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第52話『殺人』

 アンジェは悪魔になりかけの人間たちと乱闘を繰り広げながら、東区に突入する。


 街の真ん中で火を放つわけにはいかない。風も制御が難しい。水は不得意だ。故に、土を使う。土の塊をぶつけて殺す。


 凶暴化した人間を殺す。逃げ惑う人を避けて、暴れる人を殺す。人の中で人を殺す。頭を潰して殺す。胴を裂いて殺す。四肢をもいで殺す。穴をあけて殺す。

 出会い頭に一人。すれ違いざまに一人。不意打ちで一人。正面から一人。刺し違えながら一人。無抵抗の相手を一人。


 殺すたびに、アンジェの心の中にある何かが澱んでいく。人間でありたいと願う理想の自分が、ひび割れて壊れていく。何故こんなことをしなければならないのか、見失いそうになる。


「(オレは人を苦しめてるんじゃない。助けているんだ。今も、こうして……戦って……)」


 アンジェは変わり果てた亡骸に縋り付く女性を見送りながら、突き進む。


 ネズミの魔物の魔力を受けて、怪物になっていく人たち。それを止めようとする、彼らの知人たち。襲われる無関係の人々。変化した人間を次々に殺して回る悪魔祓いたち。


 助け合い、庇い合い、そして殺し合う。愉快で楽しいサターンの街は、一晩にして地獄に変わってしまった。


 ……自分たちの手で、この地獄を終わらせるのだ。たとえ汚れた手で屍の山を積み上げることになったとしも、それが唯一の解決策なのだから、やるしかないのだ。

 アンジェは自分に言い聞かせながら、進む。


「危ないのは、例の酒場か」


 アンジェは間違いなく被害者がいる方角に当たりをつけて、そこに向かうことにする。


 ナターリアがいつも通っていた、芸人たちが集まる酒場。そこが東区の爆心地だろう。薬は芸人たちの間で広まっていたため、あそこは極めて危険だ。


「行こう」


 アンジェは返り血に塗れた髪をかきあげ、阿鼻叫喚の大通りを突き進む。


 逃げ惑い、右往左往する人々。ここではない何処かに行けば助かると、根拠もなくそう信じている人々。転んだ人を踏みつけにして、隣の友人を蹴飛ばして、生きようともがいている。


