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第45話『冠婚』

 

 《ニコルの世界》


 今夜、私は想いを告げる。

 私はアンジェと共に生きる。今日の出来事で、そう決めたんだ。


 今も私の口の中には、お砂糖のとろけるような甘さが残っている。かつてはとても手を出せなかった味。それがアンジェのおかげで、私の舌まで届いたのだ。

 私が受けたこの恩は、私に起きたこの変化は、一生忘れないだろう。だから一生かけて、アンジェにこの喜びを返し続けるんだ。


「(見ていますか、私に花嫁修行をしてくれた天国のお母さん。私、アンジェのお嫁さんになります)」


 ……あれ?

 今のアンジェは女の子だから、私がお婿さんにならないと駄目かな……?

 同性婚の作法について、聞いておくべきだったかもしれない。しまったなあ。


 ……そうだ。聞きたいことは他にもある。同性婚って結局どういう状態を指すんだろう、ということだ。

 私たちは旅人だから、お互いに恋人だと認識していればいいのかな。それとも国か何処かに届け出ないといけないのだろうか。


 子供はどうしよう。私、子供の作り方を教えられてないんだよね。お父さんが浮気の末に村を追い出されたから、お母さんが教えてくれなかった。

 女の子同士でも作れる……なんて思ってるけど……やっぱり無理かな?


 ……待てよ。アンジェに受け入れられる前提で考えてきたけど、断られたらどうしよう。気まずい関係になってしまうかもしれない。距離を置かないといけないのかな。


「(……うう、こわいなあ。どうすれば一番いい未来に辿り着けるんだろう)」


 ……悩みは尽きない。不安もある。

 それでも、私は……もう退かない。自分に正直になるって決めたから。


 〜〜〜〜〜


 宿に帰り着いた後、アンジェは荷物や残金を確認しつつ、ニコルの帰りを待っている。


 ニコルは極秘裏にやりたいことがあるようで、エイドリアンに入室しないよう許可を貰いに行っているところだ。


「ただいま」


 床板が動き、ニコルが顔を出す。

 エイドリアンの枝ではなく、自分の触手で床を制御している。管理用の枝を取り払ってもらったのだろう。交渉成功だ。


 アンジェは彼女のために魔法でお茶を淹れながら、笑顔で出迎える。


「おかえり。どうだった?」

「お代として、後で植物の魔法を比べっこさせてほしいって。それくらいならお安い御用だよ」


 どうやら交換条件を出されたらしいが、有って無いようなものである。どのみち数日後には見せ合っていただろう。


「ふう。疲れた。ぐびぐび」


 ニコルはずるずるとお茶を啜りながら、だらしなく椅子に横たわる。

 面倒くさがりな部分が再発しているが、それでこそニコルである。最近彼女を酷使しすぎていた自覚はある。この際、ゆっくり羽を休めてほしいものだ。


 アンジェが自分のお茶が冷めるのを待っていると、ニコルは何やら咳払いをしてから、深刻な様子で話し始める。


「ん、んんっ。アンジェ。まだ夕方ですが、お話があります」

「え? は、はい」


 いつになく感情が乗った、付き合いの長いアンジェでさえも緊迫感を覚えるほどの強い口調だ。

 まだ夕方、ということは時間帯によって内容が左右される話なのだろうか。現時点での第一候補は、夜に出かけたい用事がある、といったところか。


「(早めに夕飯を食べたい? それとも夜の街を探索したい? でもこんなに緊張しながら言うようなことではないよなあ)」


 アンジェはなんとなく正座の体勢になり、膝の上にちょこんと両手を置いて、ニコルの言葉を待つ。


 ニコルは唾を飲み、獲物に狙いを定める野生動物のような目つきになり、前傾姿勢をとり、今にも襲いかかってきそうな雰囲気を醸し出しつつ……告げる。


「私は……アンジェが、好きです」

「うん。そうだね」


 幾度となく繰り返されてきた、お互いの立ち位置の確認である。

 アンジェはニコルのことを愛している。だがニコルは旅をして他の相手を見つけろと言う。うんざりするほど聞かされてきた理屈である。


 アンジェはニコル以外の伴侶を見つけるつもりはない。視野が狭いと言われようが、見つけられる気がしないのだから仕方ない。故にこれ以上繰り返し主張されても嫌な気分になるだけだ。


