第61話『濁れど澱まず、流れは止まらず』
《ビビアンの世界》
現在、アンジェは意識が戻らないまま工房に幽閉されている。
尋常ではない数の魔道具で全身を拘束され、一歩たりとも動けない状態にされている。
ぼくの進言のおかげで独房に入れられなかっただけマシかもしれないけれど、これでは大差ない待遇ではないか。
みんなアンジェが怖いんだろう。具体的には、アンジェの魔力が。
……かわいそうに。本当は愉快で可愛い子なのに。
「アンジェ。会いに来たよ」
ぼくは工房の鍵を開け、奥に閉じ込められたアンジェに触れる。
寝台を改造した拘束具。それに横たわるアンジェ。そばには屋敷の使用人か工房の職人がいて、常に監視の目に晒されている。
埃っぽくてごちゃごちゃした部屋に置き去りにしてごめんよ。せめてぼくの庇護が届く場所にいてほしくて……。悪魔だからって誰かに勝手に殺されたりしたら、ぼくは悲しいからさ……。
ぼくはそこにいた使用人を追い出して、アンジェとふたりっきりになる。
正確にはぼくに付いているラインもいるけど……彼は仕方ない。ぼくの身を案じて、危険な悪魔から守ろうとしてくれているんだ。怖がりなのに、本当に真面目な人だ。
ぼくはアンジェの柔らかい頬を撫でて、まぶたが開くことを祈りながら語りかける。
「アンジェ。久しぶり。元気にしてた? ……わけないか。こんなだもんね」
アンジェは答えない。整った顔を静止させたまま、されるがままにされている。ぼくを見て驚いたりもしないし、魔法を披露して得意になったりもしないし、自信なさそうに笑ったりもしない。
「(アース村を出て、マーズ村に来て、魔法を披露して、みんなに認められて……。それでもまだ、眠れる獅子のままなんて)」
ぼくは裸のアンジェの体に沿って、指を這わせる。
今のアンジェは体を隠すことさえ許されていない。目が覚めたら、アンジェはきっと自らの境遇に涙することだろう。
「アンジェ……。聞きたいことも、話したいことも、たくさんあるんだ」
それからぼくは、アンジェを半ば抱きしめるように寄り添いながら、黙ったままの彼女に向けて、世間話をする。
ピクト領軍と一緒に悪魔を撃退した話。ぼくが作った魔道具が今のピクト領を支えているという話。大体はぼくの自慢話だけど、暗い話をするよりはマシだよね。
アンジェは冒険譚が好きみたいだから、魔物と戦うお話を喜んで聞いてくれるはずだ。魔道具の話は、もしかしたらつまらないかも。ぼくが好きなものを、アンジェにも好きになってほしいんけどな……。
ぼくは時間を忘れてお話をした後、ラインに呼びかけられて現実に戻ってくる。
「あの……お嬢様。そろそろ夕食を……」
「ん? ああ、そうだね……」
ぼくはアンジェのお腹から頬を離して、ラインに外への扉を開けてもらう。
必死に語りかけてみたけれど、目を覚ますことはなかった。明日からは違う方法を試そう。
拘束具があると試せる方法が限られるけど、いつかは車椅子で散歩したり……色々やってみたい。
「また明日」
ぼくは薄暗い部屋を出ながら、アンジェにまた会う約束をする。
もう二度と、お別れはしない。勝手にみんなを捨てておいて、虫のいい話だとは思うけど……それでも、ぼくはもう、何も手放したくないんだ。
ぼくはもう、みんなを捨てて死を選ぶ、あの時のビビアンじゃないんだから。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
何日かが過ぎた。
ぼくは最低限の仕事をこなしつつ、アンジェを目覚めさせるための研究に全てを費やしている。