 彼らを一刻も早く救うために、アンジェは自ら危険地帯へと飛び込む。

 自分の中にある人間性を、失わないために。


 〜〜〜〜〜


 東の生活区域をしばらく進み、アンジェはついに例の酒場へと辿り着く。


 道中で攻撃を受け、既に全身傷だらけだ。悪魔によるものだけではなく、錯乱した人々から物を投げつけられたり、誤解した悪魔祓いから剣で斬りつけられたりしたのだ。


 額には投擲によるあざ。頬には剣による裂傷。手足や胴体の傷は数え切れない。どれがどこでもらった傷かもわからないくらいだ。


「(人間と違って、どうせ治るんだ。そういう意味では、オレが一番軽傷なんだ。だから、こんな痛みくらい、我慢だ……我慢、我慢……っ!)」


 口いっぱいに広がる血を飲み込みながら、アンジェは自分にそう言い聞かせて、酒場に突入する。


 内部はやけに静かだ。夜は賑わっているはずだが、営業時間ではなかったのだろうか。

 悪魔どころかネズミさえいない。屍のひとつも転がっておらず、むしろ不気味でさえある。


 ……最も被害が大きいはずのこの一帯で、何が起きているのだろうか。


 アンジェは調整した火の魔法を灯りにし、照明をつけていく。

 敵がいないなら、ここで休息するのも手だ。体の機能に不具合が生じ始めているため、絶好調とはいかないまでも、ある程度は回復した方が後のためになるだろう。


 そうして暗い酒場の奥まで進み、奥の照明を点そうとしたその時。

 潜んでいた巨大な存在が、アンジェの顔面に拳を食らわせる。


「なっ!?」


 アンジェは咄嗟に避けようとするが、拳があまりにも大きく、そして速すぎる。

 鼻の先に指が擦れ、勢いよく鼻血が噴き出す。


「ぶっ!?」


 だが、ギリギリのところで直撃は避けられた。アンジェは入り口付近の明るいところまで飛び退き、体勢を立て直す。


 薄暗がりの中にいる相手は、極めて巨大だ。握り拳だけでもアンジェの頭部を包み込めるほど大きい。

 人間ではありえない巨漢。間違いなく、悪魔だ。


 アンジェは魔力を練り上げながら、相手に理性があることを期待して問いかける。


「あなた、人間ですか? それとも元人間ですか?」

「元人間だ」


 奥の怪物は不恰好な肉体を動かして、のっそりと、明かりが届く場所まで歩いてくる。


 上半身が太く、分厚い筋肉の鎧でがっちりと固められている。その反面、下半身は短く、不細工な大根のようだ。

 そして……その顔は、明らかに人間だった頃の面影を残している。元人間という言葉通り、薬で変化した人間なのだろう。


 怪物は男の声で、おそらくは笑っているのだろう、多量の水分を含んだ息を漏らす。


「ゲッヘッヘッ……俺はゲダイ。……いや、それは人間だった頃の名だ。悪魔としての名を考えねばな」


 どうやら人間として生きるつもりが無いようだ。せっかく理性を取り戻したというのに。


 それとも、自分の体を見て自暴自棄に陥っているのだろうか。確かに彼の体は醜いが、それは魔力による肉体変化を身につければ改善できる要素だ。その程度で人間であることを諦めるのは早計である。


 アンジェは上半身を覆う、服と言えないほどボロボロの魔道具の布切れを脱ぎ捨て、己の魔力を晒す。


「オレも悪魔だ。何があったか、教えてくれないか」


 するとその男……ゲダイと呼ぶべきだろうか。そいつは羊のような瞳を見開いて、舌なめずりをする。


「ゲヘヘ! 確かにお前、悪魔だな! あの連中と同じ、気持ち悪い空気を纏ってやがる!」

「だろ? ひとまず、話し合おうじゃないか」

「その価値はありそうだなあ……」


 ゲダイは凄まじい体重による負荷を気にもせず、床を破壊する勢いで腰を下ろす。

 アンジェも衣服の裾を気にしつつ、彼に倣って床に座る。恥ずかしいので、魔道具の布を着て胸も隠す。


 あまり良い雰囲気では無いが、ここで起きた出来事やこの周辺の静けさの理由を聞けそうだ。また、彼が悪魔になろうとしているのなら、人間の道に戻したいものだ。


 まずはアンジェから口を開く。

 今も惨劇は収まっていない。故に、時間を無駄にするわけにはいかないのだ。手っ取り早くいこう。


「オレはアンジェ。元人間の悪魔だ」

「へえ。だがエコーの魔力でなったわけじゃないんだろう?」


 ゲダイは耳まで避けた口を広げて、下衆のような笑みを浮かべる。


「お前のようなガキが悪魔になったら、普通慌てふためくだろうからなあ。成ったのは昨日今日のことじゃないだろう」

「そうだな。おかげさまで、悪魔に関してなら、それなりに知っている。……その体も、人間と同じように戻せるかもしれないぞ。悪魔の魔力はそのままだが」


 アンジェは彼に希望をちらつかせる。

 悪魔として生きようとしている理由が、容姿にあるのなら……それを解消すれば、街を守る仲間に加わってくれるかもしれない。


 だがゲダイは、良い拾い物をしたかのような気楽な口調で笑う。


「そうかそうか。それは良いことを聞いた。それなら鈍い連中の中に紛れられるなあ」

「……紛れる?」


 アンジェは言葉の端から不穏な雰囲気を感じ取り、ゲダイに聞き返す。

 外見を人間に似せられるとわかっても、その社会の一員となる気がないような発言をした。これは……まずいのではないだろうか。


 ゲダイはいやらしいとしか表現できないような下卑た目つきになる。


「そうさ。不意打ちし放題、食い放題だぜ」

「……人、食うのか」


 元人間だというのに、抵抗はないのだろうか。悪魔になった影響なのか、それとも……元の人間の時点でそういう男だったのだろうか。


 ゲダイはアンジェの性格を見抜いたのか、更に強気な姿勢になり、前のめりでアンジェを威圧する。


「当たり前さあ! 人間は魔力の塊! 俺が強くなるためのご馳走さあ!」

「……味覚はそのままですし、美味しくはないと思いますよ?」

「いいや、お前はわかっちゃいないねえ……。人間ってのは、案外肥えてて食い出があるもんだぜ……。食うたびに力が高まっていくのを感じるくらいだ。食わねえ方がもったいねえよ!」


