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第62話『生を得る』

 《ビビアンの世界》


 その日の夜。

 ぼくは久しぶりに自室に入る。


 もう何ヶ月ぶりだろう。使用人に掃除させていたから、汚れてはいないけど……物が消えていたとしてもおかしくはないな。別にいいけど。


「おかえりなさいませ」


 呼び鈴を鳴らすと、堅物の女性使用人が現れ、ぼくに頭を下げる。

 雇ってだいぶ経つのに、ほとんどはひとりで掃除させていただけだ。酷いことをしてしまった。


 ぼくは湿り気が失せた部屋の空気を吸い、彼女をねぎらう。


「ただいまぁ。大変だったかなぁ?」

「楽でしたよ。少なくとも、ラインさんよりは」


 ……まあ、それもそうか。彼には迷惑をかけっぱなしだからね。


 ぼくはふかふかの寝床に倒れ込み、優しい温もりに包まれる。

 すると、堅物使用人はぼくを抱き起こし、子供にしつけるような口調で進言する。


「寝巻きに着替えてください」


 まあ、当然の指摘だね。


 ぼくは着替えさせられながら、ふと思う。

 彼女は以前の勤め先では、子供の世話をしていたはずだ。ぼくのことも、人間の子供として扱っているのではないだろうか。


 ぼくはゆるい寝巻きの肌触りを確かめながら、彼女に尋ねる。


「ぼくのこと、どう思う?」

「追い込みすぎです。お嬢様の精神状態は口調が間延びしているほど余裕があり、早口になっていれば余裕がないのです。わかりやすいですね」

「おぉ……本人の前でそれ言うのかぁ」


 この人の名前は……そうだ、ドーナだ。やっと思い出したよ。

 ドーナはこう見えて、ぼくのことをちゃんと見てくれているんだね。ちょっとだけ気が楽になったよ。


 〜〜〜〜〜


 《ビビアンの世界》


 就寝後。

 暗い部屋の中、ぼくは突然の来客に飛び起きる。


 もぞもぞと動く気配。人型で、ぼくを狙っている。

 闇に紛れていれば気づかれないとでも思ったか。


「くせものっ!」


 寝込みを襲われるのは初めてではない。旅していた頃は何度もあった。魔物にも暗殺者にも命を狙われ、いつのまにか少しの物音や空気の揺らぎで起きる能力が身に付いた。


 ぼくは魔物特有の夜目を活かして距離を取り、戦闘のために義足を全開で起動する。

 部屋が荒れるかもしれないけど、どうせ普段はここにいないんだ。ちょっとドーナの仕事が増えるだけ。


「くたばれ」


 ぼくは義手から無詠唱で土の魔法を放ち、襲撃者にぶつける。

 狙うは脚だ。生身ならもげる。鋼の鎧を着ていても重傷だ。


 だが襲撃者は発射された石を片足で蹴り、影に溶け込んだ体を素早く歪ませて飛びついてくる。

 速い。速すぎる。人間にできる動きではない。


 ……いや、この速さは大剣士アルミニウスでさえも実現不可能だ。ということは、彼より運動能力で優れている者。


「ニーナかよぉ……」


 ぼくは両腕をがっちり掴んで拘束してくる辺境伯の顔を見て、ため息をつく。

 紛らわしい行動をしないでほしいものだ。並の貴族だったら大変な事態になっているところだ。ニーナが強者でよかったよ、本当に。


 ニーナは体重をかけてぼくを床に拘束し、いつもよりほんの僅かに頼りない声で語りかけてくる。


「ぐんじょー。ぐーんじょーう。何の理由があって我が洞窟を視野から外れさせるのだ……!」

「行く理由ないじゃん」


 ぼくがニーナの部屋に行く目的は、ニーナとの歓談かお茶くらいだ。今のぼくにとっては、どちらも優先順位が低い。


 というか、そんなことのためにわざわざ来たのか。普通に誘っても来ないからって、ここまで強引な手段に打って出ることはないじゃないか。


 ニーナのつるりとした魔道具の体を押しのけ、ぼくは眉間に寄った皺を自分で揉んでほぐす。


「ニーナも知ってるでしょ? 工房で眠るアンジェのこと」

「歳である」

「ぼくはあの子を助けたいんだよ。そのためには時間を無駄にできないんだ。お茶会は好きだけど、今はそういうことをしてる場合じゃない」

「例の死神か。それほどまでに身を滅ぼしたいのだな群青は! 空が泣くぞ!」


 は?

