第6話『置いて行かれた者たち』
《ニコルの世界》
旅を始めてから、丸1日経った。そろそろ峠を越える頃だ。
この体は疲れ知らずで、足も早い。野草で切り傷を作ることもないし、万が一傷がついてもすぐ治る。
おかげで自分でも信じられない勢いでここまで来てしまった。道を確認しながらじゃなければ、たぶんもっと早く着いたんじゃないかな。
「ニコル……本当にこっちであってる?」
すぐ後ろでそんなことを言いながら、アンジェは狭い歩幅でてちてち歩いてきている。
息が上がっていないし、疲れも見えない。まだまだ余裕がありそうだ。
大人のお腹くらいまでしかない小さな体で、精一杯頑張っているアンジェ。不安そうにきょろきょろしているアンジェ。動物を見かけるたびにギョッとして後ずさるアンジェ。
ああ、最高。
「(ふへへ……アンジェは可愛いなあ。可愛くて頭が良くて頼りになるなんて、最強すぎるよ)」
私は溢れ出るよだれを口の中に引っ込めて、迷子にならないよう真剣に周囲を見渡す。
記憶にある風景と違って、草木が成長したり、枯れていたりする。それでも植生がまるっきり変わってしまうことはないし、人が通った痕跡らしいものも残っている。
方向感覚もばっちりだ。来た道も覚えている。いざとなったら、ちゃんと村まで引き返せる。
「こっちの方が近いかな」
私は背の低い草を踏み分けて、緩やかな坂道を登っていく。
危険な野生動物がいるはずの場所を避けて、なるべく歩きやすく、早く着く方向を選ぶ。
そうして歩いていくうちに……ああ、見えてきた。
旅人の目印として峠に置かれた、奇妙な石像。
「……んん?」
アンジェは怪訝そうな顔でそれを見つめている。
石像は人間みたいだけど、人間の姿じゃない。悪魔のようにも見えるど、それよりずっと優しい顔をしている。
村の人はここを通るたびに頭を撫でていくらしい。面白い風習だと思う。
アース村の人たちは『ドウ』と呼んでいた。誰がつけた名前かはわからない。
「ここからはずっと下りだから」
振り向いてアンジェに向けてそう言うと、アンジェは宝石のように綺麗な黒い瞳をじっとドウさんに向ける。
きっと調べものをしているのだろう。こうしている時のアンジェは凛々しくて、カッコいい。
その目を私に向けてほしいと思うこともあるけど、遠慮しているのか、してくれたことはない。
「アンジェの能力?」
「うん」
アンジェは私の言葉を半分聞き流して、学者さんみたいな顔で顎に手を当てて、眉間に皺を寄せている。
声をかけたのは、たぶん邪魔しただけだったね。大人しくしていよう。
アンジェはしばらくぶつぶつ呟きながら、彼女が言う『知識の海』に潜っている。
私はアンジェの視界に入らないよう、花っぽい目玉を体に増やして周りを警戒しておく。
触手の擬態にも慣れてきた。そろそろ種類を増やしてみてもいいかもしれない。気持ち悪い肉塊の触手はもうたくさんだからね。
……立ちっぱなしに飽きてきた頃合いで、アンジェがぽつりと漏らす。
「これ、やばいね」
それだけ言って、アンジェは私を見上げる。
風邪をこじらせたような表情だ。顔色は真っ青なのに、汗が滝のように流れ落ちている。
私の不安をすぐ察してくれたのか、アンジェはドウさんの周囲をぐるぐる回りながら解説してくれる。
「この像は【悪魔】に対する防衛の要だった。【人間】を守るために作られた、強力な【魔道具】。大きな【魔石】を丸ごと削って……」
アンジェはそう言って、ドウさんを指でこんこんと叩きながら補足する。
「こんな感じの像が国中にあるらしい。動植物が魔物に変異したり、他国から悪魔が侵入したりするのを防ぐための機構……」
お母さんも、村長も、村の誰も知らなかったドウさんの秘密を、アンジェはあっさりと暴いていく。
「これはただの推測だけど……オレたちが襲われたのは、何者かによってこれが壊されたからだ。むしろ、これの破壊が最優先事項で、村を襲ったのはついでという可能性も……」
アンジェがそう言った次の瞬間。
峠の向こうから毛むくじゃらの赤い影が飛びかかってきた。
巨大な、赤い、何か。それしかわからない。
だけど凶暴だと一目でわかる、暴力的な姿。
魔物だ。悪魔の配下だ。見覚えがある。アース村を襲った連中の何体かが、こいつに騎乗していた。魔王たちの乗り物なのか。
警戒していたのに、まったく気が付かなかった。私の触手みたいに、擬態していた……?
