あれが領軍の基地かな。噂が正しければ、ビビアンはあそこに出入りしているらしいよ」
「屋敷に忍びこむのと、どっちが安全なんすかね?」
私は街の中でも一際目立つ、巨大な領主の館に目を向ける。
何階建てかもわからない、城塞のような巨大建築。白い壁と紫の屋根が、庶民の住宅との格の違いを見せつける。
警備を楽にするためか、窓は少なく、あっても高い位置にある。泥棒は困るだろうね。
……領主さまのお屋敷って、もっと豪華絢爛で成金趣味な印象があったけど、あれは実用性もだいぶ考えられている気がする。貴族っぽく装ってはいるけど、戦うことを忘れていない感じだ。
私は屋敷を分析して、ナターリアに意見を述べる。
「蝶を潜り込ませてみないとわからないけど、たぶん屋敷は厳しいんじゃないかな……。辺境伯がいるのは間違いないし」
「あたいも聞きましたよ。ここの領主さまはめちゃくちゃだって」
ナターリアは宿勤めで聞いた話を教えてくれる。
「辺境伯は究極の戦士。魔王とも殴り合える、最強の淑女。噂とはいえ、適当なことを盛りすぎっすよね」
ナターリアは半信半疑なようなので、私は首を横に振って危機感を煽る。
「全て真実だよ。昔、アンジェが調べてくれたことがあったんだ。その時もそんな感じの内容が出た。だから間違ってないんだよ」
「アンジェちゃんが……。でも田舎にいたアンジェちゃんがどうやって調べたんすか?」
知識の海について、明かしてもいいのかな。ナターリアはもはや身内だし、明かすべきだね。
口を滑らせることもあるかもしれないけど、それで不利になる可能性は……もうないかもしれないし。
「アンジェは世界中の知識を手に入れられる魔法を持ってたからね。それでピクト領のこととか、辺境伯のこととか、色々と情報を入手してくれたんだよ」
「へー、世界中の知識を……ふーん。それは、なんというか………………えっ、ヤバくないすか?」
ナターリアはだんだんアンジェの固有魔法の偉大さを理解できてきたようだ。最初はお気楽な小鳥のような顔だったけど、次第に怪物を前にした小鳥のような顔になってきている。
「あっ、もしかして、代償があるんじゃないすか? 魔力の消費が凄いとか、1日につき1回だけしか使えないとか……」
「無いよ。使い放題。たまにわからない情報もあるけど、だいたいどんなことでも調べ放題」
「…………とんでもないっすね」
そう。そのとんでもない逸材を、世界は失ってしまったんだ。
あの子は絶対に、世界でも有数の魔法使いになれる天才だった。小さな村にこもっていていい存在ではなかった。だから、私は旅に出させた。
……その結果、こうなってしまった。私がアンジェを連れ出して、殺したんだ。私のせいなんだ。
そのくせアンジェを助けられずに、こうしてのうのうと生きて……ナターリアを助けることで、自分の罪から目を逸らして……。
…………落ち込んでいても仕方ない。話を戻そう。
領主であるニーナ・フォン・ピクトについてだ。
「ニーナ・フォン・ピクトは全身を魔道具で武装した大貴族。その怪力は、大岩を指先だけで持ち上げるほど」
「ぴえっ……敵に回したら、我々なんか骨さえ残らないんじゃないすか……?」
その通りだ。ナターリアの懸念は正しいよ。
私はアース村の悲劇で魔王を直に見たことがあるから、わかる。あれはまともに相手しちゃいけない、絶対的な強者だ。修羅場を潜った悪魔の私でも、あれには勝てない。
そんな怪物とまともにやり合って生きているなら、ニーナという貴族は本物の英雄だ。弱小悪魔を倒して英雄呼ばわりされている、どこぞの白き剣士とは大違いだ。
私はもう一度、壁際の物騒な建物を指す。
「あそこにも辺境伯は出入りするらしい。事件が起きた時のみ、戦力として辺境伯か群青卿……ビビアンが出撃。ちなみに、昼は辺境伯の管轄、夜はビビアンの管轄だそうです」
「ふーむ。魔物の襲撃事件が起きた時、あそこに行けば、ビビアンちゃんに会える可能性がある、と」
できればそうしたいところだけど、私たちには時間がない。貴族の人に追われている以上、いつまでもここにいられるとは思えない。
私が誰もいない後方を気にしていると、ナターリアは首を傾げる。
「魔物は気まぐれっすから……結局、追手が来るまでに魔物が出現するかの運試しになっちゃうんじゃないすか?」