 死神?

 身を滅ぼす?


「死神……それは、アンジェのこと?」

「例によって答えであるぞ」


 ふざけるな。

 その呼び方は許さない。


「訂正しろ。アンジェはいい子だ。不幸を呼んだりしないし、ぼくを滅ぼしたりもしない」

「群青? かの悪しき黒印の魔なる力は、まさしく故を思わせる冥界の香りであり……」

「それで?」

「……実った果実たちは、よく香りを弄んでいる」


 ぼく以外はみんな、死神呼ばわりしてもいいと言っているのか。

 ピクト家も、使用人も、みんなみんなみんな。


 ……ぼくがあの子を目覚めさせれば、評価は変わるだろう。魔道具の服を着て、普通に会話するようになれば、ただの女の子だってわかるはずだ。


 いや、ただの女の子じゃない。とびっきり可愛くて人懐っこくて、たまに怖がりで、英雄譚が大好きな、可愛さの塊みたいな女の子だ。


 彼女は断じて、死神なんかじゃない。


「クソが!」


 もう我慢ならない。アンジェの心配をしながら明日を迎えるのはもうたくさんだ。


 決着をつけよう。手段を選ばず、アンジェを叩き起こそう。


「どいつもこいつも寝たきりの少女を好き放題罵倒する人間のクズばっかりだ。今に見てろよ、クソ溜まりのカスどもめ」

「汚物!? それはわたくしも!?」

「今後のニーナ次第かな。……ぼくは行くよ」


 ぼくはニーナの腕を強引に振り解いて、真っ暗闇の廊下に出る。旅の中で培った音を立てない走り方で、駆け抜ける。


 ニーナも大慌てで後ろからついてきている。

 まあ、工房に自由に出入りできる人だし、立ち会ってもらってもいいかもね。後から入って来られるよりは、ずっといい。


 ぼくは工房の鍵を開けて、アンジェが眠っている奥の部屋に急ぐ。

 扉を開け、もはや見張りすら置かれず放置されたアンジェに駆け寄る。


「アンジェ……!」


 床に落ちている物を踏みそうになり、時折爪先立ちを駆使しつつ、ぼくはアンジェの体に触れる。


 柔らかく、温かい。生きている。アンジェは生きているんだ。得体の知れない死神なんかじゃない。


「アンジェ。来たよ。今度こそ、君を起こしてあげるからね。……今まで、よく耐えたね」

「群青……それほどまでに……」


 ニーナは見たこともない激しいしかめ面になって、アンジェを凝視している。


 ともすれば攻撃しかねない雰囲気を感じるけれど、ニーナがそういう人ではないことを、ぼくは知っている。

 悪魔の魔力がきついんだろう。わかるよ。アンジェをよく知るぼくでさえ、身の危険を感じることがあるからね。

 ……それでも、その反応は傷つくよ。ぼくの友達を邪険にしないでくれ。


 ぼくは立会人のニーナに向けて、今回の実験の内容を説明する。

 途中で止めに入られても困るから、あらかじめ納得しておいてもらわないと。


「これまでの実験の流れとは関係ないから、ざっくりと説明するよ」

「解した」


 やたら緊張した顔で頷くニーナに向けて、ぼくは寝起きの頭を回転させ、単純かつ明確な言葉を探す。


「ぼくの体にはアンジェの魔力があった。というか、今もある。これは承知しているね?」

「旬であるぞ!?」


 知らなかったのか。まあ、大っぴらに言うようなことではないし、知らなくてもおかしくはないのか。


 ぼくは深く深くため息を吐き出し、ぼくの魔力について一から解説する。


「ぼくは一度死んだ。死んで川に流れ着いた。これはニーナも覚えてるよね?」

「赤き絨毯を敷いた日のことである。定規によって我が道は直線となった」

「ぼくは生まれ故郷で川に身を投げて死んだ。だから川の雑多な魔力を取り込んでしまったんだけど……それ以外にも、アンジェの血痕を吸い上げていたから、その魔力が混ざったんだ」


