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第21話『生誕、洗礼』

 《ビビアンの世界》


 ああ。苦しい。

 だるい。体が動かない。

 でも当然か。自殺したんだから。

 ちょっと待って。じゃあ今のぼくは?

 おかしいじゃないか。なんで息をしている?


 ……生きている?


「か、はっ!?」


 風邪をひいた老婆のようにか細い声をあげて、ぼくは目を覚ました。……覚ましてしまった。


 どうやらなんらかの事故が起き、死に損なってしまったらしい。まだ状況が飲み込めないが、思考できているという事実がここにある限り、ぼくの生存は確実だ。


「し、ねな、か……た」


 ぼくは喉から水を撒き散らしてぼやく。


 長い間眠っていたからか、太陽の光が眩しい。ぼくは思わず腕で目を覆う。


 ……そして、その動作を経てぼくは気がつく。

 腕が片方なくなっている。右腕しかない。左腕の肩から先が一切ない。

 それだけじゃない。脚もない。両脚がない。太ももの辺りからばっさりとなくなってしまっている。


「な、なん、で」


 思わず衝撃を受ける。

 考えてみれば当たり前のことだ。岩にぶつかって、川に流されて、魔力も残ってなくて……。そんな状態で、何日も何日も経過したんだ。五体満足でいる方がおかしい。


 それでも、四肢の欠損がぼくの心に与えた負荷は大きい。体が思うように動かないというだけで涙が出そうになるのに、見た目まで醜くなってしまったのだから。

 自殺に失敗した者は後遺症を負うことが多いらしいけど、ぼくもそうなってしまったのだ。生きることを放棄した罰、ということだろうか。気力がますます失せてしまうなあ。


 ごめん、ノーグ。何日経ったかわからないけど、待たせてごめん。ここが何処だかわからないけど、お墓の前で眠れなくてごめん。


「……みじめ、だ」


 ぼくは周りを見回して、自分が置かれている状況を確認する。


 ここは何処かの街の近くを流れる川のようだ。川岸が石材によって整備されていて、ぼくはそこに打ち上げられている。

 この川は、ぼくが身を投げた峠の川と繋がっているのだろう。どれほどの下流にあるのかは、さっぱり見当もつかないけれど……水質が変わっているような気がするから、かなり離れているのは間違いないね。


