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第44話『退路なき前進』

 《ニコルの世界》


 この街に来てから、私は嫌な行動ばかりしてしまっている。

 芸術を見ても価値がわからないし、劇場に入る勇気もないし、エイドリアンを助けようともしていない。

 今のところ、アンジェの足を引っ張るようなことしかしていない。相棒失格だ。


 たぶん、私の過去のせいだろう。私にとってのこの街が、未だに苦い思い出の中にあるからだろう。

 だから何をやっても心の何処かが痛む。楽しいという感情に身を任せることができない。何ひとつ悪いことなんか起きていないのに、気を抜いたら恐怖でしゃがみこんでしまいそうだ。


 私は昔、村長たちに連れられてこの街を訪れた。その時はまだ、純粋に新しいものを楽しむことができていた。今より貧しかったけど、目に映る全てが新鮮だった。

 アース村は茶色と緑色ばっかりで味気ないものだったと初めて知った。世の中には素敵なものがあるんだとわかって、憧れた。

 いつかこの街で暮らしたい。私はそう願うようになった。


 西の区域で貴族と遭遇した時、幸せが破綻した。

 煌びやかな衣装。上品な化粧。大きな帽子に、見たこともない髪型。物語に出てくる美しいお姫様みたいで、素敵だと思った。

 だから私は、保護者たちの目を盗んで近づいてしまった。


 でもあれは、同じ人間じゃなかった。

 目が合った直後、あの人は私の顔面とお腹を杖で殴りつけて、お付きの人を使って摘み出した。

 その後、私の抜け毛がついたお付きの人の手袋を捨てさせた。

 そして「薄汚い村娘が」と吐き捨てるように言って、頭を下げる村長を睨みつけた。


 ……今でも思い出すだけで鼻の奥とお腹がひりひりして、吐き気がする。


 貴族にぐちゃぐちゃにされた後の事は、詳しく覚えていない。折れた鼻を治療して、しばらく宿で塞ぎ込んで、この街の北にいる領主さまのところに行って、村長さんたちがすごい剣幕で何かを話し合って……。

 気がついたら、帰路についていた。何事もなく静かに帰って、マーズ村を通過して、家に戻っていた。


 ……アース村での暮らしに戻ってからも、しばらくは訳が分からなかった。あの時のことは夢だったんじゃないかって思った。理不尽で、理解不能で、現実離れした体験だった。

 でもある時、お母さんが不意に泣き出して……それでようやく私も、悲しい出来事だったんだって、受け止められるようになった。


 何がいけなかったんだろう。今も昔も、胃の中身を戻すたびに、私は考える。

 機嫌が悪い時に近づいたのがいけなかった。人に嫌われるような身なりをしていたのがいけなかった。親の言うことを聞かなかったのがいけなかった。細かい理由は、他にも色々あると思う。


 でも究極的な結論はいつも変わらない。

 自分の地位が低かったからだ。私が同じ貴族だったら、ああならなかったはずなんだ。不愉快に思われても、あんな目に遭うことはなかった。


 私は……諦めきれなかった。村に引っ込んで大人しく暮らしていても、頭の中には常に夢があって。都会の中で生きる自分を捨てきれなかった。

 だから私は……アンジェをここに連れてきた。アンジェなら私の過去を塗り替えてくれると信じて。


 ……それで当の私が足手纏いになってるんだから、本当に身勝手な話だと思う。


 〜〜〜〜〜


 アンジェは商業区域を一通り見物し、適当に買い食いをしながら宿に帰る途中だ。

 これだけ店が並んでいるのを見て、手を出さないのは損でしかない。そう思い、折角なので色々と買ってみたくなってしまったのだ。

 見事に街の陽気な空気にあてられているようでなんだか癪だが、悪い気分ではない。これもまた経験だ。


「ニコルは買わないの?」


 アンジェはサターン名物である小豆入り乾酪(かんらく)を片手で頬張りながら、ニコルにもう片方の手にある胡桃饅頭を差し出す。


 よその街では珍しい甘味だが、ここにおいては様々な種類の工夫を凝らした匠の味わいが楽しめる。

 商人たちが運んでくる材料は勿論、この街では広い土地を活かした酪農も行われており、新鮮な動物の乳や肉が手に入る。食材が豊富に手に入る環境のおかげで、料理の文化が発達しているのだ。