 ゲダイは既に、人間を……。

 まさか、この周辺に人がいないのは……。彼が悪魔として完成されているように見えるのは……。


「全員、食ったのか」

「おうよ。俺を見下した芸人どもは苦しめてから食った。店主の女は具合が良さそうだったから食った。そのうちナターリアとかいう娘も食いたいなあ。あれは上玉だ。どこにいるんだろうなあ……」


 ゲダイはボツボツと腫れ物ができた舌をぐるりと動かし、唇を舐めている。


「俺はエコーの指図は受けねえ。人間だろうが悪魔だろうが根こそぎ食って力に変えて、そのうち偉大なる大悪魔として大暴れしてやる。ゲッゲッゲッ!」


 アンジェは立ち上がり、再び距離を取り、腕に魔力を練る。

 彼は人間の敵だ。それも、かなりの強敵。人間社会の知識を持ち、存在する限り害を為す。


 ……ここで殺さなければ、何をしでかすかわからない。覚悟を決めねば。


「人間に戻る気は、無いんだな?」

「お前こそ……心まで悪魔になっちまえよ。可愛がってやるぜ」


 長い舌をちらつかせながら、ゲダイは手招きする。

 この男、そういう趣味か。アンジェの中身が元男だと知ったら、どんな反応をするのだろうか。

 ……牽制がてら、言ってみよう。アンジェはそう考えて、叫ぶ。


「残念だったな。オレは元男だ!」

「嘘つけ。どう見ても女だろうが。お上品に胸も隠してやがる。男ならそうはならねえ」


 アンジェはゲダイの視線に気がつき、咄嗟に上半身の布切れを掴み、露出を気にする。


 アンジェの体は、もうアンジェだけのものではないのだ。ニコルに触ってもらい、綺麗だと褒めてもらったのだ。ニコルは好いてくれたのだ。


 ……こんな男には、渡せない。


「殺す。ぶっ殺す!」


 アンジェは自ら胸の内にある悪魔への殺意を剥き出しにし、闘志を燃やす。

 ゲダイはそれを受けて長い舌を伸ばし、欲望を剥き出しにして腕を振り上げる。


「ゲヘッ。下品な裸踊りをさせてやるぜえ!」


 そして、アンジェと悪魔の戦いが幕を開ける。


 〜〜〜〜〜


 アンジェの初手は、土の魔法。まずは慣れ親しんだ信頼性の高い攻撃で、流れを掴む。


「『土の指:パドマ』!」


 石の弾を指先から放ち、ゲダイの巨体に容赦なく浴びせる。

 狙うは比較的脆そうな脛や膝だ。あの短い脚が上半身を支えきれなくなれば、こちらの勝ちがぐっと近づく。


 だがゲダイは意に介さず、小手先の作戦など何ひとつ考慮していない突進を仕掛けてくる。


 小さな石ころとはいえ、小型の魔物なら一撃で葬る威力なのだが、効き目がまるでない。この男、アンジェの想像以上に頑丈だ。


「『俺の拳』!」


 ゲダイは振りかぶって、力任せにアンジェに殴りかかる。

 全身隙だらけにしか見えないが、体の頑強さでその弱点を補っている。悪魔だからこその戦法を、彼は既に確立しているのだ。


 アンジェは転がって横に回避しつつ、知識の海に載っていない彼との戦い方を必死で探る。


「(人間だった頃の弱点はそのままなのか? 魔法を使えるのか? くそっ、類例がない。どうする?)」


 とにかく、拳が届く距離にいるのはまずい。魔法で一方的に攻められる立ち位置を保たなければ。


 アンジェは距離を取りつつ、次なる一手を放つ。

 周囲を気にしている場合ではない。店は既に荒らされている。ならばアンジェが被害を出したところで、同じことだ。諦めよう。


「『火の脚:マツ・バ』」


 アンジェは踏みしめた両脚から炎を噴き上げ、酒場全体を業火に包む。

