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第3話『壊れた心に隙間風』

 アンジェとニコル。未曾有の惨劇を経て生き残った少女たち。

 一通り再会を喜び合った2人は、びしょ濡れのまま川辺に腰掛ける。


 見慣れた風景。いつものせせらぎ。2人でこうして語らうのは、もう何度目になるだろう。

 それでいて、アンジェの心はまだひび割れたような気分のままだ。中途半端に日常が戻ってきても、心の傷に染みるだけ。全てが反転して楽になることはないのだ。


「……えっと、まず、私から」


 長い沈黙の後、ニコルの方から切り出す。


「私ね、気がついたら森にいたの」


 ニコルは遠い目をして川の向こうの方を見ながら、逃げ延びた経緯を説明する。


 薬によって肉塊にされている間も、ニコルには意識があった。自分の体が滅茶苦茶になっていく感覚を味わい続けていた。

 人間だった体が急速に変形し、怪物になっていく。その体験は、まだ少女であるニコルでは表現することすら難しい恐怖であった。


 肉体が山のように膨れ上がった後、ニコルは爆発四散し、意識を失った。

 恐らくはその時に、体の核となっていた大事な部分が、近くの森に墜落したのだろう。その肉片から少しずつ人間の体に戻っていって、今に至る。


 そのような内容を、ニコルは青ざめた顔で語った。

 途切れ途切れで不明確。聞き直したくなる部分もあったが、もう一度話せと言うのは酷だろう。本当は思い出したくもないはずだ。


「(死にかけて、人の姿さえ失いそうになるなんて。そんなの二度と御免だろう。オレなんか体験談を聞くだけで参ってるのに)」


 側で見ていたアンジェにとっても、あれは衝撃的な光景だった。当人ともなれば、その精神的苦痛は察するに余りある。


 アンジェはニコルの体をそれとなく観察して、傷や痕が残っていないか確かめる。


 何処をどう見ても、いつものニコルだ。むしろ今までより肌が綺麗になっているようにも見える。顔も手も足も髪も肩も腰も……白く、美しく、透き通るほど清廉で……。


「(これ以上はやめよう。じろじろ眺めるのはニコルに失礼だ)」


 アンジェは胸の内側に濁りを感じつつ、邪な考えを振り払う。

 見てはいけないもの、触れてはならないものの分別くらいはつく。アンジェは幼いが、幼さを言い訳にするほど不出来ではない。これでも村では天才児と呼ばれていたのだ。


 アンジェは努めて明るく振る舞い、暗い顔をしているニコルを励ます。


「今は元気そうでよかった」


 そう言ってアンジェは笑い、ニコルの不安を取り除こうとする。

 つい先日まで普通に暮らしていたはずなのに、ずいぶん久しぶりに笑顔になったような気がする。この村での日々が、もはや過去になってしまったためか。


 ニコルは感極まってホロリと涙を流し、アンジェに肩を寄せる。傷心と深い信頼が見て取れる、どこか儚げな仕草だ。

 少しは傷を癒せただろうか。ニコルの力になれたなら幸いだ。


 ……しかし、触れた感触に何か違和感でもあったのだろうか。彼女はすぐに離れてしまい、真面目な顔でアンジェに尋ねる。


「ところで、アンジェの方はどうしたの? ずいぶんと、その……変わっちゃったけど」


 ニコルはアンジェの顔を見て、無防備な胸を見て、手で隠された股間をほんの一瞬だけ見て、最後に目を逸らす。

 アンジェの性別が変化したことに戸惑っているのだろう。おそらくは、アンジェ本人よりもずっと。


「(やっぱり、性別が変わってしまった以上、今まで通りに仲良く……とはいかないよね。……怖いな)」


 アンジェは不安と恐怖で押し潰されそうになりながら、自分の身に起きた出来事を語る。

 性別が変わってしまったこと。身体能力に異変があること。


 そして……村の末路を見たことも。


「そういうことがあった」

「……そっか。アンジェが無事でよかった。無事って言っていいのかどうか、わからないけど」


 ニコルは不思議そうにアンジェの体を隅々まで眺めながら、そうつぶやく。