体力、魔力、資金、時間、その他諸々のぼくに操れる全てを……アンジェのために投資している。
「……むみぃ」
今日もぼくは工房の長椅子で目を覚ます。
わざわざ部屋に帰る手間が惜しいから、ここ最近はずっと居眠りだ。
本当は食事と睡眠も削ってしまいたいけど、魔力の回復が早まるから、損をしない程度に効率よくこなしている。
「……やるか」
ぼくは眠気覚ましに魔法を唱えつつ、工房の鍵を開けて呼び鈴を鳴らしてから机に向かう。
古びた天板の上には、実験用の機材と覚え書きがいっぱいだ。
……そうか。昨日はあらゆる実験に全て失敗して、嫌になってしまったんだ。それで片付けもせず放置して、ふて寝を……。
安全管理手順に基づいた行動を心がけないと、みんなに叱られてしまう。早く片付けないと。
「……後悔しても、立ち止まるな。アンジェが待ってるんだ」
ぼくは工房に入ってくるラインに手伝ってもらい、机の上を整理する。
部外秘の物はぼくが、それ以外のどうでもいいものはラインが、所定の場所に置く。
「お嬢様。使用人の増員を検討していただきたく思います」
使い果たした聖水の空き瓶を片付けながら、ラインが提案してくる。
ぼくは昨日の覚え書きをめくりながら、彼の発言に意見を述べる。
「自室との行き来を減らしたり、入浴を省いたり、君たちの負担を減らす工夫はしてるんだけど、まだ足りない?」
「臣下としては、あるじにそうあってほしくないのです。毎日自室で眠り、魔法ではなく入浴で身を整え、辺境伯と会話する機会を確保するべきと愚行します」
本当に真面目な奴だ。だからこそ、誠意の向き先が透けて見えて、うんざりする。
「それは誰のため? ぼくじゃなくてニーナとピクト家のためでしょ」
「それは……」
「ああ、そうか。そっちが雇い主だから、目の前のぼくより奴らを優先するのか。当たり前すぎてあくびが出るね」
ぼくは自分にしか読めない文字でぐちゃぐちゃになった紙を、部屋の隅で燃やす。
炎の赤色が、ニーナの髪色と重なる。
……そういえば、もう何日も顔を合わせてないね。食事はここで済ませているから、ピクト家の面々との会食も断り続けている。
ピクト家はともかく、ニーナとの関係は以前までが異常だったような気がしないでもない。領主を相手に毎日密会してたら、変な噂が立ちそうだ。
例えば……ぼくがピクト家を乗っ取ろうとしてるんじゃないか、とか。
「(食事会でもそれっぽいことを言われたような気がする。ぼくにその気はないってのに)」
ぼくは燃えた紙の灰を見てアンジェを連想し、ラインに告げる。
「ぼくはぼくがやるべきことをやる。アンジェの復活はピクト家のためになる」
「お嬢様は戦力であり、職人でもありますが、子爵でもございます。最近では領外でも評判が良く、我々も喜ばしく思っています。だからこそ、名声に傷がつかないよう……」
「評判だの名声だの、うるさいなぁ! アンジェの耳にそれが届くのか!?」
ぼくにとっての爵位は、おまけだ。英雄的行為についてくるおまけ。ピクト家の面々にはそれで納得してもらっている。
……その契約が履行されないなら、アンジェを連れて逃げる。
資金源が無くなるのは嫌だし、義肢の工房を失うのも嫌だし、追手に狙われるのも嫌だけど、貴族に押さえつけられるのはもっと嫌だ。
ぼくは屑籠のそばの壁を蹴り、ラインを睨む。
「ぼくは今や、ピクト領にとって必要な人材になっているはずだ。いなくなったら困ると思わないか?」
「不吉なことを言わないでくださいよ」
「冗談で済むかどうかはそちら次第……と、ピクト家の面々に伝えておけ」
どうせラインは、ピクト家の差金で提案をしてきたのだろう。ぼくの部下だけど、連れてきたのはピクト家だ。元から監視役だったのかもね。
