第20話『新しい朝』
ビビアンの投身自殺から少しだけ時が経ち、アンジェは周囲の様子を見るだけの理性を取り戻した。
ミカエルは両親に抱かれ、目を塞がれている。子供に見せてはいけないものだと判断したのだろうが、もはや遅い。ミカエルは彼女の死を直視した後だ。
ジーポントは膝を抱えて何事かをぶつぶつと呟いている。
耳をすませば「なんで飛び降りた? そんなことしたら怪我するだろ」という内容が聞こえてくる。
身近にいる人物が死んだという事実を受け止めきれないのだろう。彼の両親は根気強く彼に付き合い、どうにか励まそうと……あるいは事実から目を背けさせようと、言葉をかけ続けている。
ニコルは両腕を広げて大地に横たわっている。川に飛び込む気はないが、ビビアンを諦めてこの場を離れることもできない。そんな様子だ。
四散していく彼女の体を最も近くで目の当たりにしたのだから、さぞ無念だろう。アンジェもその気持ちはよくわかる。
「(谷底を埋められるくらい巨大な土壁を作れていたら。あの子を飛ばすほどの風を生み出せていたら。川の流れを変えるほどの水流を操れていたら。結果は違ったはずだ)」
アンジェは無力だったのだ。自ら死にいく者を救えない、弱者だったのだ。
人を救うのが英雄なら、目の前の小さな命ひとつ守れないアンジェはなんだというのだ。シュンカを倒して良い気になっているだけの愚者ではないか。
誰もが嘆き、悲しんでいる中、村長は一行を指揮する者として音頭を取ろうとする。
木々から鳥が逃げるほどの大声で、地に伏せる村人たちに発破をかける。
「ビビアンの死は、もはや隠し通せまい。だが彼女の存在を村に紛れ込んだ魔物として処理するか、人間の少女のまま終わらせるかは、我々の判断に委ねられている。目を開き、声を上げよ!」
この場にいる村人は、10人にも満たない。そのうえ生前のビビアンをよく知る者たちだ。
皆が黙ってさえいれば、人としてのビビアンは保たれる。彼女は尊厳を保って死ぬことが許される。
村長の言葉を聞いたジーポントが顔を上げて、負けじと声を張り上げる。
「ビーは人間だ!」
喉が張り裂けそうなほど、力強い声だ。
彼はビビアンという少女が悪し様に言われることを一切許さず、声を大にして主張する。
「全員見ただろう、葬式やってる時のあいつを! いつもぼんやりしてるのに、ずっとずっと真面目な顔して、正面見て、つらそうにしてただろう!?」
ジーポントは己の胸にあるものを全て曝け出し、彼女の存在を保証する。
「今日だけじゃない! 昔のあいつだって散々見てきただろう!? 変なことして面白がってるあいつを、俺たちと一緒にゲラゲラ笑ってるあいつを、近所のおばさんに叱られてふてくされてるあいつを、近くで見てきたじゃないか! オレもエルも、みんなだって、あいつのことが大好きだったじゃないか!」
その後、彼はむせて呼吸を荒くする。無理をして叫び続けたため、息が苦しくなったらしい。
その代わりに、今度はミカエルが挫いた足を庇いながら村長に近づく。
刺すような眼差しだ。何年もかけて培ってきた少女との思い出を、穢されたくない。誰が何と言おうと、この意志を絶対に曲げるものか。そんな心の内が露わになっている。
「僕からもお願いします。ビビアンは人間です。ノーグさんの娘さんです。そういうことにしてください」
村長を見て、彼の両親を含む村人たちを見て、ミカエルは頭を下げる。
我を通すための、彼なりのやり方だろう。ジーポントのように言葉で殴ることはできないが、自らの道理があることを示せば、これを聞いた者たちを揺さぶることができる。
「他に、主張する者は?」
村長が促せど、対抗する者は現れなかった。
「なら、決まりだ。あの子は最期まで人間だった」
満場一致でビビアンを人間として扱うことが決まった。
あるいは、元から誰一人として、彼女を魔物として排除しようとする者などいなかったのかもしれない。
彼らは魔物に対する敵意が強い村の住民で、仲間を魔物に殺されたばかり。
だというのに、その手で魔物を擁護するのは……ビビアンが人間として生きた、何よりの証拠であった。
〜〜〜〜〜