 アンジェは口をぎゅっと結び、鋭い目つきで遺憾の意を示す。

 愛を否定されるのはつらい。願わくば、もう二度とその話題を出してほしくない。ニコルはアンジェを傷つけたいのだろうか。心を殺したいのだろうか。


 だがニコルはいつもと違い、水揚げされたばかりの魚のような顔で硬直している。


「…………やけにあっさりしてるね、アンジェ」

「……ん? んん? ちょっと待って」


 何やら噛み合っていない。アンジェが言葉の意味を正しく理解できず、正しい反応を返せなかったのだろう。手間をかけさせて申し訳ないが、聞き返した方が良さそうだ。


「オレたちは結ばれない。あくまで親友としての好意だ。……という意味で合ってるよね?」

「……ああ、そっか。そういうこと」


 ニコルはまたわざとらしく咳払いをして、問題点を修正する。


「えっとね、アンジェ。好きっていうのは、恋愛がしたいって意味だよ」

「うん。……うん?」


 恋愛がしたい。それは、ごっこ遊びがしたいという意味ではないだろうか。伴侶ができたときのために、仮想的な会話の練習を……。

 ……いや、だが、それが目的なら、そのように告げるはずだ。遊びたいと、率直にそう言うはずだ。


 では、遊びではなく、本気の恋愛をアンジェとしたいと、そう考えていることになる。結婚を視野に入れた大人の付き合いを……。


 ………………夢だろうか。

 あまりにも、アンジェにとって都合が良すぎる。ニコルはアンジェと結ばれたくないのではなかったか。


「恐縮ですが、もう一度お願いします」


 何度も恥ずかしい思いをさせるのは失礼なことだと承知しているが、アンジェは未だに現実を受け止めきれていない。目の前のニコルが魔法による幻で、触った瞬間に消えてしまうのではないかと思えて恐ろしいのだ。


 ニコルは三度目ともなると流石に余裕が出てきたのか、くすくすと笑いながら伝える。


「私は、アンジェのことが大好きです。愛し合って生きていきたいと思っています」


 そして、ニコルは恥ずかしがって両手で顔を覆う。

 ついに言ってしまった。恥ずかしいけれど、後悔はしていない。そんな態度だ。


 ………………夢に違いない。ありえない。


 アンジェは頬をつねる。だが、光景は変わらない。

 水魔法を顔にかける。だが、光景は変わらない。

 ニコルに近づく。彼女はぎこちなく微笑んでいる。

 ニコルに近づく。笑みが濃くなる。

 ニコルに触れる。笑顔が怖い。


 謎は深まるばかりだ。何が起きているのだろう。


 そういえば、最近のこの街には危険な薬が横行しているらしい。知らないうちにどちらかがそれを服用してしまったのだろうか。


「(そうだ。ナターリアは怪しい薬を服用しているという話だった。もしかすると宿の何処かに付着していて、知らず知らずのうちに摂取してしまったのかもしれない)」


 アンジェはニコルの両手を顔から退けながら、健康観察のための質問をする。


「ニコル。何か変な物でも食べた? それとも、未知の魔法でも受けた?」


 すると、ニコルは痺れを切らした様子で素早く立ち上がり、拳を握りしめる。


「……アンジェがこういう反応をするのも、私の責任だろうね。私はずっと間違えてたんだ。人の愛を信じきれない人に育ててしまったんだ」

「あの、ニコル様?」

「大丈夫だよアンジェ。変な物も食べてないし、魔法も受けてない。私は大丈夫。私は大丈夫。私は……だい、じょう……うう……」


 屈託のない笑みが消え、いつもの何処か寂しそうな作り笑顔に早変わりする。見慣れた顔だ。

 それはみるみるうちに歪んでいき、泣き笑いのような不気味な表情に変わっていく。まるでいつも通りの表情を作ろうとして、ことごとく失敗しているかのように。


 そしてニコルは、目にも止まらぬ猛烈な速度でアンジェの手を取り、蔦を絡めて投げ飛ばす。


「もう我慢できないっ! アンジェ、覚悟!」

「ひゃあん!?」


 ふわりと宙に浮く感覚。胴の辺りを蔦に持ち上げられ、無抵抗のまま部屋の隅まで飛ばされていく。

 寝床に落下し、勢いのままに転がっていき、壁にぶつかって停止する。


 慌てて体勢を立て直し、顔を上げてニコルの様子を見ると、彼女は頭を掻きむしりながら、何事かを捲し立てている。


「焦らしすぎだよ! 毎日毎日、我慢我慢我慢我慢させて、やっと吹っ切れて、やっと言えたのに、なんでここにきてわからずやになるの!? いつもはもっと察しが良いじゃない!」


