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第51話『狂乱』

 アンジェは死んだ悪魔を眺めながら、今の状況を整理する。

 短時間で色々な事が起きすぎた。故に、一度足を止めて考えなければ、受け止め切れそうにない。


「ニコル。街の様子を探っておいて」

「わかった」


 ニコルは混乱に陥る街に大量の蝶を飛ばし、情報を集め始める。

 その間に、アンジェは自分の内部と向き合うのだ。ただの心の整理に時間をかけている場合ではない。


 ……まず、ここは西の芸術区域。芸人、劇場が集まる場所。

 そこに危ない薬の売人がいるかもしれないってことで、ここにやってきて……。悪魔祓いもこの辺りを調べていて……。

 そこにいたのはネズミの悪魔……『塵点劫エコー』の眷属。

 薬は中毒性がある危ない植物と、悪魔の魔力でできていた……。

 芸人たちやナターリアが飲んでいて……今、まさに大混乱が起きようとしている。


「(よし)」


 整理完了。このまま知識の海に移行しよう。


 エコーは魔王の側近のひとり。イハクというネズミの悪魔でありながら、弱小な種族の壁を乗り越え、個としての強さを手に入れた異端。


 イハクは生殖能力による数の暴力と、体躯の小ささを活かした潜入能力が、人間にとっての主な脅威なのだが……エコーは別だ。練り上げられた魔力だけで、世界を脅かす。


「(ふむ。強力な魔力で薬を作り、多数の配下でそれをばら撒く……。恐ろしい相手だ)」


 その時、アンジェの眼前に何者か立つ。

 先程出会った……否、再会した悪魔祓いたちだ。


 ひとりは奇妙な格好の女悪魔祓い。その後ろに3人の剣士。


 彼らとは南の商業区域で出会った。魔法の教本を前に言い争いをしていたところを、アンジェが助けたのだ。

 その時、魔道具の材料を売っている場所について尋ねて、少し世間話をして……。親しくなったわけでもない、よくある通りすがりだ。


 悪魔祓いの女性が一歩前に出て、アンジェに声をかけてくる。

 ハキハキとした、誠実そうな語り口だ。だがどことなく気の抜けたような雰囲気も漂っており、悪魔祓いとしては頼りない。


「以前お会いした方ですよね。先程の悪魔は一体なんでしょう? 危ないので、事後処理は専門家たるわたしに任せてくださいまし」


 すると、まだ何か言いたげな女性の前に3人の剣士が躍り出て、口々に叫ぶ。


「そうだ。悪魔を殺しに行かねえとな!」

「さっきみてえな奴がまだいるかもな!」

「覚えたての魔法を早く試してえんだ!」


 ……そうだ。以前もこんな雰囲気だった。歳の割に落ち着きが無い連中だ。


 それにしても、彼らは先ほどの蛮行をまだ反省していないようだ。悪魔とはいえ、捕まえて情報を引き出している最中だったというのに、横から入って殺してしまうとは。


 ……何より、彼もまた、人間から悪魔に変えられた存在だったかもしれないというのに。よくもまあ簡単に命を奪えるものだ。


「(強くは責められないけど……でも、良くないよなあ、ああいうのは)」


 これは一言忠告しておいた方が良さそうだ。アンジェも人のことを言えるほど立派な立場ではないが、それとこれとは話が別だ。


 アンジェは彼らの不出来な魔法によって粉々になった檻と、肉片になって吹き飛んだ弱小悪魔の残骸を指差して、怒りを伝える。


「少し落ち着いてくださいよ! 計画を聞き出せるところだったのに、台無しじゃないですか!」


 かなり大きな声が出てしまった。切羽詰まっているからだろう。アンジェは自分でも意外に思う。


 すると悪魔祓いの剣士たちはアンジェを取り囲み、黒い装束の中にある少年顔を押し付ける。

 背は高いが、まだ未成年だろう。心身ともに育ち切っていない印象を受ける。

 そして何より、3人とも顔がそっくりだ。おそらく兄弟……それも、三つ子なのだろう。


「誰が子供だよ!?」

「お前が子供だろ!」

「子供は家に帰れ!」


 アンジェが子供だということは否定できない。だが彼らが子供ではないという理由にはならない。あくまでアンジェはアンジェで、彼らは彼らだ。