 ぼくは自分の髪にある濁った赤色の部分を指先で弾きながら、ニーナの綺麗な赤色を羨ましく思う。


「ぼくの髪は、アンジェの血で変化したんだ。元々、全てが青い水だったんだよ」

「それほどまでに、あの幼き黒は、重き鞘だったのだな」


 ぼくはお人形のように立っているニーナに向けて、これからやることを宣言する。


「ぼくの中にある魔力を使って、直接アンジェと接続する」

「…………む?」


 意を決して核心を告げたつもりだったんだけど、これじゃ説明不足だったかな。


 ぼくはアンジェのそばに近づいて、ぼくの脳内だけにある理論を1から説明する。


「アンジェは悪魔で、ぼくは魔物。共に魔力でできた生物だ」

「うむ。前のめりである」

「通常、外部の魔力は攻撃として受け取られ、今のアンジェのように分解して吸収されるか、吸収できずに病、あるいは損傷となる。前者は食事、後者は魔法による外傷が典型的な例だね」

「うむ」


 ぼくは思考の速度に引っ張られ、更に早口になる。


「だが同一の魔力を持つ存在であれば、それらとは全く異なる影響を与えることができる。魔物は他の生物に魔力を付与し傀儡とする性質を持つが故に、似通った魔力に対する結びつきが発生する。今回はその生態を利用するんだ」

「……むー?」


 たぶん、もうニーナは着いて来れてない。それでも説明はしておこう。


「手順を説明しよう。まずぼくがぼくの体内にあるアンジェの魔力をアンジェ本人に分け与える。この時、魔力の分離や精製は行わず、あえてぼく自身の魔力も紛れ込ませたままにする。アンジェの本体にあるアンジェの魔力とぼくが分け与えたアンジェの魔力が結合したら、ぼくの魔力でアンジェの体を一時的に傀儡にして動かし、意識を引っ張り上げる。いいね?」


 ニーナはしばらく黙って首を傾げ、やがて難しそうな顔でぼくをじっと見つめてくる。


「我が企むべきことは……皆無では?」

「うん。無いよ」


 役に立つかどうかは関係ない。ニーナなら同席しても構わない。そう言いたいんだ。


 だけどニーナは首をアンジェを見て、ぼくを見て、とても悲しそうな顔をして扉を開く。


「衆目に晒されるのは不本意の船頭であろう。我が薪となり、くべるとしよう」

「そっか。見張っててくれるんだね」


 残念だけど、少し安心した。

 これは本来ぼくとアンジェだけでやるべきことだから……正しい形に収まったと考えよう。

 これでよかったんだ。うん。そうに違いない。


 ぼくはぼけっとしているニーナの体を揺り動かし、扉の方に押し込む。


「それじゃ、よろしく頼むよ。聞き耳を立てたりしないでね」

「ま、待って、群青。しかと参る前に、群青がいかにして暗黒に飲まれたのかを……」

「昔話はアンジェから聞いてくれ」

「ええー!? そんな無礼を……ぐーんじょーう!」


 ぼくは嫌がるニーナを強引に押し、アンジェがいる部屋から追い出す。

 そして、部屋に転がっている魔道具たちを扉の前に置いて封鎖する。


 ……これでもう、邪魔は入らない。他にこの部屋に入る権限を持っているのは、クリプトンくらいだ。彼が来たとしても、ニーナが止めてくれるだろう。


 最良の状況だ。いつまでかかるかわからないから、他人に見つかって止められる可能性を排除できたのは都合がいい。


 ……他人に見られたら、絶対に邪魔されるからね。


「ふーっ」


 ぼくは一世一代の危険な実験に臨むべく、気合いを入れ直す。


 一歩間違えればぼくは死ぬ。アンジェも死ぬ。

 それに……お互いに五体満足で目覚めたとしても、きっと禍根を残すことになる。

 こんな手段を選びたくなかった。アンジェを傷つけるような方法を採用したくなかった。


 それでも、ぼくは……アンジェの笑顔を、もう一度見たいんだ。


「ごめんよ、アンジェ」


 ぼくはアンジェの寝台周辺に転がる魔道具を退け、寝巻きを脱いで彼女の上に寝そべる。


 ぼくの冷たい肌が、アンジェの温かい肌に触れる。ぽかぽかして気持ちいいけど、アンジェはきっと凍えるほど寒いだろう。


「苦しいよね。嫌だよね。こんなことは、早く済ませてしまおう」


 ぼくはアンジェにぴったりと体を重ね合わせ、身じろぎして擦り合わせる。

 アンジェを感じる。アンジェを理解していく。アンジェの設計図が、頭の中に染み渡っていく。

 これからアンジェの中に入るのだ。正確な地図を作っておかなければ、迷子になって危険だ。


「……だんだんわかってきたよ。アンジェの魔力の癖も、アンジェの体の形も」


 後は、魔力を侵入させるだけだ。

 ぼくは右手を水に変え、ゆっくりとアンジェの下半身へ伸ばす。


 アンジェはきっと、怒るだろう。こんなことをしたぼくを許さないだろう。

 ラインもドーナもクリプトンもピクト家の面々も、そして当然ニーナも激怒するだろう。


 幼いアンジェの体を傷物にするなんて。


 それに、ぼく自身もただでは済まないだろう。この方法はまったくの初見であり、試したことさえ一度もない。ぼくとアンジェほど魔力が近い人なんているわけがないから、試しようがなかったんだ。

