第39話『酸いも甘いも観光名所』
アンジェとニコルは東の生活区域にある安全性の高そうな宿に部屋を取ることにする。
外装が派手な店は避けるべし。外見が整っていない店も避けるべし。悪魔だということを隠すため、少人数で経営していそうな宿にするべし。
結果、候補をある程度絞ることができた。
「旅人の宿『小鳥の巣』かあ。嫌な名前だなあ」
「最近嫌な目にあったからね……」
2人はその宿まで歩いて行き、値段や部屋の様子を確かめることにする。
場所は生活区域の南側。細く入り組んだ道を進んだ先の、あまり目立たない奥まった部分にある。立地は良くないが、日当たりの悪さはニコルにとって好都合だろう。
「あった。あれか」
「おおー……普通だね」
木造二階建て。やや古びてはいるが、目立つ位置に鉢植えが飾られており、洒落た雰囲気を醸し出している。旅人を楽しませるための工夫は、良心的でやる気がある証拠だ。
「そこで聞いたけど、酒場をやってるから、料理も出せるんだって」
「味は知識の海じゃ補完できないから……楽しみだ」
ここにしたい。アンジェとニコルは無言で見つめ合い、意見を一致させる。
「……よし、いくぞ」
「はい隊長」
アンジェは鈴のついた扉を開き、『小鳥の巣』の中に入る。
チリンチリンと涼しげな音が響く。
すると何者かが上の階からパタパタと駆けてくる。
「いらっしゃーい!」
やってきた少女は、計算器を片手に持ったまま接客をしようとする。
どうやら勘定をしていたらしい。働き者だが、そそっかしい。
整えられた緑色の髪が、一歩踏み出すたびにさらりと揺れる。大人っぽい雰囲気だ。
一見すると成人しているようにも見えるが、表情や仕草に幼さが残っている。実際の年齢はニコルより少し上くらいだろう。
彼女が目の前に立つと、瓶底のように分厚い丸眼鏡がきらりと光る。少女の顔を飾る物としては些か不釣り合いな無骨さだ。
「いやー、すみませんね。人手が足りなくて」
どうやら従業員らしいが、全身から漂うそそっかしい雰囲気が不安を感じさせる。大丈夫だろうか。話が通じるのだろうか。
アンジェの心配をよそに、彼女は目を丸くする。
「おや、こんなところに可愛らしいお客さんが。もしかして、迷子さんっすか?」
「旅の者です。宿泊させてください」
「え?」
子供扱いをされたアンジェは、わざとかしこまった口調で要望を伝える。
彼女は親切だが、少々早とちりが過ぎる。嫌味にならない程度に、アンジェという真実を突きつけるとしよう。
従業員は呆気に取られた様子で口を半開きにしているが、体は既に料金表の板を持って、説明に移行しつつある。
仕事が体に染み付いているのだろう。最初の慌てぶりとは裏腹に、意外にも信頼できそうな様子だ。
「じゃあ、説明しますね。あ、文字、読めないと思いますから、口頭で……えーと、そちらの白くて美しいお方は……」
「オレ、読めます。基本料金は小銀貨2枚ですね」
「あれれー!? 予想の10倍賢いっすねー!?」
手玉に取られる店員を見るのが楽しい。彼女はなかなか良い反応をしてくれる。
「(オレにこういう趣味はなかったはずだけど……この人が面白いからかな……?)」
アンジェは木の板に記された大雑把な料金表をもとに、値段交渉を始める。
大部屋の宿代は、通常の場合、1日で小銀貨2枚。朝夕の食事もついてくる。
部屋の広さや設備の良さの割には安いが、ここから更に割引が見込めるらしい。
常備されている水瓶の補充を断れば、大銅貨1枚引き。薪の補充も同様に大銅貨1枚引き。その他にも、いろいろ。
「本当にただ泊まるだけなら、ぶっちゃけ格安です」
「ふむ。いい仕組みですね」
「でしょう? ま、人が足りないからなんすけどね」
アンジェはこの仕組みを宿の弱点と捉え、強気の交渉に移行する。