 アンジェは論理的でない物言いに苛立ちを覚え、舌打ちをして言い返す。


「オレは子供だが強い! ドイルさんの仲間で、狩猟組合の見習いだ!」

「あのドイルさんの!?」


 3人は先程までドイルがいた場所を揃って一瞥し、そして再びアンジェに詰め寄る。


「ドイルさんの足を引っ張るな!」

「あの人は一流の悪魔祓いだぞ!」

「お前ごときが仲間を名乗るな!」


 アンジェは感情に任せた言い合いに慣れておらず、少しずつ不利な立場になっていく。

 年嵩の男たちに囲まれている状況。一言返せば3倍になって返ってくる手数の差。内容がどうあれ、これは不利だ。


 アンジェは彼らより立場が上らしい眼鏡の悪魔祓いと、自分の相棒であるニコルの方に視線を向け、それとなく応援を要請する。


「悪魔について話しますから、ひとまず頭を冷やしましょう」

「そうですね……」


 アンジェと悪魔祓いは、お互いに自己紹介をする。

 あの時は数いる通行人のひとりでしかなかったが、今は違う。これも何かの縁と思って、互いのことを知るべきだろう。


 悪魔祓いの女性は、体を丁寧に曲げてお辞儀をする。駆け出しに見えるが、出自はそれなりに高貴なのかもしれない。


「私はモズメ。遥か彼方の国より旅して来ました。どうぞよろしくお願いします!」


 モズメ。……珍しい名だ。暗黒の谷を越えた先、東の彼方の国か。知識によると、黒に近い茶髪もまた、その地に多い髪色だそうだ。


 アンジェも同じように頭を下げつつ、名乗る。


「オレはアンジェです。ミストルティア王国ソーラ領アース村の出身です」

「ここの人だったんですね!」


 地名に同じ名前が入っているため、何か勘違いをされてしまったようだ。


 同じ領地の生まれだとしても、この街の住民とアンジェとではまるで違う。頭の中にある常識も、日頃の生活様式も、何もかも一致しない。

 それでも旅人からすると同じ括りになってしまうのか。


 ……モズメを『異邦人』という括りで判別したのと同じということだろうか。ならば致し方あるまい。甘んじて受け入れよう。


 モズメは3人の剣士を小突いて謝らせながら、彼らの紹介もする。


「彼らは私の家来たちです。とはいえ、国を離れた今となっては上下の差はなく、ただの昔馴染みのようなものですが」

「ソウゴだ」

「サンガだ」

「ミゴだ」


 3人は一斉に挨拶をし、お互いに顔を見合わせて口喧嘩を始める。

 誰が先に言うべきか。訂正するべきか。先程のことを謝るべきか。目の前の相手を放置して、互いに罵り合う。


 アンジェは内心うんざりしつつ、先程の悪魔について説明する。

 あれはネズミの悪魔であること。街に薬が撒かれていること。自分たちは知り合いのためにそれを追っていること。拷問して情報を聞き出しているところだったこと。


 モズメは上品な仕草で、口元を手で覆う。


「まあ。……では、お邪魔をしてしまいましたね。申し訳ありませんでした」


 彼女の懇切丁寧な謝罪を受け、アンジェは彼女より更に腰を低くする。


「お、オレの方こそ、ごめんなさい。ちょっと口が悪かったです」


 モズメは3人の手綱を握り切れておらず、まだ悪魔に関して無知なところがあるだけだ。それはこれからのやり取りで埋めていけばいい。

 過ちは許さなければならない。アンジェもまた完璧ではないのだから。助け合わなければ生きていけない弱者なのだから。


 すると、蝶での探索を終えたニコルが、真っ青な顔で駆けつけてくる。

 ただ事ではない様子だ。まるでアース村が襲われたかつての悲劇を彷彿とさせる、凄まじい形相。悪夢の中に囚われているかのような苦しみが、表情だけで伝わってくる。


「どうだった?」


 アンジェが尋ねると、ニコルは悪魔祓いの前で角も牙も爪も尻尾も剥き出しにして、叫ぶ。


「どうもこうもない! 攻めてきた! このままだとみんな死んじゃう!」

「……まさか、もう!?」


 薬を飲み続けた中毒者を、悪魔の魔力によって変化させようとしているのか。全ての準備が整った、ということだろう。