「ゴアアアッ!!」
そいつの太い叫び声と共に、私の頭の中に悪夢が蘇る。
ぶくぶくと膨らむお母さん。悪魔に掴まれる感触。絶望しきったアンジェ。引き裂けるような痛み、燃えるような痛み、ねじれるような痛み、鋭い痛み、鈍い痛み、痛み、痛み。
「きゃああっ!」
私は悲鳴を上げながら尻餅をつき……
アンジェは身を挺して、私を庇った。
〜〜〜〜〜
アンジェは知識の海から、その魔物の情報を得る。
それは悪魔の騎乗用として生み出された巨大な狼。大岩のように頑強で、それでいて素早い。
筋骨隆々としており、人間が組み敷かれればまず抜け出せず、頭を食いちぎられてあっさり死ぬ。
牙や爪は鉄のように硬く、全身を鎧で固めても防ぎきれはしない。
体毛も鋭く、組み付きを避けても、すれ違うだけで皮膚が裂ける。
種族名は『シュンカ』。
人間からは『血煙』や『地揺れを呼ぶもの』。
悪魔からは『石登り』の異名で呼ばれている。
足踏みで岩を砕き、垂直な岩壁さえよじ登る、屈強な魔物だ。悪魔からの信頼が厚く、人間からは大いに恐れられている。
それが今、ニコルに飛びかかろうとしている。
……させるものか。
「だあああっ!!」
無我夢中で、アンジェはシュンカに体当たりを仕掛ける。作戦もへったくれもない、捨て身の攻撃だ。
アンジェは喧嘩をしたことがなく、狩猟も大の苦手だ。咄嗟に動くことができただけ、上出来だろう。
シュンカの顔面に、アンジェの肘が着弾する。
「グル……!」
シュンカは顔面を襲った衝撃に怯み、足を止める。
アンジェがあまりにも弱そうな外見だったため、捨て置いていたようだ。だが……この一撃で、標的が変わる。
優先するべきは、この黒い幼子だ。殴られた分、痛めつけてから殺してやる。そんな殺意と共に、赤狼の濁った瞳がアンジェに向けられる。
アンジェはシュンカに生えている刃のような体毛で裂傷を負いながらも、果敢に次の攻撃に移行する。
魔法は唱えている暇がない。知恵を絞っている場合でもない。
地面に落ちたアンジェが取った行動は、前脚への蹴りだ。
そもそも体格差がありすぎて、脚以外には体術が当たりそうにない。目の前の敵に、愚直に突っ込む形になる。
「でえやあああっ!!」
不恰好な蹴りだが、一応効果はあった。運良く奴の爪の根元につま先が当たり、ミシミシと音を立てて血が滲む。
だが相手は血に飢えた獣であり、戦闘訓練を積んだ本物の殺戮者だ。この程度の怪我で怯むことはなく、もう片方の前脚でアンジェを軽く撫でる。
ハエを払うような、気の抜けた動作。だがその爪はアンジェの腕より太く、長い。
「あっ」
簡単に、いともあっさりと、右腕が離れていく。
ばっさりと、輪切りにされて落ちていく。
そして、アンジェの視界が揺れる。振り抜かれたシュンカの腕が腹部に達し、吹き飛ばされたのだ。
アンジェは勢いよく岩肌に叩きつけられる。
内臓が悲鳴を上げ、骨が木の枝のように音を立てて折れる。冷たい岩に鮮血が飛び散り、体温が逃げていく。
岩肌にへばりついた体が揺れ、全身に鈍い重みが駆け巡る。
「ぐ、え……」
アンジェはシュンカの前脚を見て、傷ついた自分の体を見て、ようやく出血に気がつく。
少し遅れて、煮えたぎるような痛みが、頭のてっぺんまで駆け登る。
「……かふっ!?」
肺が片方潰れている。肋骨が半分折れている。喉の奥が熱い。血だ。血が溢れているのだ。
頭がぼやけている。貧血か。それとも衝撃が脳まで来たか。どちらでもいい。早く立たねば。戦わねば。
「(ニコルを、守るんだ)」
大切な彼女を、こんな目に遭わせるわけにはいかない。
アンジェは残った左腕で壁を殴り、反動で起き上がる。
視界が赤い。自分の血と、狼の体毛で、赤い。
シュンカは大口を開けてこちらに向かっている。獲物が弱った。ここで仕留める。そう判断し、追い討ちをかけてくる。
速い。速すぎる。しかもどうしようもなく大きい。こんなものにどう対応しろというのだ。
せめて相討ちにするべく、アンジェは自らその口に飛び込み、喉に目掛けて、魔法を編む。
シュンカの口の中に、アンジェの小さな体がすっぽりと収まる。
もはや退路はないが、歯が急所に当たらなければ、数秒は稼げる。その間に急いで魔法を……!