……嫌だなあ。
「価値観が合わないなぁ……」
育ちが違うから、仕方がないのかもね。
……時間を無駄にした。気を取り直そう。
ぼくは今日の分の実験をするため、ラインに指示を出す。
「今日は人手が必要だから、下位の工房から人を引っ張ってきて。誰でもいい。内容は魔力の提供と雑用。他は……まあいいや。追って指示する。いつも通り、報酬は小銀貨1枚で出して。工房に詫び金と純粋魔力の結晶を持って行くのを忘れずに」
「……かしこまりました」
ラインはまだ納得がいかない様子で、踵を返して出て行く。
行き先はピクト家が抱えている他の魔道具工房だ。ニーナの体を作っている今の工房とは違い、武器や日用品を大量生産するためにある。工房よりむしろ工場に近いかも。
「待っている間に、義務を果たしておくか……」
ぼくはニーナ用の聖水や魔道具の調整を手早く終わらせる。
今にも死んでしまいそうなアンジェ。あの子の復活を最優先にしないで、何をしろって言うんだ。悪魔だろうと取り込んで力に変えるのがピクト家のやり方だろうが。
そう思いつつ、上から任された仕事を片付けて自分の実験の支度をする。
「今日こそは、目覚めさせてあげるからね」
ぼくは小瓶に入れた聖水を棚に上げて、それより遥かに巨大な硝子容器を見上げる。
今度の実験は、聖水の大量投与だ。普通ならあり得ない量を注ぎ込む予定だけど、アンジェの魔力分解については解析済みだから、絶対に死ぬことはない。
……時間と環境だけが、ぼくの敵なんだ。
せめて邪魔だけはしないでくれよ。周りの連中め。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
数ヶ月が経った。この国のあまり暑くない夏が終わり、ひんやりと涼しい秋になろうとしている。
ぼくは魔力不足で毎日目眩を起こしながら、なんとか努力を続けている。努力しているだけで、結果は出ていないけどね。
実験は頓挫しつつある。医師や工房の技師たちの協力も得てはいるけど、彼らに蓄積された知恵も底を尽きそうだ。
いちいち人を借りるのが面倒で、いくつかの工房や組合に手を回して吸収してしまったけれど、技術的に大した進展は得られなかった。ここ以上に優れた技術を隠し持っている工房なんて、ありはしないんだ。
ぼくはこの街にあるあらゆる機材をかき集めて、あらゆる手を尽くした。
魔力を吸い出しても駄目。純粋な魔力を注いでも駄目。撫でても駄目。叩いても駄目。爆音を出しても駄目。光を浴びせても駄目。暗室に入れても駄目。義肢を与えても駄目。熱しても駄目。冷やしても駄目。伸ばしても駄目。縮めても駄目。巻いても駄目。水に漬けても駄目。乾燥させても駄目。風に曝しても駄目。泥に浸しても駄目。声をかけても駄目。本を見せても駄目。怒っても駄目。泣いても駄目。知人の名前を出しても駄目。魔物の素材を見せても駄目。魔物に会わせても駄目。放置しても駄目。
……駄目。何をやっても、駄目。
今は人間に対して行っても問題ない範疇にある。だけど、このままでは危険な手段に手を出してしまいそうで怖い。
現に魔物を生け捕りにして襲わせてるし、後は実際に流血沙汰を起こすくらいしか……。
クリプトンやアルミニウスやニーナは、会うたびにぼくの話ばかりしてくる。
顔色が悪いだの、無駄話をしてくれだの、どうでもいいことばかりだ。
義務は果たしてるし戦場での戦績も悪くない。むしろ好調なくらいだ。
そんなぼくより、アンジェの心配をしてほしい。
だって、このままじゃアンジェ、ずっと寝たきりなんだよ?