このぶんならまだまだ値段を下げられそうだ。目にモノを見せてやろう。宿の方も得をするのだから、良い取引のはずだ。
「これ、条件次第ではもっとまけられますか?」
「え、えっと、例えば?」
「かわやの清掃、花壇の水やり、他にもいろいろできますよ」
「え、えええーっとお……」
店員は交渉ごとに弱いのか、目に見えて狼狽する。
「それはお父さん……じゃなくって、ここの主人に聞かなければ、わからないっす」
従業員の少女は丸眼鏡をくいと持ち上げてから何処かへと駆けていく。
この宿は家族経営なのか。宿の規模からして、そんなことだろうとは思っていたが。
……その後、アンジェは呼ばれてやってきた大柄な主人と交渉し、その他にもアンジェたちは様々な割引を適用し、合計で小銀貨1枚までまけさせることができた。
主人は凄まじい厚さの筋肉を膨らませて、豪快に笑う。
「がっはっは! まさか半額になるまでごねる奴がいるとは思わなんだ! しかも、こんなちびっ子とはなあ!」
「子供扱いされて、ついムキになってしまいました」
「ま、見ての通りうちも人手が足りねえから、自分でやってくれるなら助かるぜ!」
「……正直ですね」
「誇りでメシは食えねえからな!」
そう言って、主人は100人分の労働力を発揮しそうなほど強い力瘤を作る。
そんなハッタリをかまされると、とても人手が足りないようには見えなくなる。好感触だ。
それにしても、流石にニコルの前で値切りを行うのはよろしくなかったような気がしてならない。せこい人間だと思われただろうか。
「あ……勝手に話しちゃったけど……」
だがニコルはいつもより嬉しそうに微笑んでいる。特に評価が落ちたわけではないようだ。
「楽しそうなアンジェ……。ふふふ……」
「お、おう。仲の良い姉妹だな」
苦笑する宿の主人の前を通り過ぎ、2人は少女によって2階の奥の部屋に案内される。
荷物の重みでぎしぎし軋む廊下を渡った先には、磨かれたばかりと思しき、つやつやの木の引き戸が。
「こちらっす」
従業員が開いた扉の先は、趣のある木の部屋だ。
照明器具はそれなりに上等な魔道具。寝具は比較的綺麗なものが2つ。絨毯は敷かれていない。椅子と机は簡素だが雰囲気に合ったものが用意されている。
知識の海としては、まあまあ。アンジェの価値観としては、なかなかのものである。
「ふむ……」
壁には木の窓があり、開ければ外の様子を見ることができるが、景色はお世辞にも良いとは言えない。似たような家が立ち並ぶ風景など、見ていて楽しいものではない。
まあ、これくらいの弱点は目を瞑ろう。どうせ街の真ん中に行けば、華やかなものがいくらでも見られるのだから。
総じて、広くも狭くもない空間だが、2人で過ごすなら十分すぎるくらいだ。マーズ村にあった宿が馬小屋のように思えてくる。
アンジェはニコルと相談し、従業員の少女にバレないようにこっそり悪巧みをする。
「ここ、結構いい部屋だね」
「私、こんなにいい所に泊まったことないよ」
「何日泊まる?」
「……ふふっ。何日でも」
内容は何の変哲もない会話だが、アンジェの表情は悪戯好きな子供のものになっている。
そしてノリがいいニコルは、そのにやけた顔で全てを察して、自らも悪人面を作って小芝居に乗る。
そう、これもまた、遊びの一環だ。ドイルに言われた通りに、この街では好き放題してみたいのだ。
アンジェはニコルの財布から金を受け取り、さっそく従業員に小金貨1枚を握らせる。
「はい、どうぞ」
「……ぴえっ!?」
少女は小鳥のような声で悲鳴を上げた後、手のひらの上にある金貨を、じっと見つめる。
「こ、こここここれ、金貨っすよね?」
「そうだよ。偽造を疑うなら、北区の偉い人に見せるといいよ」
「あたいでもわかりますよ! これ、ほ、本物っすよね? そっすよねー!?」
