第60話『隠し味の甘味』
《ビビアンの世界》
予感。
朝目覚めたぼくが最初に感じたそれは、まさに予感としか呼びようがないものだった。
「むむぅ?」
ぼくは上体を起こし、天蓋を振り払って辺りを見回す。
戸棚にしまわれた薬品。湿気ないよう厳重に保管された茶葉。机の上で山を作っている本。小規模な実験を行うための器材。
そのどれもが、予感に合致していない。いつも通りの位置にあり、いつも通りに沈黙している。原因が彼らにあるとは考えにくい。
「うぅむ。この件は後回しかなぁ」
疑問を前にして悩み続けるのは、時間の無駄だ。他のことをして思考を柔軟に保ちながら、解決の時を待とう。時という資源は限られているのだから。
ぼくは小さな鐘を鳴らして従者を呼びつつ、柔らかい絨毯の上に立つ。
「良い目覚めだねぇ」
ぼくはすっかり肉がついた腕をぐいぐいと曲げて体操をする。
人の基準だとまだまだやせ細っている部類だけど、血肉が形となってそこにあるというだけで、ぼくにとっては太り気味だ。
それにしても、今のぼくはアウスなのだろうか。それとも新種の魔物なのだろうか。もしかすると悪魔に進化していたり……。
でも歴史上アウスが元になった悪魔はいないらしいし、無理かな。言葉を喋れるのに悪魔になれないっていうのは変な気がするけど……。
「……ん」
扉を叩き金で鳴らす音がする。従者の到着だ。
ぼくが返事をすると、使用人の服を着た女性がうやうやしく頭を下げる。
堅物そうな雰囲気の、かっちりした女の人。成人して数年ってところかな。そのうち仲良くなって、自然な流れで年齢を聞き出したいなぁ。
「おはようございます。お嬢様」
いつも通りの厳しそうな声色。でもその奥にはあざとい内面が隠されていることを、ぼくは知っている。
ぼくは目下の者を使い捨てにするそこら辺の貴族とは違うんだ。自分の世話をしてくれる人のことはちゃんと把握したい。
「じゃあ、着替えよろしくぅ」
そう言って、ぼくは姿見の前に立ち、されるがままに寝巻きを脱がされる。
貴族の服は複雑で、ひとりでは着れないものが多いのだ。ぼくなら腕を水に変化させて、強引に着ることもできるけど、仕事を奪うのは良くない。
「今日のぼくはどうかなぁ?」
「いつも通りです」
「そっけないねぇ」
まったく、お堅いねえ。感想を言うくらい、してくれてもいいんじゃないかなぁ。
まあ、揚げ足取りをされてクビにされないか不安なんだろう。よその貴族に仕えていたけれど、子供のやんちゃを止められなくて、責任を取らされたんだったか。
悪魔と戦うピクト領に流れ着くのは、有能な変人ばかり。彼女もその例に漏れないということだ。
ぼくはいつもの中級貴族らしい衣装に着替えると、寝室を出て工房へと向かう。
さっきの人はそのままぼくの寝室の掃除。だから、別の使用人が一緒だ。
「ライン。工房までよろしくねぇ」
「かしこまりました」
ラインはぼくに専属でつけられた青年の使用人だ。最初は破天荒なぼくの態度に戸惑っていたのか、接し方がどこかぎこちなかったけど、今はそれなりに仲良くなれている。
ぼくが工房の鍵を開けて中に入ると、ラインも後に続き、扉のそばで護衛兼取り継ぎ役になる。
しばらく人工臓器の製作を進めていると、ラインが近づいてきて一礼し、耳打ちする。
「お嬢様。非常事態だそうです」
なるほど。ぼくが集中している間に、伝言があったようだ。
それにしても、こんな時間に魔物の襲来とは珍しいじゃないか。ぼくは夜の担当なんだけど、今ニーナは訳あって動けない状態だ。出るしかあるまい。
ぼくは頷き、完成間近の心臓部分を丁寧に仕舞い、鍵をかけながらラインに尋ねる。
「どこの戦線?」
「それが、市中だそうです」
「んん?」
街まで攻め込まれた、ということになるけど……それにしては慌てていない。
どういうことだろう。迷い込んできたはぐれの魔物を、うっかり監視が見逃してしまった……とか?
