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第30話『食事に伴う文化』

 朝。

 アンジェが目を開けると、目に優しい緑色の寝床が視界を埋め尽くす。

 旅の方針について考えているうちに、いつのまにか眠ってしまっていたようだ。


「むにゃ……」


 アンジェは隙あらば眠りに戻ろうとする体を強引に動かし、眠気覚ましに手の甲で目を擦る。


 悪魔となって以降も、人間の幼児だった頃の生活習慣がなかなか抜けない。死地にいるならともかく、安全地帯で油断するとすぐにこうなる。

 魔力でできた体に睡眠は1秒たりとも必要ないはずなのだが……何故か眠気が訪ねてくるのだから仕方ない。


 それとも、悪魔と睡魔は似た者同士ということだろうか。だからこんなにも眠く……。いや、そんなはずはない。考えたくない。


 アンジェは思考を打ち切る。朝一番から嫌な気分に陥りたくはない。


「ふわあ……。うん、今日もオレは人間だ」


 アンジェはわざとらしく伸び、体を起こす。

 尻に敷いてしまっていたが、石板は無事だ。昨日書いた文字も消えていない。


「不安定だけど、とりあえずの計画は立てられた。早めに動いてニコルと共有しなきゃ」


 アンジェは隣の寝床で眠っているはずのニコルを探し、そっと体の向きを変える。

 ……すると、ニコルの整然とした顔が、アンジェのすぐそばに現れる。まつげの一本一本までわかるほど近くに。


「ふえっ!?」


 美しい髪。閉じられたまぶた。薄い唇。

 照れ臭くなって目を逸らすと、その先には尋常ではない大きさの胸。

 罪悪感で目を閉じると、敏感になった嗅覚が甘美な体臭を感知してしまう。

 間違いなく本物のニコルだ。夢の続きではない。


「(寝る前まではもう少し離れていたではありませんか。何故こんなところにいるんですか……)」


 驚愕で弾け飛びそうになる心臓を抑え、冷静になって状況を見ると、ニコルはちゃんと自分のゆりかごに入ったままだ。

 どうやら触手をアンジェのそれと合体させ、乗り込んできていたらしい。先日の海賊行為のように。


 そして、ニコルはアンジェの寝床まで転がり込み、いつも通り指を舐め始めたのだ。残された証拠……すなわち涎から、それは明らかだ。


「寝相が悪すぎる」


 アンジェは指と二の腕の涎を拭き取り、突然訪れた動揺をどうにかして鎮めようと試みる。


 わざわざ近づいてくる理由など、ひとつしか考えられない。

 同衾だ。ニコルはきっと、同じ寝床で眠りたかったのだ。


「ニコルも……寂しいのかな」


 ニコルは気丈に振る舞っていたが、実は不安に押しつぶされそうなほど弱っていたのだろう。幼馴染のアンジェに縋りたくなるほど。

 思い返してみれば、確かにそんな雰囲気はあった。先日の行動はいつもよりいくらか極端で、暴走ぎみであった。


「……休んでいるニコルを、起こすべきか否か」


 アンジェは顎に手を当てて少し悩んだ後、彼女の安寧を壊すべきではないと判断する。

 すぐに起こしたところで、どうせすぐに活動を開始できるわけではないのだ。ならば今のうちに、昨日の計画を詳細まで詰めておこう。自分が苦労した分だけニコルの負担を減らせるのだから。