 ニコルが一言発するたびに、細かい触手が伸びて荒れ狂う。戦闘用の爪や牙が生えてきて、ニコルを悪の化身に変えていく。


「(なんで変身を……。オレと戦う気か!?)」


 急な場面転換。突然の戦闘。この理不尽さは、間違いなく夢だ。それも、起きた後まで覚えているような濃い悪夢だ。


「(ニコルがオレに愛の告白をするなんて、おかしいと思ったんだ。これは現実じゃない!)」


 もしかすると、現実のアンジェは意識不明の状態に陥っているのかもしれない。それならば、こんな夢を見るのも納得だ。


 ニコルは寝床に横たわるアンジェに向けて追撃しようとしている。蔦に頼らず、自らの体で肉弾戦を仕掛けてくるようだ。


「こうすれば……私の想い……伝わるよね!」


 ニコルは硬い角を生やし、挑発的に尻尾を揺らし、威圧的な翼をはためかせ、悪魔の様相に変化する。

 そして、翼と尻尾を器用に使って服を破り捨て、素っ裸になる。


 久しぶりに見た、本気の形態だ。こうなったニコルは手強い。

 俗説によると、夢の中で死を確信した者は、(うつつ)においても心臓や脳が機能を停止し、そのまま死に至るらしい。論理的な証明は為されていないが、世界中で広く伝わる噂だ。