それでも民間人への被害を考慮すれば、もう少し焦って然るべきだ。
廊下を歩きながらぼくが首を傾げると、ラインは周りに聞こえないようにそっと耳打ちする。
「瀕死の魔物が川に漂着したそうです。危険性はないと見られていますが、前例のない姿ということで、群青卿まで話が通ってしまいました」
「あぁ。面倒臭いやつだねぇ」
大した用事でもなさそうだけど、市街戦だし、不明な相手だし、とりあえずぼくみたいな強者を呼んでおこうってことか。
ぼくは豪華な服の上から地味な外套を羽織り、よそ行きの服装に早変わりする。
「ま、手早く済ませちゃいますか。案内してねぇ」
「かしこまりました」
ぼくとラインは、魔物が侵入したという川まで足を運ぶことにする。
そこは奇しくも、ぼくがこの街に来た時に打ち上げられた、川のほとりのようだ。
……朝の奇妙な予感は、これだったのだろうか。
なんとなく腑に落ちないものを感じつつ、ぼくは道を開けて頭を下げる使用人たちを横目で見送る。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
黒い泥の塊。ぼくは初めに目についたものを見て、そう思う。
川の岸辺に、腐った肉と水を吸った炭を混ぜたような物体が転がっているのだ。
それはまさに、泥としか形容しようがない汚物。
「……これが魔物?」
「ええ。特有の魔力を感じます」
「それはそうなんだけど……んんぅ?」
ラインはぼくの後ろに隠れて震えながら、泥の様子を窺っている。
怖がりなんだから、もっと後ろの壁にでも隠れていればいいのに。律儀についてくるのは彼の真面目さが故か。
「(ぼくが流れ着いた地に奇妙な泥。なるほど。ぼくが呼ばれたのも納得だ)」
ぼくはラインを振り切って、泥が転がっているところまで歩いていく。
……近づいてみると、その黒さが目につく。外見だけじゃない。魔力が黒いんだ。禍々しく、視界に入るだけで震えが脚にくる。
ただ、その力は弱っている。悪魔に匹敵する濃さの割に不安定で、やけに不規則な動きをしている。今は本調子ではないのだろう。
「何処かの魔物が、誰かにやられて、泥にされた。そんなところかなぁ」
「相手を泥にする魔法ですか?」
「記録に無いけど、どうせ誰かの固有魔法でしょ」
ぼくはさっさとその泥を片付けて仕事に戻るべく、義手に魔力を込める。
腕から放つのは、火の魔法だ。ぼくの得意分野ではないけれど、義手の力と、体内にあるアンジェの魔力を借りれば、無詠唱でも余裕で発動できる。
ぼくは動かない目標に狙いを定め、魔力を高め、熱で義手を埋め尽くし……。
そこで、止める。
「体が……疼いている?」
ぼくの魔力が、震えている。ぼくの中にあるアンジェの魔力が、あの泥を求めている。こんなことは初めてだ。
……これが予感の正体か。不気味な未来が待っている気がする。
「やってみるか」
ぼくはその力の持ち主であるアンジェを信じて、泥のすぐそばまで接近する。
目と鼻の先に、泥の山が堆積している。注意深く嗅いでみると、かすかに甘い匂いがする。泥のようだと思ったけど、目を閉じて嗅覚だけに集中していると、なんだかお菓子を前にしているような気分になる。
「(アンジェも甘い匂いがする子だったなあ……。体の全てから優しい香りが……いや、まさか)」
この泥こそが、アンジェなのではないか。そう思えてならない。
魔物の魔力を垂れ流している理由は不明だが、尋常ではない目に遭ったのだろう。
「ライン! 応援を呼んで! 医療班と、工房を!」
「攻撃部隊は……」
「いらない。支援要員を!」
ラインは納得がいかないという顔をしつつも、全速力で兵舎へと駆け出す。
彼を待っている間、ぼくはぼくにしかできないことをしておこうか。
「ねえ、アンジェ。聞こえる?」
「…………。」
ぼくは泥の塊に声をかけてみるけど、返事はない。側から見たら泥に話しかける狂人にしか見えないだろうけど、そんなことを気にしている場合じゃない。
