『幕間:白き剣士』
サターンの街、中央広場。
隅には未だ瓦礫が転がっており、悪魔による被害が痛々しい。
だがそんな傷跡を覆い隠すように、辺りには劇団の美しい布が飾られ、有志の楽団による音楽が奏でられている。
合同葬儀が終わり、街の復興が進む中、娯楽の街の姿を取り戻すべく、無料の公演が行われているのである。
楽しみがなければ、人は生きられない。昼は働き、夜は遊ぶ。心の闇を祓うためには、明るく振る舞うのが肝要だ。
劇団による今日の演目は『白き剣士』。今回の事件を舞台劇にしたものだ。
英雄が駆け抜けた華々しい物語にすれば、死者たちも少しは報われる……。芸事に身を投じる者たちは、そう信じているのだ。
当然、観光客に対する事情説明と、善意の集金も兼ねている。サターンの街が健在であるという見栄も。綺麗事だけではなく、現実を見た結果でもあるのだ。
こうして今夜も、野外劇場は開かれる。
座席は満員御礼。立ち見席も大繁盛だ。
〜〜〜〜〜
演奏。
未だこの街に残る筋金入りの楽師たち。彼らの奏でる音により、劇は始まる。まずは悲劇に見舞われる前のサターンの街を描写するのだ。
迷い込むような短い音。そこから広がる、賑やかな交響曲。
やがて楽団の音は、中央広場の空気を掌握する。
見上げれば夜空。星々さえ観客。この地は歌う劇場と化した。
次に、劇団員たちが色とりどりの衣装を着てなだれ込んでくる。
まだ経験が浅い若い衆が多い。だがその熱意は舞台を飛び越え、観客にも強く伝わる。
若さとは、それだけで華になり得る。ましてや煌びやかな衣装を纏っているとなれば、格別だ。
そして、彼らと共に現れるは芸人たち。劇団員とはまた違う、本職の大道芸人だ。
サターンの街は芸術溢れる娯楽の街だった。この世の楽園、あるいは芸の総本山。その華やかさを蘇らせるべく、街を愛する劇団は、野良の芸人たちを一気に雇い入れ、この劇に参加させたのだ。
劇団による絢爛な踊り。芸人による派手な大道芸。2つが合わさることで、混沌とした、それでいて勢いのある『繁栄』を表現しているのだ。
それはすなわち、在りし日のサターンそのものである。この地の者たちにとって、最も馴染み深い姿。
しかし、演奏に不協和音が増えるにつれ、壇上から活気が消えていく。
明かりは暗く、夜に飲まれ。芸の勢いは急激に落ち込み、舞台の上から繁栄が消える。
代わりに現れたのは、仮装をした劇団員。だがその体は魔道具の布に覆われ、まるで本物の悪魔のようにおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
悪魔は4体。
病魔を振り撒くネズミの悪魔。
世界を飲み込む木の悪魔。
人間に化ける片目の悪魔。
人の拠り所を焼く炭の悪魔。
この街を襲った軍勢だ。
木の悪魔のみ、大がかりな舞台装置で巨大さを表現している。街を見下ろすほどの巨大さはないが、暴力を宿したその異様は十分に観客に伝わっている。
客席から悲鳴が漏れるが、壇上の彼らは現実の悪魔と違い、人を食い殺さんばかりの凶悪な魔力は纏っていない。そのため、観客たちはぎりぎりのところで席を立たず、観劇を続行することに成功する。
劇団員の、観客が許容できるぎりぎりを狙った演出は、ここに成就した。観てもらってこそ演劇。感情を揺さぶってこそ演劇。その両方を、演出の力でもぎ取ったのだ。
ともすれば批判を呼びかねない、綱渡りの演技。芸として許される限界点を、彼らは心得ている。
まずネズミの悪魔が粉でできた病を振り撒き、芸人たちが苦しみながら倒れていく。
もちろん演技ではあるが、楽団のおどろおどろしい音色により、緊迫した雰囲気が周辺一帯に満ち満ちていく。
次に木の悪魔が腕を振り上げ、咆哮する。
壇上の物を壊すわけにはいかないため、威圧だけがこの木偶にできる演出だが、それだけでも観客に与える圧迫感は並々ならぬものがある。
更に片目の悪魔が走り回り、街に嘘と疑念をばら撒いていく。
恐ろしい形相で叫びながら宵闇を駆ける姿は、多くの住民に目撃されている。木の悪魔によって捕らえられた人の輪の中に飛び入り、混乱を与えた姿も。
それらの『事実に基づいた描写』は、舞台の上をこれでもかと引っ掻き回す。
そして炭の悪魔が頭から炎を吹き上げ、派手に舞台を火に包んでいく。
舞台のあちこちに可燃物を入れた筒を仕込んでおいたのだ。日常のどこでも使われている蝋燭だが、演出を工夫すれば、小物でも悪魔の脅威を表せる。
かくして現れた4体の悪魔は、人間では抗うことさえ難しい大きな脅威として、劇を支配する。
吠える巨人。燃える炭。揺れる片目。踊るネズミ。
