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第46話『口の中へと飛び込むように』

 《ニコルの世界》


 小指。私の体で、一番細い部位。

 触手。私の体で、一番自由に動く部位。

 小指ほどの触手。小さな体を愛でるのに、これ以上ないほど最適な道具。


 それでさえ、アンジェを平らげるには不足だった。

 アンジェはあまりにも小柄で、あまりにも堅牢で、あまりにも融通が効かない体だった。


 幼すぎるからだ。

 大人になるには、あまりにも未熟だからだ。


 ……私はアンジェを、食べ損ねた。


「う、うう、うううう」


 アンジェは悲嘆に暮れて泣いている。

 大人になり損ねた悲しみを、女の子になり損ねた痛みを、その震える体に背負っている。


 側には刃物が転がっている。半狂乱になって自分の股を切り裂こうとし始めたから、さっき私が止めたんだ。そんなことされても嬉しくないって。


 私も今、アンジェと同じ気持ちだ。

 アンジェを愛でてあげられなかった。だから私も泣きそうになっている。アンジェを抱きしめて、少しでも私の快感を分けてあげようとしている。

 心が通い合っていても、体はそうじゃない。私たちの間に年齢という高い壁がある以上、どうやっても同じ感覚を分かち合うことはできないんだ。


「できると、思ってた」


 アンジェは底なし沼から絞り出したような声をしている。


「子供の()()()()()()は、ろくに資料がなくて。だから正確な情報を得られなくて。希望的観測で、できると思い込んでしまった」


 アンジェは一度たりとも、自分の体に触れてこなかった。洗うときは水の魔法で。服を着るときは風の魔法で。ずるをしていたから、正しく認識する機会がなかった。

 アンジェは決められた手順をなぞれば大人になれると信じていた。だけどその幼い体に、道はなかった。


「何年……何十年待てばいい?」


 アンジェは何処かにいるはずの魔王に向けて凄まじい憎悪を剥き出しにして、咽び泣く。


「オレは悪魔だ。分類されていない、前例もない、元人間の悪魔だ。成長できるかどうかなんて、誰に聞いてもわからない」

「………………アンジェ」

「何年経てば成長する? ずっとこのままなのか? ずっと子供のまま生き続けるのか? 永遠にニコルの愛を受け入れられないのか?」


 アンジェは歯が欠けるほどの殺意が篭った歯軋りをして、見たこともない激しい憤怒をその目に宿す。


「どうして、どうしてこんな体にしやがった! 悪魔め。悪魔め。悪魔共め!!」


 ……私が知らない、初めて見るアンジェ。復讐心に支配された、生身のアンジェ。


「殺してやる。殺してやる。斬って、燃やして、この世から消し去ってやる。今に見てろ。村のみんなと同じ目に遭わせてやるからな」


 分厚い知性の鎧に覆い隠された、本当のアンジェ。それを今、目の当たりにしている。


 アンジェはアース村が好きだった。

 優しい両親。隣の家には私という幼馴染。恵まれた環境を存分に活かして、素晴らしい子供に成長していた。頭が良くて、みんなに認められていて、子供なのに大人みたいな扱いだった。