 これが終わった後、ぼくの命があるかどうかは……運次第だ。


 それでも、ぼくは……。ぼくは、アンジェに生きていてほしい。

 たとえこの身が滅びることになったとしても、アンジェがこの世に蘇るなら、ぼくはそれでいい。

 アンジェがいなければ、ぼくはここにいなかったんだから。


「起きて、アンジェ」


 ぼくはできる限り優しく、アンジェを傷つけないように、ゆっくりと唇を奪う。

 そして、どんなに狭いところでも自由自在に動く水の手を、アンジェの体内に侵入させる。


 ……アンジェを貫く感触に、ぼくは思わず涙する。


 ごめんなさい。


 〜〜〜〜〜


 何処までも続く暗い闇。無限に続く苦痛。

 アンジェは世界に満ちる魔力との果てしない戦いの末に、自我を薄れさせ、疲れ果てている。


 痛み。痛み。痛み。何日経っても何ヶ月経っても、痛みだけが続いている。


「魔力……魔力……魔力……」


 アンジェは痛みの他に何も考えず、痛みの他に何も感じず、ただ生きることだけを為す。

 目的さえ忘れて。生きる喜びさえ忘れて。


 ……そんなアンジェの闇の中に、雨が降り始める。

 あらゆるものがアンジェを傷つけるこの世界の中、唯一起きた優しい変化。底なしの苦しみを和らげる、穏やかな流れ。


 それに気がつき、アンジェは遠い彼方に置いてきた知能を、再び取り戻す。


「……あめ?」


 アンジェは雨を顔に受け、手に受け、体を濡らしていく。


 そうだ。アンジェとは、こんな形をしていた。顔があり、手があり、人間の体を持っていた。そんなことさえすっかり忘れてしまっていた。


 アンジェは途方もない痛みが少しだけ改善され、ようやくまともに思考を始める。


「どうして、あめが?」


 アンジェは足のない足元を見て、雨つぶの行き先を見守る。


 雨は遥か下方で水溜まりを作っている。そのうち池になり、やがて海のように暗い空間を埋め尽くすだろう。


 今度は水責めということか。だが、それにしては妙ではないか。この水は何処から来た?