「ひと……」


 遠巻きに人だかりができている。仕草とか表情とかを見るに平民のようだけど、みんな服装が小綺麗で、貧しさを感じさせない。

 ぼくの経験上、ここはかなり裕福な土地だ。旅してきた中でも上位かもしれない。


「たすけが、きちゃうなぁ……」


 有志の人が群衆から現れるかもしれない。これくらいの街なら自警団もいるだろう。そういう類が来る前に死んでしまわないといけない。

 でも川に飛び込んでも助けられちゃうよなあ。どうしよう。


 ぼくは川を覗き込む。

 深さは頼りない。流れも穏やかだ。魚もいない。実に人間が利用しやすい川だ。これじゃあうっかり子供が落ちても死なないね。


 ぼくは水面に映る自分の姿を見て、容姿が変化していることに気がつく。

 一面真っ青だったはずのぼくの髪に、乾いた血のような赤黒い部分が混ざっている。

 瞳の色も変わっている。以前と同じ深海のような青だけど、その中に赤い芯のようなものが見える。


 血の色。それでぼくは、ようやく理解する。


「あの……血、か」


 死ぬ直前に飲んだ、大量の血。それがぼくを生かしたんだ。


 でも、わからないことも多い。それで得られた魔力は大した量じゃない。命を繋ぎとめるにはまったく足りていないはずだ。

 欠損したとはいえ、人の体を保ったまま生きながらえているのは、他にも訳があるに違いない。

 何が原因だろう。考えないと。ちゃんと死ぬためには、それを突き止めないといけない。


「(てっきりノーグの血だと思ったんだけど、違ったのか……?)」


 川のせせらぎを聞きながら首を捻っていると、人だかりが割れて、中から女の人が飛び出してくる。

 上品な服装。高すぎるくらい高い背丈。自信に満ち溢れた表情。作業に向いていない長い髪。そして何より贅沢な化粧。


 間違いない。貴族だ。ノーグとぼくの敵。


「(貴族はぼくとパパを、何度も殺そうとした)」


 貴族の女は派手な杖をぼくに向けて、高らかに声を上げる。


「ああ群青との邂逅、すなわちわたくしの喜び! 命ある限り我が鋼鉄がそなたを繭に包むだろう!」

「は?」


 何を言っているのかさっぱりわからない。同じ言語を使っているはずなのに解読できない。貴族の中でもとりわけ異端なのだろう。貴族どころか人としての道さえ踏み外したような女だ。