 だからだろうか。アンジェは私の想像以上に、恨みを引きずっているみたいだ。

 故郷を失った恨みを。


 アンジェは魔物を殺すために尽力してきた。

 シュンカを見ても逃げようとしなかった。シュンカの群れに突撃していった。イオ村でも鳥の魔物の大群に向かっていった。

 今思えば、アンジェらしくない行動だった。理性的ではなかった。


 でもアンジェが強い復讐心を持っていたと考えれば辻褄が合ってしまう。無謀な突撃は、強すぎる殺意が理由だ。


「(たぶんアンジェ自身も気がついていない。悪魔を強く憎んでいることに)」


 私はそっと思案する。


「(指摘は……しちゃいけないような気がする。アンジェの内心を理解しないまま指摘するのは、ちょっと良くない予感がする)」


 これは深刻で、そして繊細な問題だ。アンジェは心が傷ついているから、怒りで誤魔化しているのかもしれない。怒りを無理に抑えたら、無気力になってしまうかもしれない。


 魔力を剥き出しにしたアンジェは、怖い。近くにいるだけで、殺気に潰されてしまいそうだ。

 悪魔の魔力は恐ろしいと聞くけど、初めて肌で理解できたかもしれない。

 でも、その恐ろしい魔力を暴いたのは私だ。責任をもって、どうにかしないと。修羅から人間に戻してあげないと。

 時間はかかると思うけど……なんとかしよう。


 血走った目で恨み言を呟き続けるアンジェを、私は必死で抱きしめ続ける。アンジェの愛が、何処かに行ってしまわないように。


「アンジェ。アンジェ。私がいるよ。暴れないで」

「う……うぐ……うう……」


 ……そうして、しばらく経った後。

 アンジェは気力が尽きたのか、大きく肩を落とす。


 ずっと怒り続けるのって、疲れるからね。私も村がなくなっちゃった時はそうだったから、少しはわかるつもりだよ。


 アンジェは乱れた髪を指先で整えながら、疲れ切った声で提案する。


「ニコル。この先のこと……話し合おう」


 我を忘れるような激しい熱狂が去ったら、後はゆっくり冷えていくだけ。ここからは、冷えた頭で現実的なことを考える時間かな。


 思えば、いつだってそうだった。私はいつも盛っていて、アンジェはいつも冷静だった。さっきまでが私の舞台で、今度はアンジェの独壇場だ。


 私はアンジェが投げ出した刃物を荷物の奥底に深く押し込んでから、椅子に座り込む。

 いつものアンジェが戻ってきたことを、こっそりと喜びながら。


 〜〜〜〜〜


 アンジェは自分の太ももや肩を揉んで凝りを改善しつつ、判断力を取り戻していく。


 頭に血が上った状態で、魔王のことを考えすぎた。目の前のニコルを抱いておきながら、そちらから意識を逸らすなど、言語道断である。


「(上手いとか下手とか、技量の話をする以前の問題だ。オレはニコルに恥をかかせてしまった。ニコルの望みを叶えられなかった。……幼い体でも、それなりに慰め合うことはできたはずなのに)」


