第33話『悪魔的破滅行為』
アンジェは死の番人たるマンモンに背を向け、身を隠せる場所を探す。
閉所が欲しい。天井が欲しい。シュンカの親玉と戦った時のような洞窟があれば、鷲の機動力を殺せる。そうなれば、まだアンジェにも勝機はある。
裏を返せば、今のままでは勝ち目がないということだ。
「(こわい! こわい!)」
マンモンは黄昏時の太陽のような色の嘴を天に向けて、配下に向けて号令を出す。
「キイィヤアァ!」
それを受けて、トウリの中でも一際大きな個体が木々の隙間を飛び回り、木のうろに潜む小鳥たちを変異させて回る。
……そうか。マンモンはあくまでマンモンだ。彼が魔力を注いで変異させたなら、襲ってくる手下もトウリではなく、マンモンと同種になるはずだ。
しかし襲ってきたのはトウリばかり。……ということは、トウリを生産している奴は別にいる。シュンカの親玉がシュンカだったように。
「2体同時かよ、くそっ!」
アンジェはトウリの親玉に向けて土魔法を放つ。
雑魚トウリたちを蹴散らしてきた『土の腕:インドラ・モウ』だ。
だがトウリの親玉は驚きつつも素早く身を翻してかわし、木を利用してアンジェの目の届かないところまで逃げてしまう。
だいぶ距離があったとはいえ、普通のトウリでは避けられない速度で放ったはずなのだが……。あの個体もまた、並のトウリ以上の実力ということか。
トウリという魔物は、本来は大した鳥ではなく、繁殖能力も低い。あれだけの力を持った個体など、そうそういるはずがない。おそらくあれも、魔王の手先だろう。
「(こんな程度の魔法じゃ……。知識の海よ、教えてくれ。もっと強いやつ!)」
アンジェが次の手を打てずにいると、上空で何やら動く気配がする。
見ると、アンジェが作り出したばかりの土の槍に向けて、マンモンが飛び蹴りを繰り出そうとしている。
「カーッカカカ!」
マンモンは土の槍をへし折り、流麗な動きでそれを持ち上げ、離陸する。
武器にするつもりか。やられた。
「馬鹿にしやがって……!」
魔力を送ってみるが、土の槍はアンジェの制御を失っている。敵の支配下だ。
「遊んでやがる……!」
アンジェの最大の武器である魔法を、足蹴にしたあげく、利用してやろうという魂胆。
普段の戦法とは違う方法でいたぶろうという残忍さが透けている。
「あの野郎!」
ほのかに怒りを覚えたアンジェは、両腕に魔力を集め、マンモンに向けて風の魔法を繰り出す。
「『風の腕:アズサ・ユミ』!」
両腕からつむじ風が現れ、アンジェの魔力で矢のように束ねられていく。
目には目を。矢には矢を。トウリすら上回る速度と威力で、ぶつけてやろう。
「受けてみろ!」
アンジェが口上と共に解き放つと、風の矢は竜巻のように回転しながら飛んでいく。
近くを通り過ぎるだけで、周囲の落ち葉はズタズタに裂け、木の幹に抉り取られたような痕が残り、生み出されたばかりのトウリたちは巻き込まれて八つ裂きになっていく。
マンモンは力強く羽ばたき、土の槍を軽々と振り、風の矢を相殺する。
強力な魔法が激突した衝撃で、周囲一体の空気に漂う微量の魔力が一斉に震える。大木が、大地が、まるで恐怖しているかのようにビリビリと振動する。
……そして、土の槍が表面から崩れ、やがて芯まで砕けて崩れていく。
「キィ! カカカッ!」
矢は霧散したが、奪われた槍も砕けた。アンジェの魔力が多少減ったが、状況を元通りにできた。
戦況が変わった今こそ、仕掛ける好機だ。
「(まずは、あっちからだな)」
アンジェは増援を封じるべく、マンモンより弱いトウリの親玉から片付けることにする。
アンジェは全速力で駆け出し、親玉がいるはずの方に向かう。
姿さえ見えれば、魔法を当てられる。当てれば勝てる。簡単なことだ。
向かってくる雑魚トウリを石ころで粉砕しつつ、アンジェは駆ける。久方ぶりの全速力で、馬すら引き離すほどの走力を出し、突っ走る。
マンモンはアンジェの背中を追うように、上空からついてくる。狙いに気づいたのだろう。
すぐに襲ってこないのは、わざと進ませてトウリの親玉と挟撃するためか。
