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第65話『洗剤、選択』

 《ビビアンの世界》


 ぼくは今から、アンジェに懺悔する。

 アンジェを目覚めさせるために用いた、最低最悪の手段を開示する。

 そうしてようやく、ぼくは裁かれる権利を与えられる。大切な友達の手によって、断罪される権利を。


 ……ぼくは眠っているアンジェの純潔を台無しにした。

 理由はただひとつ。そうしなければアンジェを目覚めさせられないと思ったからだ。


 魔物は似た動物に魔力を与え、改造と洗脳を行い、同種の魔物に変える。つまり、魔力で生殖する。

 それを応用すれば、アンジェの意識に接続して表層に引っ張り上げることができると思ったんだ。


 実際、ぼくの魔力はアンジェの意識の中に「川」として出現したらしい。それによって、アンジェはこの世に戻ってくることができた。成功だったのだ。


 それはそれとして、アンジェは人として大切なものを失った。紛れもない事実だ。

 成功だったから許してくれだなんて、言うつもりはない。ぼくがやったことは、ただの暴行。過失でも、酌量の余地ありでも、罪は罪だ。


 ごめんよ、アンジェ。アンジェは賢いから、ぼくにされたことの意味を、すぐに理解してしまうと思う。だから……遠慮せず、ぼくを裁いてくれ。


 友達でなくなるのは寂しいけど、ぼくが悪いんだ。アンジェの言うことに従うよ。


 〜〜〜〜〜


 アンジェは寝巻きのまま、うきうきと楽しい気分で浴場へ向かっている。


 昨日はずいぶんと緊張し続けていたが、結果的にはなんとかなった。屋敷に滞在する許可をもらい、やろうと思えばビビアンのように地位をもらえる立場にもなれた。上出来以上だ。


 それもこれも、ビビアンのおかげだ。目覚めさせてくれたのもビビアン。この屋敷の面々との間を持ってくれたのもビビアン。彼女が先にこの街で活躍していなければ、こうはいかなかっただろう。


 人間関係に恵まれている。アンジェはそう思う。周りの力で、自分は生きている。生かされている。

 ならばこれからも、隣で守ってくれる人のために生きよう。短い腕で守れる範囲にいる人間を、精一杯助けていこう。


「こっちだよ、アンジェ」


 ビビアンが示す扉は、ビビアンの部屋から比較的近い場所にある。

 あまり大きくはない、廊下の片隅にひっそりと備え付けられている扉。決して豪華ではない、何の変哲もない屋敷の一部だ。


 広い屋敷の中を歩き回るかと思っていたので、アンジェは驚く。


「もう着いたの?」

「本来は使用人に洗ってもらうんだよ。按摩とかも兼ねて。だから使用人の待機部屋に近いんだ」


 使用人の部屋は紹介されなかったが、どうやらビビアンの自室に近いようだ。


 ……当初のビビアンも使用人に毛が生えた程度の扱いで、そこから這い上がったということだろうか。

 これほど広い屋敷なら部屋が余っているはずだが、ビビアンは今の場所を気に入っているのだろう。


「(ピクト家の人たちはもっと上にいるんだけど、あんまり近づきたくないのかな……。それともお風呂が好きなだけ?)」


 いや、今は詮索する場面ではあるまい。余計なことを考えず、ビビアンとの触れ合いに徹しよう。


 アンジェはビビアンから渡された着替えなどの一式を持って、ビビアンと共に浴場へと足を踏み入れる。


 2人を出迎えるのは、簡素な石の床と、使用人が使うための道具の数々。

 意外なことに、湿り気は少ない。利用者が少ないのだろうか。それともお湯を張ったあと、すぐに引き上げているのだろうか。


「(思ったよりワクワクしない……)」


 なんとなく、生々しさがある。

 別世界に足を踏み入れたような期待感が何もない。体を清潔にするための場所だというのに、片付け忘れた掃除用具が隅に置いてあるからだろうか。それとも廊下より地味な外見だからだろうか。