「ニコルは今日も1日中見張りをすることになるだろうし、今くらいゆっくりさせてあげよう。……さて、もうちょっとだけ頑張るか」


 アンジェは音を立てないように気をつけながら、ニコルが咲かせた花より小さい手で、また文字を書き始める。

 目を覚ました彼女に褒めてもらえるよう、精いっぱい知恵を振り絞りながら。


 〜〜〜〜〜


 《ニコルの世界》


 私は遅起きだ。アース村の人たちは太陽が登る少し前くらいには起き出すのに、私の場合は陽の光が肌を焼く感覚で目を覚ます。

 夜更かししてるのが悪いんだけどね。気持ち良いことを我慢できない私の意思が薄弱なんだ。夜は私にとって、居心地の良い世界だから……。


 ……まあ、それはともかく。

 アンジェは昨晩より減った石板を手渡しながら、朝に考えたらしい計画を話している。


「オレたちが目指すべきは、狩猟組合だ」


 アンジェは背中の後ろにある土の塊をさりげなく片付けながら、私にお茶を渡してくれる。

 ……まさかあの土は、使い終わった石板の名残りなのかな。私が今持っているのも昨夜とは違うし、時間をかけて内容を整理し直したんだろう。

 凄いなあ、アンジェは。昔から働き者だったけど、今は優秀な魔法のおかげで、更に勤勉になってる。


「ニコルは狩猟組合についてどれくらい知ってる?」


 両手で器を傾けて水を飲みながら、アンジェは質問してくる。

 流石に狩猟組合くらいなら私も知っている。マーズ村にも、たまに人が来ていたはずだ。


「魔物を狩るための組織だよね?」

「まあ、村目線だとそんな感じだね。普通の狩りもしてるけど、わざわざ呼ばれる時は……魔物相手だ」


 知識の海を持つアンジェは、村娘の視野ではわからないような視点から詳しく解説する。


「狩猟組合赤追い組は、世界に広がる魔物狩りの集団だ。一枚岩じゃないぶん、金稼ぎが目的のよそ者でも参入しやすい。旅人が一時的に加入して抜けていくこともざらにある。……と、知識の海に載っていた」

「へえ……。じゃあ結構緩いんだね」


 確かにマーズ村にいた組合の狩人さんの格好は人それぞれって感じだった。良く言えば個性があって、悪く言えばまとまりがなかった。服装で判断できないから、相手から言われないと狩人だってわからなかったもん。


 私がそう言うと、アンジェはぷにっと口を閉じて首を横に振る。


「お互いに命を預け合うわけだから、決して緩い関係ではないよ。縦にも横にも広い組織で、実力主義で、何処まで言っても自己責任で……無法だ」

「荒くれ者ってこと?」

「まあ、そうだね。その代わり、無名の無一文からでもお金を稼いで身を立てることができる。身分の詮索もされないし、兼業もありだ」


 アンジェは短い指を折って数えながら、組合の良いところを挙げていく。


「抜けたくなったらいつでも抜けられるし、旅商人がついでに加入してることもある。オレたちくらいの子供は流石にいないだろうけど、シュンカを狩った成果があればなんとかなるさ」


 いざとなったら魔法の腕でも見せればいいとアンジェは言う。私もアンジェに教わって基礎的な魔法をいくつか覚えているし、侮られることはないだろう。

 というか、アンジェを馬鹿にする人がいたら私が許さないから。心変わりするまで触手で締め上げて説き伏せてやるから。


 私はしぶいお茶を飲みながらアンジェの考えを頭に溶かし、溶けきらずに残った疑問を掬い取る。


「何か義務みたいなものはあるの?」

「あるよ。立場的に上に行くほど縛りがきつくなる。下にいるうちはそうでもないけど、そっちはそっちで暗黙の了解みたいなものがいくつもある。地域色が強すぎて、知識の海でも調べられないから……まあ、入ってからのお楽しみかな」


 アンジェは眉間に皺を寄せながら天を仰いで、心底面倒臭そうな顔をする。

 こういう人間関係って、アンジェが一番苦手な部分だから……そういう反応にもなるよね。それでもなんとかしちゃうから、頼りになるんだけど。


 その他にも、アンジェは私の頭じゃ覚えきれないくらいの規則を列挙する。

 加入証は自費で、魔道具だから結構高い。お金が無い人は仮加入をして、先輩の下でしばらくただ働きをすることになる。

 ある程度依頼をこなすと熟練扱いになって、組合側からも頼られることになる。暗黙の了解で、下っ端の面倒を見る義務も発生する。

 組合お抱えの商人たちから品物を安く買える特典がある。『赤追い商会』は常に護衛がついているから、盗賊や野生動物に襲われて品物が届かないってことがほぼ無いし、来る時期も安定しているから、有名だ。