「アンジェぇぇ!!」
閉じられた口。唾液で粘ついた暗闇。死の狭間。その外側から、ニコルの絶叫が聞こえる。
早く逃げてくれ。強く生きてくれ。そう願いつつ、アンジェは血を吐きながら呪文を……。
不意にシュンカの口内が……暗闇が、揺れ動く。
〜〜〜〜〜
《ニコルの世界》
アンジェの名前を叫びながら、私は手を伸ばした。
伸びたのは手ではなく、触手だった。そういう体になっていることを、思い出した。
触手が狼の首に当たる。かなり効いたようで、狼は苦しそうにうめき声をあげている。
大口が僅かに開く。牙の隙間から、アンジェの姿が見える。
その腕から溢れ出す、激しい炎も。
「『火の腕:ムツ・ミ・アイ』」
腕から何本か、枝のような炎が伸びている。頼りなく見えるほど細い。それなのに、ここにいる私の心臓まで焦げそうなくらい熱い。
炎はつむじ風のように巻き、絡まっていく。枝が纏まり、一筋の光になっていく。
離れているのに、伝わってくる。あれは必殺だ。あれを当てれば、狼は死ぬ。
「いけええええっ!」
私はぶつかって折れた触手を大木のように枝分かれさせて、アンジェを支援しようとする。
何も考えていない。狙いもつけてない。私の頭にあるのは、ただ数を増やして広げることだけ。
ほとんどは外れた。いくらかは、狼の口に入り込んだ。何本かは舌に当たった。アンジェにも……ちょっと掠った。
狼の口は、それでも、もう一度閉じられた。触手は全部千切れて、もう制御できなくなった。
……止められなかった。目の前で、アンジェはまた噛みつかれてしまった。
私は歯を食いしばりながら触手を切り落として、もう一度、今度はもっと頑丈なものを生やす。
あの魔物にも食いちぎられないくらい、硬く、力強い腕がほしい。
私が触手の先端を作り始めたその時、光の筋が狼の背中から飛び出る。
巨大な狼の喉から、体の中へ。内臓を撃ち抜いて、尻尾の付け根まで。勢いを落とさず、まっすぐに、光の矢が抜けていく。
アンジェの魔法だ。時間はかかったけど、ちゃんと発動したんだ。
私が気づいたときには、魔物はもう地面にのびていた。さっきまでの猛攻が嘘のように静かだ。
……勝った気がしない。
だから私は、生やした触手を狼の目玉に突き刺して、中身を思いっきりかき回す。
……ピクリとも動かない。
……ああ。脅威は去ったんだ。
「アンジェ」
私は触手をちぎって捨て、おそるおそる狼の口元に近づく。
膝が笑っている。戦う前から、とっくにそうだったんだろう。気が付かなかった。
「アンジェ……?」
私はもう一度、呼びかける。
返事はない。しんと静まり返っている。
まさか。
「アンジェ!」
私は駆け寄って、狼の口を持ち上げる。
重くて持ち上がらない……はずだったのに、あっさり牙がへし折れて、歯肉が吹き飛んでいく。
私は自分の怪力に驚いて、動きを止めてしまう。
……もしかすると、私なら素手でも勝てたんじゃないのかな。この、村の家より大きい狼にも。
勝てるだなんて想像もしてなかったけど、いま自分がしたことを考えると、そんな気がしてならない。
……何を怯えていたんだ。私の大馬鹿者。戦えるなら戦わないとダメでしょ。でなければ、アンジェを。アンジェを……。
私は触手を使って、ゆっくり丁寧に持ち上げることにする。
中にいるアンジェをうっかり傷つけないように……丁寧に、優しく、持ち上げる。
「アン、ジェ」
そこには、アンジェがいる。
……違う。アンジェの、胸から下がある。
