第24話『別れながら、出会う』
アンジェたちは魔法の練習をするため、村の外縁部にある広場にいる。
シュンカを解体するために使われていたが、全ての作業が終わっており、今は人ひとりいない。
それなりに見晴らしがよく、誤射の心配がない。念のため村に背を向けておけば、空間を広く使って練習ができる。
もっとも、人が飛び出してこないようニコルに見張っていてもらう必要はあるが。
「ごめん、ニコル……。仲間外れにしちゃって……」
「私は大丈夫だよ。村の人と話しながらでも、アンジェのこと、見れるから」
自慢げにそう言って、ニコルは目のついた触手を民家に巻きつける。それを通してアンジェたちの修業の様子を見るつもりのようだ。
ニコルの擬態はアンジェの知らぬ間に磨き抜かれ、知識の海でも解読しきれない領域に突入しつつある。どこからどう見ても蔦と花にしか見えず、ましてやニコルに視界を送っているなどとは……。
自分ももっと研鑽を積まなければ。
「遠くからずっとずっと見守ってくれるなんて……頼りになるなあ」
「ふへへ……アンジェのためなら、いくらでも強くなれちゃうからね……」
ニコルは相変わらず淑女らしくないとろけた笑みを浮かべながら去っていく。
正直なところ、自分以外の誰かの前で、はしたない顔をして欲しくない。ジーポントとミカエルが目を丸くしているじゃないか。
「(でも、油断できるのは彼らに対する信頼の証でもあるだろうから……まあ、いいか)」
後でそれとなく注意するくらいでちょうどいいだろう。あまりきつく言いすぎてニコルの笑顔が見られなくなる方がつらい。
笑い方が下品でも、ニコルはニコルなのだから。
〜〜〜〜〜
ニコルと別れた後、詠唱無しの土の魔法と風の魔法で軽く周辺の整地をしつつ、アンジェは学習の進度を確認するべく尋ねる。
「今の2人は何処まで魔法を使える? 詠唱の知識についても教えてね」
それは魔法を教える上で重要なことだ。知っている魔法をなんとなく詠唱してみて、うっかり魔力を注いでしまい、暴発してしまう事故がよくあるのだ。
故に、実力に見合わない知識を得るのは危険とされている。彼らが高度な魔法の詠唱を知っているなら、調子に乗って口に出さないように厳命しなければなるまい。
ジーポントは首を横に振って即答する。
「何も知らない。魔法に種類があるってのはわかるけど、詠唱は物語にも無いから……」
「うっかり唱えちゃったら危ないからね。伝えられてないのは、良いことだよ」
この村の魔法教育が正確に管理されていることに安堵を覚える。
子供を大切にするという風習は口先だけではなかったようだ。実現するための道筋もしっかりと考えられている。素晴らしいことだ。
一方、ミカエルはしばらく指を折りながら考えて、答える。
「火の魔法は、危ないからまだ。『風の指』と『水の指』は教わってる」
「『土の指』は?」
「後回しだって。半端だと使い道が無いから」
なんとも侘しい話である。アンジェは土の魔法に散々助けられてきたため、僅かに憤慨を覚える。
だが、土の魔法は難しい。魔力量や個人の適性によっては、地形の変化どころか、泥人形さえ作れない。まず他の魔法で魔力操作に慣れてから、という教え方は理にかなっている。
アンジェは石ころや枯れ葉を掃除し終え、2人の前に立つ。
「じゃあ、まずは『風の指』から。ジーポントは見学からね」
「わかった。……ミカエルのは見たことあるけど」
お互いに修業の成果を見せ合って、切磋琢磨しているのだろう。ジーポントとミカエルの仲の良さが垣間見える。
ミカエルは幾度となく練習を積み重ねて慣れた様子で……しかし緊張が表面に浮かんだ面持ちで、詠唱を始める。
「『風の指:ウタ・カイ・ハジメ』」
魔力が上手く指先にまとまっておらず、詠唱をしても魔法の形になって飛び出していかない。
よくある失敗だ。集中を乱されれば熟練の魔法使いでもそうなる。
ミカエルは焦り、もう一度詠唱する。
「『風の指:ウタ・カイ・ハジメ』!」
だが一度目より更に乱れ、魔力の残滓さえ体の外に出ることがない。
ミカエルは額に汗を浮かべ三度目の詠唱を始める。口を大きく開き、眉間に皺を寄せている。
「(これは良くない傾向だ)」
予想以上に魔法慣れしていない。習い始めではこんなものなのだろうか。王都の魔法学校はもう少し進度が早いらしいが、田舎ではこれが限界なのか?
