第7話『擦り減る心の周辺部分』
アンジェ。その容姿からアース村では『炭の小僧』と呼ばれていた、元少年。
彼はその体躯の小ささから子供扱いをされつつ、しかし基本的にはひとりで行動していた。
アース村の子供は、基本的に村全体で育てる。
出産は総出で手伝い、夜泣きをする頃は交代で寝ずの番をし、這い始めれば怪我をしないように常に見張る。意味のある単語を発し始めたら、早く言葉を覚えるように、近所を溜まり場にして会話を聞かせる。
村人の子孫は村の子供。子供の死は村の損失。アンジェたちの親も、そのまた親も、先祖代々そうして育てられてきたのである。
ところがアンジェは、唯一の例外だった。
村の人々とあまり関わることなく生きてきた。
彼は手がかからない子供だった。赤子の時こそ世話が必要だったが、異様な早さで言語を覚え、すぐに井戸端会議に参加し始めた。幼児とは思えない思考回路で、理知的に、利他的に振る舞った。
彼は人を避ける子供だった。最低限の家事や仕事だけ学んだ後は、それらを黙って、ひとりでこなした。新しい仕事を教えれば嫌そうな顔で従ったが、それらの成果を人前で発揮しようとはしなかった。
彼は奇妙な見た目の子供だった。黒い髪に黒い瞳。両親の遺伝ではない。そもそも村に同じ色の人間はいない。端的に言えば、アンジェは忌み子であった。
これらの要因により、アンジェが至った境遇は……ほったらかし。放置していても問題を起こさず、本人もそれを望んでいるが故の成り行きであった。
露骨に嫌われていたわけではなく、村も風習や責任を考え、一応気にかけてはいた。
だがそのような義務感を抜きにして、アンジェという個人と積極的に関わろうとした者は……両親を除けば、ニコルだけであった。
とても少人数の村に住む子供の扱いではなかったが、アンジェが5歳になる頃には、誰もがそういうものだと納得してしまっていた。
村八分にしているのと同じではないかとは誰も考えなかった。
結果として、アンジェという神童は……その才を腐らせ、人見知りの子供となった。
〜〜〜〜〜
《ニコルの世界》
何もかもを失った。目の前で、鼻の先で。
大好きなアンジェは、私を庇って死んだ。
村も悪魔も魔王も、もうどうだっていい。
死のう。アース村に帰って、命を絶とう。
幼馴染を殺した罰だ。苦しんで消えよう。
私はアンジェの下半身を抱き上げて、そのお腹に顔を沈める。
まだほんのり温かい。解体されたばかりの豚肉みたいだ。
そう考えると食べてみたくなる。食べようかな。アンジェはきっと美味しいよね。甘い香りがするし。
「……あはっ」
頭の片隅によぎったその狂った考えを、私は見逃さなかった。
何を考えてるんだろう、私。
みんなを燃やした時もそうだった。何もかも灰になっていくのを見て、興奮していた。
今もそうだ。アンジェの死体を見て、食べたいと思うだなんて。
私は正気が残っているうちに死体を手放して、からっぽになった両手を見る。
指に力を入れると、伸びて、曲がって、増える。
ああ、そうか。私はとっくに悪魔になってたんだ。
なりたくないと思っていただけで。なっていないと思いたかっただけで。
手遅れだったんだ。何もかも。人間でいようだなんて、おこがましい願いだったんだ。
「は、はは、あっはっはっは……!」
私は空を見上げて笑う。ひとつ声を発するたび、何年もかけて築いてきた自分が、崩れ落ちていく。
さあ、殺そう。自分を殺そう。村のみんなと同じところに行こう。アンジェという半身を見殺しにしたんだから、残った半分も殺してしまおう。
「あ、はは、はあ……はあ……。うう、ううう……!」
……吐き気が込み上げてくる。
どうしてこうなってしまったんだろう。なんでまだ不幸から抜け出せてないんだろう。なんでもっとひどい状況になっているんだろう。
「あのー、ニコル?」
幻聴がする。まあ、おかしなことではない。むしろ遅すぎたくらいだ。今の私はそれくらい弱っている。自覚はあるよ。
「ニコル、大丈夫?」
幻視もしている。最高だ。このまま村に帰るまで、ずっとそばにいてほしい。
そうだ、焼身自殺がいい。私の家があった場所で、アンジェに焼いてもらう妄想をしよう。素敵だ。あの炎に飲まれて消えるなんて。
「生きてまーす。おーい」