赤い舌の上に、置き物のように敷かれている。
そこから上は……。
私は狼の上顎を吹き飛ばし、舌の上に飛び乗って向こう側を覗く。
顎の向こう側には、アンジェの……目の光を失って血の池に伏せた、胸から下がない、死に、死……。
「アンジェぇぇ……」
私はその場に崩れ落ちる。
〜〜〜〜〜
ニコルの声が聞こえる。嘆き悲しむ声が、アンジェの意識まで届いている。
「(オレまで悲しくなってくるから、そんな悲惨な声を出さないでほしい。これから死ぬとしても、最期に聞くのが好きな人の慟哭だなんて、嫌じゃないか)」
アンジェは意識だけが残る世界で、自らの状態を確認する。
体の感覚が無い。肺が無いので、声も出せない。
「(でも、きっと助かる。方法はある。今のオレには悪魔の力がある。人間じゃないんだから、人間にはできない方法を使えばいい)」
アンジェは村にいる間に、薬を投与された後どうやって生き延びて、どのように女性へと変化したのかを調べた。
その結果、あの時はすぐに気を失ったが、どうやら他の犠牲者と同様に、一度体が変形して、この体になったらしいということがわかった。焼け跡の中に、たくましくも肉片が燃え残っていたのである。
つまりは、アンジェもニコルと同じだ。
普通の生き物は飯を食べて、それを体に変えている。食べなければ痩せ、食べすぎると太る。アンジェの村においても、これは常識だ。
だがアンジェやニコルの体は、そうした過程を踏んでいない。何も食べずともどんどん肉が増える。
ではこの体は何処から来たのか、ということになる。失った肉を、何で補填したのか。
「(オレの予想では、魔法の源である、魔力だ。それで肉体を形成したんだ)」
全身が魔法でできている。良い響きではあるが、アンジェはそれを不気味でもあると感じる。
きっと悪魔も、そうした生命体のはずなのだ。今の自分を分類するなら、悪魔に属することになるのだ。
「(嘆いていても仕方ない。治療を試みよう)」
アンジェは残った体の端から魔力を広げ、じわじわと伸ばしていく。
土塊を練って、広げて、焼き物にするように……。じっくりと、作り上げていく。
「(いや、待て。一旦傷口を塞ぐのが先だろう。失血を抑えて時間を稼ごう。危ない危ない)」
アンジェは初めての試みに対して、慎重に、手探りで方法を模索していく。
おそらくだが、こうして意識を保っていられるのは今のうちだ。そのうち土や風に含まれる魔力に溶かされて、意識さえ消え失せてしまう。そうなっていない今のうちに、体を修復しなければ。
懸念点は、ニコルほど自由自在に肉体を操れないということか。間に合わない可能性はある。魔力が足りないということもあり得る。
「(ニコルはおそらく、魔力を肉体に変える魔法が得意だ。だから触手や翼を自在に生み出せる。投与された薬の種類が違うからか、それとも生まれ持った才能によるものなのか……)」
ニコルが同じ状況に陥ったとしても、簡単に復帰できてしまうのだろう。アンジェはそう思い、ニコルへの思慕を募らせる。
「(……ニコル。ニコルに会いたい。ずっとそばにいてほしい。ずっとオレの前で、道案内をしてほしい。教えてほしい。与えてほしい。努力するから。命ある限り、ニコルを守るから。一緒にいるから。だから、いつまでも……)」
ここで死ぬわけにはいかない。すぐそばでニコルが泣いている。……わかる。肉体を取り戻し、ニコルが生きる世界に戻りつつある。
アンジェは黒い瞳に光を灯して……。
息を、吹き返す。