ひとまず、指導の方針を変えなくてはなるまい。
アンジェはミカエルの腰を軽く叩き、中断させる。
本来なら集中している魔法使いの作業を止めるのは厳禁だが、魔力が集まりさえしていなかったため、横から妨害しても危険はない。むしろこうするべきだろう。
「……すみません」
ミカエルは肩を落とし、意気消沈している。
むきになっても仕方あるまい。この少年は何か勘違いをしているのだ。一度冷静になって、根本的な理論から見直すべきだろう。
剣術と同じだ。正しい素振りをしなければ、正しい型は身に付かない。魔法も間違ったやり方で覚えてはいけないのだ。
「ミカエル。魔法はどういう仕組みで発動するものだと教わった?」
ジーポントにも聞かせるためのハキハキした声で、アンジェは問いかける。
ミカエルは座学に時間を費やしてきたためか、落ち込みながらもすらすらと回答する。
「体の奥から魔力を引き出して、一部に集めて、詠唱で放つ……です」
「その通り。詠唱だけ繰り返しても意味が無いんだ」
アンジェは『風の指』をさらりと発動させながら、解説する。
「どんなに焦っていても、途中を省いちゃいけない。やり直すのは詠唱の部分だけじゃない」
「魔力を練るところから、ですね」
「さよう。詠唱無しで魔力の感覚を味わい、少し練習してみたまえ」
「……はい!」
ミカエルはすっかり教わる側の姿勢になっているのか、敬語になりつつある。アンジェも教師らしくピンと背を伸ばした佇まいに自然と変化している。場の空気に流されているのである。
「おほん。さて、ジーポントくん。魔法の発動については理解したかね?」
「魔力を練るっていうのがよくわからないかな」
ジーポントはそんな2人に惑わされることなく、あくまで歳の近い少年としてアンジェに接する。
ミカエルより目上に対する敬意というものが薄いのだろうか。それとも、意外にも芯がブレにくい性格なのだろうか。
よくよく考えてみれば、アンジェは彼らより年上というわけではなく、師匠になるわけでもなく、あくまで対等な立場で教えているのだ。偉そうな態度を取るべきではなかったかもしれない。
「……う、うむむ、えっと」
アンジェは先程までの偉そうな態度を振り返って少し恥ずかしくなり、いつも通りの口調で説明する。
「大したことじゃないよ。例えば、筋肉を動かせばそこが強くなったと感じるでしょ? そんな感じで意識を向ければそれでいいよ」
「それだけ?」
「今は、それだけ」
もっと高度な魔法を使うためには、魔力を肌や神経で感じる程度の繊細さが必要になってくるが、それをいきなりこなすのは難しい。そうした感覚を身につけるのは、初級の魔法で体を馴染ませてからでいいだろう。
「(そういう観点だと、体そのものが魔力でできてる悪魔って、ズルいな。いきなり上級者じゃん)」
文字通り手足のように魔力を使いこなすことができるのだ。初級魔法くらい、生まれた時からお手のものだろう。
アンジェは自分の身に起きた変化と魔王への怨嗟でやや気落ちするが、顔に出ないよう腹部に力を入れて気を引き締める。
今の自分がどんな身の上であれ、優れた力があるのは事実だ。危険な場面では率先して戦いの場に出て、安全な所では後進を育成するのが世のためというものだろう。
そのためにも、負の感情は抑えなければ。堪えなければ。
ジーポントは体の中にある魔力を感じるべく、腕を曲げて力こぶを作り、そこを凝視し始める。
アンジェにはわかる。そこに確かな量の魔力が集まっていることを。視覚や聴覚で察知しているわけではないが、なんとなく魔力の流れを把握できるのだ。
ジーポント本人も掴めてきたようだ。目線が魔力を追い始めている。
「(才能、あるね……)」
どうやら次の段階に進めそうなので、ミカエルの方にも気をつけながら、アンジェは指示を出す。
「あっち向いて、オレに続けて詠唱してみて」
ミカエルは初心に帰って魔力を集める練習をしながら、ジーポントの様子を見守っている。
「『風の指:ウタ・カイ・ハジメ』」
「風の指、ウタ……カ……うおっ!?」
体内の魔力が呼応する響きを感じ取ったのか、動揺したジーポントは詠唱を中断してしまう。
体の中に別の生き物がいるような違和感があるのだろう。そういった前例が多いことは知識の海にも載っている。
当然、先人たちはそれに対する適切な答え方も確立している。