「(問題ない。防具でトウリの攻撃は防げる。マンモンの攻撃だけ避ければ死にはしない)」
アンジェは遥か上空ではためく翼の音を聞き逃さないよう、マンモンから意識を逸らさないままトウリを探す。
「みっけ……!」
トウリは近くにいた。手下を増やすことを優先したようだ。
村人たちから、この辺りがトウリの発生地点と予想されていた。ということは、トウリの材料になる小鳥をまとまった数手に入れるためには、この場所を離れられないということでもある。
……逃げられる心配はなさそうだ。
「『風の腕:アズサ・ユミ』!」
アンジェは出会い頭にもう一度風の矢を放ち、一気に仕留めにかかる。
トウリの親玉は先ほどと同じように回避しようとするが、強い風の流れに巻き込まれ、裂傷を受ける。
「ピギャ!」
散乱する羽毛。落ちる鮮血。ボロ布のように引き裂かれた翼。あれではもはや、飛ぶことはできまい。
今が好機だ。敵の数を減らし、一騎討ちの状態にできる。そう思い、アンジェはトドメを刺すために土の魔法の準備にかかる。
だが、マンモンがそれを許さない。
アンジェが魔力を集め始めた直後、マンモンは急降下し、鋭い爪を向けてアンジェを強襲する。
「ちっ!」
アンジェは身を投げ出して大きく回避する。
「ガァ!」
マンモンは目にも留まらぬ速度で地面を蹴り付け、そのままの勢いで大地を疾走する。
「はあ!?」
鳥のくせに、地面を走れるのか。なんという強靭な脚だ。
反射的に知識の海を覗き見ると、確かにマンモンならそれが可能らしい。格闘戦では翼と風魔法による優れた空中制動で立体的に動き回り、足技を多用するという。
マンモンは今、羽根のひとつひとつまで確認できるほど近い距離にいる。すなわち、蹴りの間合いだ。
アンジェの身体能力でまともに奴と競り合うのは、無謀だ。魔法使いに有利な間合いまで離れなければ。
「『風の脚:異説……」
立ち上がり、額に冷や汗を浮かべて魔法を詠唱し始めた途端、マンモンが距離を詰めてくる。翼に風を纏い、異様な速さで突っ込んでくる。
「(まずい!)」
避けきれない。
アンジェは肩に攻撃を受け、魔道具の石ころが入った鞄を落としてしまう。
受けた被害は、鞄を提げるための紐と、肩を守っていた防具と……その下にある、アンジェの肩。
「いっ!?」
あまりにも壮絶な痛みに耐えきれず、アンジェは詠唱を中断してしまう。
爪で引き裂かれるのがこれほど痛いとは。
見ると、マンモンの爪は細かい棘がついた鉤爪になっている。獲物に対する必要以上の殺意が、そこにある。
土魔法による付け焼き刃の防具など、あの爪の前には何の意味もない。
アンジェは戦慄し、恐れ慄く。
「(鳥のくせに、なんて怪力!)」
マンモンは風の魔法でアンジェの動きを止めつつ急旋回し、筋肉が剥き出しになったアンジェの肩を踏み台にして、顔面を蹴る。
「ゴアーッ!」
蹴り。蹴り。更に蹴り。
アンジェの肩の肉がえぐれ、鎖骨が折れ、鼻が潰れて首が軋む。
「ぶっ……!?」
視界が霞む。脳震盪か。右肩に激しい熱。出血によるものか。右腕が上がらない。傷が深すぎて痺れているのか。
「(まずい。まずい。まずいまずいまずい!)」
アンジェは焦り、咄嗟に無詠唱の風魔法を繰り出してマンモンを牽制する。
大した威力ではない。布切れを飛ばす程度のそよ風しか出せない。マンモンにとっては何の脅威にもならない。
だがマンモンは突如として発生した魔法に驚き、アンジェの肩から離れる。
相変わらず有利な間合いは確保したままだが、思考が守りに寄っているのが見て取れる。
今のマンモンに攻めさせてはならない。未知の魔法を警戒しているうちに、体勢を立て直さなければ。
「『土の指:パドマ』!」
アンジェは右腕の痛みを堪え、素早く詠唱できる魔法でマンモンに追撃をしかける。
石の連撃。更に連撃。雨のように、石を降らす。
「当たれ! 当たれよ、クソ鳥!」
マンモンは反復横跳びで魔法の礫を避け、また蹴りを浴びせようと機会を窺っている。
一瞬でも隙を見せれば、奴はまた飛び蹴りを放つだろう。あれは防具では防げそうにない。