 聞き流そう。頭がおかしくなりそうだ。


「天啓こそわたくしの脳を焼く歌なのです! それは定規に似ています! 道が胎動してもなおわたくしの脚を正しくするのです!」


 ぼくは石材の中から尖ったものを見つけ出し、手に取る。

 刃物ほどではないけれど、なかなかいい感じ。これなら死ねそうだ。今のぼくは魔力がすっからかんなはずだし。


「さあ血塗れの群青よ! 時計が今を示す時、我が民の一員となって絨毯を敷くのです!」


 ぼくは適当な地面に石材を埋めて、尖った部分に向けて、全力で、全体重をかけて、首を振り下ろす。

 狙い通り、石が首筋に命中して、ぼくの太い血管がざっくりと両断される。


 ぼくの肉体は人間を模倣しているだけだから、透明な液体しか出ないんだけどね。それでも、今のぼくにとっては致命傷だろう。魔力が失われるわけだし。


「ごぶっ、ご、ごぼっ……」


 どくどくと音を立てて溢れ出る液体。その中にぼくの喉から出た気泡が混ざっていく。傷が気道まで達していたみたいだ。息ができない。

 ああ、もうちょっと楽に死にたかったなあ。痛いのも苦しいのも、あんまり好きじゃない。


「群青っ!? 赤き、赤き海であった!?」


 貴族の女が慌てふためいた様子でぼくに駆け寄ってくる。

 最期に目にするのがこんな意味のわからない狂人だなんて、嫌だなあ。こんなことになるなら、大好きなみんなの前で死にたかったよ。

 今のぼくって、無様だなあ。手足を失って、貴族に絡まれて、こんなに赤い血を流して……。


「(……赤い?)」


 ぼくの傷口から流れ出る血の色は、まさに人間と同じ色。目が覚めるほど鮮やかな赤色だ。

 人間になった……はずがないけれど。普通のアウスじゃ起こり得ない現象が発生しているようだ。


「(ぼくは……何になったんだ?)」


 急激に薄れていく意思の中で、貴族が冷たい腕でぼくを抱き上げているのがわかった。

 断固として拒否したかったけど、ぼくはもうすっかり体温を失っていた。


 さあ、二度目の死だ。ノーグのところへ。


 〜〜〜〜〜


 《ビビアンの世界》


 また目を覚ました。

 狭い部屋の中にある、柔らかい長椅子の上。

 今度はすんなりと、だるさを感じずに起きることができた。体は絶好調のようだ。


 気分は最悪だけどね。


「またかぁ」


 ぼくはまたしても死に損なったみたいだ。

 首の傷は塞がっている。出血していない。魔力もそこそこ残っている気配がする。


「ノーグがいなくなったら、魔力が枯渇するはずなのに……。まさか、自己補完できている?」


 自分で魔力を生み出し、自分の生命維持に充てる。普通の魔物がやっていることを、今のぼくもできるようになっているのかもしれない。

 ……これではいくら待っても死ぬことはできない。死を積極的に求めていかなければ、ノーグとの距離は遠くなるばかりだ。


 そろそろノーグのところに行きたいんだけどなあ。どうしてみんな邪魔するのかなあ。今回助けたのはあの貴族だろうけど、一体何の目的で……。


 まあいいや。まずは状況確認だ。


 今いる部屋は長椅子以外何もない空間だ。狭く、じめじめしており、おまけに暗い。窓が無いのだ。ここで暮らすことは考えられておらず、まるで独房……いや、独房以下だ。


「(死ぬための道具さえ無い。次に行こう)」


 ぼくは殺風景な部屋の扉を開き、次の部屋の様子を見る。

 高価そうな調度品。明るい照明。彫刻が施された木製の扉。

 貴族の屋敷だ。おおかた、あの女が連れてきて治療したんだろう。


 しかし、それにしては学術的で実用的な代物が多く飾られているような気がする。ノーグが持っていた、魔道具を作るための道具ではなかったか、あれらは。ここを使っているのは学者気質の貴族なのだろうか。


「(なんだか、妙に頭が良く回る。大怪我をした後の寝起きなのに。魔力が漲っているからか?)」


 ぼくは周りに誰もいないことを確認して、ずかずかと部屋に入る。

 この部屋なら、自殺に使える道具もあるだろう。それとも、高そうな物を壊したら、護衛がぼくを殺しに来てくれるだろうか。


「(貴族であれ、人に迷惑をかけたら、ノーグは悲しむ……と思う。なるべく穏便に死のう)」


 ぼくは近くにあった灰皿を手に取って、それを放り投げて自分の頭に落下させようとする。重さも硬さも十分だ。あとは投げる高ささえ確保できれば死ねる。


「……投げる?」


 そこまで考えて、ぼくは当たり前のように手足が生えていることに思い至る。


「あれぇ?」


 よく見ると、左腕があるはずの場所に義手が刺さっている。かなり精巧に作られていて、継ぎ目がある点を除けば人間の腕に近い。魔力を注げば自分の腕のように動くものの、液体にはなれない。


 脚も同様だ。金属製の丈夫な魔道具になっている。これほど高度な技術で作られた義足は初めて見た。走ることだってできそうだ。


 また、ぼくの体には服が着せられている。おしゃまな貴族の子供が着るような、華美で高そうな衣装だ。新品ではないようなので、たぶんあの女のおさがりだろう。


「(なんで、ぼくにこんなことを?)」


 ぼくはあくまで、道端で死にかけていた少女に過ぎないはずだ。いくら気まぐれな狂人でも、貴族が平民の人助けなんかするとは思えない。ましてや屋敷にいれて治療するなんて、どう考えてもおかしい。


 それに、そもそもぼくは魔物だ。いつも着ていた目眩しの服が無いから、見る人が見れば人間ではないとすぐにわかる。貴族ともあろう者が検査をしないとは思えないし、魔物とわかってこの魔道具を与えたことになる。


 何か裏があるとしか思えない。貴族は罠を張るのが得意な生き物だから。


 ぼくは警戒心を強めて、辺りを見渡す。魔物が潜む迷宮の中にいると思って、家具の裏や絨毯の下まで注意深く観察する。


 ……そして、ぼくはある事に気がつく。

 死んでしまえば、罠や企みなど無に帰るのだ。貴族連中と遭遇する前に、さっさと死んでしまえばいい。

 そう。つまり、観察など無意味なのだ。即断即決、即行動こそが死への近道。義手義足の意味や服を着せた理由など、死後のぼくには関係ない。


「どうでもいいや。死のう」


 ぼくは右手に持った頑丈な灰皿を高く放り投げて、落下予測地点の真下に頭を置く。

 直撃すれば、ぼくの頭部はぐしゃりとへこむ。人間を模している以上、脳に相当する部位もここに再現されている。砕ければ死に至るだろう。


 ぼくは目を瞑って、自分の頭部が弾け飛ぶ瞬間を待つ。

 即死できるといいなあ。これでまた死に損なったら後遺症が酷いことになりそうだ。死に方を考える知能さえ残らないかもしれない。もしかすると、ノーグとの思い出も……。


 ……ところが、いつまで経っても、死が落ちてくる気配はない。

 落下した音もないのだが、これは一体どういうことだろうか。


「んん?」


 灰皿が天井に引っかかっているのだろうか。そう思って、ぼくは真上を見る。


「ぐんじょおおおぉぉう!」


 天井から貴族の女が降ってきた。片手で灰皿を掴んでいる。受け止められたのか。

 隠し通路らしいものはない。まさか、ずっとぶら下がっていたのか?