まさに暴威。まさに醜悪。人の世が失われ、悪意で満ちた乱世となる。
今は彼らこそが、劇の中心にいる。サターンの繁栄は失われてしまったのだ。
だが、先程とは違う弦楽器の鋭い音が、客席の後方から鳴り響く。
劇場通いの貴族なら、この音だけでわかるだろう。主役の登場を。剣士の出現を。英雄たる悪魔祓いの、堂々たるお出ましを。
重苦しい空気を切り裂く鋭い音色は、主人公が現れた証なのだ。
観客席の間に引かれた通路より、白い髪の少女がゆっくりと歩いてくる。
鎧を纏い、黒い大剣を片手で持ち、それでいて優雅に歩く、美しい少女。
誰よりも気高く、誰よりも強い者。彼女は凛とした振る舞いで、悪魔へとまっすぐ歩いていく。
そう、彼女こそが、白き剣士。この物語の名にもなっている、実在の英雄だ。
……街の悲劇をその身の体験で知る者は、この役者は美しいが、再現としてはイマイチであることに苦笑するだろう。
本物は年若い少女であった。胸が大きかった。そして何より、龍のように力強い角や翼を生やしていた。
劇団は白き剣士が人であることを強調するために、あえて装飾を省いたのだろう。あのような部位がついていたら、悪魔と勘違いされてしまう。
白き剣士は、黒い大剣を振り上げて、高々と名乗りを上げる。
「人に仇為す悪鬼の群れよ。剣に敗れ、地に沈め!」
そして、殺陣。剣士が跳び、悪魔が揺れる。
剣技の軌跡に蝶が舞い、剣士の足跡に花が咲く。
華やかな剣舞が壇上を飾る。炎が消え、粉が消え、荒らされていた街並みが少女の手で彩られていく。
悪魔は次々に沈んでいき、そして炭の悪魔が最後に残る。
白き剣士は、今一度剣を掲げ、僅かに感情を滲ませた声で叫ぶ。
「我が故郷を滅ぼせし悪魔よ。亡き友の黒剣で引導を渡そう!」
決着。
かくして、白き剣士の活躍は終わった。
冒頭の歌と踊りが再び繰り広げられる。街が人の手に戻ったのだ。
だがそこに英雄の姿はない。白き剣士は行き先を告げることなく、ただ静かに次の街へと旅立ったのだ。
観客席の間を通り、白き剣士が去っていく。無言で闇へと消えていく。
そして『白き剣士』は閉幕する。
万雷の拍手を浴びながら。
〜〜〜〜〜
領主であるヤヌス・フォン・ソーラの演説を聞き流しつつ、観客たちは口々に感想を交わし合っている。
醒めやらぬ興奮に紅潮しながら。あるいは生を実感して涙しながら。
物語は救いのある結末として終わった。こうして劇として振り返ることで、ようやく今の自分たちが悲劇の中にいないことを確認できたのだ。日常に戻ってくることができたのだ。
亡くなった人たちにも見せてあげたかった。そう口にする者も少なくない。金儲けに使われて、死者たちが怒っているのではないかと主張する者もいる。
だが、いずれにせよ、彼らは現実に帰ってくることができた。ぼんやりとした悪夢の中に囚われ続けることなく、生きる活力を取り戻している。
正しさの如何はともかく、劇団の思惑は達成されたといえよう。
そんな街の人々をよそに、何も知らない立場の旅人は、少し客観的にこの劇を批評している。
この街の外でも受け入れられるかどうか。公演をするとして、人手や費用はどれくらいかかるか。脚色できる部分はあるか。そのような冷めた内容だ。
大人数で談義しているうちに、この物語の斬新とも言える特異性が浮き彫りになっていく。
主人公がか弱いはずの少女であること。それが悪魔を何体も薙ぎ払うこと。これらの問題は、よそで公演する際の鬼門となり得る。
本来なら切って捨てられるような筋書きを「事実に基づいている」という1点で強引に成立させているのがこの物語だ。よそでは「あり得ない」と一蹴されるのがオチだろう。
吟遊詩人や興行主は、より受け入れられやすい形に改善された脚本を頭の中に書き始める。
白き剣士が醸し出す表向きの華やかさと、裏に秘めた暗い復讐心は、彼らの目で見てもとても魅力的であった。故にこそ、この物語を自らの力で広めたくなったのだ。
かくして白き剣士の物語は、サターンの街の代表作として、国を越えて広く親しまれることとなる。
形を変え、徐々に別物へと変貌していきながら。
〜〜〜〜〜
劇団を眺めるように留まっていた、青白い蝶。
それは月夜に溶け込むように、空へと帰っていく。
人目につくことなく、こっそりと。
誰かの目であることさえ、わからないように。
本作も残り半分となりました。
次章ではピクト領を目指す旅、懐かしい友との再会、『狂い目』たちとの戦いについて描いていきます。
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