第43話『香る辛口』
ナターリアとエイドリアンの友人になった日。
その日の夕食は4人で食べることになった。
アンジェたちが借りている部屋の中、エイドリアンを地下室から出して団欒する。
「料理は酒場の方で作ってるんすよ。お母さんの手作り料理、美味しいですよ」
ナターリアと、彼女の父であるイズミットという男が、やけに大きな鍋を持ち上げながら部屋に入ってくる。
エイドリアンが枝で扉を開け、鍋を取り上げ、鍋敷きを作り、そっと置く。素晴らしい手際である。
「よい、しょ……」
ナターリアが鍋の蓋を取ると、むわっとした湯気が一気に部屋の天井まで噴出する。
美味しそうな良い匂いだ。おそらくは煮込み料理だが、村では食べたことがないだろう、濃い味付けの予感がしている。どろりとした茶色の液体が、鍋の中にたっぷり満たされているのだ。
「これは、香辛料の香りかな。種類は……」
アンジェは知識の海でその正体を探る。
何種類もの香辛料を混ぜた複雑な料理だが、特に目立つ独特な香りは馬芹か。おそらくはこれを軸として、周りの香辛料で味や香りを整えているのだろう。
「馬芹は肉と合わせて使われることが多い、か。この汁も肉料理と見ましたよ」
「がっはっは! 賢い嬢ちゃんだ!」
この料理の正体について最もよく知っているだろう宿の主人、イズミット。彼は筋骨隆々とした肉体をどっかりとおろし、床の上に座る。
「うちの娘は2人とも優秀だが、お前さんも賢いなあ!」
「……恐縮です」
「お前の歳じゃ、普通そんなこと言わねえぜ!」
イズミットとの会話は疲れる上、精神が摩耗してしまう。
エイドリアンのことも娘に含めているので、包容力のある良い人のようなのだが……それはそれとして、うるさい。
今のアンジェは本調子ではない。対話は諦めて、目の前の料理の解析でも進めるとしよう。
アンジェは汁の中に赤色が混ざっていることを突き止める。匂いに混ざる辛い風味といい、これは間違いなく唐辛子によるものだ。
香りの中に、酸味が混じっているのも興味深い。柑橘類の何かも入っているのだろう。だがその香りはほんの僅かであり、果汁によるものではなさそうだ。皮か何かであろうか。
「……うーむ。お手上げ」
アンジェは早々に降参し、ナターリアによって配膳されるのを待つことにする。
ニコルが微笑ましそうな目で優しく慰めてくれているが、これだけの人数の中でそんなことをされても恥ずかしいだけなので、やめてほしいものだ。
「なあんだ。頭は詰まってるが、やっぱりちびっ子じゃねえか。ま、それくらいがちょうどいいってもんだな! がっはっは!」
イズミットは異様によく笑うため、基本的に笑うことがないアンジェでは、どうにも話を合わせにくい。
すると、アンジェの苦難を察知したのか、ニコルが急激に距離を詰めて、イズミットに話しかける。
「あの料理はなんというものなんですか?」
「お、おう。あれは咖喱ってもんでな。とんでもねえ数の香辛料を混ぜ合わせた専用の粉と、魚や鳥の骨からとった出汁を混ぜて、それで野菜や肉を煮込んだ料理……だそうだ」
イズミットの解説は、詳細ではあるが、文章をそのまま読み上げているかのようなぎこちなさがある。