 アンジェは疑問を抱き、ぼんやりとした意識の赴くままに、無の空間を移動する。


 まずは、上を見る。正確には、アンジェが上だと思っている方向を見る。


「……そらは、ない」


 この世界に空は存在しない。雲もない。アンジェという少女と、それを溶かして無に還そうとする魔力。それ以外には何もない。


 次にアンジェは、下を見る。雨が徐々に溜まっている。やはり調べるならここだろう。


 アンジェは身を裂かれるような痛みに耐えながら、漆黒の魔力をかき分けて進む。


 下へ、下へ。底へ、底へ。暗い闇の、奥深くへ。


 そして、アンジェは溜まった水に半身を浸ける。


「おみず、きれい」


 痛みが消える。アンジェを傷つける世界の魔力から守られているのか。

 この水はアンジェの味方をしてくれるようだ。なんと優しい存在だろう。


 アンジェは全身を水の中に沈め、呼吸していない口を閉じて、息を止めるふりをする。


 肌に張り付く泡の感触。耳の中に流れ込む鈍い音。動けば流れが生まれ、強く抵抗される。


 悪くない。このまま身を委ねていたい。


「いたいのも、くるしいのも、もういやだ」


 アンジェはついに痛みに屈し、自らに甘える。


 死より激しく、絶望より長い暗闇。それに閉じ込められた後で、このような慈悲に包まれてしまったら、堕ちてしまうではないか。全てを諦めて、水になってしまいたい。


 ……だが、アンジェはそこで終わらない。アンジェの思考は、安寧を得ても止まらない。

 思考が戻れば、次は意思だ。アンジェはこの世界で抵抗し続けていた理由を取り戻す。


「ニコル……。そうだ、ニコルに会いたい!」


 アンジェを愛してくれた女性。アンジェのためを想ってくれる恋人。人生の相棒にして、無二の親友であり、アンジェにとっての生きがいそのもの。


 そうだ。生にしがみついているのは、ニコルのためだ。大好きなニコルに再び巡り会うためだ。


「オレはまだ、死ねない!」


 アンジェは世界に流れ込んだ水を纏い、苦痛に満ちた世界に再び挑む。


「行くぞおおおっ!!」


 アンジェが飛び出すと、世界はアンジェに牙を剥き始める。

 引き裂き、噛み砕き、刺し貫き、打ち砕く。アンジェを分解して肥料にし、世界の一部に変えてしまおうと、悪意なくそう動いている。


 それでもアンジェは諦めず、仕返しに世界を歪め続ける。世界を満たす魔力を食い、自分の力に変える。世界に食われる自分の体を、少しでも多く取り返す。


 生きるための戦い。アンジェという個が失われないためには、これに勝ち続けるしかないのだ。


 水はアンジェを守っている。鎧となり、盾となり、アンジェの心を覆っている。

 ……それだけではない。流れ込んだ水は暗闇の中で川を作り、アンジェが向かうべき方向を示してくれている。


 細く頼りない流水。だがアンジェにとっては、希望そのものだ。


「こっちに行けってことか」


 水は「そうだ」と答えるように、静かにうねる。

 アンジェを認め、未来へと導いてくれている。


 ……どのみち、他に選択肢はない。アンジェはただ挑むだけだ。

 先の見えない戦いに投じられた、一筋の光。それに頼るほかないのだ。


「やってみようじゃないか。大丈夫。オレは強い」


 アンジェはゆっくりと、川を辿って歩き出す。


 〜〜〜〜〜


 《ビビアンの世界》


 朝だ。


 窓がない部屋だけど、扉の隙間から光が差し込んでくる。暗い部屋を串刺しにするような光の束は、闇に慣れた目にはあまりにも眩しい。


 ぼくはびしょ濡れになったアンジェから離れ、寝台から転がり落ちる。


 体力と魔力が限界を迎えている。だというのに、手応えはまるでない。

 アンジェの体をまるで操作できなかった。アンジェの意識と会話をすることもできなかった。


 たぶん、失敗だ。


「思ったより……きついな……」


 ぼくは起きあがろうとして、また転倒する。

 義手も義足も壊れている。変な操作をしたからか、それともアンジェの魔力に晒されたためか。

 どちらにせよ、動きそうにない。修理すれば直るかもしれないけど、ここでは無理だ。


 ぼくは唯一残った生身の片腕を上手く使って寝返りを打つ。

 寝転がっていると、天井が高く感じる。手を伸ばしても届きそうにないし、実際にまったく届く気配がない。

 誰よりも自由に動かせる手だけど、この手でできることは、案外少ない。


「駄目か……。駄目、だったか」


 あれだけしても、まだ届かないのか。全てを捨てる覚悟があったのに、それでもまだ足りないのか。


 ぼくは無力感で満たされ、まぶたを閉じる。

 もう何も見たくない。ずっとこうしていたい。暗い世界でひとり寂しく失敗を引きずっていたい。


「ひっぐ、うう……」


 涙が溢れ、顔を汚し、ぼくの肩まで濡らしていく。

 いつまでもいつまでも、止まらない。


 あの方法でアンジェを助けられるはずだった。自信があった。だからこそ、体を張った。アンジェの尊厳を奪った。ぼくは彼女の未来を台無しにしてしまったのだ。