 あまりじろじろ見られると照れ臭くなるのだが、受け入れるしかない。ニコルにも事態を飲み込むための猶予があって然るべきだ。


 足の指先まで見終わったニコルは、頬を赤く染めてアンジェの顎を指でなぞり始める。

 細く白い指。薄い桃色の爪。それらがゆっくりと、アンジェの輪郭に触れる。


「ふぇっ!?」


 アンジェはくすぐったさに思わず背筋をピンと伸ばし、悲鳴をあげる。

 そして自分で思っているより遥かに高い声が出て、更に混乱し、口を半開きにする。


 こんなにも甲高いのか、今の自分の声は。まるで可愛がられる小動物のようではないか。


 そんなアンジェの反応を見て、ニコルは更に手のひらで顔を弄び、愛おしそうにくすくすと笑う。


「夫婦になれなくなったのは残念だけど……とっても可愛いお友達ができたと思えば、嬉しいかも」

「友達……」

「大丈夫。アンジェは私の大切な人のままだから」

「大切な……友達」


 友達。アンジェはその単語を反芻する。


 昨日は告白までされたというのに、なんだか一気に後退してしまったような気がする。友達という関係はとっくに通り過ぎたはずなのに。


「(……そっか。そうだよな。オレはもう、今までとは違うんだ)」


 気落ちした内心が顔に出ていたのか、ニコルはアンジェの顔から手を離し、慌てた様子で付け加える。


「あっ、でも、ただの友達じゃなくて、最高の友達。親友……でもなくて、もっと凄いの」

「うーん……」


 ニコルの表現があまりピンと来ず、アンジェは腕を組んでことんと首を傾げる。


 親友より凄いと言われても、何がどう違うのかよくわからない。どうあがいても元の関係性より劣るような気がしてしまう。

 そもそもアンジェは仲の良い相手が少なく、人間関係を測る物差しが無い。今の状態をどう表現すればよいのかわからない。


 それでも、この素敵な幼馴染のニコルにとっては、今のアンジェも大切な存在のままであるということは理解できた。


「(女の子になっちゃったし、やり直すしかないのかな。なんかモヤモヤするけど、仕方ない)」


 ニコルが友達でいたいなら、今はそれで納得しておこう。体が変わってしまった以上、関係性も変わるのが必然だろう。


 正直なところ、ニコルとの仲に傷がついたようで、胸にとてつもない痛みを感じるのだが……それは心の内に秘めておくべきだろう。ニコルのためにも。


 そんなアンジェの不安をよそに、ニコルはいつも通りのとろけた笑みを浮かべ、熱を帯びたよだれを垂らす。


「ふふふ……アンジェは女の子になっても可愛いね」

「変態みたいな顔、やめなよ。ニコルは立派な淑女なんだから」

「えっ……ええー……?」


 アンジェは率直な感想を述べる。ニコルは村一番の美人なのだから、何処に出しても恥ずかしくない状態に保つよう努力してほしいものだ。


 そんなアンジェの意図が伝わったのか、ニコルは豆鉄砲を食らったかのような顔になり、よだれを川の水で洗い流して、真剣な眼差しを向ける。


「ねえ、アンジェ。気づいてないかもしれないけど、アンジェはもうひとつ前と変わったところがあるよ」


 ニコルは先程のいやらしい笑みについてではなく、まるで違う話をし始める。


 会話の中で、何か良からぬものに気がついたらしいが、一体どういうことだろう。アンジェには心当たりがない。女性になる以上に深刻な問題など、そうそう思い当たるものではない。


 アンジェはきょとんとして、目をぱちくりさせつつ聞き返す。


「えっ? どこが変わったの?」


 するとニコルは小さく咳払いをして、俯き、申し訳なさそうに答える。


「ちょっと厳しいこと言うけど……アンジェ、性格もめんど……変……その、なんというか、前と違う感じになっちゃってるよ」

「それは、悪い意味で……?」

「変態ってどういうことか、わかってる? 淑女ってどういう人のことか、説明できる? アンジェが知ってるはずがないのに。私より幼くて、純真なアンジェが……知ってるはずないのに」