アンジェは恐ろしい悪魔として疎まれたまま、マーズ村から遠く離れたこの土地で、歴史の闇に葬られることになる。彼女の身に何が起きたのかもわからないまま。
……それだけは絶対に避けなければ。
「アンジェ。アンジェは今日も綺麗だね……」
ぼくはアンジェの体を濡れた布で清めながら、声をかけ続ける。
何をしても動きがないから、拘束具を外す許可を得ることができた。それだけが唯一の実績だ。
……情けない。自分が情けない。友達が目の前にいるのに、何も役に立てない。
ぼくが死んだあの日、ジーポントとミカエルも、こんなに辛い思いをしたのかな。
「アンジェ……。う、うう……ごめん。ごめんよ」
ぼくは物言わぬアンジェに縋り付いて、ひとり涙を溢れさせる。
魔力がもったいない。涙から逃げてしまう。そう思いながらも、なかなか止まってくれない。
ぼくの代わりにシュンカを倒してくれたアンジェ。そんな強いアンジェが、こんな姿になっているのに、ぼくは……何もしてあげられないなんて。
……今度はもっと、大がかりな手段を試さないと。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
今日、ぼくは主任技師のクリプトンの助力を得て、大規模な実験を行うつもりだ。
もちろん、ぼくが吸収した工房の人たちや、腕利きの医師たちも何人か連れてきている。
最近は必要な人数をその日その日に引っ張ってくることはせず、あらかじめ決められた人員を決められた日に派遣してもらう仕組みになっている。
つまり、アンジェの研究を業務に組み込んだのだ。これでいちいち人手を呼びに行く手間を省くことができる。
……なかなか進展がないから、そういう仕組みを作らざるを得なかったんだ。もうちょっと早く手をつければよかった気もするけど、ここまで長期戦になるとは思ってなかったから……仕方ないよね。
今回のぼくは、新たなる聖水の開発に勤しむつもりだ。
魔物の命を脅かさず、刺激だけを与える聖水。それで無理矢理目覚めさせようという作戦だ。
アンジェを傷つけたくないけど、ちょっと痛むくらいは我慢してくれないかな。ぼくの脳じゃ発想に限界が近いんだ。これ以外は、もう……。
「……これが、その試薬ですか」
技師と医師たちがぼくの聖水を眺め、どよめいている。
ぼくが作った試作品だ。通常の手法で作られる聖水を水魔法で薄めつつ、水魔法を使用した痕跡を消して純粋魔力へと変換したものだ。
大量かつ濃度も自在。作る難易度が高い点を除けば完璧な聖水だ。
それにしても、ひとつひとつの工程は彼らもよくやっているものだろうに、何を驚いているというのか。
「手を加えられているはずなのに、群青卿の魔力がまったく感じられない……。混ぜながら浄化しているというのか……?」
「浄化って、個別の容器で専用の装置を使いながらするものですよね……?」
「群青卿の優れた手腕が成せる奇跡だ。よそで実用化するのは無理だろうな……」
「これはいい見本になりますね。よその工房と群青卿の実力差を示すにはぴったりだ」
……お前らもできるようになれよ?
代用品で簡単に練習できるからね。
「その聖水はまだ完成品じゃない。これから濃度を変えて何回も試すつもりだ。……今日はそのために皆を集めた」
ぼくは人を遠ざけて、その聖水の蓋を開ける。
遠巻きに見ていたラインが異変を察知したようで、ぼくのもとに駆け寄ってくる。
「お嬢様、おやめください!」
勘が鋭いなあ。研究内容にまるで着いていけない癖にさあ。周りの専門家より早くぼくの意図にたどり着くなんて。
……ライン。その必死な表情、やめてくれよ。死に向かうぼくを助けようとした、彼らの顔を思い出してしまう。
ぼくは聖水を、一気に飲む。
そうだ。魔物殺しの聖水を、自分で飲む。
喉を流れる冷たい感触とは裏腹に、通った跡が燃えるように熱くなっていく。おそらく炎症を起こし、ぐずぐずになっているのだろう。