 だがニコルは微笑んだまま首を横に振る。目が揺れていたので、欲しくないわけではなさそうだが、頭に禁欲が浮かんでいるのだろう。


「大丈夫。気にしないで」

「うーん?」


 アンジェは胸に引っかけたお土産の旗を振りながら腕を組み、悩む。


 アンジェの小遣いはニコルの小遣いでもある。2人は資金を分割していないのである。その状態でアンジェだけが観光地を満喫するのは気が引ける。


 ここ最近のニコルは今ひとつ主張が控えめで、後ろ向きだ。アンジェが旅をしているのはニコルの主張があってこそなのだが、どうしたのだろうか。心変わりをしたのだろうか。


 アンジェは腰に提げたお土産の木刀の柄で、ニコルを軽く突く。


「一緒に楽しもうよ。オレひとりじゃ寂しいよ」

「……そう?」

「そうだよ。当たり前のことだ」

「今でも楽しそうだけど……」

「2人なら、もっと楽しい。でしょ?」


 ニコルがつらいなら、アンジェもつらい。苦楽を共にするとは、こういうことなのだろう。


 アンジェの隣には、ニコルがいなければならない。付き合いがよく、同じ故郷を持ち、アンジェの人柄や秘密(まりょく)を知った上で信頼してくれる、そんなニコルが大好きなのだ。ニコルがいない人生など想像もできないのだ。


 アンジェはニコルに向けて、腰の鞄に入れておいた砂糖菓子を押し付ける。型で花柄を入れた、平べったい塊である。

 砂糖だけではなく、雑穀の粉などが混ざった、この街では比較的安いものだ。純粋な砂糖は値段が高い割に美味しくないという評判なので、これを選んだ。

 貴族や金持ちに対する受けは良くないが、砂糖の甘さの中にある穀類の素朴な味わいは、万人の舌を優しく癒すだろう。


 ニコルは砂糖菓子を食べたことがなかったはずだ。ならば今こそ、初体験の時だ。ニコルが過去にできなかったことも、今なら出来るはずだ。


「ほら、召し上がれ」

「……アンジェ」


 ニコルは屈んで高さを合わせ、おそるおそる、アンジェが手に持つそれに口をつける。

 柔らかい唇が菓子を飲み込み、僅かにアンジェの細い指に触れる。


「んっ……」


 ニコルは目を閉じて、怯えるようにそれを味わう。口に入れてはいけないものを食べているかのような、異様な怖がり方だ。

 ニコルの弱い一面を久しぶりに見た気がする。ニコルはまだ、自分と同じ子供だというのに。同じ世代の少女だというのに。


 ……そうか。旅を始めて以来、ニコルはずっと気を張り続けていたのだ。蔦を張って周囲を見張り、外敵に備え続けていた。故に隙を見せることができなかったのだ。ニコルの能力の高さ故に、いつのまにかすっかり頼り切ってしまっていた。

 子供らしいニコルを、もっと解放させてあげるべきだったのに。


「どう? おいしい?」


 アンジェは期待の中にほんのりと罪の意識を混ぜながら、小さな声でニコルに尋ねる。

 急かすのは良くなかったかもしれない。ニコルにはじっくり味わってほしかったのだが、つい口をついて出てしまった。焦りすぎている。


 ニコルは人知らぬ洞窟に湧く澄んだ水のような、あるいは春の野原に残る()()()()のような、そんな涙を流しながら、黙って砂糖を口の中で転がしている。


 ああ、美しい。なんという清純な姿だろう。これほど恵まれた親友を持つ自分は、きっと幸せ者だ。


 ……あるいは、彼女と契りを結ばれたいという望みは、自分にとっては高望みなのかもしれない。そんな弱気な考えさえ浮かんでしまうほど、ニコルという少女は魅力的だ。


 ニコルの喉が動き、涙が拭われる。食べ終わったようだ。

 アンジェは一歩前に出て、今度こそ静かに感想を待つ。待ち切れず、胸がはち切れそうだが、我慢だ。


 ニコルはアンジェを見つめ、しばらく硬直する。口を開く気配はない。まだ残っている砂糖の甘さを味わっているのかもしれない。


 そんなことを考えていると……ニコルは感極まった様子で、不意にアンジェを抱きしめる。


「ひゃん!」


 もはや男性だった頃の名残などかけらも残っていない悲鳴を上げ、アンジェはニコルに押し倒される。

 幸いにも鞄は無事だ。両手の物も既に食べ終わっている。買った物が潰れなくてよかった。ニコルが汚れてしまうところだった。


 ニコルは全体重をかけ、力強くアンジェを抱擁しながら、大きな声を上げる。


「うわああああん!!」


 恥も美しさも投げ捨てた、子供のような大泣きだ。人目も気にせず、アンジェの反応も気にせず、ただ心の赴くままに、ニコルは泣いている。

 赤子のような、今この瞬間にこの世に生まれ落ちたかのような、無垢な叫び。


「(涙が熱い)」


 体の芯で熱せられたかのような、力が篭った涙。それがアンジェに擦り付けられ、両者の頬を濡らしていく。


 ……これまでアンジェは芸術のように完璧なニコルを愛で続けてきた。だが本当のニコルは、今初めて出会った彼女なのではないだろうか。激情に突き動かされ、自分を押し通す姿。それこそがニコルの本質だったのではないだろうか。