アンジェたちは身を投げたビビアンの姿を脳裏に焼きつけたまま、力なく村への帰路についた。
勝手を知った山道だが、やけに景色が色褪せて見える。勾配はさほどでもないというのに、いつもより足取りが重い。
何人もの人間が列を成しているというのに、誰も言葉を交わそうとしない。表情は暗く、口は一文字に結ばれたまま閉ざされている。
葬式の最中にもうひとり死人が出てしまったのだ。世間話など、できたものではない。
アンジェは知識の海で得た内容を整理しつつ、ビビアンという少女の正体について理解を深める。
「(落ちていくあの子を見て、わかった。あれは確かに、悪魔ではなく魔物だ。水の魔物、アウスだ)」
アウスは水に擬態する魔物であり、通常は知能を持たず、漂うように生きている。水中から魔力を得て、細々と生きるだけのか弱い存在だ。
だが死んで間もない生物の屍を取り込んだ状態で、特殊な魔法を付与されることで事情が変わる。死骸の脳や体を流用することで、知能と肉体を得るのだ。
そうして強力になった個体は、主に繁殖のために精力的に活動し始める。取り込んだ生物に成りすまして子供を作り、二代か三代ほど経過した後に、寿命で死ぬ。
そして死と同時に、初代の水が入り込んだ子孫たちの肉体全てを水に還してしまうのだ。
要は時間差での大量虐殺である。人間に紛れ込んだら、大量死で社会が立ち行かなくなる可能性もある。恐ろしいことだ。
とはいえ、魔法をかけた者が定期的に魔力を注ぎ続けなければ体が崩れてしまうため、そううまくはいかない。故に悪魔たちにも滅多に悪用されず、人の世界においては水と間違えやすいだけの雑魚として記録されている。
それこそがアウス。人間からは『偽蛭』または『赤子を啜るもの』。悪魔からは『水の子供』と呼ばれている魔物だ。
アウスが人間に変化したという前例は、アンジェの知識には存在しないが……ビビアンが相当に稀な、例外的な存在だったのだろう。
あのままマーズ村で暮らし、人間として生き、子供を作っていたら……どれほどの不幸を招いたことだろうか。想像を絶する大惨事となっただろう。
もしかすると、魔王を村に招いた原因は彼女にあったのかもしれないとさえ思えてくる。存在そのものが社会に対する猛毒なのだから。
「(知識の海から得た情報だけだと、そう判断するしかない。でも、オレは……ビビアンと直に接したオレは……本心からはそう思えていない)」
ビビアンは確かに、人間だった。シュンカに復讐しようとした彼女の姿は、本物の人間だった。
彼女が自分の身の上についてどの程度理解していたのかはわからない。将来的に自分の孫やひ孫たちが悲劇に見舞われるとは、思っていなかっただろう。
魔王ともおそらく無関係だ。魔王は詳細不明の悪魔だが、魔物をそれとなく操って人間の村を襲わせるような繊細さは持ち合わせていないはずだ。嵐のように襲いかかり、塵ひとつ残さず去っていく。それが魔王だ。
つまるところ、アンジェはビビアンを憎むことができていない。存在そのものが危険ではあるが、あらゆる事件は証拠不十分か、未遂に終わったのだ。
アンジェ自身が悪魔であるという事実もまた、彼女に対する肩入れを助長している。
「(一方でシュンカを殺し、一方でビビアンを守ろうとする。それはオレの我儘だ。見た目が良くて、情が湧いてしまったから、そうしているだけだ。あいつは魔物なんだ。敵なんだ)」
そう理解していても、胸の罪悪感は消えない。
自ら死を選んだ彼女の姿が、まぶたの裏から離れない。
彼女を人間として認めた、村人たちの決意も。
「(言わないでおこう。みんなのためにも。これはもう、終わったことだから)」
今更ビビアンを、悪に貶めたくはなかった。
〜〜〜〜〜
一同はマーズ村の近くまで来た。
門が見える。門番もいる。いつもの光景だ。
もはや見慣れた彼の姿を見て、ようやくアンジェは安堵する。
「帰ってきた……」
いつのまにかマーズ村を見てそう思うようになっている自分に驚きつつ、アンジェは確かな安息を噛み締める。
村長は代表者として事態を門番の男に告げ、疲れ切った顔で村の自宅へと戻る。
ビビアンの死について聞いたらしい門番は、驚愕して後ろの面々に何かを捲し立てるが、誰が彼にそっけない返事をする。