 アンジェはエコーが立てた作戦を推測し、震え上がる。

 広告をばら撒いて、悪魔と戦える人材を西区の一箇所に集め、街全体を守るだけの戦力を失わせる。

 そして夜、芸人や住民が多く眠る東区で爆破。一気に犠牲を出して、街を滅ぼす。

 ……大まかな流れはこんなところだろう。


 ならばもはや、一刻の猶予もない。すぐにでも抵抗しなければ。

 確実に敵がいる西区にいるべきだろうか。それとも阿鼻叫喚になるだろう東区に向かうべきか。

 アンジェは悩み、決められず、周囲の判断を仰ぐ。


「ニコル。モズメさん。どうする?」

「私はエコーを探すよ」

「え? じゃあ、わたしは……悪魔祓いの皆さんに、エコーの名前と計画を伝えに行きます」

「わかった。じゃあオレは……」


 その時、周囲の劇場や裏通りにて、凄まじい絶叫が炸裂する。

 人間の喉から発される、苦痛の残り香。薬にどっぷりとハマってしまった人間たちが、悪魔へと変貌し始めたのだ。


 アンジェの頭上から、人が身投げしてくる。

 いや……それはもはや、人間ではない。かつては人間だった、肉塊だ。

 喉だった部分を歪ませて、豚の鳴き声のような音を立て、落ちてくる。


「プギィイイィィ!!」


 そして、頭蓋骨よりずっと固い地面に衝突し、赤色の塊になって弾け飛ぶ。

 死んだのだ。元がどんな人間だったかもわからない姿となって、悪魔になることを拒み、絶望しながら死んだのだ。


 ……アンジェはその血飛沫を頭から被り、沼の底のような暗い瞳で宣言する。


「オレは東区に向かう。薬の常用者が多いはずだ」

「北と南は?」

「助けたいけど、手が足りない。戦える人が多いから、助かることを祈るしかない」

「……わかった。触手で口を作って、警告するね」


 ニコルは全ての魔力を解き放ち、本気の形態を解放する。

 ……今のニコルは爪や牙といった部位だけでなく、全身丸ごと変化させることができる。

 皮膚を硬化させ、鱗や甲殻に。癖のある髪を整え、シュンカのようにしなる刃に。


「ふう……!」


 ニコルは自分で編み出した呪文を詠唱し、威風堂々とした戦士へと変貌する。

 ……悪魔祓いの前だが、もはや躊躇している場合ではない。魔力の擬態は完璧なので、正体を勘繰られないよう祈るのみだ。


 ニコルは破れた服を脱ぎ捨てて、その全貌を世界に知らしめる。

 木の枝のような形状の、特徴的な角。ニコルの意思を体現して伸び縮みし、あらゆる敵を打ち砕く。

 銀杏の葉のような形状の、特徴的な翼。その付け根は背中に接しておらず、あらゆる方向に自在に動く。

 茨のような形状の、棘の生えた尾。細くしなやかで優美に揺らめいているが、貫くことで絶大な苦痛を敵に与えることができる。

 そして、龍そのもののように頑強な手足。ニコルの身体能力を更に底上げする、力強い武器だ。地面を蹴れば空まで跳び、敵を撫でればたちまち千切れる。


「行ってきます!」

「あ……はい」


 ニコルは呆気に取られる悪魔祓いたちに一言告げ、空へと舞う。

 かつての不器用さが嘘のような、自由で素早い飛行だ。彼女は血の滲むような努力の末、空を自分のものにしたのだ。

 その姿は、まさに天を統べる龍の化身。ニコルはもはや悪魔の域すら飛び越えてしまったのである。


 ……アンジェもまた、負けてはいられない。悪魔になった過去。故郷を失った過去。それらを乗り越え、経験に、そして力に、変えていかなければならない。


「うおおおおおおお!!」


 アンジェは雄叫びを上げながら、東区へと突撃する。

 かつての村を想起させる血の雨の中、同じ過ちを繰り返さないために。


 〜〜〜〜〜


 《ニコルの世界》


 エコー。それが騒動の元凶らしい。

 私の役割は、それと戦うことだ。蝶の触手で誰よりも広い視野を確保できているから、真っ先に見つけることができるはず。


 ……大勢の敵に囲まれるアンジェのことが心配だ。今までもずっと、アンジェの能力を信頼して戦場を任せてきたけど、そのたびにボロボロになって帰ってきている。