少女は悪い風邪にでも罹患したかのように、激しく痙攣し始める。
王国が発行する小金貨の価値は、宿代の小銀貨1枚とは比べ物にならない。彼女の数ヶ月分の給料に匹敵するはずだ。
それが手のひらに乗っているのだから、彼女の心中は察するに余りある。
「は、はひーっ。値切る癖に大胆な客っすねー!?」
「おちょくってるだけだから」
「娯楽のために、金! 大金! 価値観がちがう!」
膝から崩れ落ちた従業員の肩を、アンジェは優しくポンと叩き、低い声を作って宣言する。
「この街に何日泊まるか、まだ未定だからね。迷惑料も兼ねて、これだけ渡しておくよ」
「は、はいっ!」
「じゃあ、そういうことで」
「かしこまりました。へへへ」
すっかり動揺しきった少女は、客前であるというのに、バタバタと大きな足音を立てながら去る。
「うっひょほお! お大尽! 山吹色! おほー!」
かわやへの道案内や湯浴みの方法を聞きたかったのだが、またの機会ということにしておこう。
アンジェはニコルと顔を見合わせて、口を押さえてくすくすと笑う。
「はしゃぐって、こういうことだよね?」
「うん。こういうことも、していいと思うよ」
すっかり良い気分になった2人は、荷物を下ろしながら、これから先の街の楽しみ方について相談する。
〜〜〜〜〜
《ニコルの世界》
荷物と監視用の触手を置いた後、私たちは観光に出向くことになった。
びくびくしている従業員の人に声をかけて、外出することを伝えた後、私たちは宿から外に出る。
「さて、まずはどうする?」
アンジェはウキウキした顔で私の意向を窺う。
こういう時は経験者として、完璧な計画を立ててあげないとね。アンジェとのはじめての逢引きだし。
「最初は西の芸術区域に行こうかな」
大荷物を持って歩くのは面倒くさい。だから手ぶらで楽しめるところから攻めるべきだ。芸術区域は他よりもお金がかかるし、十分な資金があるうちに行った方が財布との相談もしやすい。
私はアンジェと並んで、ともすれば迷子になりそうなほど入り組んだ狭い通りを、浮き足立ちながら進んでいく。
迷ってもすぐ帰れるように、通った道に触手で目印をつけておく。最近は遠隔操作できる範囲もだいぶ広がってきたから、とても便利だ。
そして、私たちは西側にある芸術区域に到着する。
「おお……極彩だ」
アンジェは目の前に広がる光景に圧倒され、及び腰で後退りしている。たぶん無意識かな。可愛い。
アンジェが驚くのも無理はない。この区域にはあらゆる芸術家が集まっている。それも、わざわざ旅してまで自らの芸術を見せつけようとする、情熱のある人たちばかりだ。
区域の境目を少し越えれば、まず絵画の群れが一斉に私たちを出迎えてくれる。
黄色と赤の四角形がたくさん並んだ、訳のわからない絵。濃い青が一筋だけ垂れ流された、わかるような気がする絵。ぐちゃぐちゃにねじ曲げられた人間らしいものが描かれた、わかるようなわからないような、なんとも言えない絵。
前に来た時の付き添い……つまりアース村の村長の言葉を借りるなら「世界をありのままに描いた作品はもう古い」らしい。
だからといって、こんな作品が生まれるのはさっぱり道理がわからないけど。
アンジェはどんな反応をしているのだろう。気になって、私はその顔を覗き込む。
「これは他国の流行りを取り入れて……技法も……そうか、繰り返される日々……この街を描いた絵なんだ。すごいなあ」
どうやら知識の海で絵についての審美眼を手に入れたらしい。一番難解な黄色と赤の絵を見て、感動している。
「答えが手に入って羨ましい。私にはさっぱりわからないし」
私がなんとなくそう言うと、アンジェは首を横に振って、悪戯っぽい笑みをほんのり浮かべる。
「芸術に答えなんかないよ。オレが見たのは、流行と技法と、作者の経歴だけ。あとは推測だ」
「じゃあ、今のは……」