 ……出会ってからずっと奇行しかしていないじゃないか、このイカれ女。どうなってるんだ。


「んみいぃっ!?」


 ぼくは義足をもつれさせ、尻餅をついてしまう。

 不意を突かれた。まずい。殺される。そう思って、ぼくは無詠唱の水魔法で足止めをしつつ、更に強力な魔法の詠唱をしようとする。

 戦いの日々で身についた癖だ。敵襲とあらば、すぐに切り替えて反撃できる。


 でも、ぼくはふと我に帰る。


「(……いや、殺してくれるなら別にいいじゃん)」


 ぼくは冷静になって、魔法を唱えるのをやめる。

 戦う理由なんて、ぼくにはもう無いんだ。何が何だかわからないけど、もう好きにしてくれ。


 貴族の女は疾風のように素早くきびきびとした動作で灰皿を所定の位置に戻し、格好つけた動作で杖の先端を床に叩きつけ、大声で狂気を撒き散らす。


「群青っ! そなたの夜は暗いのか!? 否、わたくしの太陽に勝る宵闇は死後の世界のみ! 現世に蝋燭の火を持ち帰り我が懐にて温めてやろう! さあ胃の中身を整列させたまえ!」

「胃の中身? 嘔吐しろってことぉ?」


 貴族は裕福で、様々な文化に触れる機会があるからか、性癖が歪んでいる者が多いらしいと聞く。この狂人ともなるとねじ曲がって大変なことになっているに違いない。少女の吐瀉物に興奮するなど……想像したくない。


 ぼくが扉や窓の位置を確認して逃げる準備をしていると、貴族は慌てふためいた様子で首をブンブン横に振る。


「不正解である! そなたの心臓の鼓動を我に伝達せよと吠えている!」

「は?」


 貴族が心臓を差し出せと命令した直後、その背後から老人が現れて頭を下げる。

 白い髪を丁寧に整えた、ガタイの良い紳士だ。おそらくは執事なのだろう。それも、身辺警護を兼ねた武闘派の側付きだ。


「ビビアン殿。お嬢様は貴女の身を案じ、相談に乗りたいとおっしゃっています」


 通訳をしてくれた。彼がいなければ、その意図はまったく伝わらなかっただろう。


「(まさか名前を把握されてるとはねぇ)」


 ぼくの名前を知っているのは恐ろしいけど、大きな街の貴族だし、青い容姿で気づいたんだろう。

 ティルナとノーグの実家に指名手配されてたし、この国にもぼくの噂が広まっていてもおかしくはない。


 ぼくは表情を偽るのが苦手なので、不快感を隠すことなく顔に出して、素直に言う。


「やだ。ぼくはどうせ死ぬから、お話なんかしたくないなぁ」

「群青……!」


 その群青というのは、ぼくの事を指しているのだろうか。名前を知ってるのになんでそう呼ぶのか。せめてあなたとかお前とかでいいじゃん。


「熱した鉄がわたくしの胸にあります! 深海が如何に寒冷であろうと凍てつくことは皆無! ミストルティア最高の鍛冶屋の実家が深淵の奥底にあろうとも、針金に与することあたわず!」