当然だ。人の死という精神的な重荷を背負って山道を歩き、ここまで帰ってきたのだ。誰もが自宅に戻ってゆっくり休みたいのだ。
困惑しておろおろする門番を無視して、一同は解散し、それぞれの家に戻っていった。
彼には気の毒だが、この後村に情報を流布する役目などを任せられることになるだろう。
村長はまだ村の代表者たちを集めて、これから緊急会議を行わなければならない。今日1日の彼の仕事量を思うと、彼には頭が上がらない。
「(ごめん、みんな。まだまだやることがあるはずだけど、オレはもう限界だ)」
魔法をあっさり防いでみせたビビアンに対する敗北感。そんなビビアンを救えなかった無力感。知識の海に潜り過ぎたことによる疲労感。
今のアンジェは、全身が鉛の塊になったかのような感覚で、足を引きずりながら動いている状態だ。
アンジェだけではない。ニコルもそうだ。ビビアンの自殺以降、彼女の様子はいつにも増しておかしい。たまに心の弱さを覗かせることはあったが、今回はこれまで以上に堪えているように見える。氷のような目を伏せ、背筋を曲げ、周囲の全てに申し訳なさそうにしながら、村を通過している。
そんなニコルの様子を気にしているうちに、宿に着いた。
2人は荷物を置き、溜まった洗濯物を魔法で洗って物干し竿にかけ、そして……。
2人揃って、藁布団に飛び込む。
「あ゛ー……もう嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だあ!」
アンジェは年相応の子供のような仕草で駄々をこねる。
おもちゃを欲しがる幼児のように、両腕を大きく振りまわし、脚をばたつかせている。
だがその心中は、子供ではおおよそ経験するはずがない苦しみに満ちている。弾けて死んだビビアンの最期を直視したことにより、アース村の惨劇を連想させられたアンジェは、もはやまともな思考をすることすら放棄したがっているのだ。
それを察しているのかいないのか、ニコルはぼんやりとおざなりな答えを返す。
「……うん。そうだね」
ニコルもまた、疲れているのだろう。声にも表情にも張りがない。
アンジェは少しだけ知性を活性化させ、幼馴染のためにまともな判断をすることにする。
「もう寝てもいいと思うよ。村長たちはこれからまた忙しくなるけど、オレは寝る。疲れちゃったから」
「悲しくは、ない?」
ニコルはまだ、話していたいらしい。今日起きた出来事を整理してしまいたいらしい。
アンジェは今ろくな判断ができる気がしないので、頭を使うことは明日の朝にでも回して、万全な状態で改めて嘆き、悲しみ、ビビアンのことを理解したいと思っていたのだが……。
ニコルの頼みなら、仕方ない。もう少しだけ起きていよう。
「悲しいよ。でも、今はそれどころじゃない。悲しんであげられない。頭が回らなくて」
アンジェは藁布団に頭を突っ込んだまま、正直にそう告げる。
もうこのまま一歩も動きたくないが、顔をニコルの方に向けて、手を伸ばすくらいはできる。ニコルが寂しがっていたら、そうしてあげよう。
ニコルは日光が届かない部屋の隅で膝を抱えて、アンジェをじっと見つめている。
白い髪の美しい少女が暗がりに身を潜めていると、まるで亡霊のようで背筋がゾクゾクする。
今のアンジェは少女だ。ニコルから少女らしい所作を学ぶべきなのではないだろうか。そうすれば、あのような美しい存在に近づけるかもしれない。
「(やっぱり疲れてるせいで思考がブレる……人が死んでるのに、何考えてるんだオレは……)」
アンジェは言い淀んでいるニコルを待ちながら、襲ってくる眠気に耐える。
「アンジェは、私が死んだらどう思う?」
そう言って、ニコルは至極真面目な目つきでアンジェのそばに歩み寄る。
〜〜〜〜〜
《ニコルの世界》
私はアンジェが死んだ後、自分がどんな行動に出るかずっと考えてきた。
アンジェの死体を残さず食べるつもりだった。アンジェの亡骸を、冷たい地の底に埋めたくなんかなかったから。炎に巻かれて消えていくのも、見たくなかったから。
そうした後、自分にできる限りの苦しみを与えて、拷問に拷問を重ねた末に死ぬつもりだった。