「あくまで、オレの解釈。よくわからないっていうニコルの感想も、それはそれで立派な解釈だ」
今までのアンジェは、知識の海でどんな内容を見たとしても、馬鹿な私でもわかるくらい噛み砕いて説明してくれていた。
でも今回のそれは、さっぱりわからない。私の何も中身がない発言が、作者の意図を汲み取ったアンジェの発言と同等らしいことはわかったけど……。
それでも納得できない。理屈はわかっても、理解ができない。
「アンジェの方が上だよ。だって、アンジェは凄いから」
「……まあ、評価のための芸術としては、オレみたいな難しい客の方が助かるのかもしれないね」
アンジェはさっき手に入れたばかりの考え方を振りかざして、むず痒そうに眉尻を下げる。
……知識の海に潜るたび、アンジェは新しい知識を得てくる。新しいことに触れるほど、加速度的にどんどん賢くなって、それにつれて以前のアンジェとは違う考えを抱くようになる。
価値観が変わって、世界を見る目も変わる。他人を見る目も、もちろん……。
いつか私のことを、何とも思わなくなっちゃう日が来るのかな。それが成長なんだとしたら、私が望んだこととはいえ、ちょっと切ないかも。
気が滅入るような妄想に耽っていると、アンジェが不安そうに服の裾を掴んでくる。
「ニコル。どうしたの?」
見ると、アンジェはこの一瞬で信じられないくらい弱ってしまった。強がっているけど、見ればわかる。心細くてたまらない様子だ。
……私が不安になると、アンジェも不安になるのかなあ。反省しないと。
「わかった。次は何が見たい?」
私がそっと手を繋ぐと、アンジェはパァッと嬉しそうな笑顔になって、次の芸術を指さす。
「次、あれ! あっち行きたい!」
〜〜〜〜〜
アンジェは芸術の織りなす風変わりな景色を堪能しながら、てくてくと歩いている。
芸術区域の中央広場。ここではある程度の間隔をあけて、旅芸人たちが並んでいる。
彼らの出身は国の内外を問わず、芸風はおろか元の身分さえもまばら。ある意味、この街の混沌を象徴する存在と言えよう。
「さあさあお立ち会い! ここに見えるは……」
「ネズミの木登り、人登り! どうだこの可愛さ!」
「お嬢さん。消える手品はお好きかい?」
アンジェとニコルは道端で繰り広げられる大道芸に見入っている。
アンジェのお気に入りは『物隠し』。手に持った球や貨幣を、瞬時に別の場所に移す芸だ。手のひらから帽子の中へ、服の内側から口の中へ。単純ながら奇妙で見事な技である。
実際に瞬間移動をしているわけではなく、あらかじめ仕込みをしてあるのだろう。袖の内側や髪の隙間。小物を隠せる場所はいくらでもある。
だがアンジェが感心しているのは、演出の巧さだ。視線を誘導し、タネを覚らせない技量。観客の目に見えない死角にこそ、芸人としての魂が宿っている。
「(うーむ、手際が良い。いくら知識を得ても真似できる気がしない)」
知識の海では得られない貴重な体験をさせてくれたお礼として、アンジェは小銀貨1枚を投げる。
「(投げ銭は、無理のない範囲で……と)」
堂に入った芸を身につけている割に、大道芸人の収入は少ない。一泊分の宿賃程度ではあるが、それだけの投げ銭を行う観客さえほとんどいない。芸人とは世知辛い職業なのだ。
大した金を持っていないはずの幼い子供から、あり得ないはずの投げ銭が貰えたためか、ほんの一瞬だけ芸人に動揺が走る。
だが、流石は芸に身を投じる者。自らに染み付いた態度を崩すことなく、金に心を奪われることもなく、大袈裟な身振りで人に親しまれる道化を演じ続ける。
「(いつか報われるといいね)」
アンジェは目立ちすぎる前に、ニコルと共にその場を離れることにする。
幸いにも、周囲にいる人は少ない。アンジェが投げた貨幣の色にまで気を配る者はいないはずだ。