「は?」

「意見を曲げるつもりはありません。あなたの悲しみを癒したい。とのことです」


 この執事はよくこんな言語を解読できるものだ。きっと長く支えてきた経験の賜物なのだろう。ご苦労なことだ。


 それにしても、どうしてぼくに構うのだろう。ぼくの正体をまだ知らないのだろうか。教えてあげれば殺してもらえるかな。


 ぼくは盗人や厄介な客相手に磨いた凄みのある表情を作って、2人に向けて牽制を仕掛ける。


「ずいぶん無防備に構えてるけど、ぼくが何者か、知ってるのかなぁ?」


 貴族の女は少し怯んだ様子を見せる。

 見かけや態度によらず、割とちょろい。貴族は社交の経験を積むのが普通だから、もう少し脅され慣れているはずなんだけど。


 代わりに老執事の方があからさまな作り笑顔を向けて仕返しをしてくる。


「ニーズヘッグ帝国の宰相の娘、ティルナ。その隠し子だそうですな」

「違う」


 ぼくはノーグの娘だ。ティルナとは関係ない。そちらの実家と結び付けられても困る。貴族の生活なんかしたくないし、貴族だと思われたくもない。


 だが老執事は人の悪そうな笑い声を喉の奥から漏らして告げる。


「では『水底の魔導師』ノーグの子であると?」

「うっ……」


 ぼくにはそれを否定することができない。間接的に身分を肯定することになってしまうけれど、それでもノーグと無関係だと言いたくない。

 こいつらは何処まで情報を得ているのだろう。ティルナはともかく、ノーグは国外ではそんなに有名じゃなかったのに。なんだか身震いがしてきた。


 ぼくはこの期に及んでおろおろしている貴族の女にイラつきながら、老執事の半ばお叱り混じりの言葉を黙って聞く。


「育ちがどうあれ、貴族の血を引く以上、生家から離れることなどできませんよ。どれほど恨みがあろうとも、家柄は貴女の才能なのです」

「ちっ……」


 狂人女はこちらを油断させるための囮であり、彼こそが真の貴族なのではないだろうか。そう思えてくる立ち振る舞いだ。

 貴族の跡継ぎがボンクラの場合、家来の方がしっかりしている事が多いと聞く。こいつらの関係もそういうことだろう。女は脳みそを母親のお腹の中にでも置き忘れていて、執事が倍働く事で肩代わりしているのだ。


「(クソが。もうどうにでもなれ)」


 ぼくは有能な老人の嫌がらせに歯軋りをしながら、とうとう我慢できずに真実を打ち明けてしまう。


「知らない。ぼくは血を引いてない」

「おやそうでしたか。では、やはり魔物であると?」

「そうだよ。……やっぱ知ってたんだね」

「ふむ。技師の証言通りとは驚きましたな。半信半疑でしたが、なるほど……。自死を選ぶ魔物など、聞いた事もない……」


 ぼくに義肢をつけた職人から、魔物であると報告されていたらしい。やっぱりわかる人にはすぐわかるものなんだなあ。


 老執事は黙り、何かを考えている。

 ぼくをこれからどう扱うか。いや、それは既に考えてあるだろう。襲われる危険もあって、それを飲み込んでここに来ただろうに、今更何を迷っているのかわからない。


 代わりに狂人の方が目を爛々と輝かせてぼくに詰め寄り、今まで以上に強い圧力をかけてくる。


「この偶然こそ僥倖(ぎょうこう)と表現せざるを得ませんわね! わたくしの常ならぬ才智により沸騰する大河がこんなにも近郊で巣作りしていたとはご先祖さまも新年をお祝いしてしまいますわ!」

「は?」


 喜んでいることだけは伝わる。が、感情を他者に伝えることくらい赤ん坊でもできる。それに意味のある言語が伴う事で、初めて共感や反感が生まれるのだ。貴族の女の発言に対して、もはや何の感情を湧いてこない。

 どんな家庭教師をつければこんな口だけは回るアホが生まれるのだろう。不思議でならない。


 狂人は何かを決意したようなそうでもないような笑みを浮かべ、口を喉の奥まで見えるほど大きく開いて叫ぶ。


「群青よ、貨幣すら瞬きする我が秘奥を観測し雷鳴を轟かすが良い!」

「なっ!?」


 慌てた様子で止めに入る老執事。ぼくにはわからないけど、何かまずいことでも言ったのだろうか。

 それとも、これから何かしでかすつもりだと宣言したのか。


「戦闘? いいよ。かかってこい」


 狂人は木の枝が折れるような不審な音を立てつつ、背中側にある紐をとんでもない早さでほどき、分厚い布で覆われた体を曝け出す。


 ……えっ、いま、服を全部脱いだ? 