「私が悪魔として乗り込んで、事件を起こす。これならビビアンを戦場に引っ張り出せるはず」
「えっ」
私が提案した作戦に、ナターリアとエイドリアンは絶句したまましばらく動かなくなる。
……こんな馬鹿みたいな作戦、普通はやろうと思わないからね。面食らうよね。
「……はあ。……はは。ははははっ!」
「おねえちゃん?」
急にナターリアが笑い出す。
エイドリアンが心配してナターリアを揺さぶると、彼女は開いている片目を擦ってから、私たちに微笑みを向ける。
真理を得た僧侶のような、穏やかだけど無機質な顔をしている。……あるいは、本当に悟ってしまったのだろうか。
「いやー、ニコルさんはなかなか生き急いでるなーと思いまして。あたいにそっくりです!」
そうか。ナターリアも結構生き急いでいる感じがするものね。大切なもののために自分を犠牲にできる人だ。
私はなんとなく思い立って、無言でナターリアに手を差し出す。
握手がしたい。この子との絆を確かめたい。そう思ったんだ。
前に一度共闘して、これからまた死地を共にしようとしている。そんな戦友と、確かな繋がりがあることを確かめたい。
「……へへへ」
ナターリアはちょっと照れ臭そうにはにかんだ後、おずおずと手を重ねてくれる。
今更照れる必要なんか無いのに。だって私たちは、大切な仲間なんだから。
エイドリアンは、カバンの中に引っ込んで出てこない。ただ私たちを、心配そうに眺めている。
〜〜〜〜〜
《ナターリアの世界》
ニコルさんの蝶のおかげで、具体的な移動経路を詰めることができました。
作戦手順、その1。
まず、ニコルさんが街から少し離れたところに出現し、魔力を纏う。
ここの領軍はこの国で最強……らしいんですけど、ニコルさんはエコーと殴り合えるくらい強いので、いつでも逃げられるくらいには余裕を持って相手できるはず。
ニコルさんにはこれ以上傷ついてほしくない。……無事だといいな。
作戦手順、その2。
ニコルさんが人目を引きつけている間に、あたいたちは人が減った裏通りをこっそりと進む。
魔物や悪魔の襲撃があった場合、非戦闘民は地下にある防衛施設に立て篭もることになっている。そう、この街の公共施設は地下通路で繋がっているんです。カッコいいっすね。
作戦手順、その3。
ニコルさんは正面から、あたいたちは裏口から、ビビアンちゃんを探す。見つけたら蝶で連絡してすぐに合流する予定です。
……まあ、作戦概要はこんなところですかね。
ビビアンちゃんと会った後のことは、まったく考えてません。
会って無事を確認できれば、それでよし。会話をして、ビビアンちゃんの状況を把握して、臨機応変に。
もしビビアンちゃんが旅への同行を望んだら、変身させた蝶で誘拐する。ビビアンちゃんがあたいたちと敵対するつもりなら……。できる限り、説得したいところです。
どちらにせよ、ビビアンちゃんに多大な迷惑をかけることになると思いますけど……あたいたちは居ても立っても居られないんです。あなただって、自殺で周りを振り回したじゃないですか。そのしっぺ返しと思って、諦めてください。
じゃあ、そういうことで……行きますか。
待ってろ、ビビアンちゃん。話したいことが山ほどあるんすよ。
あたいを置いて勝手に死んだ罰、償ってもらいますよ。
〜〜〜〜〜
《ナターリアの世界》
さて。
あたいは今、ドリーちゃんを連れてインバースの街に突入しております。
今頃ニコルさんは魔王の領土周辺の魔物を全滅させてから、ピクト領に向かっているはずです。
返り血を纏い、威風堂々としたあの姿で、人間の前に立つニコルさん。想像するだけで胸がドキドキ、目の前がチカチカしてきますねえ。うーむ、興奮する。
それに引きかえ、あたいは地味に暗闇を進むだけですよ。誰の印象にも残らず、ただ静かに、こそ泥のようにみじめな格好で、そろりそろりと……。
すると、後ろからついてきているドリーちゃんが、小さな声であたいに話しかけてきます。
「おねえちゃん」
「ぴえ? なんすかドリーちゃん」
「なんか、こっちきてる」
おお、頼もしい。
ドリーちゃんはサターンの街にいる間も、こっそり地下室を広げて街の様子を見ていました。だからニコルさんほどではありませんけど、街の中に枝を忍ばせて気配を感知するのが得意なのです。