 ……ここはまだ風呂場そのものではない。拍子抜けするには早すぎる。感想を言うのはやめておくとしよう。


「あ、いつもは使用人の人たちがぼくらの服を片付けるんだけど……まあいいや」


 普段とは流れが違うためか、ビビアンも勝手がわからなくなっているようだ。

 使用人に物の片付けを頼むビビアンはあまり想像がつかないが、爵位を持つ貴族ともなれば、人を使って当然なのだろう。


「(ひとまず、脱ぐことにしよう)」


 アンジェは薄い寝巻きに手をかけ、傷つけないよう気をつけつつ、体から取り除く。

 透き通るほど繊細な生地。きっとこの寝巻きも高価なのだろう。丁寧に扱わなければ。


 ビビアンも色違いの寝巻きを脱いで、木製の網籠に畳んで入れている。

 アンジェもそれに倣い、同じ畳み方で同じ籠に服を突っ込む。


「オレ、大きな浴場は初めてなんだ。もう待ちきれないよ!」

「焦らない焦らない」


 アンジェがビビアンのすべすべした背中を押すと、彼女は肩甲骨で反発しながら、壁一面に広がる一際大きな扉に手をつける。


 蝶番が軋む音と共に、開かれた扉の向こうから光が差し込んでくる。


「おお……!」


 奥から現れたのは、真っ白な空間。

 白い魔石を丹念に削って作った、巨大な浴場。窓には採光のために大きめの色硝子が嵌められている。湯は張られていないが、満たせば蒸気と光でとても綺麗な光景が広がることだろう。


「よっ、と」


 ビビアンは自らの魔法で水を張り、義手を露わにして浴槽の淵に手をかける。

 彼女が義手に内蔵された火の魔法を起動すると、凄まじい熱気が漂い始め、一気に浴槽から蒸気が立ち昇り始める。

 ビビアンの義手だけしか加熱の方法がないとは思えないため、本来は魔道具を使うか、地道に焚き火をして温度を上げていくのだろう。


 知識の海によると、庶民の風呂屋は大規模な炎を使う料理屋や鍛冶屋などに併設されているらしい。ここの浴場も、普段はそのような方法で運用されているはずだ。


「すぐには触らないほうがいいよ。この方法でやると浴槽が熱くなっちゃうから」

「触れたら火傷する?」

「する。したことがあるからわかる」


 ビビアンは火傷した時のことを思い出してしまったのか、反射的に手のひらを見つめた後、ハッとした素振りでアンジェに提案する。


「……まずは水で体を清めようか。冷めるまで時間があるし」


 ビビアンは桶に水を入れ、まずそちらで行水を行うよう促す。


 先ほどから無詠唱で水を生み出し続けている。水魔法において彼女に勝る者はいないと思えるほど、その規模も練度も尋常ではない。水の才能がないアンジェがいくら努力しても、ビビアンの領域には至れないだろう。