知性が残っている可能性は限りなく低い。アンジェの心はもう、ここにはないのか。
……せめてアンジェの遺体だけでも、取り出さなくては。
ぼくは服の内側から聖水を取り出して、惜しみなく泥に振り撒く。
泥が侵食することでこんな状態になっているのだとしたら、内部にアンジェの体が納められている可能性は十分にある。溶け切っていたら手遅れだけど、そうではないと信じたい。
ぼくが注いだ聖水は、魔物……いや、悪魔の反応を色濃く発生させて、瞬く間に蒸発してしまう。
「(防がれた。いや、吸収された!?)」
ありえない。高密度の純粋な魔力である聖水を、こうもあっさり自分の魔力に変えられるなんて。水魔法と聖水の扱いに習熟したぼくでさえ、10回やったら3回は失敗するのに……。
泥の力を少々侮っていたかもしれないな。
「(1発かますか? でも仕留めきれず、街に逃げ込まれたら大混乱だ)」
ぼくは街の住民の安全を考慮して、迷う。
今のぼくは貴族だ。人の生活を守る立場にある。
旅人だった頃のぼくなら、1発魔法を当てて反応を確かめていたところなんだけどなあ。今じゃそうはいかない。
そんなぼくのところに、ラインが到着する。
「医療班3名、工房班2名、召集しました!」
「ご苦労!」
ぼくは私見を各班に伝え、件の泥の魔物を檻に入れて輸送させる。
……面倒な任務だなんて、とんでもない。ピクト領に来て以来、最大の仕事じゃないか。
ぼくはラインを伴って屋敷に戻り、書庫の本を漁りながら、部下たちの解析結果を待つことにする。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
丸一日経過して、夜になった。
ようやく第一弾の報告書が上がってくる。
おそらくこうだろうけど確証はないって感じの、まるで自信がない文体だ。解析にどれだけ苦戦させられたのか、ありありと感じられる。
「どれどれ。ぼくが戦いに出ている間に、ちゃんとやってくれたかな……」
ぼくは自分の寝室で、定例会議という名のおしゃべり会をしているニーナと共に、書類を読み漁る。
「ふむふむ」
……試した治療を順に書き連ねた結果、かなりの文章量になっているんだけど、ほとんどが失敗か、失敗の尻拭いのための行動だ。
「まさかとは思うけど、ピクト領は医療に明るくない感じ?」
「魚群泳ぐ大海でさえ骨を編む結晶たちなり」
「あの泥は厄介なんだね。恐ろしいなぁ」
ぼくはニーナと意見を交換しながら、読み進める。
ニーナは朝日が出てもまだ読んでいそうなくらい遅い。活字慣れしているはずなんだけどなあ。
仕方がないから、ぼくはおおよその内容を語って聞かせることにする。
「まず、あの泥はアンジェの体そのものだった。泥に変化する魔法を受けたわけではなく、自発的に変化したものらしい。偶然か意図的なものかはわからないけど」
「……かの者とは、如何なる歴史を紡いできた?」
ニーナは興味深そうな様子で、アンジェが何者なのかを聞きたがっている。
「アンジェはソーラ領アース村の出身だよ。ぼくにとっては隣村の女の子だねぇ。何歳かは知らないけど、見た目は5歳か6歳くらいかなぁ。賢くて可愛くて、しかも強いんだ」
非の打ち所がない完璧な人間として紹介してしまったけど、実際これで間違っていないのだから困りものだ。
短い付き合いだったけど、彼女の印象は強烈に残っているよ。ぼくにとっては、今でも友達だ。
遠く離れたマーズ村で、今もジーやエルと一緒に暮らしている……と、思っていたんだけど。
「……何かあったのかな」
「涙流さずして語ること能わず……?」
「かもしれないね。不安だ」
マーズ村が悪魔に襲われて、魔力を注ぎ込まれて、アンジェも悪魔になってしまった……ということだろうか。アース村で起きた悲劇が再来したのかも。
ジーとエルが心配だ。ぼくにも私用で動かせる部下が何人かできてきたし、近いうちに探らせないと。
ぼくは遠い故郷を想う気持ちを心に封じて、報告書の内容に戻る。