 ……あとはよく覚えてない。頭が破裂しそうだ。

 アンジェと私では、頭の出来が違うのだろう。


「覚えきれない……」

「どうしても嫌なら別の方法を探すよ。魔物相手に戦いを挑むことになるし、オレたちが悪魔だとバレる可能性もそこそこ高いし……」


 長々と喋った末に、アンジェはあっさりとそう言って石板を破棄する構えを見せる。私があんまり口を開かないから、嫌がっているように見えたのだろう。


 情報量が多すぎて疲れただけで、拒否したいわけじゃない。戦うのは好きじゃないけど、話を聞いているだけで、組合に加わる利点が多いのは伝わってくる。


 私は慌てて両手を突き出して、アンジェの行動を止める。


「違うの、アンジェ。それでいいよ。私たちに向いてると思うし、それに……」

「それに?」


 意気地なしの私は、その先の言葉をぬるいお茶と共に飲み込み、アンジェが喜びそうな言葉に変換する。


「いろんな人たちを魔の手から助けたら、アンジェはきっと英雄になれるよ」


 アンジェはなれる。間違いなく、偉大な人物になれるはずなんだ。私と違って。


 私の内心をよそに、アンジェは英雄という言葉の響きにうっとりと頬を緩ませる。


「えへへ……。英雄かあ。なりたいなあ。剣を持ってカッコよく戦って、お姫様や大切な人々を守ってみたい。いや、それとも……」

「…………お姫様、か」


 知恵の塊のような頭脳をふんだんに使ってとろけるアンジェを、私は内心を覆い隠す無表情で見つめ続ける。


 私は……お姫様ではないよね。野暮ったいし。


 〜〜〜〜〜


 アンジェは近隣の村に立ち寄り、そこでその地域にある組合について詳しい情報を得ることにする。


 地図によると、イオ村というところが一番近いらしい。あの地域の村々は森林が近く、魔物が出現した場合、厄介なことになりやすい。必ず組合の狩人に手を借りることになるため、そこにいけば組合へのツテを作れるだろう。


「目的地はイオ村に決定だ」

「了解です隊長!」


 アンジェとニコルは寝床を作るために盛った土を元に戻し、触手を片付け、風の魔法でごみをまとめながら荷物を背負い、瞬く間に人間の少女らしい姿となって街道に降り立つ。

 2人とも目立つ髪色に目立つ容姿だが、まさか悪魔だとは思われないだろう。偽装は完璧だ。


 ちなみに、ニコルは知識の海でさえ見破れない完全な魔力擬態ができるが、アンジェはまだ不完全なので、ビビアンの遺品である魔道具の服を着ている。


 アンジェは魔道具の服をひらひらさせながら、右腕を天高く持ち上げる。


「じゃあ、記念すべき最初の村目指して、出発!」

「おー!」


 アンジェの号令に合わせて、ニコルも右腕を高く掲げ、明るく声を上げる。


 こうしてマーズ村からの逃避行が終わり、新たな目的地を目指す旅が始まった。


 〜〜〜〜〜


 2人のはじめての旅は何の苦もなく、まるで丁寧に敷かれた石畳の上を歩くかの如きものであった。


 街道をのんびり歩き、商人とすれ違えばニコルが世間話をし、獰猛な野生動物が現れればニコルの触手で粉砕し、魔物が群れを成して現れればやはりニコルが片付けてくれる。


 蜘蛛の魔物であるシメンや、小さな狼の魔物であるフウカが何体か群れでやってきたこともあった。

 普通の旅人なら全滅する可能性すらある難敵だが、ニコルの手にかかれば瞬殺であった。

 ニコルの触手はシュンカさえ余裕を持って葬れるのだから、それより遥かに劣る低級の魔物では話にならない。


「(強い。膂力があるのは勿論だけど、動きに隙がないのも明確な強みだ。オレが触手を生やしても、こうはなるまい)」


 やはりニコルは凄い。幼い頃から優秀で、人を笑顔にさせるのが得意で、勉強熱心でもあったのだ。そして今は腕っぷしの強さまで手に入れてしまった。アンジェは知識の海を手に入れたが、彼女ほど素晴らしい人間になれているかというと、そんな気はまるでしない。まだまだニコルには遠く及ばない。