避けるしかない。至近距離で。奴の高速の蹴りを。
「(読め。動きを読め。癖を読め。推測しろ。奴の脚がどんな動きをするか……)」
アンジェは指先から土の塊を連射しながら、マンモンに全ての意識を集中させる。
食らったら負ける。直撃したら死ぬ。恐怖と焦燥がアンジェの視野を狭くさせる。
……故に、視界の外から飛び出してきたそれを食らったのは、必然だ。
「ぐあっ!?」
アンジェは突然真横から現れた小さなトウリに、防具の隙間を貫かれる。
関節部分。上がらなくなった右腕の肘だ。動かない的は、さぞや当てやすかったことだろう。
痛みと痙攣で動かせないとはいえ、まだ痛覚は生きている。肘を強打されれば、相応の刺激が胴体まで駆け抜ける。
アンジェは衝撃でほんの一瞬だけ、魔法を編むことに失敗してしまう。
石の連撃が途切れたのは、ほんの僅かな、瞬きするほどの時間だけ。しかしマンモンはその隙を見逃すことなく、必殺の一撃を放つ。
「コアアアァァッ!!」
開かれた嘴。生まれる火の玉。
おそらくあれは、無詠唱の『火の口』だ。
「(魔法!? 奥の手か!)」
マンモンは鋭く絞った熱線を、痛みに怯むアンジェに向けて容赦なく放つ。
「ぬあああっ!!」
アンジェは根性と忍耐力で痛みを凌駕し、体を全て地面に投げ出すことで回避する。
——閃光が抜けていく。
掠めた熱線が木に当たり、即座に弾け、大量の炎を辺りにばら撒く。散った木の破片が他の木に刺さり、炎が広がっていく。
信じられないほど広い範囲が一瞬にして火の海と化してしまった。なんという魔法の練度だ。
しかしそれでさえ、マンモンにとっては囮でしかなかったらしい。
「コシュー……」
マンモンは翼を大きく広げ、土の魔法で壁を作り、風の魔法で追い風を生む。
そして……壁を蹴ると同時に、爆風を纏って突っ込んでくる。
突き出されるは両足。片方だけで肉をえぐるほどの怪物じみた脚を、加速と共にいっぺんに叩き込もうとしているのだ。
「(避け……間に合わ……)」
アンジェは起き上がって避けようとしたが間に合わず、咄嗟に胸の防具で受け止める。
兜の次に頑丈な部分。トウリの矢でも傷一つ受けないだろう、強力な盾。
マンモンの足は、あっさりとそれを破壊する。
「ぐご……!」
砕けていく。土の鎧も、その奥にある肋骨も。
刺さっていく。鎧の破片が、アンジェの皮膚に。折れた肋骨が、アンジェの肺に。
戦う前の予感は正しかった。死ぬ。殺される。
「(なんでオレの村が死んで、お前が生きてるんだよクソ悪魔!)」
マンモンはトウリとは比較にならない飛行能力を活かし、空中で宙返りし、纏った風魔法をそのままアンジェにぶつけてくる。
効率の良い連撃。飛び蹴りを外したとしても、これで隙を埋めるつもりだったのだろう。
アンジェは無詠唱の風魔法でどうにか逸らそうとするが、まるで手応えがない。
流れに逆らえず、魔法を放つために突き出した指を根こそぎ切断される。
「ぎゅぼっ……」
風に煽られ、飛び蹴りの衝撃が体を巡り、被害が出血となって現れ始める。
肺に血が溢れ、喉を駆け上がり、アンジェの口から赤い濁流が滝のように流れ出る。
こぼれ落ちた中身には、胃の内容物も混ざっているようだ。他の内臓もやられていると見るべきか。
「(ああ。これは死んだな)」
アンジェはここに至って冷静に状況を理解する。
自らの死が確定したためだろうか。それとも、痛みが許容量を超えてしまったからだろうか。
死の寸前になって、アンジェは極めて理性的かつ、破滅的な判断を下す。
防御を捨てて、大魔法を叩き込む。道連れだ。
「『土の血:異説……」
マンモンは異変を覚ったようだが、その体は既に追撃のために動き出している。考えるより先に体が動く性格のようだ。
ああ、これなら、殺せるな。脳みそまで筋肉が詰まってるような鳥でよかった。
アンジェは痛みと苦しみで埋め尽くされそうな脳の片隅で、ぼんやりとそう判断し……
渾身の大魔法を、解き放つ。
「……ソクシンブツ』」
直後、マンモンの蹴りがアンジェの胸を穿つ。
