第2話『少年と少女の試練』
アンジェは悪魔の手によって身長と体重を測られながら、ニコルの青い瞳を見つめている。
周囲の光景に目を向けたくない。美しいものだけを見ていたい。すなわち、現実逃避だ。
名残惜しい。もっと早く結ばれていればよかった。
口付けの先にある愛の形をアンジェは知らないが、それでも……ニコルと共にあることを、拒むはずがない。そう確信しているのだ。
「大球1、中球1、小球5。体重……」
材質不明の物体を押し付けながら、悪魔は淡々と手持ちの紙に情報を書き込んでいく。
指揮をとっているのは、金属の体を持つ悪魔と、霧のように漂う悪魔。どちらも正体が掴めない。こんな奴らを相手にどうすればいいのか、アンジェにはさっぱりわからない。
その後、一通りの問答を終え、アンジェは一度解放される。
質問の内容は他の人々とほぼ同じであった。ただ髪と瞳の色について尋ねられた点は、少し気がかりだ。何の意味があったのかわからない。わからないからこそ不気味で、不安で、気持ち悪い。
続くニコルもまた、測定と質問を受ける。手で体を隠すことができず、恥ずかしそうにしている。
……アンジェは彼女の体を隠そうと動くが、悪魔によって止められる。尊厳も何もあったものではない。
「大球1、中球4、小球7……」
そして、やはりニコルも髪と瞳の色について質問される。
魔王たちの目からしても、この色は珍しいのだろうか。2人はまったく同時にそう考え、お互いの髪をまじまじと眺める。
どうにかして活路を見出そうという儚い試みだ。自分たちに魔王の価値になるような何かがあれば、命乞いができるかもしれない。そう期待して。
「珍しい髪が欲しいのかな……。差し出したら許してくれないかな……?」
「それが目的なら、とっくに刈り取ってるはずだ」
すると、2人の視界から外れた何処かで、凄まじい音が鳴り響く。
「あ、あぎ、ギャアア!」
「……何?」
それが人間の叫び声だと、認識できなかった。野生の獣か、血に飢えた悪魔か、あるいは悪魔が飼っている魔物か。理性を持つ生物の声とはかけ離れているように感じられたのだ。
だが、それは間違いなく人間の……見知った村人の声だった。
アンジェが弾かれたように声の方を見ると、端にいた男が、新たに現れた悪魔に何かをされ……悲鳴を上げている。
村の隅に住む木こりの男だ。集会でたまに顔を見かけることがあった。温厚だが力が強く、頼りにされていた男……。
そんな彼が、叫んでいる。理性のない獣のように。
「あ、が、ご、ゴアアアアア!」
男の顔がみるみるうちに膨れ上がり、弾け飛び、血肉を周囲に撒き散らす。
泡か何かのように、人の頭部があっさりと吹き飛んでいく。
「えっ」
続けて連鎖的に爆発していく首、胸、腕、腹。
彼の肉体が、命が、失われていく。遺言すら言い残せず、遺骨さえも消えていく。
アンジェはガタガタと歯を鳴らす。
震えが止まらない。叫ぶことさえできない。目の前の現実を受け止めきれない。夢であって欲しい。
「あなた、あなたあぁぁ!」
その男の妻が、半狂乱となって駆け寄る。
何事かを叫びながら、錯乱し、飛散した肉片をかき集めている。
もはや助かる見込みなど無い。しかし、それを判断できる理性が残っていない。
金属の悪魔が、彼女の肩を叩く。
「試薬1番、第2試験か」
肩を叩いたのではない。何かを投与したのだ。悪魔が手に持っている禍々しい瓶。底に円錐がついた、薬入りの瓶。それを彼女の首筋に突き刺したのだ。
そう気づいたのは、その女性の頭部も爆散した時だった。
〜〜〜〜〜
更に何人かが犠牲になる頃には、阿鼻叫喚。もはや誰一人、正気を保ってはいなかった。
自ら眼球に手を突っ込んで自害を試みる者。自暴自棄になり、睦言を囁き合う夫婦。悪魔に挑み、魔法の杭で拘束される少年。
思い思いの形で、皆が発狂していた。平和で温かいアース村は、とっくに消えていた。
アンジェは今、頭を抱えてうずくまっている。
干からびた芋虫のように丸くなって、目と耳を塞いで、必死に現実から目を背けている。
それで助かるわけではない。ただ、最期の時まで人間でありたいという理性的な願望が、アンジェの発狂をぎりぎりのところで妨げているのだ。
ニコルはそんなアンジェを抱きしめている。何も言わずに、強く、ただ強く、その腕で抱いている。自分自身よりも、彼の命が失われてしまうことを恐れている。