 マーズ村のシュンカ戦では魔力切れになって死にかけて、イオ村のマンモン戦では自爆しても倒し切れなかった。

 今回もそうなるんじゃないか。怪我して、死にかけてしまうんじゃないか。そんな気がしてならない。


「(アンジェが危ない。でも、手が足りない……)」


 私はアンジェを信じて、親玉を殺す。それしかできない。


「……怪しい」


 私は蝶の視界を通して、西区の隅にいる貴族たちに目を光らせる。

 こんな時間に馬車を走らせて、何かを運んでいる。周りの悲鳴が聞こえていないのだろうか。


 蝶を馬車に追い付かせて侵入させてみると、積荷はすべて例の薬だった。

 ……高い地位にある貴族が薬を強要したら、断れる人なんてそうそういないよね。許せないなあ。


「そこまでだよ」


 私は蝶から触手を生やして、馬車の車輪を少しだけ破壊する。

 突然停車しない程度の損傷。だけどこれ以上前にも後ろにも進めず、立ち往生することになるだろう。

 足を奪ってしまえば、薬の拡散は防げる。何をするつもりだったかはわからないけど、ひとまずはこれでいいはずだ。


 次に、街の中。悪魔に変化していく人々を見る。

 体がぐちゃぐちゃになって、そのまま死んでしまう人が大半だ。アース村でもそうだった。

 だけどそれを乗り越えて、悪魔になってしまう人もいる。そうしたら、後は……その人次第だ。

 悪魔の本能に飲み込まれるのか。それとも、人としての自分を強く保って、人として生きられるのか。


 私は蝶を、悪魔になったばかりの人の部屋に潜り込ませる。


「ぐあ……ああー……餌ああアア!!」


 その人は理性を全て失い、魔物と変わらない知能しか残らなかった。もはや人ではない。


 蝶を食べようと飛びかかってきたその人を、私は蝶の触手で殺害する。


 ……ついに、人間だった悪魔を、殺してしまった。胸が痛む。心が折れそうだ。

 だけど、こうするしかない。私が止めなければ、あの人は他の人間を襲っていただろう。

 悪魔を人間に戻す方法があれば良かったんだけど、アンジェの知識にもそれはない。……不可能なんだ。少なくとも、今の私たちには。


 次に私は、大暴れしていない肉塊に目を移す。

 あれらも私のように魔力を克服して、動き出すかもしれない。それが人間の心を持っていればいいけど、大半はそうならない。


 私は彼らに向けて尻尾から棘を飛ばし、その苦しみを断ち切る。

 風船のように破裂する、人間だった何かたち。私のように克服できる人がいてくれれば良いけど、大半はそのまま死んでいく。


「うっ……ううっ……うげぇ……」


 私は肉塊だった頃の自分を連想して、嘔吐する。

 アンジェの目の前でぐちゃぐちゃの山みたいになって、爆発して、森に墜落して……。

 あれは悪夢だった。悪夢だったことにして、現実だと思わないようにしてきた。


 それが今、この街で繰り返されようとしている。

 悪夢が、現実に、なろうとしている。


「許せない……。許せない!」


 私は蝶たちを更に広範囲へと解き放ち、街の空を埋め尽くす。

 何処を探しても、エコーはいない。なら、探すのはもうやめだ。危険を覚悟で、私の方から呼びかけるしかない。


 私は街中に解き放った魔力の蝶たちから、一斉に声を発する。


「悪魔エコー! 私の声を聞いてるかなあ!? いるならさっさと出てきなよ! 私がいる限り、この街が悪魔の手に堕ちることは無いんだから!」


 私は体の中に隠してあった剣を取り出す。

 アンジェが生み出した、漆黒の剣だ。見た目が無骨でカッコいいし、頑丈だから多少雑に扱っても壊れないし、何よりアンジェと力を合わせているみたいで、興奮する。


「出てこないなら……こうだよ!」


 私は剣を天に掲げ、夜の闇の中に一筋の光を突き上げる。

 光らせたのは単なる演出だ。本体はその中に隠した魔力の種。発芽すれば、私がいつも使っている触手の蔦になる。

 薬で変異した人々や部下のネズミくらいなら、私が直接出るまでもない。蔦だけで十分だ。


 ……しばらく、そのまま膠着状態に陥る。

 私はネズミ一匹逃さず、蔦と蝶で叩き潰す。悪魔は何処からかネズミや部下を召喚して、混乱させる。