乱暴に叩き込まれたその一撃は、アンジェの胸骨を粉砕し、肺を完全に叩き潰す。
魔法使いには詠唱が必須であることを理解しているのだろう。流石は魔王に認められた怪物だ。
だが、もう遅い。詠唱は終わり、マンモンはアンジェのすぐそばだ。もはや止められず、逃げることもできない。
アンジェの血流が急速に活発化し、体内の魔力を吸収し、運び始める。
魔法がついに始動したのだ。アンジェとマンモン、両方を破滅させる魔法が。
「は、はは、は……ゲボ……」
魔法は体の一部を依代として放つもの。指の魔法なら指先に、腕の魔法なら腕全体に魔力を纏って魔法を成立させる。
そして異説の名がつく魔法は、魔力を宿らせた部位を犠牲にする覚悟で放つもの。種類によって程度の差こそあるが、危険であることには変わりない。
『土の血:異説:ソクシンブツ』は……全身の血を使い捨てて放つ魔法だ。
そうだ。全身の、全ての血を捨ててしまう。異説の中でも特に危険で……そして、その分だけ強力な効果を持つ魔法だ。
マンモンは逃げ切れないことを察知し、咄嗟にアンジェの顔面を蹴り、魔法を中断させようとする。
だがその攻撃は硬化した表皮によって弾かれ、表面を少し削る程度に留まる。血を媒介にした魔法の副次効果により、全身が鋼のように硬化しているのだ。
「ガーッ!」
マンモンはぎょっとした様子で、片足を上げたまま怯む。
……奴が戸惑うのは、これが初めてだ。死ぬ前に良いものを見れた、と言うべきか。
「(くらえ。くらってみろ。オレの才能すべて!)」
アンジェの魔力は、人間では到底辿り着けない領域にあるらしい。密度も量も、歴史上前例がないほど極まっている。少なくとも知識の海はそう言っている。
そんなアンジェの全身の魔力を根こそぎ奪い取る土魔法だ。マンモンの攻撃を受けてもびくともしないくらいの性能はあって然るべきだろう。
マンモンの様子を知ってか知らずか、先ほど不意打ちしてきたトウリが助太刀に入る。
上空から真っ逆さまに落ちてきて、嘴でアンジェの眼球を突いてくる。
「キーッ!」
流石に眼球は脆く、トウリの攻撃を受けてあっさりと潰れてしまう。
同時に、トウリも衝撃で頭蓋が割れ、死亡する。
……視界の有無など、もはやどうでもいい。アンジェはもうすぐ死ぬのだから。
「(ニコルに会いたい)」
アンジェは血が通わなくなった脳で、最期の瞬間までニコルの姿を思い浮かべようと努力する。
河原で遊んだときの、笑顔のニコル。思いの丈をぶつけて、泣いているニコル。口付けをした時の、嬉しそうなニコル。晴れた青空を見上げて、憂鬱そうなニコル。
全てのニコルが、アンジェにとっての宝物だ。
その宝物を、これからアンジェは、手放すことになるのだ。
「(死にたくない。もっと、もっとニコルと一緒にいたいよ!)」
今際の際に、アンジェは未練を抱える。
現実で起きているマンモンとトウリの猛攻を全て無視し、走馬灯のニコルだけを見つめている。
「(ニコルと遊びたい。ニコルに愛されたい。ニコルと一緒に旅をしたい。ニコルを知りたい。ニコルのものになりたい。ニコルに……)」
アンジェは両眼をトウリに食べられながら、ふと思う。
ニコルはアンジェを食べたいと言っていた。あの時は戸惑ったが、今なら彼女の気持ちがわかる。
こんな鳥に食べられたくない。こんな魔物の一部になんかなりたくない。
土に還りたくもない。全身が土魔法に変わる感覚は気持ち悪く、二度目があるとしてもお断りだ。
水に流されたくもない。ビビアンの死を思い出し、鬱屈とした気分になる。
燃やされるのも嫌だ。アース村の死を連想して、涙が溢れそうになる。
意識があるまま死んでいくなら。その上で、どれかを選ばなければならないなら。
「(ニコルに、食べてもらいたい)」
鋼の血液が剣と化し、周囲の全てを斬り裂く音を聞きながら、アンジェは強くそう願う。
〜〜〜〜〜
『土の血:異説:ソクシンブツ』は、凄絶な威力を発揮した。
鋼となった血液が、アンジェの高密度の魔力をまとい、無数の剣となって周囲一帯を蹴散らした。