 ……それでも、優れた技を見ると、自分もとりあえずやってみたくなるのが魔法使いの性質である。


「ビビアンは凄いなあ。よし。オレもちょっと出してみるか。むむむっ!」


 アンジェは無詠唱の水魔法を使い、桶の中に冷水を追加しようとする。


 ……だが手のひらほどの大きさの球が落ち、水嵩が増すだけ。溢れることさえなく、水面が揺れて、それで終わり。

 途方もない広さの浴槽をお湯で満たせるほど、アンジェの水魔法は強くない。


「ふう。ビビアンには全然届かないや」

「得意分野で負けるわけにはいかないからね」

「いいなあ。旅してる時、水が欲しい時に全然出せなくて困ったもん」

「炎と水は旅のお供だからねぇ。水魔法のぼくと火魔法のアンジェが組んだら最高……」


 ビビアンは途中まで機嫌良く相槌を打っていたが、不意に真顔になって会話を打ち切る。


「あ……で、でも、いまのぼくは子爵だから、旅は出来ないや。それに、アンジェにはニコルがいるから、ぼくなんかじゃ釣り合わないかも」


 ビビアンはやけに自分を過小評価している。確かにアンジェにとって人生の相棒はニコルしかいないが、ビビアンが旅の仲間として劣っているかどうかはまた別の話だ。


 ……風呂に誘ってきたあたりから、ビビアンはどうにも様子がおかしい。実は風呂が苦手……というわけではなさそうなのだが……。

 もっと絡みに行くべきか。友達が困っている時に助けるのが友達だ。アンジェにできることは、場を盛り上げて励ますくらいだが……それでもいい。やろう。


「ねえ、ビビアン。どうやって洗うの?」


 アンジェは桶の中であぐらをかき、髪を布でまとめながら、経験者のビビアンに尋ねる。


 ビビアンは花の香りがする石鹸を手渡しつつ、きょろきょろと周囲の様子を確認している。


「いつもは使用人が洗ってくれるんだけど、そうもいかないから……村にいた時みたいに、自分で手洗いかな。ごめんねぇ」


 その言葉を聞いて、アンジェの脳内に天からの閃きがほとばしる。


「そうだ。オレとビビアンで洗いっこしよう!」

「んみぃ!? そ、それは良くないよ!」

「オレとビビアンの仲じゃん。今更遠慮しなくてもいいよ」


 アンジェは浴場に置かれた寝台に寝そべる。


 木製のはずだが、寝心地が良い。よく見ると、これは魔道具のようだ。

 水の魔法を応用して防水加工を施し、土の魔法で上に乗った人の体型に合わせて形状を変化させる仕掛けを組み込んである。


 きっとビビアンが作った物だろう。万人に寄り添う設計で、たいへん素晴らしい仕上がりだ。


 アンジェはうつ伏せになり、脚をパタパタと動かしてビビアンを急かす。


「は、や、く!」

「……ぼくで、いいの?」

「ビビアンだからいいの!」


 友人に体を触られるくらい、なんてことない。ビビアンは異性愛者であり、アンジェの体に興奮するほど性癖が歪んでいるわけでもないはずだ。

 せっかくの機会なのだから、楽しまなければ。アンジェは友達との交流に飢えているのだ。


 ビビアンは手で石鹸を泡立てつつ、ぺたぺたと足音を立てながらこちらに向かってくる。

 緊張しているようだ。危険があるわけでもないだろうに、大袈裟なことだ。


「じゃあ、ぼくが洗うね……。嫌だったら言ってね」

「何処からでもいいよ」


 ビビアンはまず、アンジェの足から洗い始める。


 足の裏。人体で最も酷使されている部位のひとつ。

 ビビアンはそうと知ってか、指の腹でぐいぐいと肉を押し始める。


「お、おおおおっ!?」

「痛い?」

「いたきもちいい!」


 これは揉み療治というやつだろう。体を揉んで刺激を与え、免疫や神経に働きかけて健康にする術だ。


 ビビアンは専門的な技能を持っているわけではないようだが、気持ちよさという点ではかなり上手いように感じられる。痛みを伴ってはいるが、通り過ぎると凝りがほぐれたような心地よさだけが残る。