 アンジェはニコルに頼りすぎている現状を不甲斐なく思い、自分にできることを頑張ろうと知識の海を活用する。

 初めて見る小鳥の魔物『トウリ』が襲ってくれば、風の魔法で何もさせずに撃ち落とす。巨大な鹿が突進してくれば、土の魔法で返り討ちにして角と毛皮を剥ぎ取る。

 ニコルはおそらく世界屈指の強者だが、アンジェもそこそこの魔法使いではあるはずだ。シュンカ1体に殺されかける程度とはいえ、ニコルの隣に立つ者として意地を見せなければなるまい。


 ……さて。

 この辺りは貴族の狩猟域ではないため、誰がどんな動物を狩っても怒られはしない。乱獲で数が減りすぎたら近隣の村からお叱りが飛んでくることになるが、たかが獣にいざこざを起こしてまで手に入れる価値はない。誰も彼も、必要な分だけ狩り、必要ない分だけ自然に還す。


 というわけで、夕餉(ゆうげ)は大鹿の肉で決まりだ。


「なんだか冒険って感じだね!」


 調理器具を並べながら、ニコルは満面の笑みで植物由来の良い香りを漂わせ始める。

 こうした野外での料理も、そのうち慣れて日常になるだろう。ニコルがこれほど興奮するのは、おそらく今回だけのはずだ。


「(今のはしゃいでいるニコルを、脳裏に焼き付けなければ)」


 アンジェは花びらと良い香りを撒き散らしながら踊るニコルをしっかりと記憶し、調理を開始する。

 とはいえ、アンジェに大したことはできない。知識を漁りながらの見よう見まねだ。ニコルに不味いものを食べさせたくないが、自信はない。


「失敗したらごめんね」

「大丈夫。私も頑張るから」


 まずは鹿肉の処理だ。すじを取り、しっかりと血抜きをして、下味をつける。臭みを取るため、ニコルが生やした唐辛子を粉にして揉み込み、辛めの味付けにする。


「こんなもんかな……」

「おお……。このままでも美味しそう」

「流石に無茶です」


 続いて、ニコル産の野菜を刻む。


 肉と相性が良いものを選んでニコルに伝えると、それと同じか、または近いものを再現してくれる。触手を地面に潜らせてしばらく待つと、野菜に変化しているのだ。とんでもない魔法である。