あたいはドリーちゃんの示す方向に、ゆっくりと逃げていきます。
靴の裏を加工してもらったおかげで、足音が鳴りません。問題があるとすれば、このままでは日に日に落ちているあたいの体力が保たないくらいっすよ。
……あれ? だとすると、会えたとしても無事に帰れませんね。どうしたものやら。
……後で考えましょう。捕まって死刑になっても、その時はその時です。
事前の打ち合わせ通りに、あたいたちは基地から数区画離れたところまで近づくことができました。
ここからが本番だから、喜んではいられません。人の密度が一気に濃くなるわけっすから、気を引き締めてかからなければ。
「(屈強な男が1匹、2匹、3匹。使用人らしき女が1匹。……表に出ているのはこれくらいっすね)」
あたいは目視で人数を確認しつつ、ドリーちゃんに陽動の指令を出す。
「1個目、鳴らしてください」
「わかった」
ドリーちゃんは蝶が仕掛けた枝を魔力で乗っ取り、自分で操作して揺らす。場所は基地からちょっと離れたところにある屋根の上だ。
ニコルさんの完璧な擬態が剥がれて、ドリーちゃんのまったく擬態されていない魔力に置き換わる。これで熟練の魔法使いたちは反応するはずだ。
案の定、基地の入り口付近にいた戦士の全員が反応してそちらを向く。
「魔物!? いや、この魔力の濃さは……悪魔!?」
「市街戦だと!? 緊急事態だ!」
「辺境伯に至急連絡を!」
あ、緊急事態になると辺境伯も出てくるのね。夜の担当じゃないのに。ちょっと甘く見ていたかも。
すんません、大事件にしちゃって。ビビアンちゃんに会えさえすれば、すぐに終わりますので……。
入り口には男一人が残る。
あいつくらい、ドリーちゃんなら倒せる。でもドリーちゃんに人間を襲わせるわけにはいかない。ドリーちゃんは清廉潔白の完璧美少女なのだ。
そこで、あたいの出番だ。
正確には、あたいの体中に埋め込まれた肉体補助用の枝の出番。
こいつらはドリーちゃんの枝なわけっすけど、巨人を操作した時の応用で、あたいの体も操作できる。これのおかげで、あたいはボロボロの体でも常人と変わらない速度で歩けているわけっすね。
会話で誘導して、いざとなったらこれで抵抗する。完璧っすね。ニコルさんみたいに何人もボコボコにするのは無理っすけど、ひとりくらいあたいでも……。
あたいは男の人に近づいて、お客さん用の愛想笑顔を向けて注意を引く。
まずは舌戦だ。言葉で誘導できれば、儲けもの。
「あのー、お忙しいところ失礼します」
「なん……くせものっ!」
「ぴえっ!?」
あたいがうっすら纏うドリーちゃんの魔力に反応したのか、男の人は躊躇なく斬りかかってくる。
ああ、やっぱりあたい、悪魔祓いに見つかったら死んじゃう立場なんすね。人間だから見逃してもらえるだなんて、甘い考えでしかなかったわけです。
それにしても、か弱い女の子に剣を向けるなんて、なんて物騒な……。流石のあたいでもそれは予想外っすよ。もう少し我慢しなさいよ。
今死ぬのは嫌なので、抵抗するしかない。あたいは枝を一本使い捨てて、必殺の拳を放つ。
「『可愛いおてて』!」
あたいの目では追えない速度で腕が動き、男の人の顎を狙い通りにぶん殴る。
ついでにあたいの左腕はへし折れて開放骨折する。痛すぎて悲鳴を上げそうだけど、人が来ちゃうから、頑張って喉の奥だけで我慢する。
「ぴぃーっ……ぴぃぃーっ……。いちゃい……」
こうなってしまった以上、もう長期戦は無理だ。ビビアンちゃんの前にこんな姿で出ていくのは嫌だな。
あたいが痛みのあまりうずくまって悶えていると、物音に気がついたのか、建物の中から何人か人が出てきます。
さっき見た使用人の女性と、威厳のある風貌の老人だ。というか、ニコルさんを捕まえようとした人ですね、このご老体。聞いた特徴と一致してます。
「悪魔……!? クロムさん、これは一体……」
「ドーナ。下がりなさい」
使用人の人はドーナさん。剣を持ったガタイの良い老人はクロムさん。覚える必要はないけど、覚えてしまいましたよ。職業病ですな。
あたいが殴った男の人も、平気な顔で起き上がってきます。殺さないように手加減したのが悪かったんすかねえ。あたいはまだまだ経験が足りません。あと、目的のために人を殺す覚悟も。
「(そっか。あたいに足りないのは、覚悟か)」