アンジェが芸人に背を向けると、体に蔦を巻いたニコルが耳打ちしてくる。
「私たちも……大道芸、やってみる?」
意外な提案だが、それは流石に冒険が過ぎる。ただでさえ自分たちの容姿は目立つのだ。この街にいるはずの悪魔祓いたちに目をつけられたら困る。
……そもそも、観客の中にそれらしい服装の人物が混じっている。注視されるのは危険だ。
「ドイルさんみたいな人ばかりじゃないから」
その一言でニコルは納得したのか、青ざめて口を閉ざす。
〜〜〜〜〜
少し時間をかけて大道芸人たちを巡った後。
アンジェとニコルは芸術区域の端にある劇場で公演予定を見る。
「今日の夜は歌劇か」
題目は『火恋歌』。少年の頃のアンジェでも知っていた、極めて有名な英雄譚だ。
心を操る悪魔と戦う、恋人たちの物語。悪魔は魔法の力で男を魅了するが、恋人たちは愛の力でそれを振り払い、勝利する。
この物語を聞いた少年は剣を持って悪を破る男のたくましさに憧れ、少女は悪魔さえ打ち払う熱い恋を待ち望む。この国で長きにわたり親しまれる不朽の名作である。
「悪魔と戦うお話は、単純だからこそウケやすい」
「血生臭いのは嫌だな……」
ニコルのような意見が多いため、最近は見目麗しい男女が登場し、見た目は綺麗だがよくわからない魔法で戦う話が多いようだ。
「どうする?」
アンジェは期待を胸の内に秘め、ニコルに尋ねる。
アンジェが英雄譚を好むということを、彼女は知っているはずだ。ならば断りはしないだろう。
だがニコルはチラリと広告を見て、渋い顔で呟く。
「高いなあ……怖いなあ……」
釣られてアンジェも視線を向けると、演者たちが描かれた紙の隅に、小さな値段の表記が見える。
曰く、ひとりにつき大銀貨5枚。子供も同料金。
「うわ」
少々、いや、かなり攻めた値段設定である。あの宿に2ヶ月は泊まれる額だ。
今のアンジェたちなら余裕で払えるが、それは問題ではない。この劇場は明らかに普通ではない。
「不気味だ。貴族以外お断りってことかも。うむむ」
アンジェは面くらい、思わず唸り声をあげる。
確かに、演者たちの質は高い。衣装にも金がかかっている。劇場の見た目も豪華だ。
だが、それにしてもこれはやり過ぎだ。たった一回の公演のためにこれだけの金を費やす貴族などいないはずだが、何がどうしてこんな値段になったのか。
「手を出すには勇気が要るね……」
「でしょ? お貴族さまがいっぱいいると思うし、私は反対かな」
そう言って、ニコルは周囲にいる人々の服装を注意深く見ている。
旅をしてきたとは思えないほど綺麗な、仕立ての良い服の数々。おそらくはここに来る直前に、旅姿から着替えてきたのだろう。
あるいは、この劇場は社交場なのか。貴族たちが集う交流の場。その役割を担っているからこそ、単なる劇場からかけ離れた値段となっているのではないか。
「(いずれにせよ、ここに用はない)」
ひとまず、アンジェはニコルの手を引いて、この場を離れることにする。
今の自分たちは場違いだ。間違いなくここにいるべきではない。
「行くよ、ニコル」
「賛成です、隊長……」
好奇心と侮蔑の混じった視線を浴びながら、2人はそそくさと広場の方に戻る。
貴族たちは皆、広場とは反対の方角から来ている。故に、逃げるならこちら側だろう。
おそらく、西区の端に貴族専用の道路があり、そこからこの街に来ているのだ。身分の違う平民と遭遇しないために。
「(サターンから遥か西に、王都がある……)」
アンジェはしっとりと手汗が流れるニコルを気遣いながら、自分に出せる全速力で逃げていく。
〜〜〜〜〜
アンジェとニコルは、土地勘が無いなりに無我夢中で逃げていくうちに、芸術区域の裏通りに飛び込んでしまう。
日当たりが悪く、人目につきにくい場所。街が管理している劇場や、大商会が所有する一座の待機場、そしてこの街の歴史を保存してある博物館。そうした大きな建物に囲まれた、死角だ。