 夢とはいえ、抵抗しなければ危険だろう。生きたいという意思を示さなければ。


 アンジェは魔力を練り上げ、先程使ったばかりの水の魔法を再発動する準備を整える。

 ニコルは露わになった自らの肉体を誇示し、その恐るべき強さを主張してくる。


「ど、どうかな!? 私の体を見るのは、いつ以来かなあ!? 成長してるでしょ、私! こんなに大きくなったんだよ!」

「くっ……なんて圧だ!」


 あらゆる魔物の武器を寄せ集め、体現した姿。世界を脅かす災厄の化身。その凄まじさに圧倒され、アンジェはごくりと喉を鳴らす。


 一方で、ニコルはその体を誇り、腰に手を当てて胸を張る。


「でしょ? 大きすぎて不便だけど、役に立つ時が来てくれたから、感謝しないとね。あっはっはっ!」

「(確かに、威圧感で姿が大きく見える。立ちはだかる敵はいつだって巨大ということか)」


 ニコルは極度の興奮により紅に染まった顔を不気味に歪め、残虐な悪魔のような笑みを見せる。

 このような場面なのだ。体を見られるという羞恥によるものではなく、闘争本能による興奮だろう。

 つまり今のニコルは、野生に回帰した強き者。平和ボケした人類からかけ離れた、猛き存在。


「まるで、猛獣……!」


 力強き波動を獣に例えてそう呟くと、ニコルは不機嫌そうな目つきになり、口の端をひくつかせる。


「ふふふ……。そうだね。その通り。ケダモノだよ。欲望まみれの、醜い心の持ち主。ずっと隠してきたけどね……」

「う、うう……おのれ、悪魔め……。この悪夢もきっと悪魔のせいなんだ……」

「違うよ。私は村にいた時から、醜いケダモノだったんだよ。びっくりした?」


 やはりこのニコルは夢の中の幻影だ。ニコルは村の誰よりも清楚で、可憐な少女だった。自分自身をケダモノ呼ばわりするとはとても思えない。


「(でも、もし本当のニコルが、悪魔としての自分を剥き出しにし始めたら……オレはどうするんだ?)」


 アンジェはエイドリアンに対して抱いた殺意を思い出して、気落ちする。

 ニコルが擬態を止め、悪魔の魔力を完全に解き放ったその時、果たしてアンジェは正気でいられるのだろうか。この胸に抱く愛を、貫き通せるのだろうか。


 アンジェは手のひらに満たした水を顔にかけ、胸に去来した不安を振り払う。


「(落ち着け。ニコルを手にかけるようなオレは、オレじゃない。この手で殺すなんてことは、万に一つもありえない)」


 夢の中のニコルに、アンジェは向き直る。


「はあ、はあ……アンジェ。まだ幼いアンジェ。さあ今こそ、私の腕の中へ!」


 アンジェはいよいよ襲い掛かろうとしている強大な悪魔を前に、到底死には至らないだろう軽微な水魔法を放つ。

 夢の中だとしても、ニコルに本気の魔法などぶつけられるわけがない。魔法で冷や水をかけるくらいが、アンジェに許された暴力だ。


 ニコルはそれを意に介さず、突進してくる。あまりの速度に動体視力が追いつかず、水魔法を受けたことにすら気がついていないようだ。


「(まずい。なんて硬さだ! 手加減しすぎた!)」


 アンジェは咄嗟に身を投げ出して回避行動を取り、ニコルの左腕による攻撃をかわす。

 だがニコルは翼と風魔法を駆使して宙返りし、右腕で再度攻撃を仕掛けてくる。


 肉体の性能が違いすぎる。これでは勝負にすらならない。魔法を詠唱する暇がなければ、アンジェはその力を発揮できないのだ。


 そして。


「ぬおおおおおっ!」

「あぎゃーっ!」


 次の瞬間には、ニコルの張り手を臀部に受け、宿の扉を突き破って廊下まで叩き出されてしまう。


 出血多量。内臓破裂。打撲、骨折、脳震盪。シュンカ以上の怪力で殴られたのだから、当然の怪我だ。


「(つ、つよすぎる)」


 アンジェは夢のニコルにあっさりと敗れ、その意識を途切れさせることとなった。


 〜〜〜〜〜


 目が覚めると、アンジェは自らの寝床の上にいた。

 外の様子から察するに、朝だ。商業区域で遊んだ次の日だろう。

 やはりあの戦いは夢だったようだ。


 ……ニコルと戦うことに意義を見出せなかったとはいえ、まさか一撃で負けてしまうとは思わなかった。


「悔しいな。もう少し善戦したかった」


 夢とはいえ、なかなか真に迫った内容だった。実際に殺し合いをした場合も、あれと同じ結果になるだろう。

 ニコルはシュンカよりも、マンモンよりも強い。アンジェごときでは太刀打ちできないのが当たり前だ。


 すると、アンジェの口の中での呟きを拾ったのか、部屋の反対側の隅で、ニコルがぴくりと身を震わせて反応してくる。

 てっきりいつも通り添い寝しているかと思っていたが、今日はずいぶんと珍しい位置にいるようだ。


 アンジェは膝を抱えて落ち込んでいるニコルに、声をかける。


「おはよう。いい朝だね」

「……そうですね」


 ニコルは何故か青ざめてげっそりとしている。商業区域でアンジェを押し倒したことをまだ気にしているのだろうか。