「ビビアン……じょうずだね……」

「あ……ありがとう」

「あ、そこ……もうちょっとつよく……くおーっ!」


 アンジェは笑い声が混じった悲鳴をあげ、ビビアンの意外な能力に感心する。


 おそらく、彼女の父親であるノーグにも、よくこの特技を披露していたのだろう。人間の身の長旅では、ずいぶん助かっていたに違いない。


 アンジェの足は揉まれながら石鹸で洗われていき、指の間までしっかりと綺麗になる。

 そこからくるぶし、すね、ももへともみ洗いの手は移り、次第に上部へと近づいてくる。


 アンジェの上に乗り、体重をかけて太ももの裏側を強く揉みながら、ビビアンは尋ねる。


「ねえ、アンジェ。本当にいいの?」

「んー? 何が?」

「ぼくに、体、任せちゃって……」

「別に、変なことしないでしょ?」


 ビビアンは踊り子をしていたが、線引きはしっかりとしている人だ。手は出さないし出させない。彼女の貞操が非常に堅牢であることは、ナターリアから聞いてわかっている。

 もちろん、アンジェの貞操にも関与する気はまったくないはずだ。そうすると人間関係が壊れてしまうことを、よくわかっているのだから。


 ……ところが、アンジェは不意に寒気を感じる。

 風呂場にいるというのに、全身から熱が引いたような感覚がある。

 これは本能的な予知だ。この先に見てはいけない、聞いてはいけないものが待っているという予感だ。


 何故そんな予感がしているのか。先ほどの話題と、これまでのビビアンの態度から察することができる。


「オレが寝てる間に、変なことした?」


 たった一言。それだけで、ビビアンはみるみる青ざめていく。

 図星という表現がよく当てはまる。これほど素直な反応をされると、いっそ気持ちがいいくらいだ。


 取り返しのつかない悪戯をしてしまい、それを隠そうとする子供。アンジェはビビアンの急変を見て、そんな印象を抱く。


「たぶん怒らないから、言ってみて」

「怒るよ。怒ってください。でないとぼくは、自分を赦せそうにないから」


 あのビビアンをしてそこまで言わしめるか。

 アンジェは己の中にある強烈な寒気が正しかったことを理解して、息を呑む。


「そんなに酷いことをしたの?」

「うん……。言わなきゃいけないと思って、ここに来るまで黙ってた。ここならわかりやすいし、大声を出さなければ誰にも聞かれないと思うし……」


 そしてビビアンは、石造りの床の上に正座し、寝台に横たわるアンジェより低い位置に頭を持ってくる。


 土下座の一歩手前だ。彼女はこれから、身を投げ出して謝罪しようとしているのだ。アンジェも土下座に慣れているので、よくわかる。


 アンジェはただ沈黙を保ち、その時を待つ。


「ぼくは……眠っているアンジェを起こすために、ある方法を採りました」


 ビビアンは頬をふるふると震えさせながら、義務感と罪悪感で無理矢理口を動かして、告白する。


「魔物の生殖方法を応用し、アンジェの体に魔力を流し込んで、一時的に制御下に置く方法です」


 それで魔力の川が現れたわけだ。アンジェは体験を振り返って、知識の海と照らし合わせる。


 魔物の性質を救命に利用するとは。アンジェとしても目から鱗だ。まさに天才の発明と言えよう。ビビアンという魔法使いの才能が窺い知れる。


「凄い方法だと思うよ。オレじゃ思いつかないよ」

「やっちゃいけないんだよ。思いついちゃ駄目な方法なんだよ」


 ビビアンはいよいよ泣き出してしまい、問題の根幹を口にする。


「アンジェはもう、穢れてしまったんだ。ぼくの手で奪われてしまったんだ」

「なるほど。奪われて……なるほど?」


 アンジェはビビアンの言葉を頭の中で反芻し、徐々に徐々に、胸の内を暗くしていく。


 ビビアンはここに至って歯切れが悪く、曖昧な言葉ばかり口にしている。だがアンジェなら推測できる。

 わざわざ風呂場にやってきた理由。ビビアンが青ざめている理由。はっきりとは口にできない理由。


 おそらく、同意のない()()が行われたのだろう。


 ……それは確かに問題だ。大抵の領地で罪になる。

 いや、たとえこの領地で許されたとしても、アンジェにとっては死活問題だ。なにせ、ニコルにまだ渡せていないのだから。指を入れるには狭すぎて。