「ふう。ここなら貴族は来ないね」
アンジェは大して疲れていないが、ニコルはぜいぜいと息を切らしている。
疲労ではなく、心労によるものだろう。貴族の目に晒されたことによる、恐怖。
「(オレがマーズ村やイオ村の長老に感じたものと、同じ……いや、もっと酷いかもしれない)」
青ざめて地面にうずくまるニコル。
彼女が過去にどんな経験をしたのか、アンジェにはわからない。当然知識の海にも載っていない。
彼女にどう声をかけるべきだろうか。わからない。わからないが、今この場で慰めることは、アンジェにしかできない。
アンジェは迷った末、その背中を優しく撫でることにする。
体調を崩した子供にそうするように、ゆっくりと、手のひら全体を使って、包み込むように撫でる。
「大丈夫。大丈夫だよ……」
するとニコルはぴくりと体を震わせた後、すっと立ち上がって服の乱れを整え始める。
……おそらく強がりだろう。ニコルは自分の内心をごまかすのが非常に上手いのだ。だからこそ、見ず知らずの他人とも仲良くできる。
ニコルは瞬く間にいつもの表情に戻り、アンジェに優しげな顔を向ける。
「ありがとう、アンジェ。もう平気だよ。だからアンジェも、普通にしてていいよ」
間違いなく、平気ではない。何年も癒えないほど大きな傷を再び抉られて、平気でいられるはずがない。
だがニコルは、弱みを見せたくないのだろう。旅先で、それも貴族の目があるかもしれない場所で、弱い姿を晒したくないのだろう。
ならばアンジェにできるのは、それを汲むことだ。
「オレも疲れちゃった。帰ろう、ニコル。今日はもう休んで、明日からまた楽しもう」
もう日が傾き、辺りが夕日で赤くなりかけている。宿に戻った方が良いだろう。帰り着く頃には夜になっているはずだ。
「そうだね……。明日はお店を見て回ろうか」
ニコルも賛成し、よろよろとした動きでアンジェに寄り添う。
やはりまだ本調子ではなさそうだ。これ以上の見学はせず、世間話や感想でも言い合って帰ろう。
そう考えて一歩踏み出した時、アンジェははたと気がつく。
さっきまでは目についていなかった、周囲の光景について。人目につかないこの場所の、役割について。
「う、うわ……」
アンジェは目の前に広がる、影法師のような光景に絶句する。
裏通りの隅にいるのは、薄汚れた男たち。芸人のようだが、広場にいる面々ほど芸が上手くない。声真似をしたり、滑稽な仕草で一人芝居をしたり、痩せ細った体を楽器の代わりにして音を立てていたり……。
乞食。そんな単語が、アンジェの知識の海に落とされる。
釣れた内容もまた、その通りの答え合わせだ。
「旅芸人の本質は、物乞い……。だからお金を稼げるほどの腕がないと、こうなってしまうのか」
知識の海が、目の前の男たちの正体を裏付ける。
華やかな街の暗い影。繁栄の裏にある落伍者たち。
芸に人生を賭けた者たちは、客を奪い合い……何割かはこうなる。
「(良い悪いの問題ではない。当たり前のことだ)」
それでも、楽しい観光に水をさされたような気分になる。ここにいても、笑顔にはなれない。
アンジェとニコルは彼らの芸には目もくれず、その間を通って広場に戻る。
罪悪感が膨れ上がる。広場の芸人には銀貨を与えたというのに、本当に金銭が必要な者たちに、支援する勇気が湧いてこない。
だが、彼らを救うことは、アンジェにはできそうにない。一時凌ぎの小銭を与えたところで、根本的には救われない。
「(所詮オレは、ただの客だ。思い上がるな)」
通りを抜けた先では、さっきまでと同じ明るさが出迎えてくれる。派手な色をした道化たちが、鮮烈な芸で人々を魅了している。
アンジェは安堵し、一息ついてから、隣にいるニコルに尋ねる。