おそらく、教えてもらった作り方を丸暗記しているだけなのだろう。実際に提供されたこれに何が入っているのかは、彼も知らないというわけだ。
アンジェは彼から得た情報をもとに、知識の海へと潜る。
料理名が判明した今、もはや海の前に壁はない。その情報を、瞬く間に丸裸にしてやろう。
と、意気込んでみたは良いものの、結局凡庸な知識しか手に入らず、材料まで特定することはできなかった。
「いろいろ種類があるみたいですね。これがどれなのかは、見た目ではさっぱりですよ」
具材を覆い隠す茶色の外見。あの手この手で撹乱する千変万化の香り。地域や個人の趣味によって姿を変える、その怪盗じみた料理こそは、咖喱。知識の海ですら捕捉しきれない、変幻自在の千両役者である。
アンジェの器にも、今、それが盛られる。
「おお……」
思わず、期待に満ちた声が漏れ出す。
匂いだけで頬が落ちそうだ。口に入れたらどうなってしまうのだろう。心臓が止まった時のために、魔法で代替する準備をしておくとしよう。
隣のニコルも、その圧倒的な存在感を前に瞠目している。空いた口が塞がらない。そして、空いた口から涎が止まらない。はしたないが、それもまたニコルという少女だ。
各人に配膳して回っているナターリアも、既に腹の虫が鳴いている。味を知っている彼女がこの有様なのだから、期待も膨れ上がるというものだ。
エイドリアンはあまり関心がないのか、仏頂面という、この面々の中では浮いた表情をしている。彼女が何の動物の悪魔なのかわからないが、きっと苦手なのだろう。
「揃ったみたいっすね。じゃ、いただきます」
ナターリアはまだ中身のある鍋を置き、待ちきれないとばかりに自分の器に飛びつく。
そういえば、ここではどのように食事を取るのだろうか。決まり事はあるのだろうか。
アンジェが不安そうにしていると、イズミットはこの場の長として、歯を剥き出して豪快な笑みを旅人たちに見せる。
「遠慮はいらねえ。娘のダチになってくれた礼だ。好きに食え!」
「いただきます!」
その言葉に深い感謝を抱きつつ、アンジェは小さく削られた木の匙を取り、器に飛びかかる。
まずは、ひとくち。未だ蒸気が昇る熱い液体を、息で少し抵抗した後、口に突っ込む。
「はふっ」
途端、口の中に火山が発生する。
熱波。蒸気。そして溶岩。唾液の中にいてなお暴れ狂うそれは、まるで海底火山。アンジェは新たな島の誕生に立ち会うことになったのだ。
「むぐっ!」
アンジェは悲鳴をあげつつも、口の中に入れたものをしっかりと舌で絡め取る。
たとえ弱点である粘膜を熱されようとも、決して逃げしたくはない。何故なら、この火山こそが求めていた美味であるという確信があるからだ。
溶岩の中に埋まっていた、財宝。唐辛子、鬱金、その他多数の果実や樹皮。それら全てが黄金色に輝き、美味という計り知れない価値を生み出している。
おいしい。そうだ、この宝の名を『おいしい』と名づけようではないか!
結局これが咖喱の中の何に分類されるのかはわからないが、おいしいと呼んでおけば間違いないのだから!
「ふーっ!」
アンジェは財宝に目が眩んだ盗賊のように、容赦なく匙を突き刺し、次なる一手を繰り出す。
汁が美味いことはよくわかった。ならば、その中に沈んだ肉の塊。これはどうだ?