じゃあ左腕、捨てちゃおうか。
そうでもしないと切り抜けられそうにないし。既にぐっちゃぐちゃで治せそうにないし。
さようなら、あたいの左腕。役立たずでどうしようもない、それでも大事な、あたいの一部。
素のあたいがもう少し強ければ、こんなことをせずに済んだのかもね。ニコルさんみたいに、強くて素敵な人になりたかったなあ……。
「『ドリーちゃんへの……」
「待って!」
あたいが異説魔法で腕を犠牲にしようとした瞬間、ドリーちゃんがいるはずの後方から声が響く。
可愛らしい、幼い女の子の声。どこか自信がなさそうな、それでいて芯に強固なものを抱えていそうな、震えた声。
あたいはこれに聞き覚えがある。その断末魔は、今でも耳の奥に残っている。
「アンジェちゃん……?」
あたいが振り向くと、路地裏から真っ黒な幼女が顔を出す。
黒い髪。黒い瞳。たった数日で見慣れて、あたいの思い出に焼き付いた、素敵な美の結晶。もう触れることさえ叶わないと、諦めていたのに。
死んだはずのアンジェちゃんが、そこにいる。
「オレの友達に、剣を向けないでください!」
アンジェちゃんはクロムさんの剣を見ると、かなり殺気のこもった声であたいとの間に割って入る。
守ってくれているのか。あたいの事情なんか、全然知らないはずなのに。もしかしたらあたいが悪者かもしれないのに。実際、この街を混乱させている悪い奴なのに……。
それでも、守ってくれるんすね。
アンジェちゃんはドリーちゃんより小さい体を精一杯使って、身振り手振りを交えて主張する。
「こちらはナターリア。サターンの街で知り合った、オレの友人です。例の騒動においても事態収束に尽力した、れっきとした人間の味方です」
「悪魔の魔力を纏っていますが?」
「ドリーの、せいです」
アンジェちゃんの更に後ろから、ドリーちゃんがおずおずと前に出る。
姿を見せてしまった。もはや作戦は遂行不可能だ。あたいにはどうするべきかさっぱりわからない。流れに身を任せるしかないのか?
途端、ドーナさんとクロムさんの雰囲気が、一気に剣呑なものになる。
親の仇を前にしたかのような、恐ろしい目つき。目の前のそれを、排除したくてたまらない目つき。
ドリーちゃんに敵意が向けられている。殺し慣れたその道の達人の眼光が……。
それでも、ドリーちゃんは臆さず声を搾り出す。
「ドリーは、あくま、です。でも、にんげんとなかよくしたいと、おもってます」
「戯言を……! 人に憑き纏う化生めが!」
「素人目にもわかります。あの子供からは尋常ではない魔力を感じます。なんておぞましい……」
クロムさんとドーナさんは、全身全霊の怒気を声に乗せて、小さなドリーちゃんにぶつけている。
感情のままに敵対しているように見える。けど、剣を構えて突っ込んできたりはしない。
つまり、まだ話し合いの余地はあると思っているんだ。戦う必要があるかどうか、疑問が芽生えているんだ。
あたいは折れた左腕をぶらさげて、アンジェちゃんに近づく。
こんな幼子に頼るのは、年長者として申し訳ない。でもここは、君に寄りかからせてもらいますよ。
「アンジェちゃん。あたいみたいな凡愚のこと、まだ覚えてたんですね」
「うわ、その腕……」
アンジェちゃんはあたいの左腕を見て驚愕を顔に浮かべつつ、答える。
「忘れるわけないじゃん。ナターリアはオレとビビアンの親友でしょ。そして……エイドリアンも、オレの友達だ」
……やっぱり、これはあたいの知っているアンジェちゃんなんすね。幻覚でも夢でも人違いでもなく……本当のアンジェちゃんなんすね。
ビビアンちゃんに会いに来たつもりが、先にこっちを見つけてしまうとは。とんだ奇跡があったもんですね。
あたいは衝動に駆られて、アンジェちゃんを抱きしめる。
のっぴきならない状況のはずなんだけど、あたいには堪え性ってものが欠けているので、すみませんね。
「アンジェちゃん……よかった……」
早くニコルさんに会わせてあげましょう。あなたの帰りをずっと待ってたんですから。
あなたがいなくなったニコルさんは、それはそれは痛々しいお姿になってしまったんですよ? 暗い顔をして、死にたがりになって、あたいと話してても常に死がチラついてて……。
あの人を幸せにしてあげてくださいよ。あなたならできるんでしょう?