「恐れることはないよ。それは自分自身だから」
「今、動いたのが……俺の魔力?」
「そう。きみの力だ、ジーポント」
アンジェはジーポントの震える腕に手を添えて、穏やかな声で導く。
「もう一度。『風の指:ウタ・カイ・ハジメ』」
ジーポントは喉を鳴らし、一音一音丁寧に発生し、慎重に魔法を編んでいく。
「『風の、指:ウタ・カイ・ハジメ』……」
そして魔法は放たれる。
大した威力ではない。そよ風が生まれ、目の前のホコリを少し飛ばす程度だ。木の葉を揺らすこともできず、肌に当てても暑さを忘れることさえできまい。
だが、確かに変化は起きた。偉大なる奇跡はここに成されたのだ。
「できたね。おめでとう」
「凄いよジー!」
ミカエルも目をキラキラさせてジーポントを褒め称えている。自分でも苦労したからこそ、親友の成長が喜ばしいのだろう。妬む事もなく、素直にその成果を賞賛している。
「コツを掴むまで僕は3日くらいかかったんだ。今でもたまにしか成功しないし……」
「そうなのか……」
ジーポントも手のひらを開いたり結んだりしながら嬉しそうにしている。自分の中に眠る力を理解し、興奮しているのだろう。
だが、まだひとりで練習させるには早い。ここで調子に乗らせると、魔力の扱いを誤って大変な事態になりかねない。
「疲れただろうし、ジーポントはまた見学ね。ミカエルの魔法を見て復習するように」
アンジェはそう言って、見ていない間に魔法を行使しないよう釘を刺しておく。
目の届かないところで勝手をされるのが一番困る。配下というものは、力を手に入れた直後が最も暴れやすく、御しにくいものだ……と、有名な書籍に書いてあるらしい。いささか胡散臭いが。
ジーポントは力強く頷き、認めてくれた親友に恩を返すべく、期待に満ちた眼差しを送り始める。
「エルならできる」
「……照れちゃうなあ」
ミカエルは程よく緊張がほぐれたようだ。魔力の流れも自主練で掴んだのか安定している。
心身ともに最高の状態だ。あとは教わった通りに魔力を動かし、詠唱をなぞるだけ。
アンジェの合図で、ミカエルは詠唱を始める。
「『風の指:ウタ・カイ・ハジメ』!」
詠唱と共にミカエルの人差し指から小風が顕現し、やや遠くにある木の枝を僅かに揺らす。
指一本からしか出なかったが、なかなか良い風だ。飛距離も精度も申し分ない。練習の賜物だろう。
ジーポントは拳を握りしめて力強く叫ぶ。
「すっげえ! あんなに遠くまで届くのか!」
「真っ直ぐしか飛ばせないし、僕はむしろ抑えるのが難しいんだ。ジーみたいな優しい風を出せるようになりたいなあ」
「でも凄いよエル! 俺もあんな魔法が使えるようになりたい!」
少年たちは互いの成果を認め合い、喜色満面で固い握手をしている。
尊い友情だ。眩しく、穏やかで、美しい。そのまま物語として残し、代々語り継いでほしいくらいだ。
アンジェが視界に入らないような位置でそんな想像をしていたところ、2人は顔を見合わせた後、振り向いて駆け寄ってくる。
「アンジェ。もっと魔法、教えてくれ!」
「時間と魔力がある限り、もっともっと知りたい!」
懇願しながら、詰め寄ってくる少年2人。
ニコル以外の他者からこれほど信頼されるのは、いつ以来だろう。それも、同世代の子供たちとは。
「(悪い気分じゃないな……)」
アンジェは彼らに釣られて頬を緩ませながら、更なる魔法を教えることにする。
「次は水の魔法かな。あんまり得意じゃないけど、頑張るよ」
ビビアンもここにいてほしかった。そんな事をふと思いつつ、アンジェは水の球体を呼んだ。
〜〜〜〜〜
《ニコルの世界》
アンジェが笑っている。
年相応の無邪気な仕草で、年上のおにいちゃんたちと遊んでいる。
内容は真面目な魔法の練習で、年下のアンジェが教える側なんだけど、そんなチグハグな感じもアンジェらしいかな。
やっぱり私があの場にいなくて正解だった。
私が近くにいると、アンジェが交友関係を広げる邪魔にしかならない。アンジェが精神的に私頼りになっちゃうし、他の人も私が気になって素の状態を曝け出せなくなる。
悪い意味で目立つからね、私。主に見た目が。
今のアンジェには私が必要だけど、旅先でこうやって人と接する機会を作ってあげれば、そのうち私から卒業できるようになるだろう。
今までアース村に閉じ込めていた分、アンジェには沢山の経験を積ませてあげないとね。