まあ、予想通りの効果だ。焼けるように痛いし、息ができなくて苦しい。
周りのむさくるしい大人たちは、ぼくを取り囲んで何事かを喚き始める。
「なっ!?」
「医療班! 至急応援を……」
ああ、もう。うるさいな。意図を察してくれよ。
「ご、ごほっ……これ、まだ試作品だから。アンジェに直接飲ませるわけには……げほっ、いかないから」
ぼくは魔力を集中させて喉を治療し、自分で持っていた次の試作品を取り出す。
次はもっと、濃いやつだ。
「ぼくは魔物だからね。アンジェと同じ反応になるかはわからないけど……人に近い分……そこらの魔物よりは実りのある結果になるはずだ」
「だからといって、お嬢様が傷つくことを看過するわけには……」
「いつ死ぬかわからない戦場に出しておいて、よく言えたもんだよ」
傷物にされたくないなら、命の奪い合いの場に出すんじゃないよ。やってることがおかしいじゃないか。
ぼくは瓶を強く握りしめて、溜まっている鬱憤を吐き出すように、啖呵を切る。
「ぼくはやるよ。今のアンジェよりつらい目に遭うわけじゃないんだ。いくらだって我慢してやる!」
ぼくは空き瓶をラインに投げ渡して、次の瓶の蓋を開ける。
容器の時点で冷たさを感じる。聖水の濃度が高くなっているためか。
「アンジェに飲ませてもいい量を見極める。ぼくに致死反応が出たら、治療と記録を頼む」
「……わかりました」
ぼくは魔物にとっての猛毒が入った瓶を、また一気にあける。
焦りと不安で今にも発狂しそうな大の大人たちの顔を、苛立ち混じりに眺めながら。
〜〜〜〜〜
アンジェは暗闇を見ている。
アンジェは死にかけている。
無限に続く暗闇。
そして、無限に続く痛み。
それが、今のアンジェの全てだ。
目を焼かれるような痛み。脳をかき混ぜられるような痛み。歯茎に針を刺されるような痛み。喉に酸を詰め込まれるような痛み。内臓をまとめて裏返されるような痛み。子宮に硝子の棒を入れて叩き割られるような痛み。脚を鋸で切断されるような痛み。足の指を槌で叩き潰されるような痛み。爪を剥がされて塩を塗られるような痛み。
人間が想像し得る痛みを、そして人間では想像もできない痛みさえも、アンジェは次々に経験している。
救いのない闇の中で、目を逸らすことも、耳を塞ぐことも、気を紛らすことさえもできず、痛みだけを感じ続けている。
今のアンジェは、ただ生きるために生きる廃人だ。
周囲の魔力を食い、自分の魔力に変換し、存在を繋ぎ止めるだけの機構だ。
そこに意思はない。思考はない。そんなものはとっくに摩耗し、風化してしまった。
アンジェの心の中には、もう何もない。最初期こそ恋人との思い出や残してきた生者たちのことを考えていたが、もはやそれさえも疲れてしまった。
……強いて挙げるなら、ここに至る少し前の、末期のアンジェは、死者たちのことを思い浮かべていた。
村で死んだ者。村の外で死んだ者。区別なく。
「お父さん……。お母さん……。ビビアン……。みんなそっちに、いるのかな……」
そして、あることに気がつき、アンジェはその思考をすぐさま打ち切った。
死にたくなってしまう。悲しくなってしまう。
自分の中に死にたいという欲求が生まれ始めていることを、否定しなければならなかったのだ。
アンジェは生きなければならない。生きるために、抗わなくてはならない。
いつの日か奇跡が起きて、ニコルと巡り会う日が来るはずだ。そう信じて、10年でも100年でも、アンジェは耐え続けなければならない。
故にアンジェは、思考を止めてしまったのだ。
思考こそが死をもたらすと知ったからだ。
「魔力……変換……魔力……変換……」
たった数ヶ月。されど数ヶ月。常人ならば生きることを諦め、死という名の救いに飛びついているはずの時間が、既に経過しているのだ。アンジェがまだアンジェであることは、もはや奇跡であると言える。