「もう少し、見て回る?」
ニコルは静かに頷く。
〜〜〜〜〜
夕暮れが深くなり、空の色が赤から青に移り変わる頃。
2人は広場の中央にある噴水に腰かけ、会話をしている。
「ねえ、ニコル。今日は楽しかった?」
アンジェにとって、今回の逢引きはなかなか良いものだった。ニコルと初めて恋人らしい行為ができたという喜びも加味すれば、満点に近い。
もっとも、今の2人の関係性は仲間であり、親友であり、幼馴染であるが、恋人ではない。ニコルにとっては逢引きではないが故に、彼女の目線での評価が気になったのだ。
ニコルは迷うような素振りを見せた後、重そうに口を開く。
「なんか、楽しみ方がわからなかった」
否定的な感想だが、アンジェの予想とは違う。楽しくなかった、ではないらしい。
その意図するところはなんだろう。アンジェは少し考えてみるが、自分では理解できそうにない。素直に尋ねるのが一番だろう。
「どういう意味?」
ニコルは体内にある財布を取り出して、じゃらりと鳴らす。
大金が擦れる音。目が眩むような金属の響き。
それを物悲しい顔で聴きながら、ニコルは考えを述べる。
「私って、大金を使ったことがないし、良いものを味わったこともないし、何より今まではこんなに自由に行動できなかったから……慣れてないんだと思う」
「慣れ……?」
「遊びでもなんでも、最初にやる時って戸惑いの方が大きいと思う。だからたぶん、今の私は、それかな」
なんとなく、彼女の言いたいことがわかってくる。
今日体験した娯楽は、今までの生活から遠くかけ離れていた。村では絵を見ることも芸を見ることもほとんどなかったので、それが楽しいものだという感覚が培われていなかったのだ。
思い返せば、ニコルは高尚な絵を見ても感想が思い浮かばず、お気に入りの大道芸を見つけることもできなかった。片鱗はあったのだ。
「(楽しんでたのは、オレだけだったのか)」
アンジェは逢引きの失敗を悟り、気落ちする。
何年もニコルのそばで彼女を見ておきながら、彼女を楽しませることができなかった。今のアンジェは笑えない芸人以下だ。長年連れ添ってきた、たったひとりの少女の心さえ掴めなかったのだから。
「ごめん、ニコル。今度はニコルがやりたいようにしていいよ……」
アンジェは騒がしい周囲の音を無視しながら、何もない地面を向いて呟く。
「やりたいように?」
「うん」
「……本当に?」
ニコルは突然、いつも通りの優しい顔で、アンジェを抱きしめる。
「うひゃっ!?」
大きな胸に顔が埋まって息苦しいが、同時に人肌の温もりが心地よい。
だがそれをいつまでも味わい続けられるほど、アンジェの肝は座っていない。すぐに距離を取って、ニコルとの会話に臨む。
ニコルは照れ臭そうに笑っている。すっかり調子を取り戻した様子で、アンジェに目線を合わせてくれている。
「私がしたいことは、アンジェがしたいことだよ。そうに決まってる。私に醜い欲望なんて無い」
「……ふぇ?」
「だからこれでいいの。私もちゃんと成長するから、アンジェもすくすく育ってね」
発言の内容が不明瞭で、今ひとつ内心が読み取れないが……それでも、本心からの発言だということはわかる。
信頼されている。そして、譲歩されている。ニコルはどこまでも、アンジェという存在に優しいのだ。
これで恋人ではないというのだから、驚きだ。好感度が高いのにまったく変化する素振りがないので、ここからどうすれば恋人関係にまで持っていけるのか、さっぱり見当もつかない。
「(ニコルは……どうすれば堕ちるんだろう)」
まあ、それは今考えることではないか。
アンジェはとびっきりの笑顔をニコルに向けて、せめてもの恩返しとする。
「えへへ。やっぱりオレ、ニコルが大好きだ」
ニコルの顔がほのかに赤くなったのは、きっと夕日のせいだろう。