 ニコルニンジン、ニコルホウレンソウ、ニコルジャガイモ。ついでに香草や飾り付けの花をいくつか。

 試しにひとくちかじってみると、本物と同じ味がする。知識の海も本物だと太鼓判を押している。


「この花、これで合ってる?」

「まあ、だいたいは」

「前の旅で見たことがあって良かった」


 そういえばニコルは都会まで旅行したことがあるのだった。こうした野外料理の経験もあるのだろう。


 ……では、彼女の興奮は何に由来するものなのだろうか。踊るほど喜んでいるのは何故なのだろう。

 ……疑問ではあるが、今は調理に集中しなければ。


 野菜を刻み、火が通りやすいように下拵えをした後は、肉と一緒に鍋に入れ、長時間煮込む。

 漂う匂いを嗅ぎつけて腹の虫が鳴き始めても……口の端から熱い涎が垂れてきても……ひたすら煮込む。


「お腹が空いてから作り始めると、我慢するのが辛いね……。ごめん、ニコル」

「美味しそうなものを前にすると……お腹が……うーん、まだ駄目?」

「だめ」

「むぐぐ……」


 2人は空腹で目眩を覚えながら、焚き火の上の鍋を掻き回す。

 やがてアンジェは途中で火と水の魔法による局所的な加熱を習得し、手早く肉の内部に火を通すことができるようになる。これで時間を短縮できるはずだ。


「ねえ、アンジェ。入れる時間を分けた方が良かったんじゃないかな……?」

「野菜は切り方でどうにかしたつもりだけど、香草に関しては……まあ、そうだね……失念していたよ……」


 香草を入れるのが早すぎた。香りが飛ぶ前に仕上げなければ。

 しかし、焦りは禁物だ。火を上手に使えば、なんとかなるはずだ。


 ……そうして煮込み、灰汁を取り、煮込み、更に煮込み、これでもかと煮込み、ニコルの目が虚ろになり始めた頃。


「そろそろかな」


 確認のため、アンジェは細い木の枝で肉を刺す。

 肉は抵抗なく尖った枝を受け入れ、するりと奥まで吸い込んでいく。

 ……ようやく芯まで火が通ったようだ。


「よし」


 アンジェの小さくも力強い呟きに、ニコルは獣のようにぴくりと耳を動かす。

 ずいぶん待たせてしまったが、もう少しの辛抱だ。

 自分で果物でも生み出して食べることだってできただろうに、そうしなかったのはニコルなりの誠意なのだろう。


 アンジェは幼馴染の配慮に感謝しつつ、手際良く鍋の中身を器に盛り、匙とともにニコルに手渡す。

 木製の器からもうもうと湯気が立ち込め、覗き込むニコルの顔を濡らす。


「完成?」

「熱いよ」


 アンジェの忠告を聞くや否や、ニコルは器に口をつけて飲み始める。

 せっかちだが、非難はできない。彼女を待たせたのはアンジェなのだから。


「あつっ」

「もう……」


 案の定舌をやけどしたようで、反射的に目を閉じて器を遠ざけている。

 だが器を落とすことはなく、その両手はしっかりと固定されたままだ。一安心である。


 さて、アンジェの胃袋もそろそろ限界が近い。ニコルに毒見をさせているようで悪いので、早く自分も食べてしまおう。


「ふふっ……」


 アンジェは道端で子猫を見かけた少女のような、自分でも思わず可愛らしいと感じてしまう声を漏らしつつ、自分用の小さめの器に汁物をよそう。


 真っ先に飛び込んでくるのは、強い香りだ。野生の肉の匂い。そして、その癖の強さをごまかすための、刺激的な香辛料の匂い。かぐわしく、悩ましく、鼻から脳を揺さぶってくる。


 だが見た目はお世辞にも良いとは言えない。肉汁と野菜と崩れた芋で濁っており、まるで泥水のようだ。


「(美味しいのかな……?)」


 アンジェは黙りこんでいるニコルを一瞥し、意を決して匙を入れ、口に運ぶ。

 流れ込んでくる熱いそれを……アンジェはゆっくりと、味わう。


「んー!」


 アンジェは木の器を抱えたまま、驚きと喜びに頬を緩ませる。

 美味しい。そう、美味しいのだ。


 生まれて初めて経験する味だ。獣臭さが香草で良い具合に打ち消され、血沸き肉たぎる豪快な風味が引き立っている。

 執拗に煮込んだ甲斐があり、鹿肉はアンジェの乳歯でも容易く噛み切れる優しい柔らかさになっている。脂肪が少なく、噛めば噛むほど血肉の赤い味わいが広がっていく。野生的だが、爽快だ。


 ニコルの魔力で作られた野菜もまた絶品だ。食べ慣れた食材から染み出した素朴な味が、癖のある鹿肉の旨味と絡み合うことで、何度口に運んでも嬉しい絶妙な調和を生み出している。


 唐辛子に由来する辛さもちょうどいい塩梅であり、まだ寒さが抜けないこの時期の夜にぴったりだ。一口食べれば胃に熱が宿り、二口食べれば喉まで燃える。食べ進めればきっと悪魔も焦げてしまうだろう。