アンジェは廃人となっても尚、死を遠ざけ、生にしがみつき、痛みに耐え続けていた。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
聖水を飲ませてみることにする。
いよいよ周りの医師たちが止めに入るようになったので、彼らを宥めるために仕方なくそうするのだ。
まずは、最初に飲んだ最も薄いものから。
ぼくはアンジェの口をこじ開け、中に聖水を流し込んでみる。
……舌を火傷し、喉で肉が焼ける音が響き、そしてすぐに止む。
それと同時に異様な速度で再生が開始し、舌が治り喉が治り、全てが元通りになる。
痛みに対する反応さえ観測されない。今のアンジェは痛みを感じていないのだろう。
あるいは、もっと凄まじい痛みにかき消されているのだろうか。……まさか、ね。
「恐ろしい再生能力ですね……」
医師のひとりが呟く。
魔力さえあれば治せる。それが魔物というものだ。悪魔になるとその傾向は更に強化され、四肢を失おうと平気な顔で治す奴がちらほら現れる。
再生能力を研究して人間に応用したがる医師は後を絶たない。彼もそのひとりなのだろう。
アンジェの場合は、一般的な悪魔の範疇さえ超えている。普通は聖水を自分の魔力に変えることなどできやしない。だからこそ、あれは魔物殺しとして重宝されているのだ。
「……悪魔祓いの常識がひっくり返ってしまうじゃないか」
「アンジェが目覚めたら、コツを聞き出せるかもしれませんよ」
ぼくは彼のやる気を引き出すべく、そう説得する。
アンジェを目覚めさせることに、ピクト家を含め多くの人々が賛成してくれているが、反対派もそこそこ多い。特にアンジェの魔力を知る者は、利用するには危険すぎると考えているようだ。
そういう邪魔な連中がひとりでも多く寝返ってくれることを、ぼくは祈っているよ。そのうちぼくが取り込んだ団体を使って、圧力を加えてやろうかな。
ぼくはアンジェが目覚めないことを確認した後、更に濃い聖水を飲ませる。
顎が溶けるほど強い液体だ。ぼくの場合、神経を焦がされて悶え苦しむ羽目になった。
……しかし、結論を言えば、どの濃度の聖水でも結果は同じだった。
アンジェは問題なく分解し、痛がる素振りさえ見せない。まるで意に介していないようだ。
主任技師のクリプトンさんは、ぼくの顔を覗き込んで肩を叩く。
「やり方を変えたほうがいい」
無口な彼にしては、わかりやすく喋った方だ。ぼくのことを案じているのだろう。
……聖水で駄目なら、何ならアンジェに対する刺激になるんだ?
これ以上危険な方法を試すわけにはいかないぞ。肉や骨を断つのはやり過ぎだし、血や爪を奪うのはもうやった。
「……今日は解散だね。お疲れ様。速やかに帰宅してくれたまえ」
ぼくは聖水の飲み過ぎで痛む喉を水で癒しながら、力なくそう告げる。
集められた人々は、特に何かを言うこともなく、工房からさっさと出て行く。
彼らにしてみれば、予想の本命通りの結果だったのだろう。どうせまた失敗するんだろうと、内心思っていたのだろう。
ぼくはラインとクリプトン以外の人が出払った工房で、地に膝をつき、床に拳を叩きつける。
「クソが!」
唯一義手ではない右腕が、赤く腫れる。指の皮がめくれて、ひりひりと血が滲む。
……それがどうした。ぼくだって治せるんだ。魔力を注入すれば、ほら元通り。
……だというのに。
「ああ……あああっ! あの目……あの目だ! どいつもこいつも、ぼくの成功を願っていない、失敗した後のことしか頭にない、あの目! 次はどんな実験で呼ばれるのか、少しは有意義であるといいな、今度は金になるだろうか、なんて思っていそうな……治るだなんてこれっぽっちも思ってないような……ああ……」
ぼくは自分の発言で、自分を傷つける。目に見えない相手を刺したつもりで、自分に刃が刺さってしまっている。
あれは有意義でない実験だった。ぼく自身そう思っているのだ。