 街全体を見てみると、意外にも悪魔に変身した人間は少ない。薬を飲んでいて、尚かつ悪魔に変身するのに十分な量だった人間は、それほど多くないというわけだ。


「……根比べかな」


 魔力の消費が激しい私の方が不利だ。だけど悪魔は部下を送れば送るほど、居場所がバレやすくなる。私にも、悪魔祓いにも。

 悪魔祓いは私の蔦を攻撃していない。何故かはわからないけど、優先順位の問題かな……。敵の敵は味方ってこと……?


「……負けないよ」


 私は無防備になっている体を誰にも狙われないことを祈りながら、魔力を注ぎ込み続ける。

 きっと勝てる。大丈夫。アンジェもドイルさんも、頑張ってるんだから。


 〜〜〜〜〜


 《ナターリアの世界》


 あたいはドイルさんに守られながら、街の中央にある広場で横たわっています。


 逃げてきた人々でぎゅう詰めになっていて、先に進めそうにない。そう判断して、ここで休むことになったのです。


 ドイルさんにとっては、悪魔祓いと連携して他の人たちも一緒に守れるから、やりやすいでしょうね。あたいだけ特別扱いってわけではないみたいです。


「……不甲斐ないっす」


 あたいは言うことを聞かない脚を殴りつけて、奥歯を噛み締める。


 体力には自信があった。宿の業務やお父さんとの組み手で鍛えられた体。それが街を駆け抜けたくらいでへこたれるだなんて、思いもしなかった。

 ……恐怖を押し殺して無茶な走り方をしたせいか。あたいは結局、宿の中でぬくぬくと育った温室の花でしかなかったのか。


 あたいは広場の真ん中に集められた無力な子供たちを見て、自分にそっくりなあの子の姿を連想する。


「ドリーちゃん……」


 今も宿で心細い思いをしているはずです。おかしくなった人たちや悪魔祓いがうろついているのを見て、震えているはず。

 筋肉に満ちたお父さんが守ってくれているとは思いますけど、心配です。ドリーちゃんがいないところでくたばるわけにはいきません。


「せめて……あたいがもう少し強ければ……」


 体力に余裕があったら。ひとりで悪魔から逃げ切れていれば。魔法を使えていれば。こうはならなかったはずなのに。

 あたいは不安そうに膝を抱える子供たちと、同じような存在でしかない。宿の業務をこなすために、全てを諦めたのに。大人にさせられたはずなのに。


「ちくしょう……あたいは……あたいは……!」


 悪魔と切り結ぶドイルさんを遠目に見ながら、あたいはせめてもの抵抗として、泣き出す子供たちを慰めることにします。

 同じ子供でしかないなら、あたいは年長のお姉さんでありたい。ドリーちゃんを育ててきた経験があるから、子守には慣れています。


 泣き叫ぶ幼児を見て、あたいは自分の無力さに苛まれながら、必死に自分を誤魔化す。

 それしか出来ることがないから。それでも、ネズミなんかに負けたくはないから。


 ……楽器が落ちている。

 弦楽器だ。あたいも似たものを持っています。このまま放置していたら、群衆に踏まれて壊されてしまうでしょう。


 気がつくと、あたいの手はそれに伸びていた。

 そして、いつもの癖で——あるいは、平常心を求めようとする儚い抵抗のために——あたいは、それを鳴らした。


「ふー……」


 声は出ない。緊張と恐怖と肉体的疲労で、喉が詰まっている。

 でも、指はひとりでに音を奏でている。

 ドリーちゃんが好きな曲を。何度も弾いて慣れきった曲を。


 ふと気がつくと、いつのまにかみんなが静かになっている。

 子供たち。お年寄り。戦う力を持たない人々。彼らが大人しく座って、邪魔をせずに守られている。

 恐怖に耐えながら、日常を歩もうとしている。


「弾いて」


 さっきまで泣いていた幼児が、ねだってくる。


「もっと聴きたい。おねがい」


 あたいは大勢の縋るような目に応え、次の曲を弾き始める。

 これがあたいにできることなら……やりますよ。精一杯。

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