 考えれば考えるほど憂鬱になっていくが、そのおかげで少しは自己を顧みることができる。

 怒りが収まれば、後に残るのは反省だ。


「(今後の立ち回りを検討しながら、ちょっとずつ、ちょっとずつ……雰囲気を戻していこう。ニコルが楽しんでくれていた、さっきまでの雰囲気に)」


 後になって、悪い思い出として振り返る羽目にならないように。いつ振り返っても、優しい気持ちになれるように。


 アンジェは水魔法で汗などの体液を落とし、途中で脱ぎ捨てた服のシワを丁寧に伸ばし、きちんと着直してから、机を挟んでニコルと向かい合う。


「さて、ニコルさんや」

「なんでしょう、アンジェさん」


 アンジェはまだ見慣れないニコルの裸体から目を逸らし、首から上だけを見つめながら話を切り出す。

 ニコルは体を洗っていない。流した汗やあれこれがまだ体についたままなのだ。

 あれは見てはいけない。目に毒だ。猛毒だ。


「順番が逆になってしまいましたが、我々の関係性について、いま一度整理したいと思います」

「と、言いますと?」


 ニコルはきょとんとした顔で首を傾げる。

 首筋にある赤い痕が目立つ。

 そうか。確か、そこにも唇を……。


 ……アンジェはそこからも目を逸らし、ニコルの額の辺りに集中する。


「具体的に、恋人というものは何をするのか、ということです」


 ニコルは口をポカンとあけて絶句する。きっと呆れているのだろう。


 アンジェとしても、恋人という関係について、全く考えてこなかったわけではない。それなり以上に手は尽くしたつもりだ。

 だが……恥ずかしながら、知識の海であれこれ調べながらも、世に言う恋人というものがどのようなものなのか、未だ掴めずにいるのだ。


 結論を出せないままニコルの誘いに応じてしまったことは申し訳なく思っている。そのため、恥を忍んでニコル本人に尋ねることにしたのだ。


「知識によると、手を繋いで買い物をしたり、苦労を買って出たり、将来を誓い合ったり……ということをするそうです」

「そうだね。ふふっ」

「ですが、そのような活動は既に経験しております」

「そういえばそう、だけど……」

「共同体によっては親族に挨拶回りをするとのことですが、我々には、その……挨拶をするべき知人が……いません」


 アンジェは脳裏に浮かびかけた両親の顔を、記憶の隅に棚上げする。

 未だに思い出すだけで涙が出そうになる。今はニコルと大事な話し合いをしているのだから、悲しみに暮れている場合ではない。


 アンジェはすっと背筋を伸ばし、知識を元に練った考察を述べる。


「我々にとっての恋人とは、お互いの気の持ちようなのではないか、と考えております」

「というと?」

「オレにとってのニコルは恋人。ニコルにとってのオレも恋人。お互いにこの認識を抱いている限り、我々は恋人同士なのです」

「なるほど」

「だから、その……特別なことをしてもしなくても、生きてるだけでオレたちは恋人なんだなあって……」


 ニコルはアンジェの話をひと通り聞いた後、どこか納得がいかない様子ですぐさま意見を述べる。


「ふーん。じゃあ、結婚したい時はどうするの?」

「ニコルぅ!?」


 それはアンジェと結婚したいという意味と受け取って良いのだろうか。文脈上、そういうことになってしまうのだが。

 恋人では今までの関係とそれほど変わらない。そう理解して、更なる進展を望んでいるのか。


 ニコルはドギマギするアンジェに構うことなく、自らの要望を告げる。


「結婚しようよ。結婚。ここまできたんだから、ただの恋人同士で終わるつもりはないよ?」

「ぐいぐいくるね……」

「恋人になって終わりじゃないし、結婚も2人の生活を始めるきっかけでしかないでしょ。さあ結婚しよう結婚! 私もう待ちきれない! 早く永遠の愛を誓い合おうよ!」

「う、うう……うひゃぁ……」


 アンジェは胸がどくんと震える音を聞き、挙動不審になりながら知識の海を漁る。

 結婚とは何か。結婚式。お祝い。財産の管理。責任の取り方。家名の変更。養子。老後。遺産……。


 頭が破裂しかねない勢いでアンジェは考え、海から知識を招き入れ、そしてついに、処理が追いつかなくなる。脳が情報量の多さに混乱を起こし、思考が滞ってしまうのだ。 

 普段はどれほど知識を得ても混乱など起こさなかったのだが、今は人生最大の幸福が終わった直後だ。肉体的に弱っており、精神的には暴走ぎみであった。


 だからこそ……アンジェは知識の海の奔流を捌き切れず……その知能を大幅に低下させることとなってしまった。


「けっこん……よくわかんない……」


 アンジェが頭から煙を出しながらそう呟くと、ニコルは悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「ふふ……。じゃあ、やめておく?」