幻臭がする。都会で見た焼き菓子のように、甘くて良い香り。なんで最近のアンジェはこうも美味しそうなんだろう。昔はこうじゃなかったんだけど。
「……ニコル。気を確かに」
幻のアンジェが、私のおでこに手を当ててくる。
「んっ……んん?」
私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭いて、まじまじと目の前のアンジェを見る。
とうとう夢と現実の区別もつかないくらいおかしくなってしまったらしい。
それとも、もしかして……。
私はアンジェの頭をがっちり掴んで、口付けをしようとする。
幻じゃないなら最高。幻でも、束の間は幸せだ。
「あ、痛っ!?」
唇がちょっと裂けてしまった。慌てて手で拭ってみると、血が出ている。
噛まれた。いや、違うか。勢い余って、自分から歯に当たりに行ったんだ。馬鹿だなあ、私。
……いつもの妄想なら、こうはならないはず。自分の思い通りに、アンジェが何も言わなくなるまで、ぐっちゃぐちゃにしているはず。
これは現実だ。アンジェは目の前にいる。今も生きている。
アンジェは黙ってこちらを見つめている。突然あんなことをされても、あんまり動じていない。
「えっと、今の頭突きは?」
違った。驚きすぎて硬直していただけだった。
口付けだったとすら認識されていない。まあ、それもそうか。すごい速さでぶつかっただけだし。
なんだか愉快な気持ちになってきて、私は口元がニヤけていくのを感じながらアンジェの髪を撫でる。
手入れがなってないせいで、ちょっとパサパサしてきている。後で洗い方を教えてあげなくちゃ。
ああ、そうか。また教えてあげられるんだ。
「生きてた……生きててよかった……」
「……うん。ニコルも、生きててくれてありがとう」
アンジェはそう言って抱きついてくる。私がやろうとしたことを見透かしたわけではないと思うけど、愛が伝わったような気がして嬉しい。
今更気がついたけど、アンジェの服がなくなっている。大怪我をしたのは事実らしい。
あの状態から助かったということは……アンジェもまた、悪魔だったということかな。
「どうやって生き返ったの?」
私が涙声で尋ねると、アンジェはちょっと困った風に眉を動かして、私の足元を指さす。
「その前に、ここから離れよう。追手が来るかもしれないし、その……着替えもしたいし」
アンジェの指に釣られて足元を見ると……私は一気に、現実へと引き戻される。
シュンカの死体で、血塗れの肉塗れ。こんな姿じゃ死んでも死にきれない。
〜〜〜〜〜
アンジェとニコルは投げ捨てた荷物を拾い上げ、示し合わせたわけでもなくテキパキと行動する。
アンジェの血塗れの服は捨て、ニコルの汚れた服は魔法で洗い、さっと乾かす。
ニコルの心情を考慮して、無言である。こんな辱めを受ける羽目になったニコルに、かける言葉が見当たらない。
「(服もまた、村から引き継いだ大切な思い出だ。それが台無しになったら、気落ちするはずだ。しばらくはそっとしておこう)」
アンジェは哀愁漂うニコルの背中をそっと叩き、慰める。
その後、2人は迅速に隣村へと向かう。
人里に辿り着くまで、もはや一睡もできない。片方が寝ている状態で襲われれば、間違いなく各個撃破されてしまう。
今度は如何なる脅威も見逃さないように、ニコルは細心の注意を払って周囲を警戒している。
全身から茨のように尖った触手を生やし、花や果実に似た感覚器を増設したその姿は、まるで森の生命の化身だ。
「山猫……芋虫……蜥蜴……」
魔物はおろか野生動物すら見逃さず、肩を怒らせて目を見開いたまま歩いている。このような状況でなければ、病的な神経質にも見えてしまう様子だ。
流石に根を詰めすぎている気がするが、アンジェにそれを咎めることはできない。
1体いたなら、2体目もいるかもしれない。あの狼は隊を組んで行動することもできる魔物だ。
「(実際、先日襲ってきた魔王は……もっと大きなシュンカに乗っていた)」
アンジェは震えながら、ニコルに縋り付く。
こんな状況において、ニコルは救いだ。精神的にも現実的にも、ニコルは頼りになる。
魔法を万全に操れるようになったニコルの目を掻い潜ることは誰にもできまい。ただでさえ集中したニコルは恐ろしいのだ。