 それはアンジェにとって、まったくもって予想外の発言だった。


 体の変化は自分で気がつくことができた。両の手で触れ、目で見ることで比較できたからだ。これ以上ないほどわかりやすい。

 だが心という無形で曖昧なものの変化には、簡単には気づけなかった。無意識のうちに、変わっていないと思い込んでいた。


 今のアンジェには、これまでには無かったはずの概念が身についていた。

 まだ幼い子供が、変態……すなわち性的倒錯を理解している。淑女という、小さな村で生きる分にはまず使わない言葉も知っている。


 冷静になってみると、これは異常だ。自分は何処でこんな概念を得たのだろう。


 そして何より、ニコルはそれを、変だと言った。

 ニコルに否定された。誰より自分を見てくれているニコルに。もはや唯一の同郷になってしまったニコルに。自分より大切な……ニコルに。


「オレが変、なのか? オレがオレじゃないみたい、なのか?」

「えっと、そうだけどそうじゃなくて……」

「体も心も、違うなら、それは……」


 別人じゃないか。

 ニコルが好きだと言ってくれたアンジェとは。


 何年もかけて築き上げてきたニコルとの関係性が無になった。大好きなニコルからの宝石のような好意が全て泡になった。

 ニコルのためにしてきたこと。ニコルからやってもらったこと。ニコルに抱いた愛もニコルから受けた愛も、全て、全て……台無しになった。


「あ、ああ、あああ……! やだやだっ! やっ、やああアアッ!!」

「どうしたの!?」


 アンジェは歯を食いしばって両腕を振り回しながら気を失った。

 脳が現実という衝撃に耐えきれず、正気を手放してしまったのだ。


 幼いアンジェにとって、過酷を直視して立ち向かうのは無理難題でしかなかった。


 〜〜〜〜〜


 《ニコルの世界》


 私は最低だ。

 いま一番辛いのはアンジェのはずなのに、追い詰めるようなことを言ってしまった。


 アンジェらしくない部分は、確かにあった。目についたし、おかしいとも思った。

 だとしても……あんなことをわざわざ言う必要はなかった。言うにしても、もっとちゃんと考えて、優しい言い方をするべきだった。


 私は馬鹿だ。

 後悔しているのに、二度とアンジェを苦しませたくないのに、これからどうすればいいのか、さっぱりわからない。

 こういう時に相談できるお母さんも、頼りになる村のみんなも、もういない。今の私には、アンジェのそばで優しくすることしかできない。


 これからどうやって生きていけばいいんだろう。2人だけで野菜を育てて生きていく? 荒廃した村の中で? また魔王が襲ってくるかもしれないのに?