 いずれにせよ、アンジェがやるべきことは変わらない。ニコルの全てを、受け止めるだけだ。

 アンジェは胸を震わせて叫び続けるニコルを、優しく抱きしめる。周囲を取り囲む野次馬の好奇の視線など、知るものか。


「(お菓子だろうとなんだろうと、いつでもいくらでも、手に入れられるようにならないと)」


 分厚い演技の鎧を取り払ったニコルを、いつでも見られるように。ニコルが息苦しくない人生を歩めるように。

 アンジェはニコルのためにできることを、全身全霊でやるだけだ。


 〜〜〜〜〜


 《ニコルの世界》


 甘くとろけるような砂糖菓子を口に入れた瞬間、私は確信した。

 アンジェなら、私に付き纏う暗い過去を全て吹き飛ばし、素敵な未来を築き上げてくれる。私の人生を明るくしてくれる。絶対にそうだ。アンジェこそが、私にとっての王子様だ。


 私はアンジェが好きだ。友達としてではない。伴侶としてだ。同性だろうと構わない。私はアンジェに全てを捧げる。これは決定事項だ。


 ……私は長い間うじうじしてきた。私がアンジェを奪って良いはずがない。アンジェは他の人と結ばれるべきだ。ずっとそう思ってきた。


 その考えは、今でも変わらない。私にとってはアンジェが一番だけど、アンジェにとっての私は一番から落ちる可能性が高い。この先旅をして世界を見るにつれて、ただの薄汚い田舎娘でしかない私の評価は急落していくだろう。


 でも、私は決めた。

 私はアンジェを愛する。自分の愛を押し付ける。伝えて、押して、積極的に売り込む。


 これでいいんだ。アンジェにとっての私の評価なんて、私が決めることじゃない。アンジェが更なる理解者を手に入れて、私が不要になったら、友達に戻ったり、都合のいい妾に落としてもらったり、アンジェの判断で好きにしてもらえばいい。私はこの先何があろうと、アンジェを愛するだけだ。


 私は衝動的に抱きしめてしまったアンジェを腕の中に包んだまま、ゆっくりと息を吐く。

 自分の愛の深さを自覚した今となっては、もうアンジェに対する欲を我慢できそうにない。このまま服の内側に手を伸ばしてしまいたい。アンジェがこの街にいられなくなってしまうから、やらないけど。


「ニコル。元気、出た?」


 アンジェは突然押し倒されて後頭部を強くぶつけたのに、まず真っ先に私のことを心配してくれる。

 すぐに治るとはいえ、アンジェが人間のままだったら大怪我をしていたかもしれない。なんてことをしてしまったのだろう。


 私は服が脱げそうになっているアンジェの体をもう一度抱きしめて、周りの人たちの目から覆い隠す。

 たんこぶができている。幸運にも悪魔だと気づかれてはいないようだけど、出血があったら危なかったかもしれない。熟練の悪魔祓いは血だけでも悪魔だって気がつくって、ドイルさんが言ってた。

 念のために、蔦を生やしておかないと。アンジェを人の目から隠すために。


「ごめん。痛かったよね……」


 私は普通の女の子らしい腕力に調整し直して、今度こそ安全に、倒れたアンジェを包み込む。

 優しく、丁寧に、傷つけないように……。私の大切な宝物なんだから。

 アンジェは指先で私のお腹をなぞりながら、幸せそうな吐息を漏らす。


「全然。平気だよ。だから……笑ってよ、ニコル」


 アンジェはこのくらい何でもないと言いたげに笑顔を向ける。

 ……嘘でも強がりでもない。アンジェは許してくれている。突然公衆の面前で抱きしめても、受け入れてくれるんだ。


 私は作り笑顔をやめて、本心を剥き出しにした笑顔をアンジェに見せる。

 偽りじゃない、本当の私。薄汚い本性を受け入れ、克服した私。

 アンジェのおかげで……やっと自分を認められた、愚かな私。


「うん。……ありがとう、アンジェ。私、生きてて良かった」


 私の顔を見て、アンジェはほんのちょっとだけ面食らって、そして微笑む。


「ニコルが幸せなら、何よりだ」


 私も、アンジェの笑っている顔が、一番好きだよ。

 ……たまに少しだけ、心配になるけどね。

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