「(オレのはじめては、ニコルに……大好きなニコルにあげるつもりだったのに。そんな、まさか)」


 アンジェは寝台から身を起こし、水を入れた桶にゆっくりと足をつける。

 そこで先ほどと同じように、またあぐらをかいて、背を丸める。

 主に脚がよく見える。このまま手を動かせば、体の隅々まで汚れを落とすことができるだろう。


 ……しかし。

 ……どんなに洗っても絶対に落ちないだろう経歴の汚れが、そこにあるらしい。


 アンジェは水面を操って鏡のように活用し、自分の体を確認する。


「………………うん」


 アンジェは元男であり、自分の肉体をよく把握してこなかった。そのため自信をもって断言することはできないが、きっとこれは、そう、ビビアンの言う通りだ。

 ビビアンの魔力がこもった水が、体内に注入されている。言い訳のしようがないほど、たっぷりと。おそらくは、口にしようがない方法で。


「人間の指が無理でも、水の体なら……そうか……」


 指摘されるまで気がつかなかったが、ニコルの目なら一目瞭然だっただろう。粘膜や皮膚が傷ついているため、他者ならもっとはっきりわかるはずだ。


 ……なんということだ。


「ビビアンの証言と一致しているね」


 アンジェはのろのろと、幽霊のように立ち上がる。

 放心している。想像以上の衝撃を受け、身構えていた以上に激しい苦痛を感じている。


 ビビアンの悪戯という先入観があり、悪戯の範疇に収まる程度だろうと、無意識にたかを括っていた。


 だが、これは……これは……。


「(愛する人がいる全ての女性にとって、最悪の被害だろう。一生許せないと言う人もいるはずだ。オレにとっては……どうなんだろう)」


 まだ受け止めきれていないが、この後ビビアンを見てどのような感情が湧いてくるのか、知るのが怖い。


 アンジェはのそのそと移動し、平伏したままのビビアンのそばに立つ。


 ビビアンは頭を上げない。額をぴったりと床につけたまま、顔を浴室の蒸気で濡らしている。

 ……それとも、この水滴は、流した涙によるものだろうか。


 アンジェは片膝をつき、声をかける。

 冷静に、無感情に。悪い感情が昂らないよう、落ち着いて。


「ビビアン。オレの方を見て」

「……はい」


 濁った瞳と、ようやく目が合う。

 避けられない死を前にしたような表情をしている。


 いや、かつて自ら死を選んだ者に対して、この表現は適切ではない。ビビアンという少女にとって、アンジェの心を抉ることは、死よりも耐え難い苦しみなのだ。


 ……アンジェはビビアンの価値観を、少しだけ理解する。

 父親の死を受け、後を追うことを選んだ彼女。たった数日の付き合いしかない少女のために、何ヶ月も身を粉にして働く彼女。

 大切なものに対する愛が深いのだ。その手に何も留めることができない生活を長く送っていたため、距離感を見失っているのだ。


 気に入ることにも、気に入られることにも、慣れていない。それがビビアンだ。


「(オレも似たようなところがあるからな……)」


 出会ったばかりのナターリアに対し、ずいぶん手厚い対応をしたことを覚えている。きっとアンジェも、ビビアンと同類なのだろう。


 アンジェはニコルと結ばれ、今を生きている。ビビアンはノーグとすれ違い、死別した。

 結果の違いはあれど、過程は似通っている。そこにあるのは、狭い世界で生きる2人の、惜しみない愛。


 ならばアンジェに取れる行動は、たったひとつ。

 ビビアンの心に、自分の情で返す。それだけだ。


「オレはビビアンを責めないよ」


 アンジェはビビアンを軽く抱きしめる。

 想いを伝える方法が、他に無い。アンジェもまた、不器用なのだ。


 しかし、これこそが最善だ。どれだけ知識を探っても、これ以上は存在しない。アンジェはそう信じている。


 腕の中で困惑するビビアンに向けて、アンジェは強く宣言する。


「大切な人に渡せなくなったのはつらいけど……ビビアンが貰ってくれたなら、それはそれでいいんだ。だってオレにとってのビビアンは、生き返らせてくれた命の恩人で、大事な親友だから」