ニコルの母親は、既に死んだ。以前の穏やかな姿からは想像もつかないような汚い罵声を悪魔に浴びせ、魔法で拘束されても尚暴れたため、順番を飛ばして投薬されてしまったのだ。
破裂こそしなかったが、全身が膨らんだまま残り、見るも無惨な死に様であった。
……そして、彼女の死を悼む暇もなく、ニコルの番が来てしまった。
「アンジェ……やだよお……まだ一緒にいたい……」
涙と鼻水でくしゃくしゃになったニコル。死の寸前まで幼馴染に縋るニコル。
助けを求める彼女を見て、アンジェの中の怯えが、瞬時にして吹き飛ぶ。
無駄な足掻き。それでも、やるしかない。やらねばならない。
アンジェは起き上がり、鋼の悪魔の脚に抱きつき、転倒させようと必死に揺さぶる。
びくともしない。大木を揺らすより手応えがない。倒せる気がしない。
それでも、どんな大木でも、揺らせば葉が落ちるのだ。相手が悪魔だろうと、抱えている少女を取り落とすことくらいあるはずだ。生物なのだから、完璧であるはずがない。そんな一縷の望みに懸けて、アンジェは尚も抵抗を続ける。
「離せ……。ニコルを離せ!」
「コイツは……試薬2番だな」
悪魔は先程までとは違う不気味な色合いの液体を、何もない空中から取り出す。
紫。いや、赤。あるいは藍色、黒、銀……。
知識のないアンジェの目にも、それが破裂する薬とは比べ物にならないほど危険な効能を持つことがはっきりわかる。
そんなものをニコルに与えるわけにはいかない。
死んでしまう。いなくなってしまう。大切なニコルが。生まれた時からそばにいる、姉であり、親友であり、そしてきっと、将来の伴侶である女性が。
アンジェは飛び上がり、ただがむしゃらに、悪魔に殴りかかる。
薬を取り落としてはくれないか。間違って、悪魔自身に薬がかかってはくれないか。そう願い、戦う。
「やらせてたまるか……。ニコルの人生を台無しにはさせない……!」
「アンジェ……。アンジェ……!」
ニコルが、アンジェに向けて手を伸ばそうとしている。あらゆる恥じらいを投げ捨てた表情で、助けを求めている。
アンジェはそれに気がつき、殴るのをやめ、咄嗟にその手を取ろうとして……。
「邪魔ダ」
悪魔の腕に、阻まれる。
固く冷たい剛腕。アンジェの胴より太い壁。
アンジェは顔面を強打し、落下する。
「さっさとヤッちまうか」
何の感慨もない声と共に、ニコルの首に鋭い硝子が突き刺さり……薬が、投与されてしまう。
「アン、ジェ……」
「に、こ……」
次の瞬間、アンジェは空中で悪魔に捕えられる。
金属の悪魔。その肩に、伝令役と思われるネズミが飛び乗り、何かを告げる。
「コイツは試薬3番? ヘえ……。ナマイキだな」
また薬の番号が変わっている。取り出された瓶も、違う色をしている。
しかしその情報を、アンジェの脳は拒む。ニコルの行く末を、目に焼き付けるので精一杯だ。
ニコルは絶叫している。魂が削り取られているかのような、苦痛に満ちた、救いの無い、絶叫。
「アンジェ、アンジェ! やだ……嫌だ!」
ニコルの白く美しい肌が、ぼこぼこと、沸騰した湯のように、荒れている。荒れ狂っている。波打ち、盛り上がり、そして……
「死にたくない!」
それが最期の言葉となった。
ニコルの全身から、人間には無いはずの部位が飛び出てくる。
魔物や、悪魔、そして魔王の体に生えているような……おぞましい部位が。
アンジェの脳は、ただ呆然と、しかし確実に、その光景を記憶していく。
眼窩から腕が生えてくる。口から尻尾が伸びている。爪が弾け飛び、細かい翼が生え始める。鋭い爪が、鱗のように皮膚を覆う。筋肉が山のように積み重なっていく。皮膚を破って骨が突き出て、塔のようにそびえ立つ。眼球が、あの美しい青い瞳が、白い髪の隙間から……
冒涜。あれはあらゆる命に対する冒涜だ。
命を何だと思っているのだ。
「ニコル……ごめん……オレは……」
悪虐非道の魔の手から、ついに逃がすことができなかった。その後悔と絶望が、アンジェの心を埋め尽くす。
自分は無能だ。大事な人も両親も、誰も守れない恥さらし。
ああ、どうか願わくば……。
「魔王……。お前なんか、死んでしまえ……!」
怨嗟にうめくアンジェの首筋に、未知の薬物が流れ込む。