 ……わからない。わからないから、まずはやるべきことをやろう。


 今、私はアンジェを優しくおんぶして、村まで歩いている。

 アンジェは相変わらず軽くて愛くるしい。寝息は可愛いし、体温は高くてぬくぬくだ。


 ……性別が変わっても、同じなんだね。アンジェは変わらず、私の大好きな人だ。


「(アンジェという救いはあった。だけど、村はきっと……私にとっての、絶望の象徴だ)」


 村は……いや、かつて村だった場所は、きっとひどいことになっているんだろう。もう私たちの故郷なんて、何処にも無くなっちゃってるんだろう。


 見たくない。知りたくない。目を塞いで、何処かに行ってしまいたい。


 それでも、行かなきゃいけない。

 生きている私たちが、あの村の最期を看取ってあげないといけないんだ。


 ……考え事をしているうちに、村に着いた。

 川は村のすぐそこだから、普通に歩いたら覚悟を決める前に着いてしまう。つまり、私の覚悟はまだ、腹の奥底で冷たいままだ。


 それでも、思ったよりはマシな光景だ。

 川にいた時からすごく濃い血の臭いが漂ってきていたけど、その割には死体が少ない。


 みんな私みたいに爆発してしまったのかな。それとも、ところどころにいるカラスが食べてしまったからかな。細かい肉片や血痕くらいしか残っていない。


 正直なところ、気分が悪くなって、私まで気絶しちゃうかもしれないと思っていた。村が地獄絵図じゃないなら、大丈夫。ちゃんと起きていられる。


 ……あるいは、私が薄情だからかもしれないけど。


「アンジェ。……ごめんね、隠してて」


 私は背中のアンジェを起こさないように優しく寝かせて、秘密にしていた力を使うことにする。


 私が少し力を込めると、腕からにょきにょきと、枝ような細い肉が生えてくる。

 指のように細かく動かせるのに、男の人の腕みたいに力がある。腕に目をつければ、広い範囲を見ることもできる。耳をつければ、遠くの音も聴き取れる。


 私はそんな腕をいくつも生やして、よその家から箒や農具をかき集めて村を掃除する。

 残っている血肉を民家に集めて、まとめて火葬するつもりだ。放っておいたら、鳥の餌になってしまうから。


 こうするのが正解かはわからない。本当は誰の体がどこにあってどうなってしまったのか、ちゃんと区別して、ひとりひとりにお墓を作ってあげたい。


 でも私には、それができない。この力に慣れてなくて、素早く掃除することができない。時間をかけすぎると腐ってしまうから、より良い葬儀は諦めるしかない。


 これが精一杯だ。ごめんね、みんな。


「もっと早く、これができるようになってたら……助けられたかもしれないのに」


 悪魔が私に流し込んだ、あの薬。あれを克服したから、こんな気持ち悪いことができるようになった。

 みんなは失敗したみたいだけど、私は運良く、体が膨れる感覚を掴んで、抑えることができた。


 あの場ですぐにそれができていたら、村を救うことができたんじゃないのか。どうしてもそう考えてしまう。


 アンジェはまだ眠っている。すぐそばに化け物女がいるのに、すやすやと落ち着いた寝息を立てている。

 そうだ。しばらくはそうしていてほしい。こんな醜い姿、アンジェには見せたくない。


「アンジェはいいなあ。綺麗になって……」


 私は余った人間の腕と顔を使って、アンジェの顔を覗き込む。

 ……こうしてアンジェの寝顔を見ていると、昔のことを思い出す。


 昔、アンジェは私の弟だった。

 幼い頃の私でも抱えられるほど、小さな赤ん坊。よく泣いて、よく笑う、か弱い子供。

 この子のためにも、立派なお姉さんになろう。私がこの子を守ってあげよう。誰に宣言したわけでもないけど、そう強く誓ったんだ。


 それからしばらくは、私はアンジェと一緒に大きくなっていった。

 アンジェがハイハイを始めた頃、私はアンジェのおくるみを作れるようになった。

 アンジェが歩けるようになった頃、私は化粧の仕方を教わり始めた。

 アンジェが会話できるようになった頃、私は初めてよその村に行った。

 本当に、本当に、懐かしい。


 アンジェに字の読み方を教えてあげた。アンジェに植物の名前を教えてあげた。アンジェに川での遊びを教えてあげた。色々なことを教えて、私はアンジェのお姉ちゃんになれた。


 アンジェに教えるために、私もいろんな人から、いろんなことを教わった。みんなが私に優しくしてくれた。

 今思えば、私が教わりに行く時、アンジェも一緒に連れて行けばよかったと思う。私とばかり一緒にいたから、アンジェは人見知りになっちゃった。ちょっと悪いことをしたかもしれない。


 そんな毎日を過ごしているうちに、私にとってのアンジェは、特別な人になっていた。たぶんだけど、これが恋なんだと思う。


 きっかけは特にない。気がついたらアンジェが何よりも大事になっていた。じわりじわりと心の木の実が熟していって、知らない間にぽとんと落ちていたような感じ。


 自分が恋に落ちた瞬間がわからないのは、ちょっと浪漫がなくて寂しいけど……それでも、そうなっちゃったんだから仕方ないね。


 でもアンジェはまだ、恋をするには幼すぎる。頭が良くて大人とも普通にお話できてるけど、まだ小さな子供だ。


 それにこれから先、近所で女の子が生まれたら、アンジェはその子を好きになってしまうかもしれない。ちょうど、アンジェに恋した私みたいに。

 そうなったら、アンジェやその女の子の邪魔をするのはズルだ。そう思って告白するのを我慢していた。


 それに、幼いアンジェにいやらしい目を向けたら、周りのみんなが怒るかもしれないと感じたのも、告白を避けた原因のひとつかもしれない。


 私も一応まだ子供なんだけど……体がどんどん大人びていったせいで、子供扱いをされなくなってしまった。結ばれるには、アンジェが大人になるまで待たなければいけなかった。