木々は木っ端微塵になり、土は掘り返されて地形が変わり、河原は剣山によって堰き止められ、トウリは全滅した。
だが……当のマンモンは、至近距離で直撃したにもかかわらず、まだ息があった。
「コ、カア……」
木を盾にし、風を纏って逸らし、翼を犠牲にし、蹴り技で食い止め、どうにか一命を取り留めたのだ。
これが魔王の寝床を守る死の番人の力。究極の魔法さえも耐え凌ぐ、体術の極み。
だが、結局は彼も虫の息だ。もはや飛ぶことはできず、歩くことさえもできず。
倒れ伏し、力尽き、もはや心臓の鼓動が止まるのを待つのみ。
そして、魔法を放った当の本人……アンジェは、もはやぴくりとも動かない。もはや死体とすら呼べない姿となり、大地のシミとしてそこにある。
両目は無惨にも潰され、血が全て流れ落ち、皮膚の大部分が反動で吹き飛び、筋肉も細切れになって散らばり、骨も粉になるまで砕けて埃のように風で飛ばされている。
肉体的にはただの風化した死体だ。これを見て生きていると判断する者は誰一人としていないだろう。
だが……アンジェの意識は、まだそこにある。
「(く、る、しい)」
アンジェは脳さえ失った体で、地獄の業火に焼かれるような絶え間ない苦しみを味わっている。
「(いたい。くるしい。なんで、くるしい?)」
神経が無いというのに、何で苦痛を感じているのだろう。今痛んでいるのは体のどこなのだろう。
それさえわからないが、とにかく痛い。熱い。終わりも見えない。気が狂いそうだ。
魔物とは、魔力でできた生物。悪魔とは、魔物の上位種族。つまり今のアンジェは、魔力でできている。
肉体が死んだとて、かつてアンジェだった魔力が、かつてアンジェだった肉体にこびりついている限り、完全に死ぬことはないようだ。
「(いたみ。ずっと、つづく。しぬまで。しんでも、ずっと、ながく、つづく……。悪魔になった代償みたいなものか)」
アンジェは熱した針山に包まれるような痛みの中、どうにか自我を取り戻す。
「(助けて、知識の海……)」
アンジェは何も見えず、何も聞こえず、何かに触れることさえできない苦痛の世界の中で、痛みから気を逸らすために助けを求める。
知識の海に、この状況を打開する手段があるだろうか。具体的には、復活か自害の方法を知りたい。
「(復活するには魔力が必要か。地面や空気からかき集めて、どうにかなるだろうか)」
どうやら自分にできることは、復活に専念することだけらしい。
この状況から命を取り戻せるとは、意外だ。流石は知識の海。悪魔の力ではあるが、幾度となくアンジェを救ってきただけのことはある。
「(痛みに耐える気合いさえあれば……)」
アンジェはニコルの姿を思い浮かべ、襲いくる痛みを振り払う。
ニコルに会いたい。それがアンジェの最期の望みだった。ならばそれを叶えに行くまでだ。
「(死んでたまるか。負けてたまるか。オレは、強い心を持っているんだ!)」
アンジェは針で刺されるような痛みを、鈍器で殴られるような痛みを、強い力で引き裂かれるような痛みを乗り越え、少しずつ、少しずつ、正常な思考を取り戻す。
今までは自然治癒で無意識にやっていた、魔力による怪我の治療。それを意識的にこなせば、きっと死体の状態からでも蘇生できるはずだ。
やってみよう。まずは奴らにやられた眼球からだ。効果があれば、視力が戻る。結果が文字通り目に見えるため、最初の試みとして最適だろう。
アンジェは何ひとつままならない体中の力を無理矢理かき集めて、一箇所に集中させる。
すると、ずっと暗闇だった意識の世界に、一筋の光が訪れる。
「(世界だ。世界に通じる光だ)」
あれを辿れば、この世に戻れる。死の世界からおさらばできる。
アンジェは暖かい色の光に縋り、それを優しく抱くように、意識を向ける。
暗い世界に、光が灯る。色が満ち、世界がわかり、知識がなだれ込んでくる。
「(ああ、生きているって、素晴らしい)」
アンジェは色のある世界の温もりに触れ、蘇った瞳を潤ませる。
こうして、アンジェは死の淵から脱出し、イオ村を脅かす伝説の魔物を討伐することに成功した。
魔王の番人に、勝ったのだ。