〜〜〜〜〜
アンジェは激痛の中で夢を見た。
深い川の中にいるような、夢。暗く、冷たく、何もできず、流されていく。
その底に、何か、動くものがあった。
手だ。無数の手だ。
青白い、細長い、関節がない、それでも人間のものだとわかる、手。
無数の手が、伸びてきて、アンジェを押し上げる。
冷たい水の、遥か上へと……。
〜〜〜〜〜
「……かはっ」
やけに甲高い声と共に、アンジェは目覚める。
夢の中で溺れていたような気がするが、記憶が定かではない。頭がぼんやりとして、うまく働かない。
周囲が薄暗いこともあり、寝ぼけているような感覚だ。
「……あれ? かるい?」
アンジェは眠気が残る声をあげて、手足を動かす。
頭はぼうっとしているというのに、体はむしろ異様に軽い。走れば馬より速いかもしれない。何の根拠も無く、そんな自信が湧いてくるほどに。
あり得ない。そう思いながら起き上がり、服を脱がされたままの体をペタペタと触診して、自分の状態を確かめる。
「えっ。なにこれ」
それは、もはや自分の体ではなかった。
男にとって当たり前にあるものがなく、あってはならないはずのものがある。
アンジェの体は、女性のものになっていた。
「は……? おんなのこ……で、合ってるよね?」
おそるおそる触ってみると、皮膚がきめ細かく、つるつるしているのがわかる。皮膚の下には薄く脂肪がついており、弾力がある。
まさかと思いつつ胸を見るが、歳のせいで判別がつかない。アンジェはまだ子供なのだ。
事態をはっきりさせるため、下半身を見ると……。
「(あっ。まずい。見るべきではない)」
アンジェは危機感のようなものを察知し、咄嗟に目を背ける。
何がどうまずいかは、自分でも説明できない。だが見てしまったら自分の中の何かが崩れ去るような心地がしたのだ。
アンジェは地面にぺたりと尻をつけ、座り込む。
「オレは……本当に、オレなのか? アンジェじゃない別人? ニコルに見られたらどうしよう……」
アンジェはそこで、はたと気がついて周囲を見渡す。
少しだけ頭の霧が晴れたことで、自分が地獄の最中にいたことを、ようやく思い出した。
ニコルがどのような末路を辿ったのかも……今なら鮮明に、思い出せる。
「そうだ、ニコル! ……うぐっ」
アンジェは周囲を見渡して、強烈な吐き気に襲われる。
視界から外れたところに、ニコルと同じように変化した死体が散らばっている。ひき肉のように細かくなっているため、すぐには気がつかなかった。
変形し、元が人間ともわからない異形の肉塊と化した、死体、死体、死体……。
「ニコ、ル」
アンジェは駆け寄り、その中からニコルの面影を探そうと試みる。
あの時、特徴的な白い髪と青い瞳は、変貌しても残っていた。自分なら死体の海の中からでも見つけ出せるはずだ。
しかし探せど探せど、ニコルの姿はかけらも見当たらない。別人だ。別人だらけだ。
……よく見れば、村の知り合いらしきものが時折混じっており、最後には耐えかねて胃液を口から出す羽目になったが……とにかく、ニコルはいなかった。
「……いない。ニコルは、いない」
そこで初めて、アンジェは魔王と悪魔たちもいなくなっていることに気がついた。
魔王は去ったのだろう。どれほどの時間が経過したかはわからないが、空を覆っていた雲が晴れている。もう近くにはいないはずだ。
奴らの目的が何だったのかはわからないが、きっと満足して笑いながら帰っていったのだろう。そう考えると、はらわたが煮えるような心地になる。
「くそ……。あいつら、何がしたかったんだ? みんなをこんな、こんな目に……」
地面に広がる赤い染みを睨みながら、アンジェは拳を握りしめる。
人間を爆発させる連中の考えることなど、想像もつかない。だが、ろくでもない連中だということはわかる。
奴らには慈悲も容赦もなかった。子を守る親も、互いを庇い合う恋人たちも、むせび泣く赤子も、何もかもを無視して、蹂躙していった。
「くそ……くそ! 悪魔め……次に会ったら同じ目に遭わせてやる……。生まれてきたことを後悔するほど苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて……無惨に死ね!」
アンジェは膝をつき、血が滲むほど強く握った拳を、地面に叩きつける。