「アンジェ……きゃわいい……」
私は花に擬態した目を通して、アンジェがジーポントと水の掛け合いをしている光景を見守っている。
昔はあんな感じで、川で水遊びしたなあ。特に曇っている日はお外で思いっきり体を動かせたから、本当に楽しかった。お腹がよく痛むようになってからは、あんまり出来なくなっちゃったけど。
……懐かしい。あの頃に戻りたい。
でも、時を戻す魔法は無い。アンジェが無いと断言したから、存在しないんだ。
それに、今の自分も最近は少し好きになれてきたところだ。日差しが強くても平気だし、こうやって遠くからアンジェを守ることができるし、手に入れたものも多い。失ったものが大きすぎて気づけなかった小さな幸せが、目につくようになってきた。
だから私は、未来へ進む。
行き先が見えないのが不安ではあるけど……アンジェがいれば、きっと大丈夫だから。
私は3人で手を繋いで見つめ合っている姿を見て、心に何か温かいものを感じる。
〜〜〜〜〜
アンジェの魔法教室は、ジーポントの魔力切れで幕を閉じることになった。
ミカエルは魔力量が多いらしく、更に魔力の扱いに無駄が無かった。よってまだまだ余裕はあったが、この後も師匠に出された課題があるようなので、ジーポントと共に休むことにしたのだ。
講義の結果、2人は『水の指:クロッキー』も習得し、軽い水芸ができる程度には水を生み出せるようになった。
どこでも安全な水を確保できるので、極めて有用な魔法だ。2人の魔法使いとしての価値はぐんと跳ね上がったと言えよう。
ついでにアンジェの意地で『土の指:パドマ』も半ば強引に習得させた。
石ころや泥の塊を生み出すだけの役に立たない魔法だが、土の魔法を軽視され続けると思うと我慢ならなかったのだ。
これがきっかけとなり、2人には更なる土魔法の高みを目指して欲しい。そんな願いを込めたが、2人とも難色を示していたので、意図が伝わっていたかどうかは怪しい。
「ミカエル。ジーポント。土はいいぞ。役に立つ」
「そうか……?」
「そうだ。土はいいぞ」
……それはともかく。
今のアンジェとミカエルは、具合が悪そうにしているジーポントを気遣っている状況だ。
魔法を習うのが初めてなら、魔力切れによる不快感や倦怠感も初めての経験だろう。魔力が失われても命に別状は無いが、体にあって当たり前の要素が足りていない感覚が常にあるため、たいへん不愉快な気分になるのだ。ジーポントにはしばらくそれと戦ってもらわなければならない。
「魔力を回復させる方法も……あるにはあるんだけどね……」
「あるならやってほしい。これ、むずむずして凄く気持ち悪いぞ」
ジーポントの要望を聞き、アンジェは手段を検討する。
ひとつ。魔石などの魔力を豊富に含む物体から魔力を吸収する方法。
だが、これは魔力の扱いに慣れていなければ失敗に終わる。そもそも、魔石は極めて高価で貴重な品だ。鉱山のおかげで持ち合わせはあるが、こんなところで使うわけにはいかない。
ふたつ。自分の魔力を他人に分け与える方法。これは効率が悪く、その上高度な技術が必要だが、アンジェならできない事もない。
「(オレの魔力はたっぷりあるし、分けようか)」
アンジェは後者の方法を選択する。魔力が人間ひとり分のそのまた数倍ほどごっそり減ることになるが、それでもアンジェの魔力量からすれば大したことはない。身ひとつでできるためお財布にも優しい。
「初めてだけど、やってみるよ。手を出して」
「なんだかわからないけど、優しくしてくれ」
アンジェは手を繋いで魔力を受け渡そうとしてみるが……。
「(あれ。これって、まずいのでは?)」
自分が悪魔であることに気がつき、咄嗟にやめる。
これはもしかすると、人間にとっては危険な方法なのではないか。そんな予感がするのだ。
「(シュンカみたいに、他人の魔力を自分の魔力で上書きして、魔物に変えてしまう可能性がある。ちゃんと制御していれば起きないとは思うけど、もしやっちゃったら取り返しがつかない)」
アンジェも自分に近い生物……すなわち人間に魔力を注ぎ込むことで、自分の分身に変えることができてしまう。
人を殺して魔物や悪魔に変貌させるなど、絶対にやりたくない。考えるだけでおぞましい。