「その外見は、人型の泥。外部の魔力・魔法・魔道具を分解して自らの力に変え、存在を保っている。魔力の供給が途絶えれば、急速に萎んでいく」
「泥の人形というわけか」
「医療班は聖水や煎薬による治療を行うも、全て泥の魔力に変換され、効果なし。研究用として一部をもぎ取ると、魔力が荒れ、吸収する範囲が拡大。実験室の防護壁を飲み込みかけた」
「楔は息災か?」
「死傷者はいないよ。うっかり魔力を吸われた人がいたけど、特に問題なし」
悪魔を相手に不用意に近づいたのは減点だね。主任技師のクリプトンに次ぎ、工房で2番目に偉いぼくとしては、その人員への処罰を検討したいところだ。
でも、真っ先に接近したぼくが言えたことではないし、黙っておくか。
「大量の魔力を投与すれば泥から次の形態に移行するのではないかと考えられる。よって各方面に申請し、魔力を徴収する方向で固まっている。……これはぼくが保留にしておいたよ」
「ほとばしる脳髄である! お見事!」
よその部門に迷惑をかけちゃいけない。まず自分たちでできることをやるべきだ。そう思って止めたんだけど、それでニーナから褒められるとはね。
「現在は泥に純粋魔力を与えつつ、実験室で保管中。泥は蠢きつつも、大規模な変化はなし」
「寝坊助である。鍛治は容易で狂いなし」
刺激さえしなければ、このまま保管し続けられるだろう。
それにしても……寝坊助、か。確かにアンジェは眠っているようだ。まさしく泥のように。
どうしてこうなったのかは、報告書には書かれていない。原因究明は別の畑が違う時期にやることだ。気になりはするけど、解き明かすべきは今じゃない。それが普通の研究者感覚だ。
……でも、ぼくにとっては違う。原因を探る事こそ優先順位の一番上にある。
「アンジェに何が起きたのか、知りたい」
「対峙する作品が虚無であるとは、いもむしさんでも思いはせぬ。流し込もう。群青なる活力を」
「うん。今のぼくなら、無理も通せるよね」
ぼくはやりたいようにやるだけだ。ニーナも対策を練る必要があると言っているし、後押ししてくれるだろう。
順序を変えて、次なる作戦はアンジェ救出だ。
既に生きてはいないだろうけど、泥の中に遺体の一部くらいは残っていてもおかしくない。丁重に弔ってあげないとね。
……ぼくよりあの子の方が先に死ぬなんて、おかしな話だ。
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《ビビアンの世界》
次の日の夜。
ぼくはピクト家の会食に参加し、この場を借りて軽く事態の説明をする。
ただし、貴族の食卓において汚い話題はご法度だ。死を連想させる表現はもちろん、泥などの汚れでさえ忌み嫌われる。
そうした表現を丁寧に避けつつ、ぼくは極めて簡潔な説明を述べる。
「かのお客人は、たいへん物静かな方です。礼を尽くし、長居をしていただく予定です」
まあ、これくらいでいいだろう。婉曲表現の塊みたいなものだけど、彼にも報告はされているはずだし、これで意図は伝わったと思いたい。
ピクト家の元当主……つまりニーナの父親である、ドムジ・フォン・ピクト。
彼は丁寧な所作で料理を解体しつつ、厳格そうな顔で感想を呟く。
「結構。引き続き尽力なさい」
ドムジの貴族としての格は、子爵。つまりぼくは、彼と同格だ。
でも一家を取りまとめる立場を続けてきたからか、貫禄が全然違う。声も視線も立ち振る舞いも、何もかもが威圧感を放っている。
……しかも、武闘派の傾向があるピクト領の代表として、彼自身も結構な腕前だそうで。ぼくじゃ勝てないかもしれないと思うと、腰が引ける。
立場上はニーナの方が偉いはずなのに、当の彼女もどこか遠慮がちだ。父親ってだけで、逆らう気力が削がれちゃうよね。色んな意味で。
「(当主の座を譲ってるってことは、ニーナのことをかなり認めているはず。それなのに、貴族としての義務はだいたいこの人が果たしてるし、そのせいか妙に圧が強い)」
ニーナは結局のところ、他者の力を借りなければ生きられない。万全の人間であるドムジの方が、人間社会における役割を果たしやすいのだ。