「(裁縫の最中に触ると、じとっとした目つきで睨まれる。胸が大きすぎてお腹より下が見えないし、重くて支えきれないから、机を使って変な体勢で裁縫してるんだけど……そのせいで、手元が狂うと危ないらしい)」
村での出来事を回想しつつ、アンジェはもちもちした頬をぺちぺちと叩き、気を引き締める。
ニコルは今も頑張っている。アンジェはアンジェにしかできない仕事をするべきだろう。
まず、例の魔物についての情報を、知識の海から更に収集する。何処から来て、どうやって監視の目を逃れたのかを把握しなければならない。
木々を見て、魔物の痕跡を分析することから始めるとしよう。アンジェにしかできない仕事だ。
〜〜〜〜〜
見晴らしの良い崖の上に来た。
そろそろ村が見えてくる頃かもしれない。そう思って、アンジェは遠景に目を向ける。
「ひっ!?」
なんとなく視線を向けた遥か遠くの崖の上に、爪痕を発見する。
件の魔物の足跡だ。
奴は人間が通れない断崖絶壁を越えてきたのだ。人の目を避けるためか、それともあの石像の死角を突くためか。理由は不明だ。
悪魔たちから『石登り』と呼ばれている理由は、ああいうことができるためか。
ふと隣を見ると、ニコルが全身から深緑色の葉を生い茂らせている。アンジェが悲鳴を上げたため、警戒を強めているのだろう。
いつのまに修行したのやら、ニコルの変形は幅が広くなっている。咄嗟に出せるものではないらしいが、あらかじめ用意できる手札が非常に多い。
「ニコル。敵襲じゃない。村を襲った連中が何処から来たのか、わかった」
「本当?」
アンジェは自分の知識で得た内容を、ニコルと共有する。
ニコルは何の感情も浮かんでいない目でそれを見つめ、虚無感に満ちた声で返事をする。疲れているのだろうか。無理もない。
「そっか。そこも見なきゃだね。……魔物や悪魔ってこんなこともできるんだ」
「こっち側はオレが見ておくよ」
ニコルの負担をこれ以上増やしたくなかったので、アンジェは崖側の警戒を買って出る。
その後、幸いなことに魔物が現れることは一切なかったが、どうにも生きた心地がしなかった。
〜〜〜〜〜
神経を張り詰めた旅の末、2人はなんとかその日のうちに隣村に到着することができた。
名前はマーズ村。アース村より主要な街道に近く、人口も面積も遥かに上回っている。
よその便利な品が舞い込んでくるので、アース村はたまにこの村に顔を出し、村では作れない物を物々交換で譲ってもらっている。
そしてこの村には茶屋と宿がある。毎日営業しているわけではないが、旅人をもてなすだけの備蓄は常にあるということを意味する。
つまるところ、2人の少女を数日間養うだけの余裕があるということだ。突然駆け込んでも、確実に助けてもらえる。
そう。助かった。……助かったのだ。
「村だ……」
「村だね。……うん、村だ」
2人はどっと疲れた表情で村人を探す。
肉体的な疲労は大したことがないが、精神的にはもう限界が近い。神経を尖らせた状態を、命の危機という劇薬で常に維持していたのだ。今のアンジェたちが人間ではなかろうと、流石に無茶が過ぎる。
「お、ニコルちゃんじゃないか!」
村の警備をしている男性が、ニコルを見て嬉しそうに声をかけてくる。
ニコルにとっても彼は顔見知りなのだろう。村に来るたびに彼の顔を目にしているのかもしれない。今のような具合で。
「……着いた」
ニコルは彼の顔を見た途端、その場に座り込んでしまう。安心して力が抜けたのだろう。
彼女の様子を見て、村人はぎょっとした様子で駆け寄る。人が良さと、警戒心の無さが垣間見える動作だ。この村に魔物は来ていないらしい。
「お、おい……どうした? 他に人はいねえのか?」
「いません」
アンジェはニコルの背後からどんよりした声を発する。
ただでさえ緊迫した表情に生来の人見知りが上乗せされ、目に映る者全てを刺し殺しそうな気配を漂わせ始めている。これは良くないと思いつつも、今のアンジェには訂正する気力がない。
アンジェの外見が大人であれば、ニコルや村を狙う暗殺者に見えたことだろう。だが、アンジェはまだ幼い子供である。
男は全てを察した顔になり、備え付けられた鐘を鳴らして応援を呼ぶ。
「集合! 集合ー!」
こうして、アース村を襲った悲劇は、その日のうちに村中に共有された。