 爆発。酒場の空気を吹き飛ばし、瞬く間に夜の闇を昼に変える。残された酒に引火し、凄まじい勢いで燃え広がっていく。

 火の勢いで、あらゆる障害を消し飛ばす。それが攻防一体のこの魔法だ。


 ゲダイは炭になった足元に気を取られつつ、防御の姿勢を取る。

 魔物は種類によって、呼吸の有無が異なる。アンジェは大量の魔力を犠牲にすることで意識を保つことができるが、人間から魔物になったこいつはどうだろうか。


「ゲゲゲ……! すげえな。これが悪魔か。ガキのお前にできるなら、俺にもできそうな気がするぜ」

「……ちっ」

「人間捨てて正解だったぜ!」


 ゲダイは体表からぬめぬめした汗を流しながら、挑戦的な笑みを見せる。

 効いているのかいないのか、微妙なところだ。危険を冒してまで放った魔法だが、その割に合う成果は得られていない。


「(火を残すべきか、否か。この分だと、奴の動きを制限することもできそうにない)」


 するとアンジェの内心の焦りを嗅ぎ取ったのか、ゲダイは床板を剥がして投げつけてくる。


 アンジェは咄嗟に魔法を再点火させ、脚から炎を噴き出して無力化する。


 だが、それは悪手であった。アンジェは周囲を燃やし尽くしてしまい、残しておいた柱を崩してしまう。

 支えを失い、天井が落ちてくる。対応しなければ。


「ひっ!?」

「馬鹿だなあ」


 腕を上げ無詠唱の風の魔法で天井の燃えカスを振り払ったアンジェに向けて、ゲダイが突撃してくる。

 恐るべき速度。マンモンにはやや劣るが、圧倒的な質量を加味すれば、威力はゲダイの方が勝るか。受けるわけにはいかない。


 アンジェは手のひらの風の魔法を下に向けつつ、高く跳躍する。

 天井の残骸を突き破り、更に上へ。


 だが着地先が見当たらず、そのまま酒場の敷地内に降りることになる。


「(くそっ。入り組んだ地形が厄介だ)」


 広範囲を巻き込むアンジェの戦い方では、守るべきものが足枷となってしまう。

 ニコルのように、もっと器用に戦えたなら……。


 アンジェの着地際に、ゲダイは自らも跳躍し、飛び蹴りによる攻撃を仕掛ける。


「『俺の脚』。おーら、よっ!」


 アンジェは肌を焼く熱気に耐えながら、兎のように移動して踏み付けを回避する。

 ゲダイの体重により、黒焦げになった柱が割れ、炭と火の粉が舞い散る。砕けた屋根の破片が、隣の民家にまで飛び散っていく。


「(適当に暴れるだけで、あの威力……!)」


 このままでは勝ち目がない。戦法を変えなければ。


 今のアンジェに必要なものは、威力のある一撃。選ぶべき魔法は、もっと高度なものがよい。自らの身をちぎってでも、奴の体に通る有効な火力を引き出さなくては。


 アンジェは知識の海を探り、使用した部位を犠牲にして放つ異説の魔法を得る。


「『火の腕:異説:マチビトキタラズ』」


 アンジェは足を止めて、左腕の魔力を変質させる。

 筋肉が焼け、神経が消し飛び、骨の髄まで熱され、アンジェは気を失いそうなほどの苦しみに襲われる。


 だが、いつものことだ。アンジェはいつも傷つきながら戦っている。この程度の痛みは、とうの昔に経験している。


「ぐ、おおおおおっ!」


 アンジェは完全に炎へと変わった腕を、ゲダイへと向ける。


 彼は闘争心によって頭に血が上っているのか、考えなしにアンジェに掴みかかろうとしている。

 自らの身体能力に絶対の自信があるのか、猪のように真っ直ぐ突っ込んでくる。


「ゲゲゲッ! いくぜええええっ!」


 アンジェは歯を食いしばり、炎の腕でゲダイを迎え撃つ。