「する! にこうとけっこんする!」

「だよね! いよっしゃあああ!!」


 アンジェは椅子を蹴りながら飛び降り、机の下をくぐり抜け、大歓喜しているニコルの膝の上へと移動する。

 そして臆面もなくニコルの胸に抱きつき、すりすりと頬擦りを始める。

 そこにあるのは、あらゆる知識と知恵を失った、年相応の幼児の姿だ。


 脳の余力がなくなり、普段生きるために用いている部分まで知識の海に割いてしまったため、所謂「ぼーっとしている」低燃費な状態に移行したのである。


「にこうとけっこんしたら、およめさんになる! オレがママでにこうもママ!」

「……アンジェもママになりたいの?」

「ママになるよ! だってオレ、女の子だもん!」


 アンジェは脳で結婚に関するあらゆる知識を噛み砕きながら、次第に疎かになった現実の肉体へと戻ってくる。

 所詮は単なる気の迷い。外部から暴力など強い刺激を受けるか、受け取った知識を吸収しきれば、素のアンジェへと自然に戻る。


「にこう、と、一緒……に……結婚……結婚とは家庭を築く行為であり……」

「あ、戻ってきた。()()()()()()アンジェになってたよ。懐かしいなあ。平気?」

「しくじった……。調子、取り戻せてないな……」


 正気に戻ったアンジェは、顔を耳まで赤くしながら元の位置に戻る。

 子供だと思われてしまったかもしれない。実際にアンジェは子供なのだが、それはそれだ。ニコルの前では頼もしくありたい。


 ニコルは微笑ましいものを見たような顔でだらしなく笑う。


「ふへへぇ。アンジェって、初めての人に会って怖がってる時も、そんな感じになってるよね」

「そうなの?」

「そう。『つよいこころをもっています』って。聞かせてあげた物語の人みたいに。照れて顔を真っ赤にしながら」

「むっ……むむう……」

「ふふっ……。強がりなアンジェも可愛いよ」


 ニコルにからかわれると、羞恥心が倍以上に膨れ上がる。また理性が飛んでしまいそうだ。


 脱線するのはこのくらいにして、先ほど得たこの国における結婚の形態について知らせるとしよう。


「ミストルティア王国における結婚は、各領地によって手続きが異なる。そのため、一口に結婚と言ってもその実態は様々だ」

「ふむ」

「例として、この領地の場合を挙げよう」


 アンジェは巨大な石板を作って壁に立てかけ、上手とは言えない文字で記入しながら授業を進める。


 アース村、マーズ村、イオ村、そしてこのサターンの街は、この国でも有数の大貴族の領地内にある。

 貴族の家名は『ソーラ家』。彼らが管轄する土地の名は、まとめて『ソーラ領』と呼ばれる。

 つまるところ、アース村の正式名称は『ミストルティア王国ソーラ領アース村』ということになる。

 ちなみにアンジェの実家の住所は『ミストルティア王国ソーラ領アース村北区三番地』であった。


「ソーラ領の場合、現在の領主である『ヤヌス・フォン・ソーラ』に対する個々の届出は不要。それぞれの村、または街の長が管理すべし……とある」

「じゃあ私たちはどうなるの? アース村で生まれたから、アース村の掟に従うってこと?」


 そう言って、ニコルはやや渋い顔をする。アース村の住民として振る舞いたいとは考えていない様子だ。

 これに関してはアンジェも同意見である。アース村はもう滅んだ。故に、これからは定住すると決めた街の決まり事に従うべきだろう。


 アンジェは首を横に振り、サターンの街の法を知識の海で調べ、結婚に関する部分を抜粋し、石板に記入する。


「オレたちにとっての安住の地を見つけたら、そこの法に従って、夫婦として登録……つまり結婚することになる」

「……登録、かあ。夢がないなあ」

「サターンの街の場合は、まず長に申請書類を提出。許可が降りたら、夫婦2名と、彼らの保証人1名以上の集団で、北区にある役場へ。長かその代理人の承認と、必要書類への記入を経て夫婦として認められる」


 ニコルは露骨に顔をしかめる。


「う……面倒くさい……」

「お、今得た知識だけど、結婚に年齢制限がないみたいだ。これは珍しい。だいたいの土地で下限が設けられてるけど、ここはずいぶんと……。法の整備が甘いだけ、というよりは、何か理由がありそう」


 この街で結婚するための条件を説明すると、ニコルはげんなりした様子で胸を机に置き、その上に顎を乗せる。


「うわ……」


 明らかに飽きている。たとえ今後の人生にかかわる大事な話でも、内容がつまらなければ身が入らないというものだ。ニコルの態度も頷ける。


 ニコルの顔と見てはいけない部分が接近してしまったので、アンジェはぎこちなく目を逸らし、石板への板書に集中しているフリをする。


「ごめん。長かったね。ま、まあ、サターンに住むつもりがないなら、今のは忘れていいと思うよ」

「うーん。結婚って、もっと素敵なものだと思ってたんだけどなあ。聞いてる限りだと、無味乾燥だなあ」


 ニコルは年頃の少女らしい、輝かしい夢に似た内心を吐露する。


「物語で結婚したら、その後ずっと幸せに暮らしましたって締め括られて、それっきりだけど……。現実はそうじゃないんだね……。面倒くさい話がたくさんくっついてきて、自分の小ささを思い知らされるっていうか……」


 ……アンジェもかつては同じように考えていた。アース村の小僧のままであれば、その認識でも間違いではなかったのだ。小さな村であれば、面倒な手続きは存在せず、恋愛と結婚はほぼ同一のものだ。