怒りをぶつけるべき相手は、この場に残っていない。悲しみを分かち合う友も、家族も、もうここにはいない。
そして……アンジェは命こそ助かったものの、自分の体を失ってしまったのだ。人間の男だった体を。
「うう……ううっ……!」
アンジェはひとり慟哭し、歯を食いしばって涙を流す。
自分の喉から漏れる少女の声を、疎ましく思いながら。
〜〜〜〜〜
日が高く昇り、朝を迎えた頃。アンジェはようやく泣き止み、幽鬼のようにふらふらと動き始める。
ニコルの姿が見当たらない。異形となり、破裂して死んでしまったはずだが、どうにか探し出して死体をかき集めて、この手で弔うべきだろう。
……それとも、あの姿でまだ生きている可能性に賭けて、探しに行くべきだろうか。
「(迷うようなことじゃない)」
アンジェは後者を選択する。
どのみち、血肉が広がるこの場所に長居するつもりはない。生存者を求めるのは当然のことだ。
あるいはニコルがまだ死んでいないと思い込みたいだけなのかもしれない。だが、それでも……。
「ニコル……。あんな体でもいいから、生きてるといいな……」
アンジェはまず、通い慣れた川に向かう。
特に理由はない。ただ真っ先に思い浮かんだのが、そこだというだけの話だ。
少し動いてみてわかったことだが、やはりと言うべきか、この体は脚力が尋常ではない。ほんの少し駆け足になっただけで、突風のように景色が流れていき、感覚が狂ってしまう。体が軽すぎるのか、筋力が強すぎるのか。
悪魔の薬を投与されたのだ。動けるだけ幸運かもしれないが、正直なところ、かなり不気味だ。
自分の体に、一体何が起きているのだろうか。
そうしておっかなびっくり移動しているうちに、アンジェは無意識に、いつも洗濯をしている場所にたどり着く。
習慣になっているからだろう。骨身はこんな時にも日常を忘れてくれないらしい。
アンジェはふと思い立ち、穏やかな川の水面で自分の姿を確認する。
「……オレだ。よかった」
黒髪が見える。目も黒い。顔立ちも、女らしく変わってはいるが、面影がある。
確かに自分だ。これはアンジェだ。間違いない。
ニコルが見ても、きっとアンジェだとわかってくれるだろう。それは大丈夫だ。
だが、以前と比べて女らしさが随所に目立つ。
頬が丸みを帯びているような気がする。まつ毛が柔らかく伸びている。目つきも少し優しげだ。唇は血色がよく、しっとりと潤っている。
交友関係が狭いアンジェに美醜の判断はできないが、きっと美人なのだろう。ニコルと比べても、劣ってはいまい。
「……まあ、どうでもいいか」
まだ寝ぼけているのか、頭の調子がおかしい。少し考え込むだけで、変な方向に思考がズレていくのを感じる。
美人だからなんだというのだ。そんなことを考えている場合ではないだろうに。
アンジェは顔を洗い、首を振り、ため息をつく。
「何してんだろうな、オレ」
アンジェは自分自身に嫌気がさしつつ、足元に気をつけつつ駆け出そうとして……
すぐそこに、見覚えのある白い少女が立っていることに気がつく。
「アンジェ!」
白く美しいその女性は、ニコル。そう、まさしく、幼馴染のニコルそのものであった。
何も変わっていない。肉塊になっていない。弾け飛んでもいない。無事だ。五体満足だ。生きている。
ニコルは河原の石ころを蹴り飛ばしながら、異様な速さでアンジェのもとまで駆け寄り、脇に手を入れて抱きしめる。
そして駆けてきた勢いのまま転び、横倒しになって川の浅瀬に飛び込む。
「うわ、わっ!」
アンジェの悲鳴と共に、2人分の体重を受けて、大きな水しぶきが上がる。
春の川は未だ冷たい。だが、不思議と凍えるような心地はしない。
アンジェの全身にこびりついた血と泥が、さっぱりと洗い流されていく。
ニコルはまだ、しがみついて離れない。
アンジェがそこにいることを、しっかり確かめている。もぞもぞと動き、体を押し付け、全身でアンジェを感じ取っている。
「アンジェ……。生きてた……」
青い瞳に、涙が浮かぶ。次々にこぼれ落ちて、止まらない。
熱い涙を頬に受けて、アンジェはようやく、これが幻覚ではなく、夢の続きでもなく、紛れもない現実であると理解する。
「……ニコル。無事だったんだ」
そしてアンジェは、ぼんやりと滲む視界の中、優しく彼女を抱き返す。