新しい聖水を生み出し、その効能の違いを比較できたことは収穫かもしれないが、今のところ用途がない代物だ。益にはなるが、富にはならない。
アンジェはピクト家の役に立つ。そう説得しつつ、そのために資金を無駄遣いし、小さくない損を積み重ねている。なるべく実験に付加価値をつけ、役に立つ副産物が生まれるようにはしてきたが、そろそろ研究者たちの目も厳しくなり始めている。
熱や冷気を与える実験の時はまだ順調だった。保管倉庫の魔道具をぼくが改良して、図面にして部下に作らせて新製品として売り出せば利益が出た。
ぼくからしてみれば、今の世の中に出回っている魔道具は効率が悪すぎるんだ。小型化や低燃費化は、ノーグの得意分野。ぼくにとっても簡単だ。
でも最近の実験はそうはいかない。ぼくにしか量産できないものばかり生み出している。さっきの聖水のように。
……これではピクト領のためにならない。
「ぐう……ぐううううううっ!!」
ぼくは地面に額を擦り付けながらうずくまる。
ぼくの有用性は伝わっている。今日だって他の技術者では真似できないものを作ってみせた。
だが、だからこそ、アンジェにこだわって不必要なものばかり作る今の方針は、彼らにとってもどかしいものになっている。ちゃんとした工房で新技術を開発してほしいと、何度嘆願されたかわからない。
次は呼んでも人が来ないかもしれない。ぼくの研究に参加しないことで、抗議してくるかもしれない。
次ではなかったとしても、いつかはそうなる。対策を考えなければなるまい。
どうすればいい。どうすればアンジェを守りながら研究を続行できるんだ。考えろ。足りない頭を必死に回して考えろ。意思と思考を放棄するな。
床に向かって唸るぼくに、ラインが膝をついて声をかけてくる。
「お嬢様。お召し物が汚れてしまいます」
「ああ、そう。そうか。脱ぐよ。あいつらさえいなければいくらでも脱げるよ。せいせいする!」
見知った顔しかいないここなら、露出しても問題ないわけだ。最近は実験のせいでずっと外部の人が出入りしているから、分厚くて面倒な服を着ている時間が長くなって困る。
女の使用人を呼ぶのが面倒くさい。ぼくは着ている服をラインに脱がせ、下着も放り投げて長椅子に横になる。
うぶなラインはぼくの裸体から目を逸らしつつ、また何事かを提案してくる。
「……差し出がましいかもしれませんが」
「なんだよ」
「類例を書庫で探す、というのはどうでしょう」
「書庫の本は読破した。だいたい頭に入ってる。というか、ぼくが読み終わったの知ってるだろう。ラインだったら」
驚愕するラインに、ぼくは冷たい目を向ける。
ラインはぼくが屋敷の居候になった頃からの仲だ。名前を覚えたのはだいぶ後になってからだけど、書庫に出入りしている姿を彼は見ていたはずだ。
最近は書庫に行かなくなったことも、当然把握しているものと思っていた。
「気が付いてなかったのか。近くにいるのに」
「不可能だと思っていました」
「あ、そう」
……悲しい。
今だけじゃない。ずっと悲しい。
この悲しみが何処から来るのかわからない。
認められない寂しさか、助けられない無力感か。
……人恋しさから生まれる、温もりへの渇望かも。
「疲れた」
ぼくは久方ぶりに、そう呟く。
それと同時に、心の中にあった何かが萎む音がしたような気がする。
……気力。あるいは、自信。生きる意味。生きていてもいいという、自己肯定感。
ぼくは既に死んでいるはずだった。何かの間違いでここに辿り着き、気の迷いで生きてしまっていただけなんだ。
……せめて、ここでアンジェを生き返らせることができたなら、生きている意味があったと思えたのかもしれない。
「次の実験内容が、たったいま決まった」
自分でも驚くほど空虚な声で、ぼくは告げる。
「ぼくひとりでやらせてほしい」
極めて危険な賭けを、するつもりだ。