 この悩みは、狭い社会から広い社会へと移動したからこそだと言える。


「大きな街には、人を管理する偉い人がいる。だからこういうのも必要なんだよ」

「……そう。都会って、そんな感じなんだね」


 ニコルは夢破れたような暗い表情になり、それを誤魔化すように自分の胸に顔を埋める。


 また暗い雰囲気になりつつある。真面目に話そうとすると、どうしてもこうなってしまう。

 だがアンジェが全身全霊で役に立とうとするなら、こうするしかないのだ。もどかしい話である。


 仕方がない。話を早めに切り上げる他ないだろう。

 アンジェは話術で解決することを諦め、このような話し合いを手早く終わらせる方向を選ぶ。


「ニコルはどうしたい?」

「どうって……」

「この街で結婚したい?」


 アンジェは自らの薄い胸に手を当て、押さえる。

 外に聞こえそうなほど大きな心臓の鼓動を、どうにかして鎮めたい。だがニコルを見つめていると、興奮が止まらない。

 恋が叶った後でも、とめどなく愛が溢れてくる。やはりニコル以外に、結婚相手は考えられない。


 しかしニコルは閉め切った窓の方を見て、ぽつりと答える。


「……まだ、いいかな」


 どうやらサターンの街はお気に召さないらしい。

 今理由を問うのは野暮だろうか。そう思いつつも、アンジェはどうしても気になってしまい、根掘り葉掘り問いただす。


「どうして? 物があって、愉快で、外から来る人が多くて、同性愛に寛容で、貴族も北と西の区域にしかいない。オレたちの条件にぴったり合った、いい街だと思うけど……」

「世界は広いんだから、もっと良い街もあるんじゃないかなって、思って……。あんまりにも早く見つかっちゃったから、これでいいのかなって……」


 サターンが住み心地の悪い街だとは思っていないらしい。だが、サターンより更に良い街を求めて旅をしたい気持ちがあるようだ。


 サターン以上の好条件となると、なかなか難しい気がするが……まあ、もし見つからなくても、サターンに戻ってきてもよいのだ。ここは各地からひっきりなしに人が訪れ、頻繁に去っていく土地だ。関所も関門もなく、いつでも好きに訪れられる。


 アンジェはニコルの意を汲み、首を縦に振って肯定する。


「わかった。じゃあ定住できる街を、また探しに行かないとね」

「……それまで、結婚はお預け?」

「そうなるね」

「……ごめんね」


 アンジェとしては、今すぐにでも結婚できる状態だというのに、あえてそれを選ばない現在の方針はもどかしくてならない。

 一刻も早くニコルのものになりたい。アンジェとニコルは夫婦であると公に認めさせたい。


 だがニコルの意思を尊重しなければならない。彼女の言い分ももっともなのだ。2人は長い旅をすると言いつつ、まだソーラ領から一歩も出ていない。もっと候補地を吟味するべきという意見も同意できる。


 こうしてアンジェとニコルは、まだ結婚に踏み切らないことに決めた。旅はまだまだ続きそうだ。


 ニコルは腕を高く掲げて伸びをする。健康的な腕の筋肉。汗ばんだ脇。反っているにもかかわらずむしろ大きさが際立つ胸。肉感的で、蠱惑的だ。


「(う、うう……あれが、オレの、彼女……)」


 アンジェは正気を保つため、ニコルにあえて背を向けて話しかける。


「え、えーっと、オレからは、あと一点だけ、伝えたいことがあります」

「なあに?」


 ニコルは触手をアンジェの前方に回り込ませ、それで目を合わせてくる。

 どうしてもアンジェの顔を見て話したいらしい。なんとも愛らしく健気な少女である。


 アンジェは触手の花に顔を近づけて、なんとなく花びらを触りながら用件を伝える。


「明日は北の組合区域に行きたいと思います」

「ドイルさんに会うの?」


 むず痒そうな声で答えるニコル。

 確かに狩猟組合への登録もしておきたいが、それだけではない。折角なので、色々な用事をまとめて済ませたいと思っているのだ。


「それもそうだけど、役場に行けば結婚の申請をする様子が見られるかもしれないし、もしかすると遠くから領主の顔を拝めるかもしれないからね」


 要するに、見物である。

 北区は政治や経済に関わるお堅い施設が集まっている場所ではあるが、それはそれとして面白い光景も見られるのだ。

 例えば、現領主である『ヤヌス・フォン・ソーラ』の暑苦しい演説など。


「ピクト領のニーナ辺境伯に対抗心を燃やしているらしいよ。自分も人々の前に顔を出して、身を粉にして支持を集めたいんだってさ」

「私も前に来た時に遠くから見たことあったけど……そういう理由だったんだね。身を粉にしてるかどうかは伝わらなかったけど」


 ピクト領はソーラ領に並ぶほど豊かな領地であり、技術者や屈強な戦士が集うため、加工技術や軍事力は王国でも最高の水準だ。ソーラの領主が追い抜かれまいと必死になるのも無理はない。