 狂人は狂人でも、露出狂だったの?


「お嬢様!」


 老執事がぼくと狂人の間に割り込む。見せないように手足を広げて、包み隠そうとしている。

 それでも、ぼくは狂人の秘密を見てしまう。貴族らしい衣装で取り繕ったその中身に、触れてしまう。


 そこには、魔道具がある。

 ぼくが現在身につけているような、魔道具。それが彼女の全てだ。

 四肢は勿論、胴体も艶のある金属製だ。胸も腹も股さえも、全てが魔道具。異様な姿ではあるけど、ここまで高度な技術を見せられると、むしろ芸術的な美を感じてしまう。感動的でさえある。


「おお……」


 ぼくもノーグの影響で魔道具に長く触れてきたからよくわかる。これは神がかった代物だ。世界中のどの職人、どの魔導師、どの王族に見せても手放しで賞賛される大傑作だ。

 よく見ると、布製の首輪のような装飾具の下にも、金属らしい輝きが見て取れる。まさか首から上も魔道具なのか。


 狂人は舌をぺろりと出してお茶目な態度を取る。

 人間じみた、親しみに満ち溢れた仕草。

 よく見ると舌も唇も人工物だ。魔道具に慣れていなければ本物と見分けがつかないほど、凄まじく精巧ではあるけれど。


「これぞわたくし。全身の滑る煌めきが艱難辛苦を跳ね返し、脳髄のみが飢餓を訴える! 鮮血すら聖水なれば、我が身こそ誉れ高き聖人なり!」

「は?」

「……私は全身が魔道具で脳だけがそのままです。という意味です」


 ため息を吐きながら解説する老執事。


 彼女には脳だけしか残っていないのか。人間の姿を捨てていないということは、人間のままでいたかったのだろうに。

 ちょっと、可哀想だな。貴族だし、同情されるのは嫌かもしれないけど。もしかして、ぼくを見て同類だと思ったのかな。


「(今のぼくも、体の大半を失っている……)」


 ぼくはわざわざ体を晒してくれた彼女に向けて、偉い人に向けるべき畏敬を込めた挨拶をする。

 敬語は苦手だし、貴族と話すのはもっと苦手だ。でもこの人には失礼なことをしたから、謝らなければいけない。意外と骨のある人物だったし。


「数々の非礼をお詫び申し上げます」

「群青。不要なからくりを口ずさむなよ」

「は?」


 不要な言葉ばかり言っている自分を棚に上げ、狂人は裸体を隠すことすらせず、腰まで届く長い赤髪を振り回し、堂々とした動作で格好をつける。


「我は人呼んで『一種物(いっすもの)辺境伯』。名をニーナ! 群青よ、我が意の元に謳歌せよ!」

「正式名はニーナ・フォン・ピクトでございます」


 老執事は彼女の体を隠すことを諦めて、彼女の義眼よりずっと生気のない目でそう答える。


 それよりも……そう、家名のピクト。

 そうか、ここはミストルティア王国のピクト領か。

 魔王がいるとされる暗黒の谷。そこに一番近い人の領域。人間が暮らす世界の、最前線。


「(魔王のすぐそばじゃないか)」


 ぼくはどうやら、とんでもないところに流れ着いてしまったみたいだ。


「……ビビアンです。()()()()()()()()()()


 ぼくはそう名乗りつつ、とりあえず、この人たちの恩に免じて、もう数日だけ生きてみることにした。

 信頼を得て戦場に出されるようになれば、きっと人の役に立ちながら死ねるはずだ。そう思ったから。


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