 結局、悪魔に襲われて自分が死にそうになったら、そんなこと気にしていられなくなって……アンジェを奪っちゃったんだけどね。最低だよ、私。


 でもその時の告白を引きずって、アンジェはこれから先、こんな気持ち悪い体の、悪魔の力で肉の塊をにょきにょき生やす女の子と、恋人を続けることになるかもしれない。

 そう考えるとアンジェが気の毒になってしまって。友達だと、つい言ってしまった。


 自分が化け物だってことを、いつまでも隠し続けられるとは思えない。歳を取ったら、抑えられなくなって、本物の怪物になってしまうかもしれない。


 だからこの先、アンジェの前に普通の女の子が現れた時……いつでも私と別れて、その子と一緒になれるようにしておくのが、アンジェのためだと思う。


 正直、すごく辛いけどね。アンジェが歳をとってヨボヨボのお爺ちゃんになっても、ボケて私のことがわからなくなっても、ずっと愛し続けるつもりでいたんだから。

 それに比べたら、今の変化なんて大したことない。女の子になったくらいで、好きな気持ちが無くなるわけがない。


 そうだ。私は今でも、アンジェに恋している。


「……アンジェ」


 私は見ているだけで吐き気がする腕を遠ざけて、人間の部分だけを使って、眠っているアンジェに頬擦りをする。


 私は汚い化け物だけど、今だけは、少しだけ、そばにいさせてほしい。アンジェさえ良ければ、普通の生活を手に入れて幸せになるまで、見守らせてほしい。


「女の子のアンジェも素敵だよ。……だから、どうか幸せになってね」


 アンジェは見たこともないくらい可憐な女の子になってしまった。村のみんなが生きていたら、きっとチヤホヤされたはず。それどころか、村の外でも評判になっただろう。


 これからどうなるかはわからないけど、もともとアンジェは賢くていい子なんだし、そのうえ可愛さまで加わったんだから、きっと誰かが助けてくれる。


()()()私と違って……ね」


 私は名残惜しさを感じながら、アンジェから離れる。

 アンジェの甘い香りが薄れていく。寝息ももう聞こえない。まだ物足りないけど、仕方ないね。


 アンジェに見惚れている間に掃除は終わった。全員をまとめて、薪と一緒に私の家に入れた。後は燃えやすい藁にでも火をつけて、燃え広がらせて、全て火葬するだけだ。


 ……ただ、その前に。


「これ、どうしようかな」


 カラスが私の腕を噛みちぎろうと、嘴で突き回している。結構な怪力で、なかなか引き剥がせない。


 ……もしかすると、普通のカラスではないのかもしれない。魔王が襲ってきた時に、空を飛んでいたような気がする。


 仕方がない。少しだけ、この気持ち悪い力に頼るとしようか。


「『魔手・一心不乱』」


 私は伸びた腕を突風のように大きく動かし、肉の嵐を巻き起こす。

 広がる土煙。頬を撫でる旋風。ただの人間だった私の目の前で、殺戮が幕を開ける。


 巻き込まれた翼がもげ、嘴が割れ、家が崩れ、金属の農具がひしゃげていく。

 嵐が通った跡には、村だった名残りさえ残ってはいない。そこにあるものは、肉塊ですらない塵だけだ。


 ……すると、無数のカラスが列をなして、私の本体に向けて突撃してくる。

 魔物だからこその連携。魔物だからこその殺意。そして魔物だからこその……実力。

 人間の視力では見えないだろう距離から、並のカラスには到底出せないだろう速度で、その黒い塊は突っ込んでくる。


「カアアアッッ!!」


 隊長らしい先頭のカラスが叫ぶと、部下らしいカラスたちが一斉に横に広がる。

 黒い彼らが連なったその威容は、まるで巨大な翼のようだ。


「(ああ、まるで物語みたい……)」


 私は非現実的な光景を前にして、何処かぼんやりした心地で腕を振る。

 怯えて逃げ出すわけではなく、震えて泣き出すわけでもなく。ただ目の前の魔物を葬るために、戦おうとしている。


 ……ああ。やっぱり私は薄情だ。


「『魔手・一気決殺』」


 思いついたままに技の名前を口に出し、私は軽々と悪魔の腕を振る。

 回転する無数の腕。吹き荒ぶ竜巻。恐ろしい速度で突撃してくるカラスたちを飲み込み、死の旋風は全ての命をあの世に吹き飛ばす。


 あんなに強そうなカラスたちが、一撃で全滅してしまった。

 魔物は普通、人間ひとりで勝てるものではない。だからこそ、私たちの村は滅亡したんだ。


 だというのに、私は。


「あはっ。あっはっは! ……私、いつまで人間でいられるんだろう」


 アンジェが起きてこない幸運に感謝しながら、私は涙を流して悪魔の腕を引きちぎる。


 嬉しくないことに、腕をもぎ取っても痛みは感じなかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 衝撃的な序章。 3話までで一気に引き込まれました。
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