シュンカがコウモリを変異させたように、人間以外の生物で試す手もあるが……独自に考えて動く眷属など恐ろしい。反逆の危険はもちろん、懐かれても困るだけだ。今のところ試すつもりは全く無い。
「(うん、やめよう。こんなことは)」
アンジェはきょとんとしているジーポントと、怪訝そうなミカエルを見て安堵する。
彼らを魔物にしてしまったら、マーズ村に顔向けできない。ニコルからの信頼も地に堕ちるだろう。そして何より、アンジェ自身の精神が保たない。
アンジェは適当な言い訳でその場逃れをする。
「ごめん。うまくいかないみたい。やったことなかったし、仕方ないね」
「アンジェも出来ないことがあるんだな。安心した」
ジーポントは白い歯を剥き出して笑う。
ミカエルも……一瞬だけ妙な顔をしたものの、納得したように頷く。
疑われていない。実力も性格も、信頼されている。
アンジェは彼らとの距離がぐっと縮まった感触に、感動を覚える。
ジーポントとミカエル。2人の少年。
出会い方がこうでなければ。例えばアース村が健在であれば……悪魔になっていなければ……彼らがひとり立ちできる年齢になってから出会っていれば……違う未来があったのかもしれない。
だが、今現在こそが、現実なのだ。後悔ばかりしているとニコルに愛想を尽かされるかもしれない。
「(そうはならなかった。ならなかったんだ。だからもう、諦めるしかないんだ)」
アンジェはくよくよと悩むのをやめ、2人の顔を見る。
本当に、楽しいひと時だった。いつまでもこうしていたいと思えるほど、素晴らしい時間だった。
それでも、終わりは来てしまったのだ。
「授業は……これで終わりだ」
アンジェは焼けそうなほど熱い感情を飲み込みながら、そう告げる。
この居心地がよい場所から離れたくないが、それは甘えというものだ。
ミカエルは残念そうに項垂れ、口を結ぶ。
彼のおかげで良い思い出を作ることができた。魔法使いアンジェの弟子として、いつまでもその名前を忘れずにいたいものだ。彼の方は……大人になっても覚えていてくれるかどうか、まだわからないが。
一方、ジーポントは素早くアンジェの手を握る。自らの心に突き動かされたかのような動作だ。
先程魔力を渡すために腕を伸ばしたからだろうか。そこに注意が向いていたからこそ、真っ先に目についたそれに手が伸びてしまったのだろう。
ジーポントの行動は、まるで黒い霧に包まれた心を晴れ渡らせる、一陣の風のように思えた。
「えっ」
「あっ」
アンジェの丸い手を力強く握り締めた直後、ジーポントはハッとした様子で謝罪の言葉を口にする。
「ごめん。痛かったか?」
彼の言葉は、今のアンジェには届いていない。その行為の意味を考え、受け止めるので精一杯だからだ。
離れてほしくない。ジーポントはそう言っている。アンジェという存在を人生の一部にしたいと、そう思ってくれているのだ。無遠慮に、率直に、その意思を伝えてくれたのだ。
ああ、そうだ。遠慮することなど、何ひとつないではないか。まだ何の責任も負っていない立場なのだから、彼らも、そして自分も、もっと自由に生きて良いのだ。
「(これからすぐに別れるとしても、仲良くなっていいんだ)」
……天啓だった。
「嬉しい」
アンジェは彼のごつごつした手を握り返し、もう片方の手をミカエルに差し出す。
それを見て、すぐさま意を汲んでくれたのだろう。ミカエルは泣きそうな顔でアンジェの手を取り、ジーポントの空いた手を自然に塞ぐ。
3人の輪が、完成する。
欠けたものが塞がった。そんな気配が、輪の内側で揺らめいている。
そう、手遅れではなかったのだ。こんな境遇でも、彼らと出会えたことは、決して無駄ではなかった。
しばらく呆気に取られていたジーポントは、ややあってから、生意気そうな顔ではにかむ。
「ありがとう、アンジェ」
彼に続いて、ミカエルは涙を堪えながら呟く。
「僕からも、ありがとう」
それは魔法を教えてくれたことへのお礼なのか。
いや、それだけではないだろう。もっと広い範囲を指す言葉だ。今なら自然と、そう思える。
「どういたしまして。……えへへ」
感謝したいのは、こちらの方だ。
彼らのおかげで、これからはもう少し、気楽に生きられそうだ。
アンジェは新たな友人たちの記憶に残るように、日光や風を活かして最大限の可愛らしい笑顔を作った。
きっと会心の出来だろう。2人の顔を鏡にして、アンジェはそれを悟った。