故にニーナは、ドムジに頭が上がらない。ピクト領の力関係は、なかなかどうしてねじれているのだ。
……そのうえ、今はぼくという異分子もいる。もうめちゃくちゃだねぇ。彼はこの街をどうするつもりなんだろう。
「(居心地悪いなぁ)」
ぼくはひとつの間違いもせず食事を終え、作法通りに礼をして退室する。
息が詰まるけど、これが貴族の標準だ。ぼくの性格が貴族に向いていないということなんだろう。
ぼくは使用人を伴い、予定通り工房へと向かうことにする。
……早く工房に戻りたい。あの空間に籠って、好き放題したい。そう思うと、自然と歩く速度が増していく。
やっぱりぼくは、どれだけ地位を得たとしても、ほんものの貴族にはなれないんだ。
残念だけど、ちょっと安心だ。
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《ビビアンの世界》
その日の研究に、ぼくは特別監督として参加させてもらう。
増員された研究者たちは、皆恭しく頭を下げてぼくを出迎えてくれる。
内心面倒くさいと思ってそうだけど、それを顔に出す奴はここにはいない。ここにいる誰もが研究第一だから、それを妨げるような行動はしないんだ。
だからぼくも、指示は出さない。そういうのは慣れている現場の人の仕事だ。ぼくは大事な友達であるアンジェの心配をするだけ。
「……アンジェ」
ぼくは泥でできた不恰好な人形を見て、悲しい想いに包まれる。
あれがアンジェだなんて、信じられない。あのおどおどした表情はどこにあるんだ。将来は美人さんになるだろう綺麗な顔はどうした。艶々で羨ましい素敵な黒髪はどこに消えた。
「群青卿。お手数ですが、生前の彼女について、お聞かせください」
医療班のひとりが、ぼくに話しかけてくる。
ここ最近は魔物の専門家が調査してばかりだ。人間用の医者たちは手持ち無沙汰になっている。進展が無いままだとつらいから、ぼくに頼りに来たんだろう。
ぼくは了承して、アンジェとの思い出を語って聞かせる。
身体的特徴はもちろん、彼女の性格、癖、才能、そして交友関係まで洗いざらい話す。
医療班の人は、シュンカとの戦いを聞いた辺りで、にわかには信じられないと言いたげな顔つきで、紙に書き記す手を止める。
「その年齢でシュンカを打ち倒すなど、信じがたい」
「あの子の魔法、ぼくより強かったよぉ」
「山育ちの田舎者に、そのような力があるはずが……いえ、異を唱えてしまい、申し訳ありません」
「へぇきへぇき。公の場じゃないし」
服が重い。空気も重い。面倒くさい。
そんなことを考えながら、ぼくはアンジェとの思い出をだいたい語り終わる。
たった数日の関係だったけど、話してみると案外語れるものだ。それだけぼくはアンジェが好きだったんだろうね。
ナターリアみたいな長話になってしまったけれど、彼らにはそれくらいでちょうどいいだろう。
医療班の人は、頭痛を我慢している。田舎娘だと思っていた被験者が、姿や功績を想像するこそさえ難しい大天才だったのだ。そうなるのが必然だろう。
「なんという……。それほどの少女が、あんな……。世界にとっての損失ではありませんか」
「でしょ?」
ぼくもそう思う。アンジェより凄い魔法使いはこの街にもいない。アンジェの魅力が伝わったようで何よりだよ。
……それにしても、さっきから体がウズウズする。アンジェの近くにいるからかな。昔吸い込んだあの子の血液が、ぼくの体の中を駆け巡っているみたいだ。
ぼくがラインに額の汗を拭いてもらっていると、医療班の人は心配そうに顔色を見てくる。
「椅子をご用意いたしますね」
「ありがとう。でも、ぼくは魔物だ。立ちっぱなしでも貧血なんか起こさないよ」
「……そうでしたね」
人間の体をいつも見ているだろうこの人でさえ人間と見紛うほど、ぼくは精巧に模倣できているのか。アウスという魔物の恐ろしさを思い知るばかりだ。
ぼくは大人しくみんなの仕事ぶりを観察しながら、彼らが使う魔道具をじっくり眺めることにする。