アンジェはゴロリとした塊に目をつけ、小さな口を目一杯広げて、頬張る。
「はーむっ……」
まず、様子見として軽く噛む。
直後、アンジェは己の失策を悟る。
肉の塊は長時間の調理によりずいぶんと柔らかくなっていた。肉の中に染み込んだおいしい汁が、僅かな衝撃で一気に爆発し、口内へと踊り出す。
「んむー!」
伏兵だ。肉の中に紛れ込んだ財宝たちが、強襲をしかけてきた。アンジェは略奪する側ではなかった。味の暴力によって理性を蹂躙される敗北者だったのだ。
しかも今回はただの汁ではない。肉の味わいと食感を引き連れることで、強固な武装が施されている。彼らを飲み干すには、満足感の集合体とも言うべき肉を何度も何度も噛んで味わう必要があるのだ。なんという卑劣な策だろう。本能に堕ちてしまうではないか。
「んむ、んむ、んむ……」
アンジェは小動物のように頬を元気に上下させて、至高の料理を味わう。
ああ、なんという至福。なんという快楽。涙が流れ落ちているのは、気のせいではないだろう。心が動かされたのだから、泣かない方が料理に失礼だ。
アンジェは泣きながら器と向き合い、一心不乱に汁をかき込む。
欲に塗れて堕天した、哀れな悪魔。ただただ理性を捨てて腹を満たし、あろうことかおかわりさえ渇望している。
「……いずみっとさん」
「……ああ。好きなだけ食え」
アンジェの食事風景に見入っていたらしいイズミットは、のどかな笑顔を浮かべる。
〜〜〜〜〜
翌日。
アンジェとニコルは南にある商業区域に足を運んでいる。
芸術区域より色彩や音こそ落ち着いているが、人の動きが激しく、忙しない。あの場所が非日常の狂騒だとすれば、こちらは日常の喧騒だ。
アンジェは自分より遥かに巨大な大人たちの中を、片手でかき分けて進む。はぐれないように、もう片方の手をニコルと繋いだまま。
「賑わってるね……」
「時期によるけど、この国でも最大の市場だからね」
アンジェは幌馬車を停車してそのまま店にしたような八百屋を横目で見ながら、ニコルに商業区域のことを解説する。
「この街って、元々は商人たちが旅の中継地点として使っていた場所なんだ。荷物を積み下ろししたり、情報を交換し合ったり。出会いの場にもなっていたらしい」
「出会いって、恋愛とかそういう意味?」
「そういう意味だし……あ、えっと、これは言っちゃいけない奴だ」
アンジェは知識の海の片隅に見てはいけない性的なものがチラついたため、咄嗟に意識を逸らす。
ニコルが不思議そうな顔で覗き込んでくるが、気恥ずかしいのでそちらからも目を逸らす。
ニコルがこういった知識をどれほど持っているのかはわからないが、自分が卑猥なものを見ていることを知られたくはない。
「と、とにかく、この場所こそがサターンの街の原点だ。物が集まるところに人も集まる。そうしてここは発展していった」
「歩きやすいし、気温もちょうどいいし、住みやすそうだから……うん。納得だね」
ニコルはおそらく山の中にあったアース村と比較して、頷く。
ニコルの言う通り、確かにここは平地であり、生活しやすい。川から綺麗な水も手に入る。どうやらマーズ村の近辺に流れている川とも繋がっているらしい。
「(大都会と田舎の農村が、同じ川で結ばれている。世界は案外狭いんだなあ。舟で行ったり来たりできたら良かったのに)」
アンジェは思い出の中にある川に文句を言いつつ、魔道具関連の物が集まっている売り場を見つけ、そこまでニコルの手を引いていく。
すぐそばでは、旅人の若い男女たちが、飾ってある魔法の基礎教本を遠巻きに見つめながら、ワクワクした様子で話し合っている。
おそらくは駆け出しの魔法使いなのだろう。学校で習ったわけではなく、旅の最中に魔法の必要性に気がついた者たちといったところか。
だが、その本の代金をどう支払うかで揉め、口喧嘩を始めてしまう。
基本的に本は高価だ。紙自体がそれなりに高い代物だというのに、それを何枚も何枚も束ねて、劣化しにくい高級な筆記用具で達筆に書写し、革で装丁を行うのだから、大変な労力と金がかかる。基本的には貴族の娯楽の代物だ。