楽に死んだらアース村のみんなに申し訳ないから。アンジェがいない世界で、生きていたくなんかないから。
でも、ビビアンの死を前にして、私は動揺した。あの子の気持ちを理解していたはずなのに、止めようとしてしまった。
彼女は素敵な人だった。ノーグさんの話を自慢げにしている彼女はとても可愛らしかった。たまにしてくる悪戯も、彼女なりの会話だとわかっていたから、微笑ましく思っていた。そのうちアンジェとも仲良くなってほしいと、常々思っていた。
死んでほしいだなんて、思えるわけがない。だから私は、そんな彼女の死を拒んでしまった。
今の私は、少しだけ揺らいでいる。
「アンジェは、私が死んだらどう思う?」
シュンカの親玉と戦った後みたいに疲労しているアンジェ。ぐったりと眠そうにしているアンジェ。
彼女に向けて、私は身勝手にも質問をしてしまう。
寝かせてあげるべきなのに。アンジェだってつらいんだから、ゆっくり寝かせて、少しでも心を癒してあげるべきなのに……私の個人的な感情に付き合わせている。
でもアンジェは、まったく嫌そうな顔をしないで、布団に顔を埋めたまま、私の言葉に向き合ってくれている。
ああ、可愛い。ああやって布にくるまっているとお人形さんみたいに見えてくる。いや、違う。アンジェは柔らかいから、きっとぬいぐるみだ。そっちの方が近い。
……私は一体何を考えているんだろう。アンジェがは真剣に相手してくれているのに。
「ニコルが死んだら、しばらくは何も手につかないと思う」
悩んだ末に、アンジェはそう答えた。
しばらく、ということは、それからも生きるつもりがあるということかな。私とは違うみたいだ。
「後を追って死んだりは、しない?」
なんとなく尋ねると、アンジェは何を勘違いしたのか、慈悲深い聖女さまのような笑顔になって、私に手を伸ばして膝を撫でてくる。
「大丈夫だよ。心配しないで。オレはニコルの分までちゃんと生きて、世界史にアンジェとニコルの名前を残すからね」
アンジェはかなり壮大な夢を抱えていた。
……てっきりアンジェは、小さな村の中で生きていたい人だと思っていたんだけど。実は違ったのだろうか。
私がそう思っていると、アンジェは照れ臭そうに慌てて弁解を始める。
「あ、ちょっと大袈裟な表現だったかも。別に世界を征服したいとか、そういう意味じゃなくて。ただ長生きして、色んな人にニコルという素晴らしい女性がいたことを語っていきたいって、そう思っただけ」
それでも、私の予想からは大幅に外れている。
アンジェは内気で人見知りだから、誰とも会話せずに、思い出を抱いてひっそりと生涯を終えると思っていた。
もしくは、私みたいにすぐ命を絶ってしまうか。そのどちらかだろうと踏んでいた。
どちらでもないというのは、私にとっては驚きだ。もしかすると、知識の海がアンジェを心変わりさせたのかもしれない。
アンジェは床の方を向いて、寝る体勢に入りながら喋る。
「ニコルは凄い人なのに、今死んだらその名前が誰にも知られないまま消えていっちゃうじゃん。それがどうにも我慢ならなくてさ」
「別に、いいのに」
「まあ、オレが死んでも、オレの名前は残さなくていいよ。ニコルはニコルの好きに生きてほしい」
「生きてほしい、か」
言われてしまった。死んではならないと、釘を刺されてしまった。
私が死んだら悲しむ人はいるんだろうか。ジーポントとミカエルはしばらく引きずりそうだ。
……他には思い当たる節がない。知り合いはそんなに多くない。みんな死んじゃったし。
正直それくらいなら、まだ生きるための楔にはならないかな。彼らを悲しませてでも、私は死を選ぶと思う。
アンジェは私に死んで欲しくないみたいだけど、当のアンジェがいなくなってしまったら、その意思を守りきれる気がしない。
あんなことがあってもまだ、私は自分の死を肯定している。死にたいと思っている。
私にビビアンほどの価値はないから。薄汚い田舎娘で、煩悩まみれの肉欲狂いで、今は魔物の更に上位に位置する大悪、悪魔だから。人間に害を及ぼすこの世の病魔だから。
でも今回の件で、周りが死のうとしたら止めに入るだけの倫理観はまだ残されていると認識できた。