あれは雑多な魔力を分離する魔道具。あれは不定形の魔物を固定する魔道具。あれは聖水ろ過装置。あれは骨董品の義足。
全部ぼくでも作れる程度のものだ。面白くもない。現場でどう使われているのかは、若干興味があったけど……説明書と新人教育が万全すぎて、予想通りだ。
何も得るものがない。仕方ないから、暇潰しに工作でもしようかな……。
すると、ちょうど飽きてきたあたりで、医療班の人がまた話しかけてくる。
退屈を察してくれたのかな。医者らしくよく気がつく良い人だ。
「どうしたのぉ?」
「群青卿は、特異な体質をお持ちですね」
「まぁ、そうだね」
なんてったって、水になれるからね。瑞々しい良い女だ。
「私が学者として注目したい点は、髪の色ですね」
「ぼくの髪が素敵ってことぉ?」
水溜りのようなくすんだ水色に、渇いた血のような赤黒いシミ。自分では綺麗だと思わないけど、他の人から見たらそうなのか。
「ええ。赤と黒が交互に入れ替わり、まるでシュンカの毛皮のように……」
「ん? 色が入れ替わる?」
ぼくは自分の髪の毛を何本か引き抜いて、素早く目の前に持ってくる。
……確かにチカチカと点滅している。赤、黒、赤、たまに青。
……いつの間にこんなおもしろ女になっちゃったんだろう。どう考えてもアンジェのせいだよね。
「これ、アンジェの魔力と共鳴してる……。アンジェがぼくを呼んでるんだ」
ぼくは医療班の人や実験中の魔法使いたちに許可を得て、アンジェの魔力を与えてみることにする。
魔力を分離する装置で、ぼくの中からアンジェ成分だけを正確に抽出し、ろ過装置を応用して不純物をなくす。泥になったアンジェを固定すれば、準備完了。
「おお……なんという技量……! 魔力操作の精度が凄まじい……!」
「これらの魔道具の製作をなさっている方ですから。もしかすると、群青卿を中心としてピクト領の技術革新が起こるやもしれませんな」
「なんと。これらの画期的な魔道具を……。その腕前を……その頭脳を……もっともっと近くで見たいものですね!」
ぼくの鮮やかな手際に、工房の技師たちも拍手喝采だ。嬉しいけど、集中できないからやめてほしい。
「いざ」
ぼくはアンジェの中にアンジェを流し込む。
これで元に戻ってくれればいいんだけど、妙な結果になる可能性もなくはない。アンジェの姿をした魔物が誕生してしまうかもしれない。あるいはアウスになってしまうかもしれない。何の変化もないかもしれないし、アンジェが死んでしまうかもしれない。
それでも、やるしかない。
ぼくたちは実験室の隅から、魔道具の透明な板越しにアンジェの様子を見守る。
滑らかな泥が蠢き、今までとは違う不規則な反応を見せる。
揺れ、暴れ、膨らみ、明確な形を取り始める。
やがて泥の中心から星型の突起が生まれ、枝分かれしていく。……あれは四肢と頭部か。
泥だった黒い塊は美しく漂白され、内側から少女の姿が顕現する。
しっとりとした黒い髪。黒曜石より美しい瞳。薄い唇。陶器のような首筋。肋骨の浮き出た胸。肌は透き通るほど白く、手足は折れそうなほど細い。
一見頼りなく見えるけれど、その内には熱い心と確かな実力が秘められている。
アース村のアンジェ。美貌の英雄が、今ここに再臨する。
「おお……おおおおっ!」
工房の技師たちは色めき、反面医師たちはざわついている。
正反対の反応だけど、ぼくにはどちらの気持ちもよくわかる。
アンジェは綺麗だ。一目惚れしそうなくらい魅力的だ。だけどそれが強烈な魔力を放ち、泥の中から現れたとなれば、話は別だ。
この街に波乱をもたらす凶兆。そして、第二のぼくになり得る吉兆。
……悪魔になっていたとはいえ、これほどの力を持っているのは予想外だ。建物の外からでも存在を感じ取れるんじゃないだろうか。
アンジェの周辺だけ空気がねじ曲がっているように見える。視界に入れているだけで目に穴が空いてしまいそうだ。
アンジェの身に、一体何が起きたのだろう。
今のぼくにとって、それこそが一番の気がかりだ。