大した貯蓄もないだろう旅人風情が、そうそう買えるものではないのである。
「俺が払う」
「お前は引っ込め。俺が兄だ」
「誕生祝いだ。俺が払う」
何やら妙な争い方だが、妙な兄弟ということか。
それはそれとして、アンジェはその言い争いに首を突っ込むことにする。
装備や服装を観察したところ、彼らはどうやら悪魔祓いの集団のようなのだ。何人かが、小脇に聖水の瓶を持っている。
ドイルの知人かもしれないので、ここは助けておくべきだろう。うまくいけば、現在のドイルの様子や、彼らが旅した他の街の現状もわかるかもしれない。
「もしもし、そこの悪魔祓いさんたち」
アンジェが可能な限り可愛らしい声を出して話しかけると、一団の中から、仲裁に入ろうとしていた女性が対応してくる。
「あ、そこにいると危ないですわよ。下がって」
案の定、無力な少女だと思われているようだ。
だが、ここで止まるべきではない。言い争っている面々の中でも、青年2人の声が徐々に大きくなっているのだ。喧嘩が更に発展して、魔法が飛び交い、周囲に迷惑がかかりそうな気配を感じる。
この国のものではないが、既に何らかの魔法を習得しているようだ。……知識欲が旺盛なのだろうか。
アンジェは彼女の傍をすり抜けて、店主に魔道具の本の値段を聞く。
「いくらですか?」
「なんだい、嬢ちゃん。冷やかしなら……」
「ああ、小金貨3枚ですね。書いてありました」
「……あー、字は読めるみたいだが、金の価値はまだ習ってないみたいだな。いいか、嬢ちゃん。金貨ってのはなあ……」
「ください」
ニコルが小金貨3枚を花の入れ物から取り出すと、店主は悪魔祓いの面々とアンジェを交互に見た後、それはそれは醜い苦笑いを浮かべ、そっとアンジェに本を渡す。
「いや、何処の家のお方かは存じませんが、この度はどうも誠にありがとうございます。何卒、今後ともご贔屓に……」
貴族だと思われたようだ。
だがこの店主にはもう用がないため、適当に貴族の定型文を返して、すぐさま悪魔祓いたちのところに向かう。
若い悪魔祓いたちの間には、悩んでいる間に先を越されたと思っているのか、諦めたような雰囲気が漂っている。
どうしてもあの本が欲しかったのだろう。すっかり意気消沈し、誰もがうなだれて閉口している。
アンジェは先ほど注意してくれた女性に向けて、買ったばかりの本を差し出す。
「はい、どうぞ」
「えっ!?」
一行の長らしい女性は、しばらく凍りついたかのように動かなくなる。
それほど衝撃的だったのだろうか。いや、こちらの意図が飲み込めなければ、そうなるのも無理はない。
「どうしても必要なんでしょう? 買ってから相談すればいいんですよ」
「は、はあ……」
「本なんて滅多に売りに出ない物なんですから、オレみたいな客に先を越されたら最悪ですよ。それに、店先で喧嘩をしていたら、他のお客さんの邪魔にもなりますから、気をつけてくださいね」
その後、悪魔祓いたちから本の代金を回収し、アンジェは心の中でしめしめとほくそ笑む。
これで彼らと接点ができた。組合への加入に役立ってくれるかもしれない。まったく、貸しを作るというのは良いものだ。
「(世話が焼けるなあ。ふふん)」
ニコルがまた不思議そうな顔で覗き込んでくるのを片手で制しつつ、アンジェは質問したいことを頭の中で整理する。
〜〜〜〜〜
アンジェとニコル、そして悪魔祓いの一行は、休憩のために善意で設置された椅子に座り、お茶を飲みながら一息ついている。
悪魔祓いの人数は4人。見たこともない奇妙な服装の女性が1人。似たり寄ったりな顔つきの剣士らしき青年が3人だ。
剣士たちは机の上に置かれた本を取り囲み、読みたそうにうずうずしている。どうやらアンジェの許可を待っているらしい。
「買ったのはオレですけど、もう皆さんの物ですよ」
アンジェがそう告げてみると、3人とも我先にと手を伸ばし、また口喧嘩が始まる。
「俺のだ」
「お前のだ」
「誕生祝いだ。俺に読ませろ」
そんな様子を見て、奇妙な服の女性は苦笑しながら事情を説明する。
「先日、悪魔を狩ることができまして。少し調子に乗ってるんですよ」