 そして……その挙句、アンジェを目覚めさせるという目標さえ達成できなかった。

 泣きたいのはアンジェの方だろう。だが眠ったままでは、泣くこそさえできないのだ。

 ぼくのせいで。ぼくがどうしようもなく無能なせいで。泣けないのだ。


「ぶええぇ……えう、ひぐっ……アンジェぇ。ぐすっ、ぐぅ……ごめんよ……ごめんよ……!」


 このまま明日まで泣き続けようかと思ったその時。

 ぼくの体に、何か温かいものが覆い被さる。


「うう……だれぇ?」


 ぼくは腕を上げて、その正体を見る。


 そこには、黒くてもじゃもじゃした何かがある。

 髪の毛みたいな塊だ。……みたいな、ではなく、髪の毛そのものか。


 黒い髪の毛。その持ち主は、僕が知る限り、たった一人しかいない。

 アンジェだ。ぼくの友達の、アンジェだ。


 ぼくが自殺した時、本気でぼくを助けようとしてくれた、大切な友達。まだ眠ったままの、大事な大事なぼくの友達。


「あー、疲れた」

「えっ」


 アンジェはぼくのお腹にぷにぷにと柔らかい頬を擦り寄せ、甘えている。

 ……動いている。目が覚めている。まだ寝ぼけているようだが、確かに会話が通じている。


「しゃべった……!?」


 ぼくは涙を拭って、起き上がる。


 視点が高くなり、アンジェの全身が見える。寝台に寝ていた時の姿そのままだ。

 決定的な違いは、その目に意思が宿っているという点か。


 ……ああ。夢じゃない。このアンジェは、空っぽの人形じゃない。

 成功したんだ。未だに実感はないけど、ぼくはやったんだ。アンジェの恩に、ひとつだけ報いることができたんだ。


 感動と達成感で震えるぼくの手を、アンジェは握ってくる。


「あの川はビビアンだったんだね。すっかり騙されちゃったよ」

「川? なんのこと?」

「もう。オレをあの世に引っ張ったくせに」


 アンジェの様子が何か変だ。どういうことだろう。川とは一体何の話だろう。あの世とは……?


 アンジェは狭い部屋を見回して、ふっと鼻で笑う。


「あの世はずいぶん混沌としてるね。狭いのに、いろんな魔力が漂っているのを感じるよ。……部屋のように見えるけれど、出られるとは限らないよね。現実の理屈がそのまま通用するとも思えないし。外に広がっているのは血の池か、針山か……。どれだろうね?」

「えっと、なに言ってるのぉ?」


 アンジェの発言を理解できない。まさかぼくとアンジェは実験に失敗して、まとめてあの世行きになっているのか?


 でもアンジェもぼくもここにいるし、ここは元いた部屋だし、外にはニーナの気配もするし……。


 焦るぼくの頬を両側からぷにっと摘んで、アンジェは複雑な感情がない混ぜになった笑みを浮かべる。

 恨み。殺意。憐憫。安堵。嘲笑。親愛。それらが全て、アンジェの心の中にある。


 ……ゾッとするほど、美しい。


「ビビアンは悪戯好きだからね。死にかけのオレをあの世に引っ張って、完全に生き返りの目を無くして、それで満足ってところかな。でも悪戯には相応の罰が必要だよね。さあ、お仕置きの覚悟は済ませた?」

「えぇと、さっきも言ってたけど、あの世ってどういうことなのぉ?」

「いや、川で死んだビビアンがいるなら、ここはあの世でしょ」


 ……そういうことですか。アンジェは自分が死んだと思ってるんだ。

 頭が良いのに、変に空回りしてるなあ。でも、そういうところも嫌いじゃない。


 ぼくはぼくで、アンジェにちゃんと説明しなければならないようだ。ぼくの事情について。そして、アンジェが生きていることについて。


 ぼくはアンジェを片腕で抱きしめて、首の後ろを優しく撫でる。

 アンジェは逃げようとしているけど、ぼくの体の状態に気がついたようで、呆けたような声色で尋ねる。


「ビ、ビ、アン? 脚が……」

「無いよ。流された時に、何処かに行っちゃった」

「え? 流されて……。じゃあ、ビビアンは……死ななかったの?」


 ぼくはアンジェの目の前に顔を持っていって頷く。

 アンジェの整った顔が、喜びと羞恥で赤く染まる。


 可愛らしい。ぼくがこの手で守ってあげたい。自然とそう思えるような、愛くるしい笑顔だ。


「え、えへへ……。じゃあ、オレも生きてるんだ。ここはあの世じゃないんだ。よかった……」


 アンジェはぼくと手を繋ぎ、ゆらゆらと揺さぶって喜びを体現する。

 アンジェもぼくのことを、大切な友達だと思ってくれてるんだ。アンジェからの信頼と親愛が伝わってくるよ。嬉しいな……。


 後でぼくが採用した方法を聞いたら、きっと激怒して二度と話しかけてくれなくなるだろう。

 この和やかな会話は、それまでの僅かな期間だけ楽しめる、頑張ったぼくへのご褒美のようなものか。


 ぼくは罪深い悪党だけど、助けたアンジェの笑顔を間近で見るくらいは許してくれよ。ぼくだって、アンジェのことが大好きなんだから。


 体を捧げてもいいくらい、大好きなんだから。


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