「……だめだよ、アンジェ。ぼくを甘やかさないで」


 赤子のように弱々しいビビアン。声でアンジェを遠ざけながら、体はしっかりと密着している。


 アンジェは意識が混ざり合う感覚を検知する。

 自分がアンジェなのかビビアンなのか、認識できなくなる奇妙なひと時。


「魔力……。ビビアンの中に、オレの魔力が。オレの中にも、ビビアンの魔力が……」


 魔力を通して、お互いを救い合った証。

 ならば少しだけ、誇らしい。


「ぼくはアンジェを汚してしまった。汚い水を流し込んでしまった」

「汚くなんかないよ。ビビアンの体は、これでできてるんでしょ?」

「だからこそだ。ぼくは汚れてる。汚い人生を歩み、汚い手段で生きてきた。こんなぼくを、受け入れちゃ駄目だ!」


 ビビアンはアンジェの肩に顔を擦り付けている。

 自分を否定しながら、他人に寄りかかっている。


「旅の中で何人も殺した。盗みもやった。嘘だってついた。汚れてる。同じ罪を背負った父親以外に、拠り所なんて無いんだよ。求めちゃいけないんだよ!」


 それがビビアンの心の最奥にあるものか。それがビビアンの価値観を形作っているのか。


 ……いや、違う。心と称するにはあまりにも一面的で、後ろ向きだ。

 それだけではないはずだ。愛という営みは、こんなにも狭苦しいものではないはずだ。


 アンジェは咽び泣くビビアンの顔を、そっと洗う。

 ビビアンが生み出した綺麗なお湯に、自らの水魔法を少し混ぜて。


「オレも同じだよ。悪魔になった人間を何人も手にかけた。そんなオレは、ビビアンにとって、汚いものに見えるかな」


 ビビアンは首を振る。


「アンジェは素敵だよ」

「そう見える? なら、ビビアンも素敵なんだよ」

「そんなはずない! ぼくは許されちゃいけない!」


 ビビアンは激しく暴れ始める。


「生まれた時から罪人で、姿さえも盗品で! ぼくはこの世にいちゃいけない存在なんだ!」


 死体を乗っ取り、生まれた過去。アウスという魔物の原罪。


 ビビアンが誰を依代にして生まれたのか、アンジェはまだ知らない。それでも、誰が犠牲になっていたとしても、きっとビビアンを肯定するだろう。


 何故なら、ビビアンはもう、ここにいるのだから。


「ビビアンが作った物で、救われる人がいる。ビビアンが切り拓いた道を、歩く人がいる。オレにとってはそれで十分だ」

「ぼくのせいで、苦しんだ人たちがいるのに?」

「その人たちも大事にしたくなるようなすっごい物、たくさん作ればいいと思うよ。長い人生の終わりが来るまでに、残された時間で」


 ビビアンのせいで何かを失い、それでも救われたひとりとして、アンジェは彼女の行いを肯定する。


「怒る人もいると思うけど、オレは許すよ。オレだって色々失いはしたけど、それよりもっと価値のあるものをもらったから」


 自分の命と、自分と関わるあらゆる人たちの人生。それらに比べれば、この身の尊厳くらい安いものだ。


 ニコルは烈火の如く怒るかもしれない。だが、なんとかして宥めよう。下げられた頭を踏みつけるほど、ニコルは情のない人じゃない。


「う、ああ……アンジェ……アンジェぇぇ!!」


 ビビアンは涙している。大きな声で、ありのままをさらけ出している。

 声が外に漏れているが、取り繕うこともしない。心に溜まった膿を吐き出し、新しくなろうとしている。


 アンジェはただ、静かに少女を受け止める。

 それが彼女のためになると信じて。


 〜〜〜〜〜


 《ビビアンの世界》


 ぼくは父……魔導師のノーグが大好きだった。

 彼のために生きていると思っていた。


 だからノーグが死んだ時、何もかもを失ったと思っていた。自分に生きる価値なんかないと思っていた。

 村も、友達も、生きる理由にはならなかった。


 だけど、ぼくはようやく気がついた。

 ぼくが生きた痕跡が、川になっている。ぼくが引いた川で、助かる人がいる。


 綺麗ではないかもしれない。飲み水にはならないかもしれない。それでも、生き物は住むし、船は通る。絵に描いてもいいし、畑に撒いてもいい。

 たまに人を押し流したりもする。大雨が降れば、耐えきれずに暴れ出す。でも流れを止めてはいけない。同じ過ちを繰り返さないよう工夫するべきなんだ。


 ぼくの人生は、川に似ている。

 ……アンジェのおかげだ。アンジェがぼくに、教えてくれたんだ。


 ありがとう、アンジェ。

 奪ってしまった償いを、一生かけて頑張るから。

 だから、これからも……どうかよろしくね。


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