「なるほど。その戦いの中で、魔法の必要性を実感した、と」
「ご明察でございます」
彼女もアンジェのことを貴族だと勘違いしているようだ。
訂正すると態度を変えてくるだろうか。ただのアテのない旅人だと知ると、手のひらを返して見下してくるだろうか。考えるだけで恐ろしい。
だが、彼女たちには誠実であるべきだろう。後で嘘が発覚することの方が、よほど怖い。アンジェはそう考えて、真実を告げることにする。
「あの、オレは貴族ではないので、恐縮しなくても大丈夫ですよ」
「えっ。でも確か、貴族向けの劇場に出入りしてましたよね?」
目を丸くして、食い気味に確認してくる。
どうやら数日前にすれ違っていたようだ。アンジェたちは目立つ容姿をしているため、少し目に留まっただけでも記憶に残ってしまうのだろう。
アンジェは羞恥心で顔全体を真っ赤に染めながら、強く否定する。
「あれはその、この街のことに詳しくなかったので、うっかり近づいてしまったんです。周りの視線が痛くて、怖かったですよ」
「ああ、そうだったんですね。……それでも、やっぱり普通の子供と話している気はしませんね」
「いえいえ。山奥の村から出てきたばかりの、ただの幼い子供ですよ」
遥かに歳下の相手に対してへりくだりながら、女性はじっくりとアンジェを観察している。
無防備なようで、案外油断のない目つきだ。それなりの修羅場はくぐっているのかもしれない。
「(悪魔を倒しているなら、かなりの強者……)」
悪魔の魔力がバレてしまったら危険だ。この好意も全てが水の泡となり、後ろの剣士たちも含めて一斉に敵意を向けてくるだろう。
アンジェも一応魔力の擬態はしているのだが、ニコルの水準には遠く及ばない。魔道具の布無しでは、専門家である悪魔祓いには気づかれてしまうだろう。
アンジェはとりあえず注意を逸らすべく、聞きたいことを質問してしまうことにする。
「田舎者ゆえ、なにぶんこの街には疎いものでして。魔道具の材料を売っているところを教えてくださると助かります」
人間による、生きた街の情報を得る。アンジェはこれを目標と定める。
商人が店開き、店じまいをする時間。それぞれの店の評判。値段や品揃えの変化。客層。値切りが通用するかどうか。知識の海には載っていない、経験則だ。
会話の末、アンジェは悪魔祓いたちから情報を入手することに成功する。これで探す時間を大幅に短縮できそうだ。
「またお会いしたいものです。小さなお嬢さん」
「え、ええ……そうですね」
正体を探られている気配を感じる。そろそろ退散した方が良さそうだ。
アンジェは悪魔祓いたちに別れを告げる。
当分は悪魔祓いたちの拠点で魔法の練習をするそうなので、北の区域に向かう時には、また会うかもしれない。
「(声をかけたのは失敗だったか……?)」
……面倒なことにならなければいいが。
〜〜〜〜〜
アンジェは悪魔祓いたちから得た情報を元に、魔道具の店を一通り周回し、結論を出す。
「高すぎる!」
アンジェが求める、エイドリアン用の魔道具の服。その値段はどうしても大金貨1枚を超えてしまうようだ。
今アンジェとニコルが持っているのは、小金貨26枚と、それ以下の貨幣が数えきれないほど。
小金貨10枚で大金貨と同じ価値なので、単純計算ならば、今の所持金で魔道具の服を2着作っておつりがくることになる。
だが、そう簡単に事は運ばない。これは一度も失敗することなく、完璧な服を作ることができる場合の話だ。
アンジェは素人なので、幾度となく失敗を積み重ねることになるはずだ。
「素材の吟味もしなければならないし、多めに見積もって、大金貨3枚くらいは欲しいところだ」
「とんでもない金額だね……」
ニコルは金額の桁が大きすぎて現実味を伴った理解ができていないのか、まるで駄犬のような表情で遠くの空を見上げている。
アンジェは椅子の上で指を噛み、どうにかしてかかる金額が少なくなるやり方を編み出そうと試みる。
エイドリアンのために、なんとしてでも服を作ってあげたい。あの少女が何の憂いもなく外で暮らせるようにしてあげたい。