「そんな顔しないで。昨日のことなら、気にしてないよ」

「本当? 慌てすぎて雰囲気を壊しちゃったし、悪魔の力が思ったより強くて、アンジェに酷いことしちゃったけど……」

「悪魔の力?」


 何の話だろう。押し倒した時のあれは人間の女性の範疇であり、悪魔の力は使っていなかったはずだ。


 アンジェは首を捻り、昨日のことをひとつひとつ振り返る。


 ……そうだ。昨日はニコルの涙を見て、慰めながらすぐに帰ったのだ。

 それから宿に帰ったニコルは、やけに長い時間をかけて体を洗って、その間アンジェは部屋から締め出されて暇を持て余し……。

 部屋に戻ったと思えば、エイドリアンと交渉を始めて……。


「(ん? オレ、いつ寝たんだ?)」


 あの変身したニコルは夢か何かだと思っていたが、眠った覚えがない。

 疲労のあまり記憶が曖昧になっているということだろうか。あるいはあの出来事は現実で……。


「(いやいや、そんなはずは……)」


 あれが夢でなかったとしたら、ニコルが何の前触れもなくアンジェに暴行を振るう悪魔だということになってしまう。


 だが、自分の臀部を軽く撫でてみると、重い怪我をしたような痕跡がある。よく見ると部屋の中央に、ニコルの服の切れ端らしきものも……。


「あ、あわわ……」


 アンジェが目を泳がせていると、ニコルは昨日に起きた出来事を詳細に述べながら、謝罪をする。


「私、感情が昂ると悪魔の姿になっちゃうことがあって……。条件があるんだと思うけど、まだよくわかってなくて……」

「きのうも、あくまに、なった?」

「うん。アンジェが見た通りだよ……。抱きしめようと思ったのに、速すぎて何も見えなくなって、爪も長くて、それで……」


 どうやら夢だと思っていたあの光景は、全て本当だったらしい。


「夢じゃなかった……。なんてこった……」


 ニコルがあれほど暴力的になるとは、今となってもとても信じられない。

 だが彼女が本心をさらけ出せるようになったからこそ、ああなったと思えば……。


 それでも、きつい。


「(う、うぐぐ。オレを投げ飛ばして、目の前で大胆に服を脱いで、ケダモノになったあの悪魔が、本物のニコルだなんて……そんな……)」


 アンジェは激しい頭痛に見舞われながら、懺悔するニコルの声に耳を傾ける。

 目を逸らしてはいけない。耳を塞いではいけない。ニコルの変化を、受け止めなくてはならない。アンジェにとって、人を愛するとはそういうことだ。


「私、アンジェを傷つけちゃった。好きだって、宣言したのに……」


 そうか。その発言も夢ではなかったことになる。アンジェがひとりで勘違いをしていただけだったのだ。


 ……ニコルは、愛するという言葉を否定しつつも、アンジェのことを好いていてくれたのだ。そして先日の出来事を経て、ついに意見を曲げてくれたのだ。


「(それまでの自分を捨ててくれたんだ。一歩距離を置いて見守ってくれる優しい幼馴染という殻を、勇気を出して脱ぎ捨てたんだ。オレと結ばれるために)」


 あの大胆な変貌も、その一端か。


 これほど嬉しいことはない。見返りのない奉仕に身を投じる覚悟はあったが、ニコルの方からも求めてくれるなら、それは人生そのものを肯定されたようで、感無量だ。


「(ニコル……本当に、オレのこと……いかん、泣くな泣くな)」


 ケダモノだから、なんだというのだ。ニコルは勇気を出して告白してくれたのだ。アンジェもそれに応えなければならない。


「ニコル。オレは傷ついてなんかいない。心身ともに完璧だ」

「……でも」

「ほら、元気いっぱいだ」


 アンジェは知識の海で仕入れた体操をし、健康な姿を積極的に見せびらかす。

 短い腕を振り、くびれていない腰を捻り、丸い足首を回す。お尻はまだ痛むので動かさない。


 するとニコルは、アンジェの動きに釣られ、声をあげて大笑いする。


「あ……あっはっはっはっはっ! もう、アンジェったら……可愛いなあ。あっはっはっ!」


 おかしくておかしくてたまらない。腹の底から愉快な気持ちが溢れ、熱を帯びて爆発している。そんな笑い方だ。


 思い返せば、昨日もこんな笑い方をしていた。あの時始めて見た、満点の笑み。

 ……笑いという自然な感情の発露さえ、今までのニコルは満足にできなかったのか。


「(これからは、オレが笑顔を引き出すんだ)」


 一通り体を動かし終えたアンジェは、ニコルのところまで歩いて行く。


 ……いよいよだ。物心ついた時から願い続けてきた望みが、叶おうとしている。


「照れ臭いけど、聞くね」

「うん」

「オレのこと、愛してくれるか?」


 キザで、格好つけで、自意識過剰な言葉だ。自分らしくもない。

 ……それでも、これこそが、今の場面に必要なものだ。長い長い片想いに、物語のような台詞で、決着をつけるのだ。


 ニコルは差し出された小さな手を取り、まっすぐ立ち上がる。迷いのない澄んだ瞳で、しっかりとアンジェを見つめながら。


「愛してるよ、アンジェ。今までも、これからも」