私はまだ、狂い切ってはいない。周りに死を強制するほど身勝手じゃない。
次にビビアンのような子がいたら、ちゃんと助けてあげよう。悩みを聞いて、力の限り解決を目指してあげよう。絶対に、死には導かない。
「(私は悪魔に染まり切ったりしない……。絶対)」
そんなことを考えているうちに、アンジェはすっかり眠りに落ちてしまっていた。
小動物の鳴き声のような、庇護欲を掻き立てられる寝息。もちもちした頬。閉じられたまぶた。ああ、愛らしい。
私は心も体も疲れ切っているはずなのに、下半身が疼くのを止められない。
友人が死んだ日に、こんなことをするなんて。人でなし。最低。最悪。……悪魔。
でも止められない。やりたい。したい。壊れてしまいたい。
隣で眠っている柔らかい毒を、私はゆっくりと摂取する。
〜〜〜〜〜
アンジェは重いまぶたをうっすらと開いて、意識を取り戻す。
だが、起き上がるだけの気力が湧いてこない。沼の底に沈んでいくかのような気だるさに身を任せ、もう少しだけ眠っていたい。時間が許す限り、このまま力なく横たわっていたい。
アンジェはそう思いつつも、いつもニコルがいる右隣をつい確認してしまう。右手の指を咥えているかどうか見てしまう。
いつもの癖だ。ニコルがそばに居るなら、そちらを見ていないと安らぐことができない。中毒だ。
相変わらず、ニコルの薄く色づいた唇が、綺麗に整列した白い歯が、長い舌が、アンジェの指を捕らえている。また指をしゃぶりながら寝ているのだ。
今回は指の付け根まで唾でドロドロだ。だんだんと奥深くまで咥え込むようになっている。順調に悪化していると言えるだろう。
アンジェはもはや手慣れた動作でゆっくりと指を引き抜き、水の魔法で洗浄しようとする。
だが、構築された水の球を見てビビアンを連想し、途中で詠唱を止めてしまう。
「……あっ」
中途半端な量の水が溢れ、アンジェの足元を濡らす。
落下する水の塊。弾ける水滴。まるで、あの時の。
……もう一度水を呼び出す気にはなれない。
「どうしよう」
アンジェは混乱しつつ、唾液まみれの指を眺める。
ニコルの唾液。朝日に照らされた、透明な液体。目を奪われるほど大量の体液。
「(ニコルはオレが死んだら、食べるんだっけ。わからないなあ)」
アンジェには共感できない思想だ。相手の肉体を自分の腹の中に入れてしまうなど、肉食動物と大差ないではないか。親しくしていた相手を肉に変えるなど、死者への冒涜だ。
それでも、そうした食人信仰が世界各地に存在していることは事実だ。ニコルがおかしいのではない。自分が偏屈なだけだ。
……これがその予行練習だとは、思いたくない。
ニコルが指を舐めているのは、単なる癖だ。口が寂しいからなんとなく入れてしまっているだけだ。
あるいは……口付けのような愛情表現だ。そう思いたい。……そう思い込みたい。
それなら、納得できる。アンジェの中にも、それはある。そうしたいと、思える。
「(舐めるだけなら……わかるんだけどなあ)」
まだ半ば眠りの中にあるアンジェは、とろけた本能が導くままに、濡れた指を咥え、涎を舐めとる。
上書きをするように。自分の中にある愛の形で、塗り替えるように。付け根から爪まで、なぶるように。
男としての自分が死んだあの日の口付けを、思い出しながら。ニコルの口内にあった液体を、味わう。
「んっ……んん……はあ……」
指先が前歯の裏側を触り、舌の奥を触り、頬の内側を撫でで戻ってくる。
熱を帯びた息が、喉の奥から溢れ出す。
口の端からアンジェの涎が垂れ、顎まで伸びて滴り落ちる。
本末転倒だ。洗い流すつもりだったというのに。
「汚れちゃった……」
アンジェは我に帰り、指を引き抜く。
指と舌の間に唾液の橋がかかり、すぐに重みで落ちていく。
始末に困るが、とりあえず布で拭くことにしよう。
そうだ、最初からこうすればよかったのだ。一体何をやっているのだろう。
「(それか、ニコルの口に戻すとか……いやいやないない。そんなの健全じゃない)」
アンジェは適当な布で濡れた指を拭いながら、何か熱いものが洪水のように胸の内に満ちていくのを感じた。
それは……目覚めのようだった。