 この魔法は、炎を外部に放たない。我が身に熱を縛りつけたまま、自らの力で勝利を掴み取るのだ。


「うおおおおおおっ!」


 猛進するゲダイを真正面から睨みつけ、アンジェは炎の腕を振りかぶる。

 腰を落とし、狙いを定め、そして。


 殴る。


「オラァ!」


 アンジェの腕が、ゲダイの顔面を捉える。

 それと同時に、ゲダイの指もまた、アンジェの顔面に飛来する。

 炎がゲダイの顔を焼く。指がアンジェの目を抉る。


「グゲッ!?」

「ぬおおおおっ!!」


 アンジェは左の眼窩に入り込んだ太い指に意識を奪われつつも、燃える腕の痛みに後押しされ、勢いよく炎を振り抜く。


 ゲダイの醜い顔面がたちまちのうちに炎に包まれ、跡形もなく蒸発する。真に研ぎ澄まされた炎は、炭さえ残さず全てを消し去るのだ。


 倒れ込むゲダイの肉体。消えかけるアンジェの腕。

 しかしまだ、戦いは終わっていない。ゲダイは踏みとどまり、硬直している。


 頭部を失ってなお、生にしがみついている。かつて血を剣に変えて吹き飛んだアンジェが、それでもまだ生きていたように。


 アンジェはすれ違いざまに身を翻し、振り向きながらもう一度詠唱する。


「『火の腕:異説:マチビトキタラズ』!!」


 右腕が轟音と共に光を放ち、胸まで焦げるような凄まじい熱を発し始める。

 閃光。勝利を確信させるほどの威力を秘めた、アンジェに出せる最高の火力。そして、全身を駆け抜ける地獄の激痛。


 アンジェはゲダイの首の断面に、まだ熱に変わり切っていない右腕を押し込む。

 筋肉の燃え残りが、ぶよぶよとした気色悪い肉の塊をかき分ける。遺灰のような色の骨が、ゲダイのどす黒い血をかき混ぜる。


 痙攣するゲダイの肉体に脚でしがみつき、アンジェは吠える。


「とどめだああああっ!!」


 噴き上がる蒸気。脂肪がほどけ、溶けていく音。アンジェの右腕が、代償として消えていく感覚。

 酒場の跡地に、炎が満ちる。星より明るく、月より眩しく、太陽より残酷な、そんな輝き。


 ……そして、炎と共に、ひとつの命がこの世から消える。

 悪魔と化した男は、世界を漂う塵と化した。彼がいた痕跡さえ、何ひとつ残っていない。首も胴も脚も、何もかも消えてしまった。


「……ふーっ」


 アンジェは口から吐息を吐きながら、崩れ落ちる。

 内臓が蒸し焼きになるかと思ってしまうほど、体が熱い。異説の魔法による副作用は勿論、周りを炎に囲まれているせいでもあるだろう。


 アンジェは失ったはずの腕を幻肢痛として感じながら、陽炎のようにゆらゆらと立ち上がる。


「オレは悪魔を殺しただけ。人を救った気になるな」


 アンジェは自らに鞭を振り、水魔法で周囲を消火してから、まだ見回っていない方角に向けて歩き出す。


 右目はまだ治っていない。潰れたままだ。それでも左目が健在なら、十分だ。鼻も折れて機能していないが、嗅覚には元から頼っていない。


 ……それでも、まだ戦える。たった一体相手に時間を無駄にしてしまったのだから、休んでいる場合ではなかろう。


 崩れた酒場の地下から、枝のようなものが這い出す気配がしたようだが……おそらくはニコルの魔法だろう。

 万が一敵だったとしても、この近くにも蝶が舞い始めているので、弱小の存在くらいなら任せても良いはずだ。


「助ける。オレは、人を、助けるんだ」


 呪いのように言い聞かせながら、アンジェは暗い夜の街へと戻る。

 血と炭で幽鬼のようになった体を引きずりながら。

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