「辺境伯……。あっ。そういえば、ちょっと気になったんだけど……」

「何かな?」


 ニコルに頼られるのは嬉しい。いくらでも質問してほしい。それに答えることで、アンジェは生きる実感を得られるのだから。


 ニコルは花から瑞々しい果実のような香りを漂わせながら、尋ねる。


「領主さまの地位ってどれくらいなの?」

「伯爵だよ」


 アンジェはさらりと答える。

 実は知識の海を得る前から、世間話で聞いたことがあった。ニコルが聞いていなかったはずがないので、覚えていないだけだろう。


 ニコルは触手を左右に揺らして疑問を表現する。


「それってどれくらい?」

「土地を管理する貴族はだいたい伯爵。それより上となると、王族の傍系とか、何か大手柄を立てて一代だけ与えられた勲章とか、そういう特別なものになる」


 ミストルティア王国における貴族制度は、上から順に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵という階級が定められている。

 公爵、侯爵は数が少なく、大半が王都にいて国の(まつりごと)に深く関わっている。伯爵は土地の管理者。子爵、男爵は大した土地を持たないが、功績や血筋を国に認められ、名誉の証として貴族の称号を持つ者。


 貴族は世襲だが、家ではなく個人に与えられる称号であるため、一家の長しか爵位を名乗ることは許されない。貴族の家に生まれたにもかかわらず何の称号も持てない次男や三男もいるというわけだ。世知辛い話である。


「というわけで、ソーラ伯爵は割と普通の貴族だ」

「ずいぶんあっさりまとめたね……。まあ、それくらいの方がわかりやすくて良いかな」


 サターンほどの街が領内にあるというのに、領主は貴族の中でもそれほど偉いわけではないのだ。なんとももまあ、やるせないことだ。


 ニコルはちょっと口の端を曲げて、何処か遠い彼方を見始める。

 自分の記憶の中にある光景を眺めているのだろう。ここではない、何処かを。


「普通、かあ……。ここも、アース村も……」


 望郷。……いや、何処にあるかわからない理想の地への、展望か。

 サターンより、もっと良い場所を。2人にとって、より良い世界を。


()()()()()()()()()()

「……わかんない」


 多数派であること。万人に受け入れられる立場であること。個性が無いこと。人畜無害であること。

 だとしたら……きっとアンジェとニコルに、普通の場所も、普通の肩書きも、似合わないのだろう。


 〜〜〜〜〜


 《ニコルの世界》


 私はゆっくりと椅子から離れ、アンジェの体液がついた体をわざと揺らしながら、寝床に倒れ込む。


 アンジェは満足して服を着てしまったけれど、私はまだまだ物足りない。だから着替えず、体を洗ったりもしなかった。

 激しい感情を持ち続けるのは疲れるから、ある程度楽しんだら一度時間をおいて、疲れがとれたらまた燃え上がるんだ。それが私のやり方だ。


「(アンジェは乗ってくれるかな)」


 私は見せつけるように品性に欠ける格好をして、アンジェの心を掴もうとする。

 身体中が汗でべたべたしている。私のものだけじゃない、2人分の汗で。


 ……特別なことをしなくても恋人だと、アンジェはそう言った。今までにしてきたことをなぞるだけで、恋人のままでいられると、そう言った。

 でも、私はそうは思わない。だってアンジェは、体を重ね合わせることかできなかったとき、すごく落ち込んでいたから。私もアンジェを奪えなくて、すごく悲しかったから。


 恋愛は心の在り方。結婚はただの手続き。ならこの体の火照りは、一体何を意味するというのか。この胸に疼く悦びを正しく分かち合えたなら、私たちはもっと先に進めるんじゃないか。


「特別になろうよ、アンジェ」

「……もう特別だよ」

「じゃあ、それを証明してもらおうかな」

「さっきのじゃ、足りなかった?」

「もちろん。100倍しても、全然足りない」


 真面目な話を中断して、余計なことを追いやって。

 一番先頭にある欲望を、ぶつけ合おう。それができる関係に、私はなりたいんだ。


 アンジェは横たわる私の体に、震える手を伸ばす。

 打算やしがらみなんて何ひとつ考えていない、純粋な想いがそこにある。

 やった。成功だ。まだ幼いアンジェを、堕落させることができた。私も案外、捨てたもんじゃないね。


「あはっ」


 私はすっかり乱心したアンジェを、優しく包む。

 今度は私から、食べられにいっちゃおう。


 さて。何回できるかな……。

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