「比較的安い布と糸を買っておけば、練習はそれでできるはず。触媒はどうにもならないけど、オレの魔力ならその辺の石ころでも魔道具にできるから、少しくらい浮かせられないかなあ……時間はかかるけど……」
アンジェが頭を抱えて悩んでいると、見るに見かねた様子で、ニコルが話しかけてくる。
「ねえ、アンジェ」
その顔は、先ほどから何度も見てきた、不思議そうな表情だ。この区域に入ってから、たびたびこの顔をしてこちらを覗き込んできていた。
ニコルはアンジェの額を指先でなぞりながら、率直に尋ねる。
「それ、やりたいことだとは思うけど……やらなきゃいけないことじゃないよね?」
「えっ?」
アンジェはニコルの冷たい発言に腰を抜かす。
あのエイドリアンを見て、それを愛するナターリアを見て、何一つ情が湧かなかったのだろうか。ニコルはもっと優しい人物のはずだが。
するとニコルは、アンジェの考えていることなどお見通しだと言わんばかりに、アンジェのつるつるの額を指で弾く。
「大金貨3枚って、私たちの全財産よりずっと多いよね?」
「うん。だから、少しでも減らせないかなって……」
「それを使って服を作って、ドリーちゃんにあげるわけでしょ?」
「うん」
当たり前ではないか。あの不憫な少女のために、一肌脱ぐと決めたのだから。それはニコルも賛同してくれたからこそ、ここにいるのではないか。
「でもね、アンジェ。そうしてドリーちゃんに大金を貢いだら、私たちはどうなるの?」
「しばらくは文無しかな。でも魔物を狩ればいいだけだから……その……」
「ふーん。ドリーちゃんはどうなるの?」
「……外に、出られるようになる」
「私たちに返せない恩を抱えたまま、そうなるね」
アンジェはだんだんと、ニコルが言わんとしていることを理解してくる。
自分は優先順位を間違っていたのだ。先に狩人として登録してもらって、社会における身分や、魔物の素材の安定した卸先を得るべきだったのだ。
いや、それだけではない。エイドリアンの問題を解決したいという想いが先行して、その先のことをあまり考えていなかった。
エイドリアンはまだ幼い。一般常識も知らず、情操教育もまだまだ途上だ。そんな彼女に、貴族ですらためらうほどの高価な贈り物をして良いものかどうか。価値観がおかしくなってしまうのではないだろうか。
魔道具の服が高価であることは見る人が見ればわかることだ。それを常に身につけたまま生きるということは、奪われないように守りながら生きるということと同じだ。今のあの宿に、今のあの少女に、それができるだろうか。
考えれば考えるほど、アンジェがやろうとしていたことは、短絡的で無謀な行為だったとわかる。ニコルが止めるのも納得だ。
ニコルはいつものほがらかな笑みを薄れさせ、かなり無表情に近い顔で、アンジェと至近距離で目を合わせる。
「今日のアンジェは不器用だよ。普通に話しかければいいのに、わざわざ本を買いに行ったりしたし」
「うっ」
「責めてるわけじゃないよ。アンジェは賢いから、変なことまで考えちゃうんだろうね。私は馬鹿だから、アンジェの頭にどんな海が広がっているのか、想像することしかできないけど」
落ち込むアンジェを、ニコルは優しく抱きしめる。
毎日のように味わってきた、柔らかい感触。唯一残された、故郷の温もり。
だが今日のアンジェは、何処となく、その抱擁の中に汚れた欲のようなものを感じ取る。
独占欲。支配欲。あるいは、愛欲。そうした感情の乱れが、ニコルの中にあるような気がしたのだ。
あるいは、ニコルがアンジェの暴走を止めたのは、そうした極めて個人的な感情に由来する行動ではないだろうか。なんとなく、そう思えてきてしまう。
「(ニコルは案外、自己中心的な人なのか……?)」
だが、根拠はない。きっと今日のアンジェは、調子が悪いのだ。ニコルの様子がおかしいように見えるのは、おそらく気のせいだろう。
「ごめん、ニコル。先にやるべきこと、あったね」
「いいの。私こそ、ごめん。色々あって、複雑な気分になってるだけだから……」
アンジェは予定を変更し、自分の服を修理するための布と、咖喱のための香辛料だけ買って宿に戻ることにする。