 2人は見つめ合い、ゆっくりと指を絡め合う。

 アンジェの短く骨張った指。ニコルの長く細い指。不釣り合いだが、撫でて形を覚えれば、固く結び合うことができる。


 まずアンジェの方から、一歩踏み出す。

 次にニコルが、反対の足を前に出す。

 ニコルは屈み、アンジェは背伸びする。


「……いいよね?」

「……もちろん」


 もはや言葉は必要ない。

 故郷を失った事件以来、長く離れていた2人。ずいぶんと遠回りしてしまったが、また戻ってくることができた。


 2人は息を大きく吸ってから、ゆっくりと距離を縮め合い、口づけをする。

 待ち焦がれた瞬間。こうなることを、ずっとずっと夢見てきた。

 ニコルもそうだ。こうしたかったのだ。同じ気持ちでいる。憧れの人と、同じでいられる。なんという幸せだろう。


 アンジェはニコルの様子を確かめながら、慎重に唇を合わせる。

 ニコルが揺れれば、アンジェも揺れる。ニコルが肩に手を置けば、アンジェは腰に手を回す。

 向こうは気持ち良いのだろうか。温かい気分になれているのだろうか。常に相手を気にしながら、自分も心地よい幸福に浸る。


 ……やはり、男だった頃とは、違う。自分の唇がこんなにも柔らかいだなんて、思いもしなかった。普段は意識することがないのだから、変化に気がつくことがなかった。


「(オレの体……なんか、変だ。喉の奥がむずむずする。どうしよう)」


 アンジェはニコルとの魂の触れ合いを通して、男とは違う自分の体を強く意識する。

 自分は女だ。体格こそかけ離れているが、ニコルとそう大差ない、丸みを帯びた、命を育む力を持った体なのだ。その事実を否応なしに叩きつけられる。


「(う、うう……これ、ダメなやつだ……どんどん体が良くない感じになっちゃう……)」


 アンジェは何故だか途端に息苦しくなり、意思とは裏腹に、ニコルから遠ざかってしまう。

 もう少し愛し合っていたかった。だが、体がそれを受け付けてくれない。呼吸しなければ。


「けほっ、けほっ……」


 アンジェは口の端から垂れる涎を拭き取り、ニコルの反応を窺う。

 ニコルは満足してくれたのだろうか。アンジェとしては気にすることが多く、純粋に楽しむことができなかったのだが……。


「ふーっ、ふーっ……。よかったよ、アンジェ」

「それは……何よりです」

「じゃあ、もっと先に行こうか」


 ニコルはまだ物足りないようだ。息を荒くして距離を詰め、アンジェのうなじに手を添えてくる。


「楽な姿勢で、たくさんしよう」


 ニコルはそう言って、アンジェを寝床まで押し込んでいく。脚で押し、手で押し、胸で押し……柔らかい毛布に包み込んでしまう。


 眼光と行動の圧が強く、抵抗できない。身も心も、ニコルに支配されてしまっている。

 捕食者と被食者。飼い主と従僕。……ニコルと、アンジェ。


「あっ……もうちょっと、優しく……」


 アンジェは自分の口から飛び出た女々しい言葉に、自分自身意外に思う。

 何故ニコルに好き放題されているのだろう。体格差によるものだろうか。それとも……。


 アンジェはしばらく寝床に押さえつけられたまま、ニコルに撫でられ続ける。

 頭を撫でられ、頬を揉まれ、肋骨に沿って爪を立てられ、腰を丸くさすられる。体の輪郭を、隅々までなぞられていく。


「アンジェって、こんな形してたんだ」

「う、うわあ……恥ずかしい……これ、すごく恥ずかしいよ……。全部、知られちゃう……!」


 ニコルはアンジェの手足を封じ込め、気の向くままにアンジェを触り続ける。

 これはまだ、ほんの序の口だろう。本番のための、予行練習に過ぎない。体の内側までは手を出されていないのだから。


 ニコルに身を委ねるのも、気持ちが良い。だがこれでは面子が立たない。

 主導権を握りたい。少しは甲斐性を発揮させてほしい。

 アンジェがふとそう思うと、ニコルはその変化を察したのか、首筋をひと舐めしてから態度を変える。


「ねえ、アンジェ。教えて」


 ニコルは寝床に横になり、平坦な体についた女性らしい豊満さを見せつけて、アンジェを誘惑する。


 アンジェはぼうっとする意識の中、ニコルのよく通る声を聞く。


「知識、あるんでしょ?」

「……オレにはまだ、早いよ」

「本当にそうかな?」


 ニコルは目を細め、悪魔らしく堕落へと誘う。

 決して歩んではいけない道へと導き、人の道理から外れさせようとしている。見てはいけない、知ってはいけないと自制し続けてきた方角へ足を向けさせようとしいる。

 なんと嘆かわしいことだろう。未来ある子供が、こんなにも快楽に溺れるなど。


「試してみてよ」


 アンジェはもう、ニコルに逆らうことができない。

 思考を捨て、理性を投げ、脳が溶けるような感覚に浸り、ただ誘導されるがままに……。


 アンジェは愛する幼馴染に飛びつく。

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