「(美味しい。いや、すごく美味しい!)」


 落ちる涙は味覚への感謝。噴き出る汗は満足の証。消化器は雷のような拍手と共に喝采し、脳は一心不乱におかわりを所望する。


 甘党のニコルも気に入ってくれたようで、ひいひい言いながらも嬉しそうに頬を緩ませている。

 そうか。黙っていたのはほっぺたが落ちないように気をつけていたためか。


「(よかった。うまくいってよかった)」


 2人は感動と達成感で咽び泣きながら、焚き火を前に食事をかき込んだ。


 〜〜〜〜〜


 《ニコルの世界》


 その日の夜。

 私は触手に包まれて眠るアンジェを見つめながら、想いに耽る。


 私は人間だった頃から、アンジェと結婚して共に暮らすことを夢見ていた。

 特に都会に絶望して村に帰ってきたばかりの頃は、家に引きこもって現実逃避ばかりしていたから、妄想が膨らみ続けていた。今となってはもうあり得ない、朽ち果てた夢だ。


 私は太陽が苦手だから、基本的に家にこもって家事をすることになる。裁縫や料理は必死に学んできたから、家の中のことでアンジェに負担をかけるつもりは一切ない。

 アンジェは真面目だから、私の分まで外に出て、小さな体で汗水垂らして懸命に働くに違いない。だから私は汗だくで帰ってきたアンジェの服を脱がして、体を拭いて、綺麗にしてあげるんだ。そして火照る頬を見つめ合いながら、優しく口付けなんかしちゃったりして。ご飯を食べている間もその後のことばっかり考えちゃってて、夜になったら……2人で……。


「……は、ふう」


 妄想が一区切りついたところで、私は就寝中のアンジェに音もなく近づく。

 アンジェは眠りが深い。昔、一度だけ想いが昂りすぎて体をまさぐってしまったことがあったけど、まるで起きる気配がなかった。

 きっと悪い人に寝込みを襲われても終始気が付かないんだろうなあ。心配だ。現に今、悪魔にべたべた触られているわけだし。


「アンジェ……アンジェ……」


 私は指を自分の服の下に這わせ、アンジェの指に唇をつける。

 甘い。甘くて、美味しい。足りない。もうひと口。足りない。もうふた口。もっと、もっと。


 ……アンジェと結ばれてはいけないとわかっているのに、夜になると滾る欲望のままにこんなことをしてしまう。相手の意識が無いのを良いことに、好意をぶつけてしまっている。

 最低だ。最悪だ。人でなしだ。狂っている。頭ではそう思っているのに、止められない。やめられない。


 私はもう、悪魔なのだ。


「ふーっ、ふーっ……」


 まだ起きる気配がない。アンジェはよく私のことを寝坊助と言うが、人のことを言える状態ではないと思う。

 夜はまだまだ続いていく。ならば、もっと深い闇の中に、身を投じるだけだ。


「……あはっ」


 いつのまにか龍の角と翼が生えている。尻尾もそのうち生えてくるだろう。最近は昂るとこの姿に変身してしまうようになってきた。身も心も悪魔に染まってきた証拠だろう。

 おそらくこの姿こそ、私の悪魔としての本質なのだろう。全身が凶器の塊。暴力的で、排他的で、大切な人さえ傷つける、罪深い害悪。


「あっはっはっはっはっは!!」


 私は爆発的に膨れ上がる情熱を胸に、更に激しく愛の炎を燃え上がらせる。

 芯に残る理性だけが冷たく、それ以外の思考は焼け焦げてひりついている。


 ……独り身の女性が意中の人と2人っきりになり、手料理を振る舞うこと。それはアース村において結婚の申し出を意味する。

 知識の海にも載っていない、狭い地域における暗黙の了解だ。どうせ知らずにやってしまったんだろう。

 それでも私、すごく嬉しかったんだからね。本当の夫婦になれたみたいで、夢が叶ったみたいで、泣くのを堪えてたんだからね。


「うっ……あはは、は……ゔっ、うあぁ……」


 私は泣きながら笑い、顔を歪めている。

 きっとしわだらけで不細工な表情をしているんだろう。鏡があったら見てみたいよ。


 とにかく、アンジェ。あなたは私の全てだから。

 後始末だけはちゃんとするから。純潔だけは守り抜くから。幸せになる未来だけは奪わないから。

 だから今は、今だけは、私だけのアンジェでいてほしい。


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